美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。

夏はやっぱりコワイ映画

真夏と言うことで好きな怖い映画を集めました。
怖い映画でも心理的なものはまぜてないです。
(「死の棘」「三婆」「真昼の暗黒」などや、サスペンス系は入れない)
いわゆるホラー系ばかりではないけれど。

怪異談・生きてゐる小平次
オーメン
カリガリ博士
吸血鬼ドラキュラ
ノスフェラトゥ

偏りが見えるなぁ。

小平次は中川信夫監督の’82年のATG製作作品で、三人きりの出演者と言うことが、異常な怖さを生み出していた。
原作は鈴木泉三郎の大正期の脚本だが、映画は原作をはるかに越えて、恐ろしい。
原典の小平次の亡魂もなかなか怖い怪談で、それを基にした北斎の絵は、「百物語」の中でも秀逸だ。
その「怪異談・生きてゐる小平次」の映像がみつからなかったので、代わりに中川信夫監督のほかの名作「四谷怪談」を挙げる。
天知茂が若くてわるくてきれいだったが、なんともう半世紀前の映像だった。

世界的に評価が高いもう一本の大傑作「地獄」は丁度8/20頃か、フィルムセンターで上映するが、見に行くかどうか非常に悩んでいる・・・



子供の頃、あまりに怖くて言葉に出せなかった。
「燈台鬼」、そして「ドラキュラ」が幼児期の二大恐怖だったが、ここらは今はこうして書くことが出来るから多少は克服できたのかもしれない。
クリストファー・リー氏は80歳代に入りながらも、近年も「STAR WARS」「ロード・オブ・ザ・リング」「チャーリーとチョコレート工場」に出演され、快活にインタビューに答えておられた・・・



この古い映画は、会員制のplanet-1というシアターで見たが、観客はわたし除いて後はみんな男性だった。
この映像には音響がついているが、実物は無声映画だった。見始めたときは妙な違和感に苦しむが、時間が経つと何も気にならなくなる。
挙句の果て、このスキンヘッドの異形の者が棺おけを担いで走り来るシーンで、わたしは恐怖のために声を上げてしまった。
それで観客全員が妙にナマナマしく息を呑んだのが、今も忘れられない。



ちょうどこの映像は見世物小屋で博士が眠り男ツェザーレを出したシーン。
ドイツの映画は妙にわたしを惹きつけるよなぁ。
この映画は夢二や折口信夫や溝口健二をも夢中にさせたが、わたしも長らく憧れ続けていた。
今はこうしてyoutubeでも見れるが、わたしが焦がれた頃はDVDの前のVTR時代で、しかしわたしは映画は映画館で見たい性質なので、上映会を探して歩いたものだった。
長い道のりだったなぁ。


「オーメン」はやっぱり1が最愛だけど、2は少年の目覚めにときめいたりしたし、3は明らかにBL要素が満載で、とてもときめいたのだった。
あれ?これじゃ「ホラー」系映画の感想ではないな。
・・・そこが却ってコワかったりしてね。
ということで映像はなし。

モーリス・ジャール追悼。

新聞にモーリス・ジャールの訃報があった。
「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」「シベールの日曜日」「史上最大の作戦」「パリは燃えているか?」「将軍たちの夜」「ブリキの太鼓」「王になろうとした男」「インドへの道」・・・
多くの映画音楽を生み出した巨匠だった。
全てわたしの好きな映画であり、好きな音楽だった。

壮大さと軽快さが同時に存在する作品作りだったと思う。
わたしの頭の中では時々「ドクトル・ジバゴ」の「ラーラのテーマ」が流れる。
ハナウタで「アラビアのロレンス」の砂漠を走るベドウィンとロレンスたちの背景に流れるメロディを歌う。
歌詞も理解していないくせに「パリは燃えているか?」の歌が口をつくこともある。
昨日なんか偶然にも「王になろうとした男」のことを延々と思っていて、youtubeで探して、見ていたところだった。

そして「ブリキの太鼓」。モーリス・ジャールの作曲した中で一番好きな音楽。
どの曲も好きで仕方ない。
「カシュバイの野」「オスカルの太鼓」「おもちゃ屋マルクス」「ポーランド郵便局襲撃」「ロスヴィータ」・・・
ちょっと泣きたくなった。いい音楽をありがとう。
これからも何度でも繰り返し聞き続けるだろう。耳に入らずとも、頭の中ででも。

『カリガリ博士』を楽しむ

ちょうど90年前の20世紀初頭のドイツで『カリガリ博士』という大傑作映画が誕生した。
中学くらいの頃から見たいと思っていたが、曲がりなりにも映像で見ることが出来たのは、20余年前の春だった。VTRを借りて50分ほどの映像を眺めた。
ひどくハマッた。
元々ドイツ製のものは何でもかんでも好きなので、ますます惹かれた。
これはその時代のドイツ表現主義の傑作であると同時に、第一次大戦後のドイツ経済破綻と世相の暗さとを感じさせる作品で、ラストシーンも当局の干渉を避けるために狂人の妄想と言う態にしたが、本当は違うらしい。
しかし政治的な意味合いを知らずとも、十分に楽しめる作品である。
同時代の鑑賞者の大半も随分ハマッた人が多かったとみえ、今に残る評論やイラストがいくつもある。
たとえば映画監督・溝口健二はそのドイツ表現主義という様式に深く影響され、1923年には『血と霊』という作品を撮った。(フィルムは失われているが、いくつかスティールが残っている)
竹久夢二は絵が描けるので、概要をイラストとして残し、折口信夫も相当好きだったことが伺える。
そのカリガリ博士がyoutubeに音楽つきで51分間丸侭挙げられているのをみつけた。
(原本は無声映画)
たいへん驚いた。わたしはDVDソフトを買うか買わずかでとても逡巡していたのに。
とにかくここ最近、黙ってジィッと映像を見続けるということが苦痛になっていたので、今この文章を書きながら同時に映像を見ている。
二つの事柄を同時進行しながらでないと、イライラするので、こうしてyoutubeに挙がってくれたことが嬉しくてならない。
ご覧になる方はこちらへどうぞ。


わたしは『カリガリ博士』、『巨人ゴーレム』、『ノスフェラトゥ』といった大昔のホラー映画が大好きなのだ。
ただしドラキュラ伯爵は今も活躍中のクリストファー・リー氏のがあまりに怖すぎて、長い間トラウマになっていた。(もう一昔前のルゴシのは見ていない)
今なら見れるような気もする。
なにしろ今ではクリストファー・リーは『STARWARS』のドゥークー伯爵だったり、チョコラティエのウィリー・ウォンカさんの父上だったりするのだから。

それはさておいて、元のカリガリ博士に話を戻すと、他にもこの物語に影響を受けた作品が今もいくつかある。
中井英夫はカリガリ博士の傀儡たるツェザーレをモデルにした『セザールの悪夢』を書いた。
挿絵は建石修志で、幻想的な雰囲気の濃い、作品とマッチした絵を描いている。
マンガ家・中島一恵は『ツェザーレ』で、物語を背景にした共同幻想を描いている。
どちらもひどく好きな作品だ。

見終わった今、やっぱり好きだと感じている。
今度は『ノスフェラトゥ』を見よう。あれは上映会の最中、「キャッ」と声をあげてしまったことがある。(ヘルツォークのリメイクではなくオリジナル版の方)
今度はたぶん・・・大丈夫だと信じて。

1/21〜1/25不在のため、記事は全て予約投稿です。お返事などは全て後日になります。申し訳ありません。

文楽『国言詢音頭』を楽しむ

文楽公演『国言詢音頭』に行った。mir760.jpg
サマーレイトショーとして六時半から(金曜は七時)開演。だいたいサマーレイトショーは惨劇や怪談話が多いので、芝居でのそれらが好きなわたしは喜んで出かけた。
三業のうち昔は人形が好きだったが、近年は義太夫と三味線が好きで仕方ないので、席も床のすぐそば。語りに熱が入ると飛沫が飛んでくるのが見えるような位置。
つまり三味線のすぐ下辺りを指定した。
「見る」より「聞く」に重点を置いているので、その席でよいのだが、幸いわたしの視界は広いので左目は舞台の全てを見渡せた。

物語を簡単に記す。
新地の遊女・菊野に入れあげ、藩の公金に手をつけた薩摩藩士・初右衛門だが、その菊野が実は自分を毛嫌いしていて、間夫・仁三郎にあてた手紙の中で悪口雑言の限りを尽くしているのを知る。
更に自分のいるのを知らぬ菊野ら一行を乗せた舟が、自分を罵倒しながら笑いさざめき行過ぎるのに出遭う。(大川の段)
家来からも女を忘れて国許へ帰るよう懇願されていた初右衛門は、帰国前に世話になった店の皆にプレゼントを持ってくる。上物の反物などで皆は喜ぶが、菊野と仁三郎には文箱が手渡される。中にはあの手紙が入っていた。
謝る二人に豪快に笑いかける初右衛門。そのまま店を去る。
残された男女はグジグジしているが、そこへ仁三郎の許婚者が来たことで、菊野はライバルにその座を譲り、自分は独り寝に入る。
夜半、帰国の途についたはずの初右衛門が忍び込んでくる。玄関前で朱塗りの鞘を捨て、抜き身を提げたまま入り込む。
凄惨な五人斬りの後、初右衛門は雨の中を悠々と去って行く。(五人伐の段)

実話のドラマ化ということで、確かによくある話だけに、背中が寒いようなところがある。
大川の段は竹本津駒大夫・鶴澤寛治。
悪口を読み上げるところがかなりよかった。
「阿呆ぢゃ、今に腹切るか、首切られるかぢゃ」
手紙も舟も変わらず悪口雑言で、よくまぁそんなに書けたものよ、と変な感心がわいた。
何しろ通し狂言ではないので、前後の状況が多少わからないところがあるが、この田舎侍はそんなに女に嫌われるような男なのか。
遊女の菊野の他に仲居も加わり、皆で悪口の言い合いをしているのを聞くと、なんとなく納得もする。初右衛門はイケてないのだ。洗練されていない、それ自体が罪なのだ。
そんなのに限ってしつこい、という特性がまたまた女たちに嫌われる。
遊山舟の行過ぎる間、じっと耐えに耐える大きな男の身体が小刻みに震えているのが、よくわかった。

五人伐りの段。(中)竹本文字久大夫・鶴澤清友。
√蛍火に焦がれて身を焦がす・・・ 文字久大夫の綺麗な歌声から始まる。
三味線、ちょっときつくないですか。

文箱の中に何があるかも知らぬ男女はうじゃじゃけている。
「玉手箱なら一緒に老いましょう」などと他愛のない痴話を繰り返す。
それで中身にギョッとして、ヤバイぞということになってから、女の胆が強い。
あの初右衛門に切られてもいいようなことをいう。
(三味線、ちょっと気合入りすぎて元気良すぎることないですか。うんうんっと声が上がりすぎている・・・)
ここで心中の相談と言うのがよくわからない昔の人の考えなのだが、そこに女の弟が来て取りやめになり、更に男から無視されている許婚者の娘が来たりする。
通し狂言ではないので、この辺りの事情がよくわからないが、まぁ大体は想像できる。
「ととさんの手前、盃ごとさえしたら、一生尼でいる気」
そんな風に言われて哀れさが湧き、男の待つ二階にライバルを送り出す菊野。
着物を取り替え、暗くしているから自分と間違えて彼はあなたを・・・ということである。
そうして独り寝のところへ復讐鬼に化した初右衛門が来るのだ。

(切)竹本住大夫・野澤錦糸。胡弓・豊澤龍爾。
捕まえた女に怨みつらみを語る男。胡弓の哀切な音色が響く。
女を切り刻み、責め苛む男。住大夫が女の苦痛の声をリアルに語っていた。
「うう・・・ううっ・・・ううう・・・う・・・」
責め苛む間も胡弓の音色が流れている。
mir761.jpg
・・・血に染む丹花の唇をねぶり廻して念落とし・・・
凄いこと言うてるな。
そうか、カネばっかり使うて、ほかは・・・・・・・・・・。

女の首を切り落とした後、唾棄する。
これを見て・聞いたとき、武智鐵二と八世坂東三津五郎の対談集『芸十夜』での一節を思い出した。
『鰻谷』で名人栄三の操る八郎兵衛の人形が唾棄したとき、顔色が変わって見えた、と言う話。
凄い技能があったのだなぁ・・・

その後の初右衛門は他の女の胴を二つ切りにしたり、悪者の男を殺したりなんだかんだで五人斬り殺してから、悠々と出てゆく。
住大夫の語りは最後までよかった。錦糸の三味線も耳から心に残っている。

門の外に出ると、本水を使っての雨が降り出す。天水桶で血を落としてから、傘差して去る。人形の背中には孤独さもヤケクソさもなく、満足感が漂っていた。
√山寺の春の夕暮れきてみれば 寒山寺 諸行無常 南無阿弥陀仏・・・
笑い続ける声が長らく耳に残り続けた。

久しぶりに文楽を楽しめてよかった。わたしは現実の殺伐とした話は嫌いだが、歌舞伎や文楽ではこうした『残酷の美』に強く惹かれるのだった。

mir762.jpg毎回、桐竹勘十郎の原画による芝居のハンコが置かれている。
いつも楽しみに押している。

ルノワール+ルノワール (ジャンの映画)

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わたしが最初に映画監督ジャン・ルノワールを知ったのは、小学生の頃『大いなる幻影』をNHKあたりで見たからだと思う。
ルノワールの息子さんかぁ、という意識で映画をみたが、フォン・シュトロハイムの魁偉なイメージばかりが意識に残った。
ここで話が少し脇にそれる。

中学生のころに戸板康二『ちょっといい話』にハマり、不意に世界が広がった。
歌舞伎役者の屋号や血筋に詳しくなれたのも、昔の芸談を読むのが大好きになったのも、全て戸板康二のおかげなのだった。
さて、その本の中にこんなのがあった。ほんの小話。
ジャン・ルノワールの表記が誤ってジャンル・ノワール(暗黒もの)になっていた、というもの。
昔、アラン・ドロンとジャン・ギャバンのコンビでそうしたフィルム・ノワールものが多く作られ、たいへん人気だったが、カントクも自分の名前が暗黒ものにされるとは思わなかったろう。

そのジャンの映画作品が少しずつyoutubeにあり、わたしは嬉しがってここに貼り付ける。
一応、展覧会に出ていたものに限った。


『ピクニック』

この映画は『ぶらんこ』との関連があるが、間に60年の歳月がある。
若い女の心の流れが映像の中から届く。ボートを漕ぐシーンにも父の絵画からの影響、というか父の絵画への懐かしみ・親しみが伺えるのだった。

『河』

インドを舞台にした若い人たちの心のふれあいと言うか、色んなアフェアがある。
『バナナ畑』の巨大なバナナの葉っぱがこの映画にもあるが、オリエンタルなエキゾティックさに、父も息子も少しだけときめいていたのだな、と思った。

『ゲームの規則』

狩猟シーンが続く。ジャン15歳の肖像画。そして父が描き損ねた地での撮影。こんなに父親思いの息子と言うのは、偉いものだと思う。歳が離れていたこともその要因なのだろうか。

『トニ』

イタリアのネオレアリスモの先駆的作品。確かにそんな感じがする。海に身投げした女房を引き上げる男。なんとなくロッセリーニの『マン島』だったか、そんな映画を思い出した。

『フレンチカンカン』

ハデハデで楽しかった。実は小学生の頃、この映画をTVで見た翌日、クラスでマネをしてみんなで踊ったことがある。スカートを何枚も履くだけでなく、シーツかカーテンか何かも使い、それで大変叱られたのだった。

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ジャンが現役の映画監督だった頃は、無声映画とトーキーとの境目から、更にはモノクロから総天然色へ移行する、二つの大きな流れがあった。
これは技術的なことだが、それだけでなく内容的にも大きな変化があった。
古典的作品のよき時代が終焉を遂げ、新しい波が押し寄せてきたのである。
そのヌーヴェルバーグの旗手たち・・・トリュフォー、ゴダールら。
ジャンはヌーヴェルバーグの監督たちのいわば親父さん的存在として、眺められていた。
アメリカに移住してからの心の支えはそのことだったそうだ。
必ずしもジャンの映画は商業的には成功していないようだ。
当時の資料を見ると、作品的にはよくても・・・というのがよくわかる。
せつないなぁ、わたしはカネにならない作品が好きなので、せつなくなる。

『黄金の馬車』 これは映像はないが、’91年頃に初公開があり、そのときのチラシが手元にあるはずが、今回どうしてもみつけられなかった。消えたチラシはどこにあるのだろう・・・
雰囲気的にフランス映画と言うよりイタリア映画的なのは、なにもアンナ・マニャーニが主演だからと言うだけではなさそうだった。映画の中で、マニャーニが自分の綺麗なネックレスを闘牛士に投げ与えると、闘牛士がそれを額にかざす。闘牛士だからこそ似合う情景。

『恋多き女』 先ごろ亡くなったばかりのメル・ファーラーとバーグマンのダンスがなかなか素敵だった。
色彩設計はどうなっているのかよくわからないが、総天然色という感じの映像。色調よりも人物配置などが父親の絵と近いのを感じる。1901年の独立記念日のお祝いに浮かれる人々。楽隊の一人に帽子を投げると、それをかぶって演奏するシーンなどが、なかなか素敵だった。背景は書割で、それがまたどことなくいい感じ。
わたしはバーグマンで一番好きなのはアナトール・リトヴァク『追想』なのだ。『ガス燈』『カサブランカ』ではなくに。そして演技派女優としての彼女のベストはベルイマン『秋のソナタ』のピアニストだと思う。

『草の上の昼食』 タイトルはお父さんのお友達のヒトの作品から採ったが、裸婦や自然のあり方はお父さんの絵ですね。50年前の福々しく瑞々しい若い女。行き逢ってしまい、ちょっと紳士的に身を避けるけれど・・・の教授がいい。

『女優ナナ』  ナナの動きを見ていると、ドイツ表現主義的なものを思い出す。ヴァンパイアのように貪欲なナナの目がギラギラする・・・思えばゾラの『ルーゴン=マッカール叢書』のうち『ナナ』と『獣人』をジャンは映画化しているのだった。

『小間使いの日記』 タイトルだけならてっきりスペインのブニュエルのそれかと思った。あちらはジャンヌ・モローが小間使いで、例によってなかなかCible immoraleな感じ。こちらは純愛ぽい。小間使いもポーレット・ゴダードなのだった。

書くうちに映画が見たくなってきた。わたしは古いヨーロッパ映画が大好きなのだ・・・

この展覧会は見どころの多い展覧会だった。反目ではなく互いへの愛情あふれる作品を生みだした父と息子との、和やかな展覧会だった。
ますますわたしはルノワールが好きになった。誰がなんと言おうと、やっぱりルノワールはいい。
オーギュストも、ジャンもすばらしかった。

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