平家物語への偏愛についてはいくら語っても語りきれない。
自分の女紋が祖母伝来のアゲハチョウだということからも、いよいよ平家への愛が深まる。
小さい頃から平家物語に深い関心があった。
幼児期、最初に与えられた絵本の中には「牛若丸」がいた。
彼は源氏の御曹司で平家を倒した立役者だから、平家の敵ではある。
かれはいとしい。
しかし個人・牛若丸への愛とは別に、平家の栄華と滅亡とに、幼い頃からわたしは打ち震え続けてきた。
どうしても手放すことの出来ない愛情がそこにある。
いま、根津美術館で「平家物語画帖」展が開催されている。
平家物語画帖は以前に別系統の本を見ている。
根津本はまだ見ていなかったのでとても楽しみだった。
「諸行無常のミニアチュール」という副題が巧い。
子供の頃から平家物語を愛してきた。
栄華を極め、それを頂点にして一気に滅亡してゆくものに、どうしてか深い愛情を寄せてしまう。
かつての日本人の多くにもまたそうした嗜好があった。
栄華と滅亡と。
片方だけでは愛されない。
滅ぶからこそ栄光がなくてはならないし、また栄華を極め、人の世の理を踏み越えたからこそ滅んでゆく。
そこに人は心を動かされるのだ。
120枚の扇面図によってこの画帖は構成されている。わたしは後期展に行った。
細かい感想をメモに残しているが、それを挙げるためには物語の概要もまた同時に必須であることに気づいた。
平家物語画帖一点一点全てに物語がある。
文芸性の濃いこの作品は物語そのものを知らずして、完全にその楽しみを享受することはかなわない。
とらさんが素晴らしい記事を挙げておられる。
前期と
後期と。
この記事を読むだけでも平家物語を、その人間関係を学べる。
もっとはっきりいうと、画集を持たないヒトはこの二つの記事をプリントアウトするだけでもかなり満足できるだろう。
わたしは前期展に行けなかったが、とらさんのこの記事で展覧会を追体験できた。
とらさんの丁寧なお仕事と、そしてこの展示品の大半が「画帖」という特性を持つがゆえに、満足できたのは確かだ。
つまり画帖は清方風に言えば「卓上芸術」なのである。龍子のいう「会場芸術」ではなく、手元においてシミジミ楽しむ、その性質があるからこそ、図録所収画像やネット画像が美しければ、心楽しい状況になるのだ。
実際目の当たりに出来なかった悔し紛れの弁だというには、わたしの見たとらさんの記事は優れ、図録はよく出来ていて、わたしはその二つを楽しむことでかなりの満足感を得ている。
あとはガラス越しに見た画帖について、好き勝手なことを書いてゆく。
21.鼬の沙汰の事 大量に現れる鼬。後白河法皇は幽閉されたその場にそんな生き物が大量に現れたことに驚き、陰陽師に占わせると、吉事と凶事が三日以内に起こる、と聞く。
鼬たちは茶黒く小さく描かれ可愛いが、こんなものが大量に現れては、驚きあわてるのも当然である。
予想外の生物が大量に発生するとき、洋の東西を問わず必ず何かが起こる。
南米に黄金を求めてやってきたスペインの一行は、隊長のアギーレを残して全滅するが、川を流れ続けるその筏に大量の小さいサルが発生する。アギーレはサルと共に永遠の彼方へ流されてゆく・・・
なおこのときの陰陽師は安倍泰親。晴明五代目の子孫に当たり、若いうちから鳥羽院のもとへも出向いていた。
話は違うが、鳥羽院と泰親ときくと、わたしは必ず「金毛九尾のキツネ」の説話を思い出す。金毛九尾のキツネは玉藻の前と名乗り鳥羽院の寵愛を受けつつも、院を病に伏させ、さらには日本国を滅ぼそうとする。その正体を見破ったのが泰親で、そこから宣旨を受けた武士たちがキツネを那須野まで追うのである。
そんな泰親が鳥羽院の孫の後白河院にもこうして視たてを行うのが、なかなか興味深い。
27.橋合戦の事 宇治橋での戦い。この構図を見ると祇園祭の「浄妙山」を思い出す。
というか、それが頭の中に生き続けている。この構図はやはり面白く思われていたので、山にもなったのだろう。ここでもヒトのアタマの上に手を掛けてクリッと身を飛ばしている。「平家物語」には往々にしてこうした身体的に面白いポーズ・構図を採るものがいる。
ところで平家物語はむろん平安末期が舞台なので、平安朝独特の怪異現象が起こり、それを伝えてもいる。
29.鵺の事、30.幽霊鵺の事、32.物の怪の事、33.同髑髏の事、34.同馬の尾に鼠が巣くふ事
これらが物語に別種の味わいを与えている。
鵺はキメラとしての相貌をあらわにしている。頼政に拉がれているその顔はサル、胴は虎、尻尾はヘビであるが、こんなイキモノが世に出るのは平安時代だけである。
また清盛が襖を開けると庭に大量の髑髏が、というのは後世の浮世絵にも多く描かれている。江戸の庶民は清盛ネタが大好きだったようで、様々な逸話が浮世絵になっていた。
ここでは浮世絵ほどの迫力はないが、白い山になった髑髏がある。
しかし鵺や髑髏くらいはまだいいが、馬の尻尾に鼠が巣を作るというのは、わたしは気持ち悪くてイヤだ。
36.文覚の荒行の事 那智滝に打たれる厳しい修行を続ける文覚。彼は袈裟御前の死を契機に出家し、己に無茶な修行を課す。今でもよく「滝に打たれて修行」と冗談を言うが、江戸時代は「滝に打たれて」=禊または文覚の荒行を想起していたようだ。半分冗談で半分本気の世界。尤もこの文覚は常に本気である。本気すぎて困るヒトである。
袈裟御前の事件でもそうだが彼は何もかもが過剰に出来ているらしい。感情の発露も巨大で、都びとなのにそれを隠そうともしない。
39.紅葉の事 衛士が紅葉を集めて焚き火にした事件がある。帝の紅葉ではあるが、院はそれを風流心だと笑って済ませる。こういう逸話が平安の風流そのものなのである。
来るべき武士の世では、この逸話は形を変えてしまう。
「鉢の木」は武士の心根の物語である。
40.葵の前の事 高倉帝というヒトも気の毒なヒトで、本当に好きなもの・好んだ人は彼のそばにはいられない。また心を寄せて寵愛しても、相手は本当には自分を愛してはいない。
従姉に当たる妻との間には子供がいるが、妻の実家の干渉がイヤで、本当には愛していなかったかもしれない。挙句は夭折する。
その高倉帝が可愛がった幼女が葵の前であるが、彼女が政争に巻き込まれることを恐れ、また世評を慮って帝は遠ざける。哀れな話ではある。
59.宇佐行幸の事 宇佐八幡に祈願に行くが、宇佐はたよりにならない。よくないご神託しかないのも当然で、源氏は八幡神を信仰しているが、平家はそうではない。厳島の神々に祈願はしても、鳩の神様には出向かなかった。それが今になって拝みに行っても・・・
76.鷲尾三郎義久の事 鵯越から一の谷へ向かう道を義経一行が猟師に尋ねた結果、その息子・熊王が道案内になる。彼は名も鷲尾三郎義久と改め、義経の家来となるが、彼は後々の衣川にまで同行し、義経と生死を共にすることになる。
現在月刊マガジンで連載中の沢田よしひろ「遮那王」にはその熊王が出てきて活躍中。
学生の頃、平家物語を学んでいた私は友人らと今も残る鷲尾家に代々伝わる資料などを見に行く予定があったが、所用で私だけ出かけられなかったことを思い出す。
鵯越在住の一人が鷲尾家に連絡を取り、色々とお話を聴いたそうだ。
104.嗣信最期の事 佐藤兄弟の兄・嗣信は能登守教経の強弓から義経を守ろうと、身を以ってその矢を受け絶命する。武闘派教経は戦の折、さまざまな活躍を見せるが、いずれも不運としか言いようのない状況に陥る。嗣信が義経をかばわなければその強弓は総大将を討っていたし、後の壇ノ浦でも義経を追い詰めたにも関わらず、八艘飛びで逃がしてしまう。
さてその嗣信の最期だが、これもやはり月刊マガジンで掲載された川原正敏「修羅の刻」の「義経篇」で感動的なシーンが描かれていた。読み返すたび、涙ぐんでしまう。
105.那須与一の事 この一事だけで与一は永遠に名が残った。江戸時代だけでなく明治になってもこの矢を射るシーンは絵画化されている。講談などでもここは語りどころの一つである。昭和初期の少年雑誌にも美しい口絵が描かれた。
110.阿波民部心変りの事 平家の実質上の軍事権は知盛が握っているが、暗愚の兄宗盛の立場も尊重しなくてはならない。結果、阿波民部の裏切りを止められず、戦況は悪化の一途をたどることになる。
知盛と阿波民部との関係を描いた戯曲がある。木下順二「子午線の祀り」である。
わたしがみたのは嵐圭史の知盛だった。民部は知盛への愛に苦しんでいるように思われた。
その愛の苦しさから彼はユダになったのである。そのようにわたしには見えた。
わたしはあの壮大な演劇を見ながら自分が静かな感動を受けていることに気づき、心の漣にふるえたことを忘れない。
112.先帝入水の事 小舟に女が三人いる。舳先に立つ女は尼形ではないが、幼児を抱えているので二位の尼(時子)かと思われる。「波の下にも都の候ぞ」と話しかけて入水する。
あとの女二人も続くのだが、ここでは一人赤い鉢巻をした船頭だけが静かに座している。
船頭は戦においては無縁なので、壇ノ浦の戦い以前は命は保障されていたそうだ。(他殺はされない、と言う程度である)
彼らはエンジンでありモーターであり、自動操縦機と看做されていたのだが、義経が「水主梶取をも」斬ればよいと言い切ったことで状況が変った・・・というのが「子午線の祀り」にある。ここで発想の転換が生まれたのである。
113.能登殿判官の舟に乗り移りし事 前述の八艘飛びがここで絵画化されている。
ぴょーんと飛ぶ義経と、待てと手を伸ばす能登守。金と青の背景が美しい。青い海を背景に飛ぶ御曹司は金色に包まれている。それが彼の超人的なジャンプを美しく見せている。
114.能登殿最期の事 教経はついに義経を仕留めえず、最期のときを迎える。彼は自分に打ち向かってきた強力の者たちを両脇に抱え込み、死出の供にせん、と入水する。
能登守を描いた川原正敏の作中ではこの入水は出なかったが、武闘派たる彼の口惜しさと決断とは作中によく表れていた。
根津本では知盛の最期は描かれていない。
林原美術館所蔵の絵巻にはいましも入水せんとする姿がある。
知盛の最期の言葉「見るべきほどは全て見つ。今はただ自害せん」・・・なんという見事な終わり方か。
その感動がここで断ち切られたのは非常に無念だが。
116.判官西国下向の事 義経の悲惨な逃避行である。九州行きは大物浦で嵐のために頓挫する。平家の亡霊による邪魔が入るのだが、その図は国芳とその一門により多く描かれた。
また前田青邨「知盛幻生」という近代日本画の名作がすぐに思い浮かぶ。
滅多に大物を通らないが、まれに阪神電車に乗り大物を越えるとき、私は必ず義経一行の難儀を思い出し、国芳や青邨の絵を想うのだった。
117.六代の事 維盛の子・六代君がかくまわれているのだが、そこへ追っ手が来る。幼児の六代はわんこを追いかけて外へ出て、その姿を目撃されるのだ。
わんこやにゃんこや雀の子が契機になり、ヒトに姿を見られたものは、後に悲しみを味わうことになる。
わたしは学生の頃まじめに清盛と六代のことを論文にしたりしたが、結果はあまり芳しくなかった。六代の墓は逗子駅から神奈川近代美術館葉山館へ向かう途中にある。
120.小原御幸の事 かつて建礼門院だった徳子は人跡まばらな大原(小原)で暮らしている。
そこへかつての舅であり、また平家滅亡の一端を拵えた後白河院が訪れる。
生きながら地獄を観たと語る。
この画題は近代日本画にもおおく描かれている。また北条秀司の戯曲では法皇と徳子の語り合うシーンが大詰めにあり、六世中村歌右衛門の徳子、島田正吾の法皇という顔合わせの素晴らしい舞台があった。今は二人も鬼籍のヒトとなったが、あの場を見ることが出来たわたしは幸福だと思う。
深い感動がしみじみと広がるのを感じながら歩を進めると、他にも為恭の絵や長春の肉筆がある。また平家琵琶もあった。
わたしは上原まりさんの筑前琵琶による平曲は聞いているが、やはり平家琵琶といえば耳なし芳一に尽きる。実際に聴くことなどありはしないのに、そう思うのだった。
他に曾我物語の屏風もある。工藤は裸で寝ているところを襲われる。
屏風の中での曾我兄弟の最期はちょっとわからなかった。
平家物語の能面も集められていた。
「童子」面は優美で、「十六」より好ましい。
絵ばかりでなく能面を集めたところもとても好ましい。さすがは根津美術館だと思う。
いいものを味わわせてもらい、いよいよ平家物語への愛が深まってゆくばかりである・・・・・
歴史だけが全ての真実ではない。事実は隠蔽され勝者の理屈により書き換えられることも多い。
闇に埋もれた真実は失われ、稗史にこそ敗者側の真実が生きていることがある。
安居院をセンターとして琵琶法師が各地をさすらい、平家物語を広めていった・・・ということを思う。
このことももう四半世紀前に耳をかすめていった話だ。
今ではまたもっと研究が進んでいて新しい事実が世に出ているかも知れず、逆に興味が失われ、研究は後退しているかもしれない。
いずれにしろわたしはただの部外者に過ぎず、何をいうことも出来ない。
今はただこの美しい世界を愉しむばかりである。
展覧会は10/21まで。
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私の郷里は、義仲の倶利伽羅峠に近いところで、山奥には、上平村・下平村という落人部落が残っています。義経が落ち延びた北国道も近いので、若いころは源氏の白旗を応援していましたが、今では平氏の赤旗にもシンパシーを感じています。
本当にこの展覧会はよかったです。記事にもあげましたとおり、とらさんの記事がなくば、わたしは半分がっかりしたままでしたが、おかげで満ち足りております。
倶梨伽羅峠のご近所、いいですね。
わたしは子どもの頃にこの地名を知り、かっこいいな~~とドキドキしておりました。
平家の落人伝説は四国が特に有名ですが、各地に残る物語にときめきます。
源平どちらにも深い関心が生まれていきますよね~~
http://cardiac.exblog.jp/19295269/
非常に面白く読ませていただきました。
綿密な考証と検証で、とても興味深かったです。
おかげでナゾが色々解けました。
ありがとうございます。ツイッターで宣伝させてもらいました。