美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **なお現在コメント欄を閉鎖中です。

子供の頃に信じていたこと

ちょっと心惹かれたので、私も書くことにした。

子供の頃と言うか、はっきり言うと幼稚園の頃、「ももいろのきりん」という読み物絵本を「信じ」た。
何かと言うと、作中の女の子が巨大な桃色の紙をもらい、そこにキリンの絵を描き、チョキチョキしたら、本当に桃色のキリンが出てきたのだ。
私はそれをかなり長く信じていた。
そんなに大きい、長い紙が家にないから、幼稚園にもないから、桃色のキリンさんに会えないのだと信じた。つまり、そんな大きい紙があれば、ワタシにも桃色のキリンさんが来てくれると信じていたのだ。

大学生の頃、その絵本に再会した。依然として、私の手に桃色の巨大な紙はなかった。だから、桃色のキリンは来ないと信じた。

もう一つある。
やはり幼稚園のときだ。再放送だが、「ジャイアントロボ」が大好きだった。最終回、ロボはU7大作少年を残して空の彼方へ飛んで行ってしまった。少年は言う。
「ロボは必ず帰ってくるよ」と。
私も信じた。信じてそれから長い時がたった。
しかし未だにロボは帰らない。私は今でも待っている。

まだある。
「新八犬伝」の最終回、やっぱり彼らが帰るのを待ったが、DVDを手に入れた今も、まだ彼らは帰らない。待っているのになあ。

なんとなく、今も信じて生きている。

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ガンダムとかガンダムとかガンダムとか・・・・・・

その昔、二次創作小説で『シャア出世物語』と言う力作があった。言ってみればいかにしてシャアがのし上がっていったかを書き上げた作品なのだが、それから四半世紀後に安彦良和の手によるシャア出世物語をこの目で見る日が来ようとは・・・
正直、凄く嬉しい。
こうで、こうで、こうだろう、と言う予想と言うか、期待に沿った内容だからだ。

ミノフスキー粒子!しかもその提唱者というか発見者の博士が現れる、それだけでもわくわくしてくる。
なぜ、『博士』にはこんなわくわくがあるのだろうか。
それにしてもガルマは本当に・・・ひっかけられるためにこの世に生まれてきたような感じさえ受ける。ドズルの人柄の良さは天性のものだが、ガルマは生来の坊ちゃんなんだなあ。
ピカレスクロマンのための、いけにえか・・・


シャアと『デスノート』の月とはどちらが悪い男だろう。
少なくともシャアは、見る限りでは女を利用しなかった。今週号の月の顔、リュークの指摘が突き刺さる。
悪、という概念でしか今のところ見ることが出来ないが、HxHの蟻の王は恐らくゲームに勝つことはない気がする。
絵は例によって下書き線のままだが、内容の高さにどきどきする。他にもときめきはある。
AMAKUSA1637 島原の乱を果たして島原の変に変えることができるのか、黒田と細川はどう動くのか。ハラハラする。
ハラハラは他にもある。ギャンブルレーサーを読んだ後にケイリン野郎を読むと、周さん家は大丈夫か、とへんな心配をしてしまうのだ。
最近は夏休み前だからか、どの作品も全てレベルが高いと思う。
バンパイやもキーチも、二度ずつ読み直している。
このテンションの高さがいつまで持続するかが、問題だ。

せみ

早くもセミの声を聞く。

クマゼミかと思う。二年前関西から九州にかけてクマゼミが大量にジャカジャカ鳴いていたが、それ以来セミは油蝉よりクマゼミがメインになったのかもしれない。
ただしこれは大阪の話。

ミンミンゼミを大阪で聞こうとすれば、池田まで行かないと無理だと思う。池田や能勢にはミンミンゼミが居る。つまり、少し涼しいところ。
大阪は完全に亜熱帯だ。

六十年後には縄文時代並の湿度と温度になるそうだが、その頃のセミは一体どうなっているのだろうか…

松田修と塚本邦雄

先日世を去った塚本邦雄については、自分なりのオマージュを捧げた。しかしそこで塚本邦雄へのリスペクト、また愛が消えるわけではない。

塚本邦雄のことを考えるうちに、自分の執着する文学・文芸・学問について意識が広がり始めた。
自宅パソコンの後ろに松田修著作集全8巻が並んでいる。
それは私が必死で集めた全集である。CD-ROMもある。ファンだというだけでなく、人類の文化遺産として、私は所蔵している。

近江生まれとはいえ、大阪人として世を終えた塚本邦雄と、大阪商人の息子として生まれた松田修とに交流があったかどうかは知らない。あるのかも知れず、ないのかも知れない。育ちではない、文芸上の観点において、である。

しかし、ファンである私には二人の間に大きく共通する意識があると思うのだ。
それは一言で言えば、『絢爛たる美意識と、冷厳たる視線』ではなかろうか。
タイトルのつけ方ひとつで、私は心を震わせる。
『日本人霊歌』『不変律』『魔王』『感幻楽』『約翰伝偽書』、かたや『日本刺青史』『蔭の文化史』『闇のユートピア』『異形者の力』・・・
こんな魅惑的なタイトルをつけることが出来るのは、他には石川淳、澁澤龍彦、中井英夫だけだ。いや、もう一人後継者がいた。
久世光彦、この人しかいまい。しかし『完全』ではないのだが。

彼ら東京組に対して、と言うのも変だが、大阪人の根を持った塚本邦雄と松田修が繰り出す言葉の糸は、西方浄土に繫がれた五色のそれのように美しく、そのくせどこかいかがわしい。まるでカンダタに齎された糸のように。

私たちは皆、一人のカンダタなのかもしれない。塚本や松田の吐き出す『意図』に絡み捕られ、その細い糸に縋り付いては、地獄へ蹴落とされる。そのときには、カンダタならぬカンタータとフーガが鳴り響いていることだろう。
地獄の至福。銜え込まされる愉楽と絶望。
それでも、離れることが出来ない。

松田修を最初に知ったのは、丁度二十年前のことだ。角川文庫の『犬神博士』を偶然入手したときの衝撃は、今も忘れない。夢野久作の世界に溺れこんでしまったが、同時に解説文の絢爛さに胸を衝かれたのだ。
時折こういうことがある。
中井英夫を知ったのは、中学から高校生になる春休み、図書館バスから借りた一冊からだったし、昔から好きだった『孤島の鬼』を買おうと、各社版の比較をしたときに創元文庫に英太郎の挿絵と共に中井英夫の解説があったことが決め手となったものだ。
赤江瀑の小説の解説にも、どちらかの手を見たように思う。
中坊程度のアタマで理解なぞ出来たのか、と思われようが、いまだに深い執着があることを思えば、やはり理解して(といよりも幻惑されて)いたのだろう。

塚本邦雄亡き今、言葉の幻術師、意識を操る錬金術師は、松田修だけになってしまったが、悔しいことに松田の健康状態はよくないと聞く。
しかし、私たちには彼らの言葉を綴った本がある。縦令、昨今の状況により出版不況の名の下で『焚書』に遭おうとも、私の手元には彼らの本が隠され続けるだろう。永遠に。

スターウォーズだっっっ

何度見ても、どの作品を見ても、『スターウォーズ』はいい。

エピソード1は一体何回見たのか。少なくとも七回は見ている。
劇場で、家のテレビで。
私は英語はわからないが、こと、スターウォーズだけは別で、どんなときでも原語で見ることにしている。
だから映画は絶対に字幕スーパーだし、テレビでは英語音声にしている。
次のせりふもわかっている、こうだ、こう言うのだ、と一人でわくわくしながら。

完結編と言うか、エピソード3のコマーシャルを見るだけでどきどきが止まらなくなる。
アナキンがいかにしてダークサイドに陥るか、いかにしてダース・ヴェイダーに化すか。
彼の生も死も既に予告されているというのに、それでもときめきは決して止まることがない。
ちょうど、わかりきっているのに、思わず声をあげてしまう、クワイ・ガン・ジンがやられるシーンや、ダース・ヴェイダーが言い放つI'm your fatherあれらと同じなのだ。
ああああ、ときめきすぎてつらいくらいだ。

出来がどうとか、手法がどうとか、そんなことはどうでもいいのだ。批評家は批評するのが仕事だから、いくらでもスターウォーズを悪く言い、アラを探せばいい。ファンでない人は悪口を言いたければ言えばいい。
しかし、『スターウォーズが好きだ!!!!』というキモチは、どんな論理も理性も世間体も吹き飛ばすほどの力に満ちている。

私は先々行上映もレンタルも見ない。
初日にも見ない。
しかし、前売り券を支度して、一番自分の望む日にスターウォーズを見るのだ。約束の日には、一緒に楽しむツレもいる。
一人で見る日もある。今回も少なくとも三回は必ず見るのだ。
グッズや本も買ってしまうだろう。
興奮のあまり熱が出るのはもう覚悟している。自分の喜びの中に引篭もりたくなるのも予想できている。世間とその間、つきあえなくなるのもわかっている。
しかし、それらなにものにもまして、スターウォーズはすばらしいのだ。

ああ、語るだけで興奮が増してゆく。がんばろう、世のスターウォーズファンの方々よ!

ああ、リングにかけろ、石松よ

私にとって車田正美というマンガ家は、特別な存在だ。
作家性という点では、私の至高の人は諸星大二郎なのだが、キャラクターへの強烈な入れ込みでは、車田正美キャラ以上の存在はない。
その世界から産まれたすばらしい男が一人、逝ってしまった。
香取石松。今号のSJではかつての敵や僚友たちが彼の追悼に現れていた。哀しいなあ。
男の論理だけで生きてはいたが、彼はすばらしく、そして愛すべきキャラだった。もう出てこないと思うと、泣けてくる。
1980年から読み始めていたが、とうとう本当に石松がいなくなった。
今までありがとう…

伊吹

珍しく甥ッ子のことを書く。伊吹といい年末に産まれたからそろそろ七ヶ月だ。保育園のありんこ組にいるから、人慣れしている。昨日家に来たので、買っておいた藍染めの鯉が泳ぐ柄の甚平をあげた。笑うとやはり可愛い。この甚平も今夏だけだ。来年は浴衣を、再来年は作務衣をあげよう。それから…

ミヒャエル・ゾーヴァの世界に溺れる

ベルリン生まれのゾーヴァの絵本原画を見る。リアリズムの技法でファンタジーを描く。〈アメリ〉のベッドの上壁に飾られていた絵の作者だと言えば、イメージが湧くだろうか。ユーモアとペーソスとシニカルとが混在し、絵を見ただけでフッと笑ってしまう世界だ。小さな小さな兎の御曹司は古びすぎた血をよくするために、都会へ大きな外国人の花嫁を探しに行く。彼はホテルで、大きすぎるが気に入った豹柄のパンツを穿き鏡をのぞく。その彼を見た私は、自分がその鏡に映らぬことに一瞬戸惑い、すぐに当然だと気づくのだ。ファンタジーと言うよりむしろシュールリアリズムに近いと思う。Victorで有名な犬、His Master's Voice のわんこたち、他の犬種がホールの席上、舞台の蓄音機に耳を傾けている。hisでなく、theirな絵。犬はまだいる。アメリの壁にもいた、治療中の犬。顔に朝顔のような紙の枷をつけられ、なんともなさけない表情だ。猫もいるが、よりによって〈ナウマン猫皮剥ぎ所〉前に行列している。何故だっ!肥えた猫たちは答えはしない。
なべて動物たちはみなどこか哲学的でさえあるが、人間は戯画に近い。追想の父は集合写真の中でアカンベーな顔をしているし、帽子をかぶった婦人は、蛾を散歩させている。軽い悪夢のような世界。また、ゾーヴァの箱舟はとてもいい加減で楽しい。これは諸星大二郎の不条理なコメディーにも一脈通じると思う。
『魔笛』は元々舞台美術用に描かれたものを、ゾーヴァとコラボレートする那須田淳氏が、巧みな文章と編集で絵本に仕立て上げたそうだ。これが実にすばらしい。
タミーノも夜の女王も、♪パパパパ、パパゲーノもなんだか怪しい。空間そのものが、なんとなくへん。
他にも一つ、ひっくり返りそうになった絵がある。『ベックリンver.6』つまり、『死の島』へ上陸しようとした白い浄衣を纏った人物が、小船から海へ落ちそうになっているのです。
これには参った。糸杉も白い建物も変わりなく、不気味に静謐に佇んでいるというのに、肝心のあのお方がこのテイタラク。好きだなあ、こういうの。『死の島』が好きな久世光彦、坂田靖子の両氏にぜひ教えて上げたい。

ゾーヴァがどんな人かは知らないが、作品を見る限りでは、ケストナー、グラスといったシニカルで大人な笑いを描く人々の後裔のような気がする。無論、ここでのケストナーは児童文学の雄ではなく、人生処方箋やファービアンの作者としての、彼だ。

これから私はゾーヴァの絵本を探しに行こうと思う。
展覧会からハマッた絵本画家は、『リサとガスパール』以来だった。

千総の着物

先週は共立女子大コレクションの着物を見たが、今日は京都の呉服屋千総のコレクション。あちらもこちらも学生客が多いが、こちらはさすがに本場だけに、若くとも着物の造詣が深いヒトが来ている。特にこれというのはないが、私好みの寛文小袖や、明治の頃の、身頃に能の演目を描いた着物に関心がいった。見立て、という観念が日本人には根付いていた。その応用がここにもある。友禅の美は裕福な町衆の女たちの喜びだ。絵柄もさることながら、縫い取りにも複雑な技法が使われていて、職人の腕の高さ・買い手の美意識の高さにうなるしかない。見事なのは、それらがハレの場であれ日常であれ、『使われていた』事実なのだ。決して飾り物ではなくに。
着物の並べ方もまた工夫がある。少し離れて眺めると、誰ケ袖屏風が飾られているかに見える。何領もの小袖は近世風俗画の世界から抜け出してきたのか、或いは見ている私が絵の中に迷い込んだのか判然としない、風情に満ちている。喜びは更に続く。応挙、狙仙、竹堂、景年、といったそうそうたる絵師の絵画や縮図帳、屏風が展示されている。やたら虎が多いが、みんな猫の親方のように可愛い。猪の毛がリアルだし。
沈南頻の鹿もある。近代の工芸家・神坂雪佳の元禄舞踊屏風もある。これらがみな、千総の代々当主が集めたものだというところに、京都の町衆の意識の高さを感じる。

狙仙はサルの絵で有名だが、虎でも獅子でも猪でも見事に描く。
岸竹堂は、動物画家としても著名な西村五雲の師となり、その血脈は山口華楊に至る。
今尾景年は舞妓ばかりでなく、千総のために虎を多く描いた。
仔を銜え渡河する虎、松の木を中心に九頭もからむ虎図、にゃーお、と言いそうな虎たちなどなど。
応挙の縮図帳には見事な椿が描かれている。

版権は無論、千総と京都文化博物館にあるだろうが、前述したお能をモチーフにした着物の図版が手に入ったので、別項として掲げることにする。

ここに描かれている演目は、袖が翁、身頃が酒瓶と寿文字の大杯で猩猩、雪の枝折戸で鉢の木、菊に囲まれたのは菊慈童、車は熊野、梅のモチーフで弱法師だろうか。
明治になり、お能が一般に開いたことも関係しているのだろう。

実に見ごたえのある、よい展覧会だった。

SWの続編など

ルーカスがエピソード3からクラシックのA NEW HOPE までの20年間を100時間ドラマにすると発表があった。
正直『来たか』といい感じ。ノベルスなどでは多くの外伝や未来の話が産まれているが、やはりルーカスも作りたくなったのだろう。商業ベースについては、ここでは語らないが。ああ…一体どうなるのだろうか。わくわく感より不安が大きい。 がっかりだけはしたくないが…

一方、渡哲也が27年振りに浮浪雲を演じるらしい。私は記憶があるが、よいイメージだった。桃井かおりが亀さんで、アイロンしていたな。日常の何かを現代の行為に置き換えたことでかえってリアリティが産まれていたからだ。
どちらにしろ、見ない限りは感慨もないものだ。

横山秀夫サスペンス

私はめったにドラマを見ない。

しかし月曜サスペンスの横山秀夫シリーズだけは別だ。今日も大変面白かった。原作がよいのは当然ながら、それをよく飲み込んで、テレビドラマとして再構築した監督と脚本家に拍手を上げたい。無論、道具立てだけではない。なにより役者がいい。
生温さのない、緊迫した状況。
二班と三班のそれぞれの捜査法と言い、背負うものといい、設定の巧さだけではない。
役者の演技の鋭さ・重厚さに胸が衝かれるようだ。

私は実は、推理物が苦手だ。と言うよりも、犯人探しに関心がない。それよりも倒叙ミステリーと言うのか、犯人が最初にわかっていて、それを警察がどう追い詰め、落としてゆくのかの方に興味を持つのだ。だから私にとって最高のサスペンスは、Fフォーサイスの『ジャッカルの日』であり、Fジンネマンの映画『ジャッカルの日』なのである。
リメイクには関心がない。

そういう意味で私は正統派のミステリ・サスペンスのファンではないのかも知れぬが、横山秀夫シリーズには、そんな私の興趣をそそる強い魅力がある。
極端を言えば、犯人はどうでもよく、二班と三班がどのように犯人を検挙するかにばかり、関心がゆくのだ。

以前は(今もだが)横溝正史の金田一耕助シリーズが好きだった。そこでも私は犯人探しに関心がなく、状況と設定に酔いしれていた。犯人の動機をいかに探偵が探り出すか、何があったのか・・・そればかりにどきどきしたものだ。

だからというわけではないが、今日もまた途中で「ああそうか」とわかりはしたが、『誰が犯人か』には関心が湧かなかった。
それでも、おじさんばかりの集団の、熱くてクールな戦いぶりに胸をときめかせた。

出来る限り、このメンバーでドラマが続いて欲しい、と思った。

小袖

泉屋分館で共立女子大所蔵の、江戸中期以降の武家、公家、富裕町人の着物展を見る。 私は安土桃山から寛文の小袖が好きだが、こちらもよいものが多い。金糸で縫い取られた千鳥の地には鵜か都鳥のような鳥がいるが、まるでエッシャーのようだ。気に入ったのは、五色椿の縫い取りに裾にわんこがいる萌黄の着物。ほしいと思った。学生の観客が多く、皆が感想を書いている。いいことだ。
福島のツレとはこの前に分かれたが、来ていれば喜んだろうと残念に思った。彼女の祖母は長く京呉服屋を営んでいたそうだ。道々そんな話をしていたのだ。また、いつか…

緑隠

時季は梅雨を迎えつつある。
野間記念館で緑隠をテーマにした日本画展を見た。12日で終了。 緑が生い茂る頃になると、樹下を歩くだけで胸が晴れる。緑の重なる陰にときめきさえ覚えるのだ。
洋画では表現できぬ感覚を、日本画は見せてくれる。ただ緑を重ねぬるのでなく、黒を添えることで緑はいや増す。そして余白。これが緑隠なのだ。すばらしい思想だと改めて感じる。墨の特質がもたらした美の世界。
墨はまた当然の如く闇を産み出す。 同時開催の村上豊の絵本原画にそれは現れる。 食わぬ女房。貧しさとケチさが、孤独な男に災いを呼ぶ。自業自得ではあるが、彼もまた死地を抜けねばならぬ。深い闇は世界を包み、光は見当たらない。やっと女の正体・大クモを退治しても闇は決して晴れまい。
ハーメルンの笛吹き。中世ドイツの深い謎。ネズミは黒い集団であり、軽やかな衣装の男の笛で全滅したが、町の者は破約する。次に現れた男は闇を纏っている。子供らは一人を除き皆、消えてしまう。深い嘆きに包まれる町の者たちは、一塊の闇に体をまとめている。個でなく全として。
すばらしい表現力に言葉もない。よい展覧会だった。

女学生らいふ

弥生美術館の女学生らいふ展を見る。
圧倒されたのは『エス』のこと。時代が違うのでイマイチ理解出来ないが、少女小説の要約や挿絵を見るうちに、なんだかドキドキ切なくなってきた。 昔の少女たちの純粋さと、人恋しさの切なさと、可憐さに、なにかしら心が苦しい感じ。
悩んだり嬉しかったり切なかったり楽しかったり、少女の心の成長過程がこちらにも響く。中原淳一、加藤まさを、松本かつぢ…彼等の描く少女たちがとても愛しい。淳一のちょっと勝ち気な少女と繊細な少女の描き分けの巧みさ、まさをの切ない少女、かつぢの意外にシャープな少女。
彼女等を眺める内に、私もまた少女に還り、誰かを想うあの頃に戻る。これはかつて少女だった者だけの、甘やかな特権だ。そしてここでならその特権を享受出来るのだ。だから私は何年でも、弥生に通うのだろう…

一つだけ苦言を呈したい。宝塚歌劇を〈一部の熱狂的なファンが支える特殊な世界を思い浮かべるだろうが〉そうではなかった、と書かれているが、阪急沿線に住まう私には、やや疑問が残る。地元だからか、その説明にはうなづけない。

紀の善とラジウム卵

福島県民のツレと神楽坂の甘味処・紀の善に行く。
正直、日本一おいしいと思う。値段も手頃、お店は気さく、こんなよい味の甘味処は他にない。私は抹茶ババロア、ツレはクリームぜんざいだが、二人とも大満足だ。私は関西人だから京都には縁が深く、よい抹茶をいただくことも多いが、ここの抹茶ほどの使い方をされている店はなかなかない。えぐかったり、薄かったり。
爽やかな抹茶と控え目な甘さのホイップクリーム、絶品のこしあん。すばらしいコラボレートだ。食べるだけで幸せな気分になる。

その至福の時間に、ツレが『今度ラジウム卵を送るよ』と言い出した。ラジウム卵?なんですかそれ。
色々聞くと温泉卵のことらしい。しかし私のアタマの中では、めりめりと卵のからが割れて中からガメラかゴジラかがギャオーッと叫びながら現れる情景が浮かび上がっていたのだ。そそそ、そんなん食べて大丈夫か?悩む私にツレは事も無げに『健康にいいよぉ』嘘をつけ、火とか吹いたらどぉするのだ…
とりあえず〈ラジウム卵〉が到着し、食べて、ラドンのように阿蘇山に飛込みたくならなければヨシとしたいのだが…

恨みの桜姫

コクーン歌舞伎で桜姫を福助が演じている。
私はこの芝居が大好きだ。子供の頃に孝玉をみて以来ハマッている。だから上演の度にみているが、今回チケットが取れず諦めた。
で、歌舞伎座で同じ南北の盟三五大切を見ようと銀座に出てこれまた挫折。泣き泣き歩くと、行き交う女の人たちの手には桜姫の筋書きが。
く・や・し・い?!
このブログは確か〈歌舞伎・映画などをみた感想を云々〉の筈が、始めて以来チケ取り失敗が重なり、一度も見れてないのだ。つまりかけてないわけです。涙、涙。ヘタをした私は地元での勘三郎襲名も見れない可能性が大…ちょっと可哀想な私、だと思う。

塚本邦雄の死

塚本邦雄、急逝。

残念としか言いようがない。
戦後の前衛短歌の旗手と言われていたが、長く戦後が続いた現在では、彼の短歌こそが現代の短歌だったと思う。

言葉の魔術師、言語感覚の錬金術師。どれほど言葉を尽くしても、彼自身の短歌には敵わない。

難解・晦澁と言われても、彼の短歌は道を曲げず、正しい漢字を操っては、イメージの森を、数奇な海を、そこにひろげて見せてくれた。

歌集『水葬物語』、このタイトルだけで、どれほどのときめきを覚えたことか。
奔放なイメージが広がる。彼の言葉の力に溺れて、私たちは知らぬ間に生命を落としていたのではないか。

彼に殉死することは出来ないが、私たちは遺された彼の歌を肉として、生きて行くことは出来る。

ありがとう、塚本邦雄。

ところてん

実はところてんが大好きだ。

酢水に浸かるところてんをキレイに洗ってから、お気に入りの旭ポン酢で食べる。
咽喉越しのよさがもう、めちゃくちゃよい。
おとどしの夏にハマり、延々と食べ続けたが、飽きなかった。
冬が近づき、売り出されなくなったので、食べるのをやめただけ。
元々葛きりが大好き・ポン酢が大好きなのだから、当然の話かもしれない。

黒蜜は、好き嫌いが強いので使わない。
大好きな黒蜜メーカーさんもあるが、近所の和菓子屋さんが閉店したので、買いに行けない。東大阪のメーカーで、吉野葛で作ったプリン形の葛きりに、黒蜜と黄粉をかけるのだ。
これがまた本当においしかった。

このお菓子は、あと他に大阪・石町の松屋春軒(この字かどうかは忘れた。もしかすると春絹または違う字かも)が扱っている。
通販しているかどうかはわからない。


なんにせよ、ところてんや葛きりがおいしいと言い出す頃になったわけです。毎日暑いはずだ。
初夏から夏の楽しみ。

海皇紀ほか感想

月マガが一番面白い。

今月号の海皇紀は、珍しく女の子の心模様を描いたものだった。
海皇紀は男の視線と意識によって物語が展開してゆくので、どうしても少女の描かれ方に一定の枠があるように思えていた。
今月はその枠の中の少女を巧く表現していると思った。
メルダーザ。
私は正直なところ、マイアよりメルダーザの方が好きだ。そのメルダーザの心の動きを、あの映像的画面構成の手法の中で、捉えている。
わかりきってはいたけれど、せつない心。ヴェダイをつれて旅立つメルダーザにファンからの贐の言葉が。
こういうところがわかりきっているけれど、ファンってかっこいい!とシビレさせられるのだ。

カペタ。講談社マンガ賞受賞おめでとう。曽田せんせはめ組の大吾で小学館マンガ賞を受賞していたが、今度は講談社の賞だ。
作品レベルの高さから考えれば当然のことだと思う。
出世作シャカリキ以来、大吾、昴、カペタ、と全く質を落とすことなく熱い作品を描き続けてきたのだから。

孫六の目がいよいよ、やるでーという目になっている。ホントに悪い奴だ、なんてニクイのだろう。期待を外さんといてやーと胸を熱くさせられる。
巻末で、作者アンケートにさだやすせんせは『笑顔は人生の宝』と言うのが忘れられない一言だと書かれているが、孫六の場合、一体どうなのだろう・・・

ひらぱーで遊ぶ

初めてひらぱーへ行った。ひらかたぱーく。通称・ひらぱー。
もう今や関西有数の、乗り物本位の遊園地。
二十年前から段々と皆さんの意識が変化してきて、遊園地離れが進み、テーマパークへ変わっていったが、私は断固として遊園地が好きだ。乗り物の楽しさを遊園地は与えてくれる。

初めて来たひらぱーは大きかった。私は宝塚ファミリーランドで育った人間で、行くのは他に今はなき阪神パークとエキスポだけだった。ひらぱーには小さい動物園があった。アライグマと、今流行のレッサーパンダと。それで思い出した。
昔、あらいぐまラスカルを放映中、上野動物園ではあらいぐまのぬいぐるみを売り出したが、地味な色合いのために売れず、無関係なレッサーパンダのぬいぐるみがよく売れたそうだ。
当時幼児だった私は、世の中とはそんなものか、と感心した記憶がある。
しかし、子供にはスリルやサスペンスやバーチャルリアリティも必要かもしれないが、何よりも、情緒を養うことが不可欠ではないか。動物にとっては迷惑な話かも知れぬが、遊園地の中にある動物園と言うのは、とてもよいものだ。
子供の頃、親に連れられて行った遊園地の記憶の中には、必ず何かの動物が活きているはずだ。
それは活きた動物がベストではあるが、象さんの滑り台やキリンさんのブランコなど、オブジェともモニュメントとも言える作り物が大好きだった子供が多い。このことを深く考えたい。

私とツレは3000円の乗り物フリーパス券を購入し、手始めに木製のコースターに乗った。木製のコースターはいい匂いがした。木のきしむ音でさえも、楽しい。淀川が見えた。おお、滑落が。天国への階段・地獄への滑り台。
ふらふらクラクラしながら大観覧車で一休み兼眺望を楽しむ。
降りてからは再び、コースターを目指す。

ツラツラ連ねても仕方ない。
楽しかった。本当に楽しかった。きゃーきゃー叫びながらスピード感に翻弄され、三半規管がおかしくなるのを愉しんだ。
まっすぐ歩けないこと自体が、面白かった。
メリーゴーランドの前には薔薇園がある。本当はこれが目当てだったのに、乗り物が最優先だ。
花の香に誘われて・・・ハーブもキレイ。
なにがどう、ということもない純粋な楽しさがあった。お化け屋敷も、わかりきっているのに楽しい。

ただ、ふっと何かの悲しみと言うか、寂しさと言うか、微妙な感情を味わったのは、人形たちによるサーカスだった。
これは宝塚なら『世界は一つ』ああ・・・大傑作だったのに・・・
TDLなら「IT’S A SMALL WORLD」というところだが、人形たちはどれもこれも一つの表情しか浮かべていない。笑顔のまま。張り付いた笑顔。
電源が落とされるまで、笑い続け、動き続ける人形たち。
電源が落とされ、閉館された後も彼らは笑顔のまま、同じ姿勢でいるのだと思うと、悲しくなった。これはどういう感情の動きなのだろうか。

ウルトラマンのアトラクションは見ず、四時前に出た。かなり沢山の乗り物を楽しんだ。よかった。実によかった。
しかし、一つだけ気にかかったことがある。
薔薇園前のレストランでランチをしたのだが、ハンバーグも目玉焼きも生焼けだった。これはいけない。お商売する以上、行楽地である以上、こうしたことには他の店以上に気をつけねばならぬのではないか。
唯一の不満は、これだけだった。

つつじとあじさい

庭の紫陽花が紫がかって来た。可愛い。私は紫や青の紫陽花が好き。
ところが、キッチンのサッシを開くと、ピンク色の躑躅が今になって開いているではないか。
ちょっとのんびりさんです。かわいい。

庭には私の好きなは・は・は・は・・・あれれ、名前忘れた。
ピンク色の細い可愛い花で、クローバーと友達な花。あいつも好きなのよ。ハジカミ・ハミガキ・ハギシリ…あっわかった、カタバミでした!
 ああよかった。

可愛いけど、私が出て行くときには寝ていて、帰宅しても寝ている花。
だから、愛でるのはいつも、外に咲くカタバミです。

水無月

子供の頃、とにかく和菓子が嫌いだった。

ところが大きくなるにつれ、和菓子がおいしいと思うようになり、今日ついに水無月を代表するお菓子をもらった。
夏越という名で売られているようだが、これは店により、名前を替えて販売しているのだろう。
ういろうの表面に大納言小豆。 今から食べます。
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