美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **なお現在コメント欄を閉鎖中です。

バーク コレクション

バークコレクション

先週18日に見て、書き上げるのにやはり一週間かかった。
今回のツアーはバークに始まり前川國男で終わった。その間に素晴らしい展覧会を多く見た。
特筆すべきは『大いなる遺産 美の伝統』展であった。
結局それに時間がかかり、最初に見たバークコレクションを大トリにしてしまった。

バークさんのコレクション。広島から始まり都美に来て、次はMIHOである。
展覧会の副題は『縄文から琳派、若冲、蕭白まで』日本美三千年の輝き、とある。
わたしの目当ては蕭白の『石橋図』である。
去年京都で蕭白展があったとき、この絵がなくて無念だったが、バークコレクションに収蔵されており、今回の来日を知ってずっと待ち続けていた。

既に見知りの名品が多く含まれていた。
嬉しいことに展示換えなしらしい。前川國男の設計した建物で日本の古美術を見る。
この喜びは大きい。

『縄文土器』 かなり大型のものである。以前諏訪や青森で見た縄文を思い出す。
わたしはバークさんの来歴などを知らぬが、いつ頃この縄文土器に関心を持たれたのだろう。
メイド・イン・古代日本の縄文を『素晴らしい!』と最初に『発見』したのは岡本太郎らしい。
彼より早いのかそうでないのか。そんなことを思うのも楽しい。
それにしてもこの形は見応えがある。巻き方はまるで炎か羊かのように思われた。
羊はイオニア柱。ギリシャ・ローマから伝播するのはもっと後年なのだ。

『埴輪』 頬紅を塗った愛らしさ。中世まで紅は溶かして頬に塗るものばかりで、口紅はその後の発明らしい。この埴輪は六世紀のものらしい。六世紀といえば敏達天皇の頃か。恐らくその前だろうが、顔立ちが何やら懐かしいような感じがする。

『弥生土器』 赤蕪のように見えた。縄文人と弥生人は人種が違うのだから、当然文化も異なる。弥生土器を見ているとその後の日本文化の直接のご先祖と言う感じが強くする。
そして縄文は現代芸術のようにも思えるのだ。

『横瓶』 時代で言えば聖徳太子の頃の作らしいが、一目見て「瓜?これ瓜よね?」と思うような形と色だった。自然釉の流れが瓜を思わせてくれる。半ばに包丁を入れると・・・

『三尊塼仏』 か細い美しい仏たち。上部には天人が飛んでいる。橘寺にあったのか。
顔立ちはとろけているが、なんとも言えず美しい。

『天部形立像』 木像で虫喰いが激しいが、それはこの像の美を損なわない。虫喰いの被害は食い止められているだろう。つまりここから永世の美を保ち始めたのだ。

二種の男女神像がある。
十世紀の方は細かくない彫り方をされている。鷹揚さを感じる。信仰心は湧かぬにしても、何やら親しみを覚えるのだ。
もう一方のは源平の頃の作か、彩色が残っている。男神の皮肉な口許が面白い。雛人形のように並んでいるが男も女も知らん顔だ。

『飛天』が二体ならび、それぞれ動きがある。
この表情の美しさは実際に見ないとわからないだろう。静艶な微笑を浮かべている。指の美しさ。どんな楽器を持っていたのか。
阪神タイガースの鳥谷選手のような面をこちらに向け、シンバルを打つ飛天。

『阿弥陀如来坐像』 袈裟が赤く、リアルな感じがする。わたしはあまり仏像は得手ではない。

『石山切』が二種あるが、アメリカ人の目にこの書跡はどのように映っていたのだろう。
そのほうに関心が湧く。
以前谷中の長屋に住まうアメリカ人の奥さんのエッセーを読んだことがある。
彼女は初めて来日したとき、祭の頃か、不忍池に赤いちょうちんがつらつら連なり、何やら美しい文字が書かれているのを見て「日本人とはなんと繊細な。和歌や俳句をちょうちんに書いてそれを釣るとは」と感動したそうだ。――ところが数年後、谷中の住人になり字の読み書きも出来るようになった頃、再び不忍池に行って例のちょうちんを見るや、愕然となった。
書かれていたのは『和菓子の▲▲』『?○○』『××酒店』どこにも歌はなく、店名社名が極太に書かれているだけだったそうだ。
極太で思い出した。
漱石の随筆にこんなのがあった。
初めて京都に来た漱石の眼に映ったものは、やはりちょうちんだったそうだ。そのちょうちんに極太で『ぜんざい』と書かれている。
千年の都のイメージは瓦解し、後に残るのは『ぜんざい』だけになってしまった。
こうした話は他にもある。
市川昆の映画『鍵』で女中のばあさんが一家全滅をはかる。サラダに毒を混ぜて出したので、京マチ子以下全員が死ぬ。ばあさんが毒を入れていたのは茶筒で、底に汚い字で極太に『どく』と書いていた。
石山切、ごめんなさい。

『不動明王坐像』 これが大きい。快慶だと伝わるが、なるほどそのようにも思える。
すすけて黒くなっているが、眼にガラスか七宝でも入っているのか、きらめきがある。
装飾がきれいで、欲しくなるようなアクセサリーだと思う。手に持つ縄まで残っているが、これは当時からのものか後世のものかは、わたしにはわからない。
なにしろ八百年前なのだ。しかし髪型になにやら覚えが・・・あっ、STAR WARSのジェダイになるまえのパダワン(弟子)と同じような髪型なのか。
そして台座がフランク・ロイド・ライト風なのである。これは面白かった。

お地蔵さんと毘沙門天が同じケースに並んでいた。
快慶作の『地蔵菩薩立像』は着衣の柄がきれいだと思った。わたしはお地蔵さんとお稲荷さんと天神さんには身近なものを感じるので、ちょっとだけ手を合わせた。
それにしても立派な立ち姿である。すっくと立っている。

『毘沙門天立像』 なにやら朝青龍関に似ている。日の下開山の力強さがある。足元には邪鬼を踏みしめている。ところがこの邪鬼たちがくりくりして可愛いのだ。
向かって右は目を剥いているが、なんだかいたずら小僧のようである。左の奴は「ロード・オブ・ザ・リング」のドワーフみたいに見える。似てるなあ。

『灰釉菊花文壷』 この菊は型押しのようだ。灰釉だが、焼成の加減で茶色になっている。
この時代の陶磁器はあまり好みではない。日本も中国も朝鮮も。

『根来黒漆蝶文瓶子』 根来塗りとは、黒漆の上に朱塗りをしたものだと解説にある。
僧兵のいた根来寺。根来衆が拵えたのかもしれない。蝶の文は珍しく、舞楽用かもしれないそうだ。わたしは蝶が好きなので嬉しく思った。瓶子、平家物語を思い出す。
「伊勢のへいしは眇めなり」と囃される話。そうだ、平家の紋は揚羽だった。

同じく『根来朱漆高坏』 明神と書かれている。朱が鮮らかだが、多少の剥落があり、地の黒がちらちらのぞく。昔、我が家にもあったそうだ。重箱。関西の土着民の家には普通にあったようだ。

『住吉物語絵巻断簡』 本体もさることながら、表装の蝶がきれいなのだ。物語は最早消え、こうした断簡だけが世界の果てに点在する。小さい木々があるのは紅葉だろうか。
車に乗るのは姫だろうか。

『平治物語絵巻断簡』 六波羅。馬が走る、ぶつかる、追う、逃げる。若い武士が冑を掴んで引き寄せようとする。戦の情景。これとは異なる情景を確か大和文華館で見ている。

『絵因果経断簡 降魔変』 これは鎌倉時代の作だが、実は翌日『大いなる遺産 美の伝統』で奈良時代のものをみることになる。(その以前にも湯木美術館で馴染んでいる)
お釈迦様の話だ。開かれた絵巻のその情景は、まだ仏陀になる前の悪鬼妖魔たちによる悉達太子誘惑の図なのだが、左右に同じような人物が座っている。片足を組む半跏の姿。刀を持っている。彼らが何者なのかはわからない。それに何故かお釈迦様はもはや仏陀に見える。
悪鬼妖魔たちはなかなか味がある。一つ目の鬼はルドンの『巨人』のようだし、雷神もいれば、マントを着た奴もいる。髑髏もころころいる。雲間に仏の影が見えるようだ。
百鬼夜行ほどの可愛さはないが、面白い。文を少しだけ読む。『龍吐毒』とある。いいなあ。

『春日曼荼羅』へと移る。
わたしは関西人なので春日曼荼羅は色々なものを見てきている。鹿も境内図も若宮も。
細見美術館には特に多いので、鹿が榊と鏡とを背に乗っけている図には親しみがある。
南北朝の鹿は鋭い目を右に向けていた。ちょっとシシカミつまり麒麟のようである。
隣の室町の鹿は白鹿で、左を向いている。山々、華やかな色彩、月。時代が定まったからだろうか。
境内図がある。
以前佐倉の歴史民俗博物館で、『何がわかる境内図』という展覧会で実に多くの境内図を見ていた。満月の下、五尊が浮かぶ。三笠山。三蓋山とも言う。ドラえもんの大好物どら焼きは三笠焼きなのである。その後裔。
桜が所々にある。小さい鹿がいる。静謐と言うより、死都のようにも見えるこの静けさは、異様なときめきを覚えさせてくれる。
若宮。
満月の中、と言うよりむしろ水晶の中に閉じ込められているようだ。
美童である。桜花、燕、蝶の表着袖なし、緑と茶色の合わせ方。剣を手にした若宮は1003年に出現したそうだ。天児屋根尊の子。あまがつ、ではないが名にそれが入るのにもときめく。
春日大社は藤原氏が鹿島大明神を勧請したものだそうだ。だから紋は下がり藤。
その辺の事情を作家・石川淳は『六道遊行』で恣意に自在に描いている。面白くて仕方がない。
わたしの近所に春日大社のお旅所というか、替わりに祀る家がある。やはり下がり藤で、近年指定を受けられた。

『清滝権現像』 せいりゅう、と読む。あら、この女の人知ってるよ。絵葉書を持っている。
唐からの帰途、感得した醍醐寺の僧の夢に現れたそうな。襖の・・・これは桜なのだろうか。
(ところがこれを書くに当たり、所有の絵葉書を見たら、畠山記念館とある。本を買わなかったので、比較が出来ない。同じなのか違うのか。どうもよく似ているから同じ手なのかもしれない)

『釈迦三尊十六羅漢像』 鎌倉から南北朝の時代には神仏画の他に絵はなかったのかと言いたくなるほど、名品が多く残されている。虎とか白鳥とかフクロウもいる。羅漢像は面白い。
話しかけたくはないようなヘンなオジさんだらけだが、ビミョーに楽しいのだ。
下方に大師と太子がいるが、太子の着物が赤色である。本当を言えば黄色なのだが、赤を着ていて、それがくすんでいるから、なかなか面白い。

『源氏物語絵巻』 これはポケットブックと言うのか、当時の読み物だったようだ。紫の上か。
ふと思ったが、ポケットブック系は後の草双紙、黄表紙、コミックへと血脈を繋いだのかもしれない。

『秋冬景物図屏風』 萩、女郎花、桔梗がある。秋の七草はいつから定まったのだろう。
わたしはそれを知らない。室町のこの屏風を見ていてそう思った。

『十牛図』 ああ・・・。個人的追憶もここに来ると泣けてくる。
わたしの高校の恩師とは今も賀状を交わすが、当時から現在まで折に触れて「なぜか」わたしに十牛図の絵葉書をよこしてくる。
自分探しの旅か。先生はユング派の人で、今は担任を辞めて学園でヨガや心の解放とか言うのをされて、広く門戸を開いてはるのだ。幼稚園から高校までの学生やPTAだけでなく、わたしのようなOGにもこうして温かい目を向けてくださるのだが・・・
多分わたしは、ここに展示されている牛のように背を向けているのかもしれない。

『寒山拾得図』 これはそんなにばっちぃーずではない。寒山拾得に豊干といえば、二年前韓国国立美術館のお里帰り展で見た四睡図を思い出す。あれはかわいかった。

『葡萄図』 蔓に蝉が止まっているが、何やら蜘蛛の糸にすがりつくカンダタのように見えなくもない。一般の方はご存じない話だが、電話線には蝉対策用のケーブルがある。それもクマゼミ限定のケーブルなのである。それが西日本全域に張られている。・・・それがどうしたのだ。

『山水図』が二つ出ている。
周徳のをみて胸に浮かんだ言葉がある。
「日暮れて道なお遠し」
周文のもまた、ちっともゆったりした気分になれない。
いつかこうした絵を見て心が和んだりする日が来るのだろうか。

雪村が三枚ある。
『楼閣山水図』『山水図』『竹林七賢図』。
『竹林七賢図』は踊り・演奏する七賢を見て楽しそうな人々のいる絵で、なんとなく私も楽しくなった。赤ん坊にお乳を上げる女の人、見物して笑う子供たちの顔。
そうだ。わたしは遊楽図が好きなのだ。それでこうした山水図がニガテなのだ。

『伯牙弾琴図』 これを見ると「士は自ら知る者のために」という言葉が浮かぶ。段々狩野派が出てきたな。
『花鳥図』 なんか雌の雉がふられているように見えるな。

この先は工芸品に移る。


『鼠志野葡萄文瓜形鉢』 色は鼠志野なので、とても素敵なのだが、瓜形?なのだろうか。四角く見えるのだが・・・

『織部葡萄文瓢形徳利』 これは志野織部と言うらしい。白地に大胆な描きようである。

しかし総体的にバークコレクションの古陶はわたしの好みからやや外れるので、あまりなんとも言いがたい。

蒔絵のいいのも出ていたが、これらをバークさんが好んでくれたのは、嬉しいような気がする。


再び大和絵へ。

『西湖図屏風』 山楽によるユートピアとしての名勝図、と解説にはある。これは一種のテーマパークかもしれない。ユートピアではなく、パラダイスとしての。
そう思えば山水図も愛せるかもしれない。
途端、この絵がテーマパークのマップのように見えてきた・・・

探幽の『笛吹地蔵図』が二枚出ている。
法印になってからのものではなく、少し若かった頃の作に惹かれた。
これはわりとよく見かける作品で、改めて対すると愛しさが湧きあがってくる。蓮の葉っぱの帽子。可愛い。お顔もきれいだ。何の歌を吹いているのだろう。


ここでこの建物内で一番好きな場所へ動く。
離れのような空間。前川國男の意図はわからないが、私には居心地の良い場所だ。学芸員さんもこの場所を巧みに使う。
数年前、アールヌーヴォー展が開催されたとき、ここにパリのメトロが再現されていた。
その場所に屏風が並ぶ。

『大麦図屏風』 なんと胸のすくような景色か。金地に白い麦穂がきらきら煌くように全面に広がっている。ベルギーの二十世紀初頭の絵のようだ。
こうした絵に出合えると嬉しくなる。
古美術が好きなのだが、時折近代を飛び越えて現代に直結しているような作品を見るとわくわくするのだ。
この心境を説明するのは難しい。

『柳橋水車図屏風』 貼り付けた銀の月が酸化して黒くなっている。この作品の親戚のようなものを今はなき萬野美術館で楽しく眺めていた。並べ方の妙か、自分がその場にいて月を仰ぐような気分になる。

『四季草花図屏風』 わたしは花の名前と実物が一致しない。私が正しいかどうかは知らないが、わたしの目で見た花の名を書いてゆく。
シャガ、カーネーションもどき、牡丹、白ゆり、萩、赤い百合、トンボに蝶もいる。左には薄、桔梗、竜胆、菊・・・雪の積もる菊もある。
ハッキリした花の個性が見えて、よい屏風だった。

『源氏物語図屏風』胡蝶を描いている。土佐派の作品。襖絵は雪に鷺という濃やかさだ。
わたしは源氏物語に関しては土佐派の作品が一番好きだ。藤と桜。細かいことを言うようだが、細部を見ていると色んな発見があり、とても楽しくなるのだ。
なんだか秘密が隠されているように思えて、見るのが楽しい。芸術としてはどうかはわからないにしても、楽しいことが一番なのだ。

『平家物語図屏風』 右はこれは小督か、琴を弾いているし。左は大原御幸のようだ。
この後わたしは山種美術館で歴史上の人物を描いた作品を見に行くのだが、そこでは源平合戦図があり、義経八艘飛びなどを見た。今回のツアーにはこうした関連があったりして、なかなか意義深いものを感じている。

『西行物語図屏風』 願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃
高校くらいの頃憧れたが、大きくなるにつれ(『遁世』と『出家』について考える度に)段々と西行に腹が立ち始めた。同じことは説経の『刈萱道心』にも言える。しかし物語の中に進むと、必ず哀しい気持ちになり、涙ぐんでしまうのだ。
昔の物語に本気になってどうするのか。その都度、反省する。

『武文』図屏風 姫が誘拐され、その船を止めさせるために切腹し贓物を海に擲つ男。
船は転覆し、悪者は死に、姫は救われる。
これは謡曲からの絵柄なのだが、切腹と臓物云々は予測させるだけで、描かれてはいない。
以前、猿之助、勘九郎、玉三郎で『椿説弓張月』をみた。
三島由紀夫脚本の作品を猿之助演出で上演された芝居の中で、そんなシーンがあった。
姫を救うために切腹し贓物を海へ。
これはある種のステロタイプなのかもしれない。
妙にときめく。

『扇流図屏風』 ああ、こういう遊楽図が本当に好きだ。
きれいな小袖。長煙管を持つ女、欄干にもたれる。遊女たちだろう。
この頃は苦界ではなく、「公界」だった「悪所」に勤める女たち。
かむろのオカッパ少女たちが揃いも揃って美少女だ。
長ずると、お姐さんたちより売れっ子になるかもしれない。
流す扇も色々な絵柄を見せている。女三ノ宮の図もある。武蔵野図。一つ一つが味わい深い。
そういえば、花街には投扇興というお座敷遊戯がある。その頃にはこうして川へ扇を流すようなことはしなくなっていたのだろう。

『南蛮屏風』 神戸や堺で見る度に色々と物思うていたが、これをアメリカ人バークさんが持っているということに興味が湧く。
寺の入り口に佇む若侍と南蛮人がちょっとアヤしい。人間の描写がなかなか面白く出来ていると思った。船の様子を見て『カムイ』を思い出した。

『洛中洛外図屏風』 とにかくわたしは近世風俗画が好きだ。遊楽図と洛中洛外図。
わくわくしながら人間の姿を追い、町の佇まいを探る。
やや人物は小さいが、くっきりと描かれた顔である。小吉歌舞伎が小屋掛けしている。清水、知恩寺(百万遍の)、賀茂競馬、愛宕山、大堰川、嵐山、小倉山、その門前で絵解きをする者もいる。目疾み地蔵もある。ちょっと位置関係がずれていて面白い。
洛中洛外図の年代の目安は、二条城と雲の描き方なのだが、細部にばかり拘って、そこのところをきっちり見ていなかった。ばかものメ。

『花見・紅葉狩図屏風』 花より紅葉狩の方が面白い。女客の袖を引く男はこれは何のショーバイなのだね。『夜王』ですか。
煙管で吸うて煙を吐いて・・・遊楽っていいなあ。

『阿国歌舞伎図屏風』 実にこれまで色々な阿国を見てきているが、わたしの最愛は大和文華館のそれである。しかしこの舞台も悪くはない。シンプルな顔の人々。下がり藤の紋か。
都の春の 花盛り 花盛り・・・・・・

『寛文美人図』 無論近世風俗画が好きだということは、小袖も寛文のそれが好きだと言うことでもある。バークさんは時代による着物の変遷に眼を向けてくれていたのだろうか。
そうしたことを追いかけると、とても楽しいのですが。

『立姿美人図』 安度独特の美人は東京ではチラシに小さくしか載らなかったが、広島のチラシでは一面に大きく立っている。しかも扇流しの橋の上に。そして山登りの獅子たちを見ている。いい女だなあ。しみじみ。

『雨宿り風俗図屏風』英 一蝶の有名な絵。これはある種の職人尽図でもあるが、こうしてナマで見てみるとなかなか趣があると言うか味わいが深いなあ。なんとなく、人生の機微に触れたような気がする。錯覚かもしれないが。

『美人納涼図』 縁先に出て寛ぐ女。もうこんな景色、どこにもない。わたしは納涼といえばすぐにオバケ屋敷(それも東映の俳優さんによるもの)、河原町の床、花火大会と連想する。
大阪は暑い。本当に暑い。涼むのはなかなか難しいものだ。

『雪・月・花』 雪で三囲神社、月で首尾の松、花で花魁か。江戸だなあ。わたしは隅田川に花見に行くと、言問団子を食べる。三囲神社へ歩いては『桜姫東文章』を思い出す。そのまま歩いて、白鬚神社へ出るか東向島へ行くか・・・その日の気分次第、予定次第だ。

『百鬼夜行絵巻』が出ている。可愛いわ。大体どの百鬼夜行も可愛いものだ。

『茨木図屏風』 是真の構図は巧いといつも思う。左に飛ぶ茨木。かっこいいなあ。
お婆さんが孫に説明しているが、ちょっと勘違いされておられるので、聞いていてどうしようかと思ったが、孫の方が内容に先に気づいた。おばあさんはご存じなかったのだなあ。
茨木を見ると思い出すのは、六世梅幸の話だ。
彼は茨木の役を得意にしていたが、ある日さるところから招待を受けた。これは趣向があるなと気づいた彼はブレーンを集めて相談し、支度をする。
当日訪れると、門は固く鎖されている。ほとほとと戸を叩き茨木を装うと中へ入れてもらえる。中にいた連中は彼を老女扱いし、上座に据えるが、床の間に大きな木彫の腕がある。
さぁこれかとばかりに腕を持ち上げ見得を切る。皆さんやんややんや大喝采。
そのまま失せようとしたが、実に重たい。それでも出て行きかけたら、皆が一斉に止めにかかる。実はその腕は、さる有名な寺の仁王像のを取り外してきたものだったのだ。
六世梅幸の機知や遊び心に、数寄者たちは大喜びをしたそうだ。
昔の優雅な話だ。今はそんな話、聞きもしなくなった。

『源氏物語図屏風』 傳・宗達らしい。これは胡蝶か。すると先程土佐派でも見たな。

『桜花図屏風』 抱一のセンスが凄い。下を一面銀で潰した。上は金地で桜を描く。これは普通の暮らしからでは生まれないセンスだと思った。
弟子の其一は、それから五十年後に薄青い『菖蒲に蛾図』を描いている。
わたしはこの師弟で主従の二人がどんな感じだったのか、見てみたいと常々思っている。

『三十六歌仙図屏風』 池田孤邨は知らないが、この絵の元ネタは知っている。
光琳の画稿を先月出光で見て、抱一ならぬ抱二とやらが完成させたような絵を見ている。
このちょっと戯画風な絵は、当時流行したのかもしれない。

『六玉川絵巻』 井出の玉川のブルーに心が惹かれた。他の五つもみんなきれいな青色だ。

『唐美人図』 源の唐美人はいつ見ても・どれを見てもなんだか可愛らしい。座る女と立つ女。明朝の小説の挿絵に似ていると感じる。

『月下白梅図』 若冲のこの梅の絵、メトロポリタンにあったのか。時折見かけていたように思う。いや、見ていたから、知っているのだ。
若冲の梅は野梅なのだろうか。
私は梅の種類に詳しくない。息苦しいほどの梅。
しかし今まだ梅は咲いていない。
若冲は京都の人だから北野の白梅を見ているだろう。その梅がまだ咲かない。
梅は咲いたが 桜はまだかいな 
そんな俗謡があるが、もしかするとこちらの梅は桃と桜と一緒に咲くかもしれない。福島の三春のように。

『双鶴図』 これがニガテなのだ。昔はなんとも思わなかったが、あるとき赤江 瀑の『禽獣の門』を読んで以来、鶴のくちばしが怖くて仕方なくなった。だから岡山城の鶴が郭若泡さん(誤字かもしれない)縁のものだと聞いても、怖くて見に行けないのだ。

蕪村、呉春は地元・逸翁美術館でおなじみなのだが、この辺りは申し訳ないことにパスする。雰囲気を味わえたらそれでいい、という気持ちがあるからだろう。

池大雅の奥さん玉瀾さん(なぜかさんづけだ)の『牡丹に竹図』 こういう薄い青色が好ましい。この仲良しご夫婦の逸話が好きだ。
池波正太郎はどうも池大雅のファンだった気がする。『剣客商売』で小兵衛が池大雅の赤富士をせしめる話もあり、また『おとこの秘図』でも主人公の隠し子が玉瀾だという設定があった。
なんとなくほのぼのする。

『飲中八仙図』 わいわいしている。おや、お茶も沸かして。子供らにわんこ。破門されても芦雪はやはり応挙の弟子らしくわんこを描いている。わんこ可愛いゾ。

『月夜瀑布図』 同じく芦雪。なにやら師匠の幽霊画を思わせる色合いで、これは月夜とはいえ靄いでるのか。それともマイナスイオンの力なのか。しかし、カリエールの絵のようにも見えるし、シルバープリントの古い写真のようなにおいもする。これが滝の絵でなく都市なら『死都ブリューゲル』のようだ。

さて、いよいよ蕭白である。
わたしは蕭白の『石橋図』が見たくて今回の東京ツアーを思い立ったのだ。

奈良県立美術館に『狂女図』がある。今はタイトルが変更したかもしれない。水色の着物を着た女が裸足で立っている。水鳥の羽が見える。この絵が初めての蕭白体験だった。
更に新聞で見たのが『石橋図』。丁度「連獅子」を続けて見ていた頃で、興味が倍増した。虹の飛沫のように見えたのだ。
ところがこの記事を切り取り損ねた。
不覚だった。そのままずっと意識に残り続けたのだが、一体何年かかったろうか。
それから千葉市立美術館での蕭白展のチラシ。青鬼と赤い腰巻の童子。ジャータカらしいが、どう見てもヘン。
不気味で愛らしい。そんなキャッチコピーだったと思う。
数年前、舞踏家の大野一雄が前述の『狂女図』に想を得て「枯れた狂気を舞う」という新作舞踏を発表された。
わたしはそれをドキュメントで見ていて感動した。モダンバレエ、舞踏に愛を感じるわたしは、当時既に相当な老人だった大野が静かな身振りで舞うのにも、蕭白の世界を表現するのにも、感動を覚えたのだ。
以来、大野一雄と蕭白が二重写しになり始めた。
そして昨年、京都国立博物館で蕭白展が開催された。
これには『石橋図』がなかったのでがっかりし、蕭白と芦雪をカプリングした画集を購入したのだが、私は元々『奇想の画家』を好むので、これはこれで随分楽しめた。
が、その直後にバーク・コレクション展のチラシを入手したのだ。
うれしかったなあ。
遂に見ることが出来るのだ。
関西ではMIHOさんに来る。待てない。広島へ行くか。行けない。
では東京だ。
1月3月は予定済みだったが、2月は考えていなかった。
18.19しか開いていない。幸いにも飛行機のバーゲンフェアが取れた。
行くと決めた途端、前川國男や大いなる遺産が目の前に現れた。
わたしは綿密なスケジュールを立てる性質なので、回り方を考えた。それで空港から直行で都美に向かうことにしたのだ。

2月18日午前9時少し過ぎ。
わたしはバークコレクション展の中にいる。


『許由 巣父 ・伯楽図屏風』 出たー出たー怪しいオジさんたち。
穢れた話を聞き耳を洗うというより、這いずる変なオジさんにしか見えないし、牛にその水を飲ませないようにしようとするのか、逆に飲ませたいのかわからんオヤジだー。
伯楽は薬物中毒なのか。怪しいなあ。馬も不穏な奴らだし。こういうのがいかにも蕭白なのですね。
へんな人々。

『石橋図』 ああ、遂にこの目で見る日が来た。
中ほどに立つ唐獅子がうちの猫・茶ーチャンによく似ている。わんさかわんさか登りよる獅子たち。堕ちます。あーれー。登る登る登る。なんだかツール・ド・フランスの山越えラルプ・デュエズみたいだな。このうちの一匹くらい拾うてもわからへんのちゃうかしら。そんな気がする。
しかしこんなにようけ(=大勢)獅子がいる言うのも、変な話だ。もしかして日本が世界に誇るラッシュアワーの情景なのかもしれない。


エハガキも色々購入して、機嫌よくわたしは都美を出た。
ここから不忍池を越えて弥生美術館へ向かうのだった。
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歴史を彩った人々展から

歴史画。

考えれば写真のない時代は絵と文のみがその歴史を伝える手段だったのだ。
もっと昔に遡れば口伝となり、稗田阿礼が暗誦した物語・伝承が太安万侶の手によって編纂されて古事記となったのだ。
正史である日本書紀ですら、勝者の側に立った視点で描かれている以上、完全に信じてはならぬものではある。
しかし、各地の風土記や稗史、土地に残る伝承などが(完全ではないが)傍証として生き続け、そこから民族共有の記憶として『事件』や『人物』の姿が浮かび上がってもくる。

中世において、ある事件を語る語り部として、それを身過ぎ世過ぎの手段として暮らす芸能者がいた。
例えば安居院アグイの唱伝は平家物語を語り、湘南辺りに住む者たちは曾我物語を語り、陸奥には後三年の役を語る者が居た。

物語は伝播し、変容してゆく。
語る者がその地で没すれば、例えばそれが『大磯の虎』の墓となり、弁慶の墓所となり、安寿姫の果ての地ともなる。
死ぬ者だけではなく不死の者の伝承が生まれることもある。
義経を裏切って逃げ出した常陸坊海尊。彼は罪科を負うた不死の人として東北にその伝承を残している。
罪障消滅のため、世の人の悪業を代わってその身に受けて、死ぬ事無く永遠にさすらう。誰も彼の死地を知らない。

八百比丘尼もまた不死の人となった。
人魚の肉を食べ、不死となり、各地を彷徨うて白椿を植え植えして行った。

実在性が疑われる存在であればあるほど、物語・伝説は広がり、興味深く・味わい深いものとなる。
しかし彼らを描いた作品を『歴史画』とは言わない。


日本の歴史は記紀の記述を措いても、決して短いものではない。
世界四大文明ほどの長さはなくとも、千年以前に文化の爛熟期を迎えているのだ。

王仁博士により漢字が将来され、また律令が制定され、『正史』を記録する一方、稗史が人の口の端にのぼり、記憶に残り始める。

江戸時代、識字率が高まるにつれ、正史・稗史取り混ぜた物語を人々は好むようになった。
それらは絵としても描かれ、嗜好に合致し、政治体制が変わった明治時代になっても浮世絵などにその血脈は残された。いや、それどころか高尚趣味として活歴物と言う演目が生まれ、リアリズム史劇を目指すようになり、あまり面白くない芝居が演じられるようになったのだ。

明治時代は正史を『大切』にした。稗史を切り捨てて正史を選び、それを描くことを奨励もした。
明治初期の油絵師たちは南北朝時代の事跡を『正しく』描き、平安末期・鎌倉初期の事跡を『真面目』に描いた。

初期の洋画家たちは油絵師として活躍したが、次代の画家は留学し帰国後、『歴史画』から遠く離れた地に居を置いた。

日本画家は事情が違った。
大和絵の伝統は損なわれず、戦後の葛藤の時代を迎えるまで、ゆるやかな『成長』あるいは進化を見せていった。



山種美術館で歴史上の人物画の展覧会が行なわれていた。
そろそろ終了するだろうか。
上に述べたように、誰もリアルタイムに歴史上の人物を見てはいないので、その当時残された文献・稗史・似せ絵などを基にして、パブリックイメージを損なわず描いたり、有職故実に沿いながらも自在に描き、あるいは恣意にイメージしたものを絵にしていた。

描かれる人物は人気の高い『キャラ』たちである。
日本武尊・義経・信長・秀吉・家康。
彼らの名が副題に上げられている。
先の二人は民俗学で言う『貴種流離譚』の悲劇のキャラであり、後の三人はいまだにTVや小説で求められるキャラたちである。
これらの作品は見応えのあるものが多く、見る側にも十二分以上の満足を与えていた。

日本武尊は日本書紀の表記で、古事記では倭建である。
彼を絵にした作品は明治二十六年の橋本雅邦のものが出ていた。
三年ほど前、明治神宮宝物館で『ヤマトタケルを描いた近代美術』なる展覧会に出向いたことがある。
絵画から彫刻までさまざまなヤマトタケル像があり、大変面白かった。
この展覧会では一つに留まらず、様々な歴史的事件の名場面やキャラたちを展示している。
これまでそうした意味での『歴史画』展を、見てきた 順に列挙してみようかと思ったが、あまりに多いので諦めた。
(浮世絵一つにしても軽く十を越すのだ。今は無き目黒雅叙園などでもあったし。
近代のことで言えば聖徳記念館が明治大帝の事績などを絵画にしたものを展示しているし、同じように野間記念館もそんな絵巻を持っている。昔の日本人は歴史画が好きだったのだし、政策もまたそのように仕向けたのだろう)


ここには冷泉為恭が二点出ている。昨年末奈良の大和文華館で大回顧展があった。そのときのことを思い出すような、良い絵である。

靭彦や青邨は歴史画の大家でもあるから、多くの作品が並んでいる。
出てはいないが、わたしは東近美所蔵の靭彦『夢殿』が好きで仕方ない。
きれいなお顔の聖徳太子。
その彼の若き頃を描いた守屋多々志『若き聖徳太子』には深く眼を奪われる。
二十年前の作品である。きれいな少年。なんとも言えず、うつくしい肢体。
厩戸皇子である。―――こう書くとわかるヒトにはわかる話になるが、山岸涼子の傑作『日出処の天子』を想起させてくれるのだ。守屋の作品が世に出たとき、既に『日出処の天子』は完結していた。
守屋多々志。なんと『守屋』が厩戸皇子を描いたというのは面白くて仕方がない。
(注・蘇我氏と物部氏との戦いにおいて、物部氏の長「守屋」は蘇我氏に敗れている。厩戸皇子は無論、蘇我氏側である)

同じ守屋の作品『葛の葉』も出ていた。
これは歴史画と言うよりロマンチックな系統なのである。
「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」
芝居や説経節などでもよく知られた、狐が化身した葛の葉の哀しい物語である。
市女笠をかぶった肌も露わな女が手に稲穂を持って叢の中にいる。稲穂は稲荷の、つまり狐のメタファである。女は安倍保名の妻として子を産んだが、実は異類であった。
子を残し、夫を残して信太の森へ帰ってゆく。
何もこれは本当の狐である必要はないのだ。「来つ寝」=きつねでありさえすれば。

守屋多々志の作品にはラファエロ前派に通じるようなロマンティシズムがある。今回は出ていないが、イザナギ・イザナミの絵にも深いロマンがあった。

森田曠平にもその血は流れている。
『出雲阿国』が展示されているが、森田は物語を多く絵画化してきたひとだ。
古径の道成寺は静かであるが、森田のそれは、血が騒ぐような絵である。
人物の眼の鋭さと、背景の金箔・銀箔の使いようがその独自世界を支えている。
彼は死の直前、新聞連載小説の挿絵を描いていたが、病に倒れてからはお弟子にそれを委ねた。
小説は小池一夫による金時と鬼女の物語である。森田の筆は物語を綺羅に飾っていた。

現代画家ばかりでなく、近代画家の作品の良さにも言及しなくてはならない。
松岡映丘は復興大和絵の旗手であり、すばらしい歴史画を残している。
ここでは『山科の宿』が展示されている。松岡の絵を見ると、その背景、つまり物語や歴史的事実などを知りたくなる。そうした気持ちにさせてくれる絵を多く残した。
他の画家にはないようなことである。

菊池契月の上品さもまた、すばらしい。『八幡太郎』の肖像がある。なんとも柔らかである。
菊池の『敦盛』は特筆すべき美しい少年の肖像画であるが、総じて男性の絵は優美である。
武士を描いても雅さが目を打ち、梅花馥郁たる風情を漂わせる。
一方、彼の歴史ものの女性はいつも誰かの『おもいもの』であり、そうでなくとも静かな官能性を持つ。
先程の松岡の場合だと、描かれた背後を想わせる作品であるのに対し、菊池は前後を断ち切り、瞬間の肖像・一瞬の情景を描き出す。
どちらもすばらしく、どちらもうつくしい。

前述の青邨ら院展の三羽烏について多少書き進めたい。
古径、靭彦、青邨のうち一番わたしが男性的な絵だと感じるのは青邨である。
また健全とでも言うか、あやうさのない絵である。
古径の静謐な官能性、靭彦の仄かに香しい艶とは無縁なように見える。
だから大勢の裸婦がいる温泉図や、李王家の人々の観画図をみても、名画ではあるが、「ああ、ご婦人方がいるなあ」と思うだけなのである。男性の肖像でもそれは変わらない。そして花の絵や猫の絵でもとても健やかなのである。
だから、ここに展示されている松陰にせよ信長にせよ頽れたものはまったく見受けられない。
ただ、『大物浦』など一連の(芝居で言えば)「船弁慶」ものでは幽鬼たちの姿や荒波などにときめくものを感じる。名前に青を戴くほどだからか、青邨の青色の使い方は実に素晴らしい。
・・・そう書いた途端、青邨の「赤色」のすばらしさを言いたくなってきた。
これは東近美にあったか、貴人が丹塗りの棺に納められている。その丹塗りの美しさ。
棺と貴人の絵では、龍子の『夢』と双璧を成す名品なのだ。
太い線の中に塗られた鮮らかな色彩。曖昧な色のない設計。すばらしい。
尤も、山幸彦の話や現代版鳥獣戯画のような白描にはユーモアが漂い、それもとても楽しい。
早稲田の会津八一記念館にある天正のローマ少年使節の絵の色彩の豊かさ。本当に素晴らしい。

ローマ使節といえば、今回守屋の支倉常長が展示されていた。
市松模様の床、列柱、遠くに見えるサンタンジェロ、ローマの町並み、そしてポインターだかセッターだかの斑犬と、愛玩犬。
彼の視線は町を見下ろすのか、それとも遍く信仰に感じ入っての浮遊の眼なのか、遠き故郷を思うのか。

ここで不意にわたしは「紅孔雀」を思い出した。ラジオドラマや映画のそれではなく、わたしは人形劇の「紅孔雀」を見ていて、数年後、上映会などで映画を見たクチである。
あれも天正使節の男が修道士から紅孔雀の鍵をもらったことで始まる物語だった。


歴史画とは、さまざまな連想を見る側に生まれさせる作用があるようだ。
わたしは十二分に満足して、山種美術館を出た。
英国大使館の横を通り半蔵門へ向かう。
半蔵門。服部半蔵。いや、これは槍の半蔵の方かそれとも・・・

そんなことを思いながらわたしは次の場所へ向かうのだった。

大いなる遺産 美の伝統 古陶器篇+近代工芸 篇

大いなる遺産 美の伝統 古陶器篇+近代工芸 篇


わたしは陶器より磁器が好きである。特に11?13世紀の高麗青磁、最盛期の鍋島焼、油滴あるいは曜変天目に深い愛を覚える。

地元大阪には東洋陶磁美術館というありがたい美術館がある。
コレクションの根幹は安宅コレクションであり、数年前には李コレクションも加わり、いよよ充実のときを迎えている。
36の出品のうち7点が東洋陶磁美術館に納められている名品である。

松岡、サントリー、MOA、戸栗、東博、出光、静嘉堂など錚々たる美術館からの出品だが、これらがこの展覧会にあると言うことは、往時、この東京美術倶楽部の手を経ていたということである。当然のことながら、改めて考えるとその意味は深い。

古九谷の鳳凰文大皿を見ていると、中華料理を思い出した。野菜や肉で作り上げる鳳凰を象った料理である。それが盛られた大皿のように見えた。
これは軽侮の念からの言葉ではない。わたしは中華料理が大好きだ。気軽なものから、予約をしないとムリなメニューまで、何でも好きだ。その大好きな中華料理を思い出させてくれたのだ。この皿を嫌いになれるはずがない。


鍋島の橘図大皿は少し色が浅い。元からそうなのか褪色したのか。わたしは鍋島焼に深い愛着がある。特に桜や椿の柄にときめいている。
その意味では少し淋しく思う。が、橘といえばタジマモリを思い出す。常世の国からトキジクノカグノコノミを持ち帰ったが・・・飛鳥では、五月一日ごろをタジマモリの日として寺を訪れた者に橘の実をくだされたが、今もまだその習慣があるかどうか。
しかしこの橘は花である。
橘や 細い幹でも 十五代
橘屋・十五世市村羽左衛門が襲名したときの俳句。

古伊万里の五艘の船は、エキゾチックだ。鎖国政策のためにこんな遠くへ行く船は持てなくなった。絵柄はなんとなく川上澄生と武井武雄を思い出させてくれる。彼らがいにしえのエキゾチシズムを求めたのか、この図柄が時代を超えているのか。

おお、わたしの極限の好みがある。
『青磁筍形水注』と『青磁象嵌梅竹蒲柳水禽文梅瓶』。
12世紀の高麗青磁のよいものを見ると、後が続かなくなるのだ。困るくらい、好き。
なんとすばらしい色合いだろう。水注の細い頸に集まる釉薬の美しさ・・・!そして柳の下にいる鷺。ああ、もう本当にきれいだ。
これらを見た後は、申し訳ないが南宋の青磁が(砧青磁と呼ばれるような)どうしても石鹸箱に見えてしまうのだ。いや待て、そんな贅沢なもの、見たことないが。
ときめくのはわたしの勝手だが、南宋陶磁に失礼してはいかん。

というわけで、国宝の玳玻盞天目茶碗にお出ましを願おう。
これは現在相国寺の承天閣美術館に入ったが、以前は萬野美術館にあり、わたしなどはしばしば機嫌よく会いに行った。数年前『萬野美術』と称して篠山紀信がこれらの美術品を萬野の山荘で自然の中においてコラボレートさせた写真を撮影している。
あれはすばらしい展覧会で、萬野で見てからわざわざ東京でも見たくらいだった。
そのときもこの茶碗は優雅な顔で現れていた。
とにかくこうした奇蹟のような天目茶碗に惹かれている。それについてはいずれ稿をあげようと思う。

もう一つだけ、青磁で気に入った作品名をあげよう。
出光所蔵の『象嵌柳唐子文浄瓶』。小さい鷺がわんわんいて、唐子が空に浮かんでいるみたいに見える。可愛いなあ。やっぱり12世紀の高麗青磁は最高だ。
静嘉堂の葡萄文もいいが、これは柄よりも地の貫入の美しさを言いたい。

北宋の白磁または白地掻落が並んでいる。
この時代は水滸伝(あるいは金瓶梅)の時代でもある。つまりの文化の爛熟と一つの時代の終焉とが同時に味わえた時代でもある。

陰刻の花はまるで白粉彫りのように思われる。白い膚に刻まれる白い筋は、回復不能な傷であり、他方この上なくうつくしいものでもある。いつか浮かび上がるかも知れぬ気がする。
わたしにこうした妄想を齎す力が、白磁刻にはある。
頸に欠落があろうがそれは瑕瑾にすらならない。

掻落は以前は好まなかったが、最近は可愛くて仕方ない。特に鳥と魚。鳥と魚のモチーフは、実はアジア一帯に死と生のメタファとして意識の底に沈められている。
しかしそんなことはどうでもよく、可愛いと思う方が優先される。いいなあいいなあ。

吐魯瓶。可愛い形をしている。二つほど出ているが、安定した形で、そのくせ頸が不安だ。
これはトロビンと発音すべきなのか、瓶の代わりに番をつければトルファンになる。
梅瓶にしろ吐魯瓶にしろ、言葉の由来を知らぬまま、形を見て覚えている。
ちゃんと調査し、そこから納得しなければならない。

金の時代は漢民族以外の支配なのだが、この時代のことは駒田信二の小説を読んで知ったこと以外、何も知らない。
ただ、陶磁器がそれまでと変わり澱青釉などをかけたものが多く残っているのを思うと、時代の好みと言うものを考えさせられる。
新たな釉薬が開発されたという事情もあるのだろうが。
混ざり合う紫と水色の艶かしさは眼を愉しませてくれる。

黒釉銹斑文碗をみて、わたしはSTAR WARSのワープシーンを思い出した。
見るか、星々の砕ける様を というわけではなくに、ワープして星たちの光跡が尾を引くような。それがここに映されている。

おや、東洋陶磁にある童子童女の水滴が来ている。お里帰りか。
「おはよう、ここで会うて思ってなかったよ。帰りし、お姉さんと一緒に帰るか」
「おはよう、まだここにいるから。また来てね」
「また行くわ、今ジブンらの代わりに狛犬さんが展示されてるわ。気ぃつけてね」
「ありがとう、また中之島で」
小さく手を振ってわたしは去って行った。


最後に近代工芸について書き起こしたい。
少し前、豊蔵と唐九郎の展覧会があり、わたしは豊蔵が好みだと思った。豊蔵の静かさがわたしに合うと思った。
しかし今回の黄瀬戸はあまり好みではなく、むしろ唐九郎の志野茶碗『唐獅子』の方が心に適った。こういうことも、ある。

波山は出光で素晴らしい作品を色々みせてもらった。映画もあった。伝記も読んで感動した。
『延年文』これは桃である。そうだ、桃はとてもめでたいのだ。

実は弥弌が理屈抜きで最愛である。
近代から現代の陶工では弥弌と快示が心の底から好きなのだ。どれがどうとかこれだからこう、とか言葉も要らないくらいに。
だから展示されているだけで嬉しくなる。

陶芸から離れる。

松田権六の蒔絵箱が好きだ。雀が可愛い。頭をなでてやりたいくらいだ。私の生まれる前、雀たちはこの蒔絵の中でちゅんちゅんさえずっていたのか。いとしい奴ら。どういうわけか工芸品に現れる動物たちはみんなとても可愛い。好きだなあ。

インコというよりオウムな鳥が可愛いと思ったら、こちらにはウソがいた。・・・リアルなきつい顔だなあ。リアルなのは鳥よりサザエか。
以前も見ていたが、光太郎のサザエはリアルだと思う。
しかしこれらは実物と作品とを知るからこその発言かもしれない。

佐藤玄々『麝香猫』わたしはそんな猫を見たことがないし、実在するのかも知らない。何かの異称なのか、架空なのか、それすらしらない。いい香のするイキモノなのだろう。名前が麝香だ。それにしてもこの顔、手塚治虫のキャラみたいだ。なんとなくそのことが親しみやすくさせる。


大いなる遺産 美の伝統

この展覧会は快挙だと思う。
見応えのある、凄い展覧会だった。二時間をわたしは充実して過ごせた。
これはイベントと言うべきだろうか。
そう言うのなら、これは大イベントだった。
夏になるとホテルオークラが行うイベントも凄いが、これもそのように恒例化して欲しいものだと思った。
会場を出ると入館待ちの行列が出来ていた。

どうか、皆さんも楽しんでください。

ひとけの少ない日曜の新橋をわたしは歩いた。

フィギュアからオペラへと変容して

荒川静香さん綺麗でした。
トゥーランドットに乗り銀盤で煌めいてました。よかった。
開催時にイタリアの誇るパバロッティがトゥーランドットのアリア“誰も寝てはならぬ”を歌いあげていたが、今やその歌声は彼女への誉め歌のようにも思われる。

そんなことを思っていると、不意にカルーソーの歌声が耳に蘇り、脳裏にはある映画の情景が浮かんできた。
〈フィッツカラルド〉である。ヘルツォーク監督のキンスキー主演の一つ、凄い作品。

当初ヘルツォークは違う俳優をキャスティングしていたが、ヘルツォークの狂気についてゆけなかったか、リタイヤ。
助演していたミック・ジャガーが悪魔的な魅力を見せていたが、残念ながらこちらも降板になり、キンスキーの登板になった。
ここら辺の事情は'99年の<キンスキー、我が最愛の敵>に詳しい。
ミック・ジャガーはフィッツカラルドのパラノイア性とデモーニッシュな面とを請け負うはずだったが、キンスキーは一人でそれを体現してしまう。
甥っ子と叔父さんみたいな関係に思えた。
アンファン・テリブルよりずっとイカレてるキンスキーの狂気の魅力。

なにしろカルーソーに感激し興奮した挙句、教会の鐘楼に立て籠もり、画面いっぱいに立ち塞がり(文字通り立ち塞がるような、キンスキー独特の立ちスタイルなのだ)独り言で『宣言』する。
「この教会は閉鎖する」ガンガンガンッと鐘を打ち鳴らし、
「オペラハウスを建てるのだ」ガンガンガンッとやらかすのだ。
文字だけでは伝わらないその迫力。

当初の配役では、二人が鐘楼から嬉しそうに楽しそうに
「オペラハウスだぞー建てるぞー」
と叫ぶのだ。

ああ、その後は船が山を越えるのだ。

私はこの映画を偏愛している。


・・・どうもフィギュアスケートの話からオペラに移り、映画の話になった。
わたしはいつもそうだ。連想と妄想。
話の変容こそがわたしの道なのかもしれない。

そういえばわたしは資料ナシで色々書くことが多い。
ただしここしばらくの『大いなる遺産 美の伝統』や予定中の『バーク・コレクション』は出品目録を見ながら恣意に書き綴っている。
どちらにしろ連想と妄想は続くだろう。

大いなる遺産 美の伝統 屏風絵篇+国宝篇

大いなる遺産 美の伝統 屏風絵篇+国宝篇

いよいよ古美術である。ただし陶磁器は別項に書く。

池大雅の『離合山水図屏風』 文人画・南画というのがニガテである。しかし良いものは良い。
何面もの縦長の絵を屏風仕立てにしている。特にいいと思うものがあった。六曲二隻なので十二図ある。その内の『梅花書屋』は梅のつぼみを○や●でさらさらと描く。ほのぼのした空間だ。
『夏山浴雨』こんな雨なら濡れてもいい。『緑陰午睡』船上釣り人の居眠り。zzzというのが聞こえてきそうだ。気分が豊にのんびり広がる。『山陰放棹』屋根つきの船に蓑を着た船頭がいる。不意に果心居士の幻術の話を思い出した。
凄い絵がある。それを描いたのが果心居士で、彼は信長の元へ連れて行かれる。殺されかけたとき、その絵から水を座敷に溢れさせ、挙句自分も絵の中の船に乗って何処ともなく去って行く。彼は二度と世に出なかった。小泉八雲の『心』か『仏陀の国の落穂』かのどちらかにある話。
隣に立つご夫婦らしき人が語りあっている。
「池大雅はなかなか展覧会がないから、こう言うときでないとね」
「ホントにね。静かでのんびりしていいものね」
東京ではそうなのか。
わたしは先月京都で池大雅を見ていて、「絵より字の方が味があるなあ」などとほざいていたのだが。

鈴木其一『四季草花図屏風』 構図の巧さに感心した。右から、左から、中央から眺めてくださいと言われた。すると下地の金箔の加減で屏風の様相が変わって見える。面白いなあ。花も季節の流れる順に咲いているわけではない。好きな花もあるが知らない花が多い。
こういうときは自分の無知を反省する。白梅に始まり、藤、菖蒲、桜、牡丹、南天、白菊、薄、とりどり。左はピンクの椿、山吹、わらび?、黄芙蓉、青と白の紫陽花、朝顔、女郎花、烏瓜、蔦、黄菊・・・殿様の弟君にお仕えする『弟子』。師弟関係で主従。なんだか見てみたいと思う二人だ。

それから作者のわからぬ『波濤図屏風』 これを見るとボストン美術館所蔵の波濤図を思い出したり、クールベを思ったり、東映映画を思ったりする。基本的にあまり好みではないのだ。

『曾我物語図屏風』
異時同時図の面白さは、人物の行動を追うことでもある。
狩場の情景は酷いのでいやだ。熊も鹿も猿もウサギも猪も可哀想だ。
勢子はお揃いのユニフォームを着ている。三つの花弁のカタバミだろうか。
犬もわんわんいる。鷹も使うのか。富士山の裾野。何も語らず富士の山はそこにある。
右はただただ狩の場である。
左は違う。四条流の包丁術なのか、調理する姿も見える。こうしたとき、描く対象は前代であっても、ちょっとした風俗はその当時のものであることが多い。そこから当時の姿が見えもする。馬を休ませたり、蓬莱飾りが置かれていたり。
踊る男、鼓を打つ男。諸肌脱ぎでケンカする男たち。
人物描写にメリハリがある。表情がよく書き込まれている。動きも派手で面白い。しかし誰が曾我兄弟なのか。
松明を手にしているのが、とわたしはこうしたときの約束事を思い起こす。松明を手にして蓑を着ているのが兄弟だ。
しかし松明を手にした人物はあるが、彼らが十郎五郎かはわからない。
一人の人物に目が行く。深緑の地に千鳥の模様の着物を来た若い男。幔幕から若い子に呼ばれて出てくる。別なシーンでは女から館の外へ呼び出される。またあるときは誰かを止めようとあわてて飛んでゆく。
『彼』は一体誰なのか。
そして工藤はどこにいるのか。

不意に胸苦しく思いつめた。
曾我兄弟の物語は必ず正月の歌舞伎の演目に立てられる。これは決まりなのだ。歌舞伎の『世界』では曾我の『世界』があり、そこから二次創作が始まる。
江戸時代の人間にとって曾我兄弟の物語は常識だったのだ。
ところが今はどうか。曾我兄弟の物語をこれこれこうだと語れるか。
芝居や古美術が好きな人以外、殆どが知らないだろう。
神奈川県から静岡が舞台の物語だから像も建っている。しかしその地の人でも大磯の虎や化粧坂の少将や朝比奈などと言ってももう今では通じないだろう。
曾我兄弟を見るにはどうすればよいのか、何か読み物はあるのか。
大昔の講談社の絵本にはあっても、現代の絵本には無い。
小説でもそうだ。忠臣蔵はあっても曾我はない。
源氏物語を知る幼児がいても、曾我物語を知る大人は少ない。
・・・ちょっと泣けてきた。
いや、だからこそ、こうした場でこうした絵を見ることが有意義なのだ。
そう信じたい。

国宝に話を進める。

『源氏物語絵巻』の『夕霧』を見る。これを見るのは五年ぶりだ。五島美術館で日本中の源氏物語絵巻を集めた展覧会で見て以来。
この情景はとても面白いのだ。元の話を知らぬ人でも、何やら奥方に不穏な動きあり(亭主が浮気を・・・)と推理できるだろう。手前ではその一部始終をうかがう女たちが・・・ははは。

『紫式部日記』も出ていて、私が見たのは第三段。絵があると言うのは、実は凄いことだとしばしば思うのは、こんなときだ。つまり清少納言の『枕草子』は「春はあけぼの」くらいは誰でも言えるが、どんな話があるか知る人は少ないように思う。この紫式部日記だってそうだ。
内容もなにも知るものか。
しかし絵があると内容は知らずとも、なんとなく知ってる気になるものだ。それが凄いと思う。

書も色々とあるが、わたしは語りようがない。

『林檎花図』は畠山で見ているが、いつ見てもこの絵は愛らしい。本当に可愛い。
『鶉図』よりわたしの好みだ。
しかし見る私が勝手気侭なので、見られる側の国宝も気の毒だ。

『絵因果経』が出ていた。藝大所蔵分。これは湯木美術館で別な箇所を見ているが、こんなに長いものを見るのは初めてだ。前日に見たバークコレクションでは江戸時代の絵因果経が出ていたな。
林の中で説法している。托鉢したり弟子が増えてたり。


古美術が好きなので、ただただ嬉しい。

大いなる遺産 美の伝統 洋画篇

さて次は近代日本洋画に行こう。

わたしは古美術も近代美術も好きだ。ニガテなのは現代芸術だ。

浅井忠『グレーの秋』 この色彩を見ると、日本の秋とは違うのだと感じる。無論植物相が異なるから当然なのだが、空気の違いと言うのも感じる。そして感じるのは、浅井の留学は彼の心を豊穣にしたのだなということだ。わたしは彼が向こうでどうしていたのかは知らない。
しかし、見る者にそう感じさせること自体が、成果ではないか。

黒田清輝『赤き衣を着たる女』 彼がラファエル・コランの弟子だと思うのは、女の横顔を見たときだ。美しくたおやか。わたしは黒田の婦人像を『美人画』とみなしている。そして彼の美人画をみると、位の高さを感じるのだ。

藤島武二『官女と宝船』 これは今回の洋画ではわたしの好みだ。
特に口紅の色。この色はわたしが大好きなよく使う色と同じだ。
それだけで嬉しい。手にした宝船には七福神でも七つの宝でもなく、花が乗せられている。いいなあ。わたしも彼女と同じ表情を浮かべてみた。――出来たかどうかはわからない。

岡田三郎助『あやめの衣』 ポーラコレクションにあると言うが、これは割りと親しくみている。わたしは武二と三郎助の美人が好きで、世に残るもの全てを見尽くしたいと願っている。
三郎助はどちらかと言えば可愛らしい女性をよく描く。綺麗と言うより可愛いタイプ。奥さんの八千代さんはなかなか美人だった。
なかなか展覧会がないなあ。

児島善三郎『ミモザと百合とその他』 ミモザの黄色さと百合の愛らしさと「その他」の花々の豪華さ。これを見てわたしは昔の小説『春泥尼抄』の1シーンを思い出した。大阪のカネモチのぼんちたちがバーで遊んでいる。バーの壁には児島の絵が掛けられていて、彼らはその絵の品評をする。「この画家は近頃病気がちやというけど、この絵はエエやんか」「そやなあ」そこへバーのママが来て、自分の審美眼を褒められたようで喜ぶ。
他愛のないシーンだが、わたしはこの件が大好きなのだ。

中川一政『駒ケ岳』 雄大と言うより天衣無縫と言う方がぴったりだ。
'87の作と言うことは、晩年は晩年なのだが、なんだか楽しい。
お孫さんが出た『敦煌』もこの頃かなあとか色々思い出した。

古賀春江『白い貝殻』 この絵を見て、東郷青児のシュールな作品を思い出した。古賀は『サーカスの景』が最愛なのだが、こうしたシュールな作品も決して嫌いではないし、作品を前にして色々と物思うことがある。女の巻きつけた布の色がきれいだが、なんとなくシュールな作品には選ばれる絵の具に規定でもあるのかと思った。

村山槐多『バラと少女』 東近美でよく見ているが、わたしが槐多を最初に知ったのは絵画作品ではなく、小説からだった。『悪魔の舌』だったか、怖かったなあ。その後どういうわけか槐多の伝記や評伝をよく読むようになり、乱歩が彼のファンだと言って『二少年図』を巡る話などを書いているのを読み、ますます気になった。しかし画家としてはどうなのか、よくわからない。

前田寛治『赤い帽子の少女』 寛治の少女が好きだ。ふっくらして目が大きくて。ポーランドの娘たちも好きだ。彼や満谷の少女や女が好ましく思うのは、肌の色だろうか。

林 武『富士』 梅原、安井の後の洋画界のスターだったと、わたしのかかりつけ医のセンセイが言っていた。センセイは林の大ファンで、数年前大回顧展があったとき、わたしがよかったよかったと騒いでいると、ニヤリと笑っていた。林の描いた青い着物の女の顔、センセイによく似ていた。『富士』いいなあ。センセイもあの世で見ているかもしれない。

佐伯祐三『リュクサンブール公園』 下方に人々を集めているが、目線はどうしても上方にゆく。眺めていって初めて人間に気づく。群集。
こうした作品を見ると、佐伯がパリで客死したことを想うのだ。

岡鹿之助『林』 木々の集まりが『林』なのだ。林の上の方に岡の「らしさ」があるように思う。そしてこの絵は、それから数時間後、建築家グンナール・アスプルンドの展覧会ポスターと二重写しになって、わたしの意識に焼きついたのだった。

関根正二『三星』 これは東方の三博士に見立てられた少年たちだ。馬小屋で誕生したイエスを祝う為に訪れる東方の三博士。
アウグスト二世がいた頃のボヘミア地方では、クリスマスから新年にかけて流浪の少年たちが三博士に扮して物乞いをすることがあったそうだ。これは小説『クラバート』に詳しい。それについて書いたこともある。
子供の頃、関根の『信仰の悲しみ』が怖くて苦手だった。
しかし数年前、この絵を見て劇的な転換が訪れた。この絵がいつから東近美に収蔵され、公開され始めたのかは知らない。だがこの絵を見たときからわたしは関根の残した作品に強い愛情を感じるようになった。たった一枚の作品から他の全てに愛が行き渡り始める・・・・・・。
小出の肖像画と『枯れ木のある風景』を見て以来、小出の大ファンになったのと同じだ。どきどきする。本当に、好きだ。

熊谷守一『御岳』 色彩感覚『きっぱり』と言いたい。これだけきっぱりした色彩センスは熊谷とディック・ブルーナだけだ。山があり空があり雲がある。空は水色。雲は二つに分かれている。なんかカッコイイぞ。

青木繁『海』 もう晩年早すぎる晩年、そんな絵だと思う。わたしは彼の浪漫的絵画が好きだ。なんだか可哀想に感じる。作品化のよしあしとか言う以前に、これらを見ると可哀想になるのだ。

坂本繁二郎『月光』 うすぼんやりした月光と顔の定まらない馬。何故だろう、なにか幸せの予感がある。もしかするとこの厩でイエスが生まれたのかもしれない。ほのぼのした気分が生まれてくる。

萬鉄五郎『裸婦』 小林聡美だってリサに言っている。「ニガテだって言うからニガテなんじゃん」そうだ。ニガテだと思うからニガテなのだ、ろうか・・・。でも、この裸婦ならなんとなくまだ・・・。

しかし同じ裸婦でも小出楢重『裸女の1』は好きなのよ。おしりがどーんとあるけれど、自分のことを『骨人』と言うた小出は肉付きのエエ女の人の絵をたくましくイキイキ描くのだから。絨毯の柄がなんとなく心惹かれるし。

藤田嗣治『私の夢』 悪夢かも。いつもの猫だけじゃなく、犬、狼、ねずみ、ウサギ、色んな奴らがお洋服着て『私』を取り囲んで・・・。
なんだかポール・デルヴォーの衛生博覧会を思い出す。見られているのか見せているのか、見ているのか。

中村 彝『自画像』 昔の人、などと書くのもはばかられるが、昔の日本人の年齢は今よりずっとオトナだった気がする。この人の自画像を見ると、そう思うのだ。

小絲源太郎『大雪』 本当にそんな感じがする。三十何年か前というより、先月の今頃の東京もこんな感じの大雪だった。
場所も時間も越えて。

安井曽太郎『霞沢岳』 私は安井の風景や静物が好きだ。特に渓谷。だからこの絵の前に立つとなんとなく安心する。
文藝春秋の表紙か何かを思い出す。山の空気を感じる。そんな絵だ。

梅原龍三郎『富士山図』 斜めに立てかけられての展示なのは、絵の具の塗り方のせいだろうか。凄い。斜めになっているのが臨場感を感じさせてくれる。うーん、遊びに行きたくなってきた。ここへ。
なんだろう、こういう絵は本当に大きく感じる。
個人の所蔵と言うが、やはりこうして斜めにされているのだろうか。
それを思うとなんだか楽しい。

国吉康雄『待つ』 いつもせつない。去年だったか回顧展を見たが、そこでは案外せつなさを感じなかった。しかし多くの絵の中に一枚国吉があると、必ず『せつなさ』を感じるのだ。
女はスカーフを巻いている。いつも国吉の女にはせつなさと来ない男の影を感じる。男が来てもきっと女は笑わない。

岸田劉生『二人麗子図』 泉屋分館で見たとき、これはドッペルゲンガーの絵だなと思った。麗子が描きたかったのかその現象を描きたかったのか。不可思議な微笑。作品の内容は全く違うが、石川淳の『喜寿童女』というタイトルが浮かぶ。劉生も大人になってから好きになった画家だ。

須田国太郎『樹上の鷲』 須田のよさが満天下に広まることを祈りたい。京都から東京へ大回顧展は続いた。わたしは須田の猛禽類が大好きだ。こいつもまあ、可愛い。樹に爪を立ててしっかり立つ鷲。可愛いなんて言うと鷲が怒るかもしれないが、本当に可愛いのだ。
愛い奴だなあ。

長谷川利行『浅草停車場』 昨日不忍池の弁天さんを通り抜けようとして、長谷川の碑を見た。長谷川は一度向き合いたい画家なのだが、機会が来ない。この絵を見ていると、私もその場にいる気がする。
どうして停車場と言うのはそうした錯覚を起こさせるのだろう。今から出てゆくからか、人を待つからか。

靉 光『花園』と香月 泰男『人と梟』についてはわたしは語る権利がない。対さなかったからだ。

山口 薫『金環食(蝕)の若駒』 極度に鋭い馬。それが並ぶ。そしてその背後に金環食。胸を衝かれるような感動があった。新鮮な喜び。色彩もとてもきれいだ。若い馬は立ち止まっている。しかし走り出す力を内に秘めているだろう。
私は実際に金環食を見たことがない。しかし現実のものを見たとき、この絵を思うことは確かだ。これまで金環食という字を見れば石川達三を思い出していたが、今度からは山口薫だ。

松本 竣介『都会』 私の知る松本ではないような絵だ。都会の中のこれはOLだろうか、彼女の立つ位置、都会の素描は鋭い。
その時代を思わせてくれた。

牛島 憲之『樹』 牛島のポンヨリした空間。この人を見ると神泉とルソーを思う。なにがどうと言うのでなく、なんだか、という感じ。

鳥海青児『ピカドール』 いつもセーターを思う。リボンの混ざった毛糸のセーター。それが似合うとか似合わないとかは問題ではなく、上等のセーター。なんとなく、オトナの人のセーター。

三岸好太郎『雲の上を飛ぶ蝶』 好太郎の蝶や貝殻を描いた作品が大好きだ。水色の空に浮かぶ蝶たち。ピンク、水色、ペンキのような塗り方。家に飾っても似合わないが、どこでもない場所に飾ることが出来る絵だと思う。
小学五年生の夏休み、絵を描き額縁に彫刻する宿題が出来なかった。水色を背景に蝶がいっぱい飛んでいる絵が描きたかった。
好太郎を知らない頃、子供だったわたしはイメージだけ豊かで技術も技能も持たない子供だった。叔父たちが手伝ってくれたので宿題は提出できた。蝶の代わりに手毬が空を飛んでいた。
私は蝶がほしかった。
それから二十数年たって、好太郎の絵の前にいる。

小磯良平『合奏』 小磯には親しい。神戸が近いからというだけでなく、病院、図書館、学校、ホテルのロビー、緞帳、壁画。行く先々に小磯の上品な作品があった。
実際のものだけでなく、カレンダーなどでも親しい。
この作品もどこかで何かで見ている。だから小磯作品がこうした場でお客さんの目を喜ばせていると思えば、それだけで誇らしい気持ちになる。

海老原喜之助『男の顔』 コクトーの作品を思った。海老原は好きな画家だが、この絵はどうか。戯画ではないだろうし、技法の実験でもないだろうし・・・ちょっと困った。しかもインパクトは強いようなそうでもないような・・・。

作品自体へのオマージュではなく、個人的感慨ばかりの洋画篇になってしまったが、そうした状況になるような心もちで回った洋画たちだった。

大いなる遺産 美の伝統 日本画篇

東京美術倶楽部創立百周年記念展として、『大いなる遺産 美の伝統展』と銘打たれた展覧会に気合を入れて出かけた。
朝九時から開館なのへ私は五分遅れて到着したが、会場は既に満員御礼ではないか。TV放映の力か、宣伝がそこまで行き着いていたのか。
わたしもその熱心な群れに入っていった。

日本画のことから書いてゆく。
古径の『山鳥』が出迎えてくれる。雉が真っすぐに飛んでいる。
こうした絵を見ると、まず心が豊かに潤い始める。
そして雅邦の『龍虎図』これは別バージョンを静嘉堂あたりで見たようにも思う。切手にもなったあれだ。あちらはややリアリズム、こちらは筆にゆとりがあるように思う。なんとなく龍が隠れているようにも思う。
鉄斎は地元の清荒神に立派な美術館があるが、わたしはどうもまだ鉄斎のよさがわからない。以前日曜美術館でさる評論家が『女子供にはわからない境地だ』と言ったが、その通りわたしにはわからない。
扇面に白梅などは好きですがね。
栖鳳『水郷』これは・・・もしかすると見た気がする。いや、同じような画題の別物かもしれないが、どうも見覚えがあるような。
というのは、私の好みではないから却って記憶にあるのだ。
しかし今、わたしの前に現れた絵に、快さを感じた。これはわたしの心の変容なのか、それともこの作品のよさがわたしの心を洗ったのか。
芸術にはそんな力がある。

芋銭の『反照』はわたしには好ましい。林、向こうの方に少し平地、そこに日が反照している。肌色というかオレンジベージュと言うか。
ああ、今日ももう終わりだな。そんな気がして。

大観『或る日の太平洋』は同タイトルだけでいくつ作品があるだろうか。富士山と並んで多いと思う。
ここにも龍が浮かんでいる。大観の思想がこれらの作品にはまっすぐに現れている。好悪を超えた世界の話だ。

大観の同士・観山の『三保富士』。観山は能狂言の愛好者で弱法師を画題に選ぶことも多い。この三保富士の絵も、富士山として描かれたというより、天女の現れた場としての富士のように思われる。富士の形が台形で可愛い。

玉堂の『鵜飼』は以前にも見ているが、これは「面白うてやがて哀しき」というより、働くオジさんと働く鵜の健やかな情景に見える。
小さいのも大きいのもがんばって働いてるなーと言う感じだ。
以前、ある鵜匠が撮影されていて、それが終わってからボソリと
「鵜は鵜匠の弟だ」
そう呟いたそうだ。しかしTVはそれを捉えることが出来ず、記事にそのことが書かれていた。
鵜匠の実感が込められた言葉。その言葉をこの絵を見て思い出す。

そして春草『柿に猫』。
これは焼き芋屋の猫だ。永青文庫にある重文の『黒き猫』の親戚たる作品だ。
私はこの作品の存在をチラシで初めて知った。大変ショックだった。
え゛っっあるの!という感じ。
春草の画集にも掲載されていないと思う。あるかもしれないが、私の手元の画集にはない。
そうだ、猫は自在なイキモノだ。生物せいぶつというより、ナマモノかもしれない。こいつ、木で寝てたんちゃうんかい。面倒になって降りたらしい。まだ中猫。まるまるの子供より少し大きい。
顔もにゃあとしている。生意気な口元。・・・可愛いなあ。毛並みもいい。撫でたい。帰宅してうちの黒猫ツキちゃんを撫でたい。そんな気分に駆られる。

松園の『櫛』は昭和15年らしい作だと思う。
戦時下に入り、松園は華やかな女の人ではなく、若かりし頃の母の姿を描くようになった。このことが松園芸術に更なる境地を開くことになった。戦後女性初の文化勲章を受けたのも、この時代の作品が豊かに広がったことで、もう一段高い心持に到れたからだと思う。
個人的には大正ごろの作が好きだが、こうした静かな気高さは常に心にとどめたいと思う。

同じような時代の清方の『いでゆの春雨』
初めて一般公開されるらしい。欄干に緑の手ぬぐいをかけ、日本髪を崩さぬ為にか、細布で持ち上げている。
山桜か、そっと静かに咲いている。そしてそれを見る女の着物がまた素敵な桜だ。青い桜。意匠自体は様式的な描き様で、可愛らしい。
帯はちょっと更紗風にも見える。半襟の地にも桜が浮かんでいる。

桜。その桜を描いたのは渓仙『東山夜桜図』だ。
篝火が熾されている。枝垂桜ががったり広がる。見ていたご婦人方が
「これ円山公園のよね」「あらでも、こんなに大きいかしら」
うふふふふふ。

紫紅『竹取翁』。これ、もしかして三幅対なのか。翁が竹を切り、かぐや姫をみつけるシーンだが、左を見る翁と鉈だけがある。
うーん、なんだか見てみたい。たとえ描かれていなくとも。
竹の描き方がいかにも紫紅らしいと思った。
南の国の竹のように見える。多分、そうなのだろう。

関雪の『玄猿』。関雪の動物はどれもこれも賢そうだ。特に猿はみんな賢者のような面つきをしている。間違っても「エテ」ではない。

『木花之佐久夜毘売』靭彦は春の女神コノハナサクヤヒメにこの字を宛てた。わたしは印象の媛も好きだが、手に桜を持ちふんわり座る靭彦の絵もいいと思った。富士を背にしていることで、この女神が浅間神社のご本尊であることを思い出させてくれる。

夢二の『平戸懐古』は縦長に青色の目立つ絵だった。夢二はバテレンものや長崎シリーズが多いが、わたしはこの作品を知らなかった。女の着物はピンクで、コントラストが凄い。

青邨『洞窟の頼朝』これはいつものではなく、別バージョンの作。青邨はいつもハレ瞼の人を描くなあと改めて思った。

龍子『四季好果之図』はいつもの巨大な作品ではなく、適度な大きさで、フルーツ盛り合わせの壷になっている。ひときわ大きくおいしそうな柿(龍子は和歌山の人だ)、枇杷、ざくろ、青桃などなど。

同じく果物を書いたのは麦僊の『舐瓜図』。こちらはすぱっとした色合いで、歯磨き粉のコマーシャルもびっくりのさわやかさだ。モンシロチョウが舞っているのがご愛嬌だ。

波光は『不動尊』を描いている。この人独特の描きぶり。仏画を描くときの筆致が面白い。
どちらかといえばこの人はイタリアなどの名画模写や『彼岸』に惹かれるのだが。

華岳『秋谿之図』 滝や幽山渓谷の美は六甲山での風景なのだろうか。わたしは華岳は国画会に出品していた若い頃の作品が好きで、隠者になってからの作品はなにか遠い。しかし、六甲山は私の地元である。春から秋にかけて六甲おろしは吹き荒れる。虎党の一員として、六甲おろしを愛している。だからというわけでもないが、やはりこの絵はよいものだ。

竹喬『牡丹雪』花びらのような、美しい雪。胸を衝かれたような美をここにみた。少し離れる。なんという視界。林の中の牡丹雪が舞い舞いしている。この世界いっぱいにその雪が広がることを、私は願った。

土牛『八瀬の牛』ご本人が自ら『土の牛』を名乗られた由来を語るのを、生前TVでみた。牛のよだれ同様長く生きられ、長く活動された。
この黒牛はなにの牛なのか。様子から見ると、使役でも食用でも乳牛でもなさそう。八瀬は釜風呂のある京都の奥地だ。何かお祭りがあるのかもしれない。京都は366日必ずお祭りがある。
牛は神サマ系のお祭りにも出るし。それにしてもこいつの顔つき。なんだか、楽しい。

青樹『麗 日』 紅梅の下でぐったり寝込む茶斑の猫。これこれ起きんかいな。撫でたらグルグルグル言いそうなやつ。なんとなく、幸せ。
そしてそのなんとなく、を感じさせることこそが『麗日』なのだろう。

平八郎『筍』この人は子供の頃、全く興味が湧かなかった。
しかし大人になってからなんとも言えずよいものだと感じるようになり、今では好きな日本画家として挙げることが出来る。観念的な美だと思う。静かで、そしてそこはかとなくユーモアがある。そう感じるようになっていた。だからこの筍にわたしはそっと『おはよう』あいさつをした。

御舟『美男桂に瑠璃鳥』夭折するだけに、見ていて極限の美を感じさせる作品が多いなか、この絵はなんとなく円満な感じがした。
会場のプレートではかな表記だったが、サイトでは漢字表記だ。
イメージがなんとなく変わるようで面白い。
植物の赤と鳥の青。上方に黄色い葉っぱ。しかしそれは赤と青を引き立てるというより、なんとなく調和している。

遊亀『霽れゆく』一瞬、球子かと思った。それから以前に見ていた航空写真を思い出した。あれは珍しくも、富士山が二重の雲にまかれている風景だった。そんな感じ。この人は人物画より静物や風景がいいといつも思う。人物でよいなと感じたのは、谷崎の『少将滋幹の母』の挿絵だった。

神泉『蕪』この人も平八郎同様大人になり、ある日突然電撃的に好きになった画家だ。しかしそのタイミングが悪く、回顧展終了後に好きになったため、いまだにまとめて見ることが出来ない画家なのだ。
しかし京都に行けば必ずなにかには会えるので、それで今は満足するしかない。この蕪の可愛らしさ、空間に漂う静謐。神韻縹渺と言う言葉を感じるのは、この人だけだ。

深水『通り雨』既に見て来られた方のお話で、絶品だと聞いていたのでわくわくしながら見に来た。・・・なるほど、いいおんなだなあ。
実は個人的事情なのだが、深水の日本髪美人を見ると、わたしの母を思うのだ。母は若い頃、実際『深水の美人画のような』と人様に言われていたそうだ。今は六十を越え茶髪をロングカーリーにしてサングラスをかけたコワモテ系なのだが、素顔を見るとなるほど、深水美人のようだと思うのだ。娘の私は恒富系なのだが。

丘人『走り来る時雨』この絵を見たとき、フランス映画『シベールの日曜日』を思い出した。大学のとき、リバイバルで何度も見た。見るたびときめき、そして泣いてしまった。林の中を馬が行く。そのシーンがこの絵で蘇る。しかし、今この絵を見たことでその情景は今後二重写しになって、わたしの中に残るだろう。
優れた芸術は個人的追憶ですら凌駕する。そんな実感。

魁夷『青い谷』わたしが最初に魁夷の絵を見たのは、なんともう二十年前なのだ。'87年に唐招提寺展を見たとき、その襖絵を魁夷が描いたのを見たのが最初だ。そのときの新鮮な感動が胸に沸き起こる。
おお、わたしはここで深呼吸をしたい。山の霊気を、霧を、胸に収めたい。――そんな気になった。

寧『雍』イオニア柱の上でこれは…コウノトリ?サギ?トキではないだろうが、卵を温めているカップルの絵だ。寧は娘婿からその芸術を疑われていたそうだが、彼の死後、こうした雄大な作品を多く遺している。
見ているこちらもなんだか雄大な気分になる。←誇大妄想かもしれないが。

横山操『清雪富士』なんとおいしそうな・・・。正直、横山操はこれまでその鋭さに胸を削がれるれるようで、好まなかった画家なのだ。
しかしこの雪にまみれた、というよりアイスクリームそのもののような富士の美しさ・おいしさはなんとしたことか。
絵の具の塗り重ね具合が、いよいよアイスクリームを思わせる。
芸術とか美意識とか、そうしたものが吹き飛ぶほど、別な欲求がわたしを焦がす。ちょっと舐めてみたい。ちょっとだけ・・・ちょっと、ほんと。ちょっとだけ・・・ そんな欲望に苦しんだ。

日本画はこれらで終わり、版画が一枚だけ飾られていた。
志功『華狩頌』板画である。
これは以前から好きな作品で、狩人たちが弓矢を射るポーズを取りながらも、実は『不射の射』たるところに心を惹かれていた。
白黒だけだが、タイトル通り華やかなのである。
どんな色彩も乗らぬような華やかさがここにある。
本当に素敵だ。


日本画篇はここでおわる。
猫とアイスと湯上り美人。どきどきしたなあ。

広告の親玉・岩谷松平 

渋谷のたばこと塩の博物館が好きだ。
渋谷は好きではないが、これと松涛、戸栗美術館があるので出向く。
私はたばこは吸わない。
しかしここの博物館の所蔵品が好きなので、案内が来るたびいそいそと出向く。

母はマイルドライトだかなんだかを吸う。会社の後輩はパーラメント。
味の差なんか知るものか。
しかし、タバコの葉組みを作る職人さんには敬意を払いたい。
なんにせよ、技能の熟練した職工という存在は、稀有なものなのだ。

明治初頭、専売公社がたばこ産業を始める前の話。
薩摩から出てきた岩谷松平が天狗煙草を始めた。ライバルは京都の村井兄弟。
それはそれは熾烈な戦いだったようで、その熾烈さ・過激さ・奇天烈さの一端が、今回の展覧会でよーくわかった。

日本に資本主義を導入したのは、渋沢栄一とかそこらだろうが、民間に競わせるだけ競わせて、高いレベルに到達した時点で、いきなり召し上げる。国家の所有にしてしまう。
銀行にせよ郵船事業にせよ鉄道にせよ、この煙草にせよ。
なんともせこいと言うか詐欺というか、明治の日本国家はだまし討ちが得意だったのか。

大阪には長いこと、頭上に邪魔者がいなかったので、その習慣が残り、いまだにおかみになんぞしてもらおうとは思わない体質が身についている。つまり、おかみに取り上げられない為の工夫(細工)をする。
鉄道だとゲージを変えたりなど・・・それが現在の関西私鉄王国の由来でもある。

煙草の話に戻る。
この博物館に所蔵されている。浮世絵や風俗画を見てもわかるように、17世紀頃から日本人は『キセル』で煙草を吸い始めている。
花川戸の助六は吉原で花魁たちに次々と吸い付けキセルを渡されて、
「キセルの雨が降るようだ」
とのたまう。モテモテ君は煙草をいっぱいもらえたのだ。
その前時代の風俗屏風『松浦屏風』でも遊女たちは長い長い煙管(この場合、漢字で書くほうがらしさが滲む)を手にしたり吸ったり色々。遊楽図ではみんな長い煙管を玩びながら、うじゃじゃけていたのだ。

しかし明治になると煙管で煙草を吸うのも辛気臭くなってきたようで、マッチの普及もあったし、紙巻煙草が求められるようになった。
その時代に現れたのが、岩谷松平と村井吉兵衛なのだ。

岩谷は広告の大切さを知り抜いていた。
自らを『広告の親玉』と称し、大々的な宣伝に打って出た。
真っ赤っ赤っ赤っな服を着て、のぼりに宣伝文句を書き連ねて立てさせた。その凄さは会場に展示されている数々の遺品からもうかがえるが、とにかく凄い。凄いとしか言いようがない。

印刷技術が飛躍的に良くなったこともプラスして、とにかくもうメチャメチャハチャメチャ。しかも大真面目なのだ。
何が凄いと言っても、これが一番凄いことかもしれない。
どうみても爆裂ギャグな行動が、全て真面目さから来ているのが、この明治と言う時代の特性なのかもしれない。


やがて煙草は国家に吸い上げられた。
岩谷松平は渋谷の猿楽町に大勢の家族と共に住み、その地に天狗坂の名を残した。

村井の残したものは建物が多い。
円山公園の長楽館。ロココ調の夢のように素敵な近代建築。
京都駅近くの村井銀行はレストランになり、馬町の工場は見事な煉瓦積みを残している。

たばこ自体はどうなったか。
国家が召し上げて長い間なにしてたが、今では民間会社になり、パッケージの半分大の『あなたの健康を損なう恐れが』と延々と注意書きを書くようにされている。

死ぬまで吸わないが、間接喫煙になっているので、全くの無縁ではない。無煙、と書くべきか。

百年前も今も、けったいでおもろい人間は絶滅することはないだろう。

文京ちょっと昔の写真展

文京区の昭和30-50年代の写真展を見に「文京ふるさと歴史館」に行った。
弥生美術館から東大の構内を抜けて、赤門、正門、龍岡門のうちなんとなく龍岡門から出ると、素敵な近代建築がある。教会を横目に見ながらてくてく。
本郷も かねやすまでは 江戸のうち
川柳にも読まれたかねやすには、今日はゆかない。
真砂坂下だか上だかのところ、少し入ると歴史館がある。
ここから更に奥へ入ると菊富士ホテルや、伊勢屋質店や本郷館などがある。
足に任せて歩くのも楽しい地区だ。

歴史館には民間から募った写真のほか、定点観測地の撮影写真による今昔比べなどがあり、見ていて楽しかった。
無論私は大阪の人間だから、ここの住民ではなく、これらの写真を『近代建築・考現学・』的見地から見に来たのだが、そんな理屈などどうでもよく、楽しく見て回ることが出来た。

何がどうとか、これがこうとか、そんなことを挙げても仕方がない。
三丁目の夕日の後の時代なのだ。
ちびまる子の時代。それだ。私は昭和五十年代に子供時代を過した。
だから昭和五十年代の風俗が懐かしい。
いいなあ。
文京区には色々な名勝が残る。名所も多い。楽しいなあ。

しかし写真を見るうち多少気持ちが変わってきた。
今の風景と、過去の風景の差異に気づいたからだろうか。
そんなことは当たり前だ。都市風景は変化する。
人間の顔も違っている。
…これか。

大きな断絶がある。昭和から平成の間に。
埋めることは決して出来ない。
しかしわたしたちは今から数十年後に、いま現在の写真を見て
「ああ、懐かしい、楽そうな写真。いい時代だったのだなあ」
と言えるだろうか。

そんなことを考えながら春日へ向かって歩いていった。

『死者の書』を見て

映画『死者の書』を見に行った。
多分、二度と挑戦する作家はでないのではないか。
折口信夫の小説を、小説の態を取った言葉と情念、いや〈執心〉とを、川本喜八郎はよくぞあそこまで映像化出来たものだと、ただただ感服した。映像作家・川本へのオマージュはいくら言葉を費そうと、完璧には綴れない。
とりあえず私が伝えることが可能な事柄だけでも書いてみたい。

まず、人形アニメーションの製作の根気強さなどから。
既にサイトなどでインタビューに答え、1テイク撮るのに何分、何時間かかると我々は聞かされている。これは全ての人形アニメーションの宿命ではある。
遠い話だが、サンリオがくるみ割り人形を撮影したメイキングを当時私は見ていて、アッケにとられたものだ。1秒のシーンのために費やすのが5時間だった。サンリオのいちご新聞に書かれた苦労話にも驚かされていた。
世の中には凄い仕事があるんだなあ、と子供の私はただただ感心し畏怖さえ覚えたものだった。それから長い時が経ち再びそれを目の辺りにするとは。

奈良時代だから服にはヒレがつきものだ。歩くと薄物だからなびく。その様を映像はとらえる。
あってもなくてもよいようなものだが、そこに職人のこだわりがある。

そして、画面転換は切れ切れになっているが、これは原典に忠実なためだ、というべきかもしれない。テイクを繋ぐために川本は映像作家として創作したかったろう。それは決して余計なものではないのだ。が、川本はそうはしなかった。それを排したことは川本自身の折口へのオマージュのあらわれではないか。だからこその断絶だと私は考えるのだ。しかしこの画面の断絶=繋ぎ方の手法はルーカス的でもあると言える。六年にわたってSTAR WARS三部作を自らの演出で作り上げたルーカスは、その演出法を〈映画界の狩野派〉と揶揄されていた。しかしそれがどうしたと私は言いたい。技法が古かろうとなんだろうとSWの輝きに傷はつかない。
それと同じだ。

郎女の魂呼ばいをする九人の白装束のものたち。
その背景の蒼さは、映像の深度を増す。
折口信夫の呪術的感性。それが顕著に現れているのがここと冒頭の滋賀津彦=大津皇子の魂の復活シーンである。
それを川本は静かに表現する。

ところどころにアニメーションが入る。これはロシアのユーリ・ノルシュテインによるものらしい。彼の『話の話』『霧の中のハリネズミ』を知る人には納得のゆく映像である。

語りは岸田今日子である。
この女優を措いて他にこの役は出来まいと信ずる。
彼女の語りは原文の朗読ではなく、原作どころか、折口信夫の魂まで呼び起こす力を秘めている。ある意味で一番恐ろしい。

ここでわたしは違う話を書く。
数年前、『死者の書』雑誌発表時の、つまり初稿を国書刊行会が出版した。
その書評を丸谷才一が書いている。
それによると、現行のものとは違い、南家の郎女自らが滋賀津彦を蘇らせようとする筋だったそうだ。
しかし折口は書き改めて、滋賀津彦が主人公のように見える体裁にした。
それがこの書を一層晦渋難解な作にしたと言う。

わたしは岸田今日子の声を聞いたとき、初稿のことを思った。
即ち、岸田今日子こそが南家の郎女であり、死から蘇らされる滋賀津彦こそ折口信夫なのである。わたしは深くそのことを想った。


以前から一つの映像が私の脳裏に潜んでいる。
執心ゆえに数十年後に蘇った死者・滋賀津彦が耳面刀自の血繋がりの郎女をおとなう。
郎女はほとほとと叩く音に戸を開く。そこに立つものは骨とも死体とも言い難い『何か』なのである。郎女の魂はそれに刻印を打たれる。

―――無論これはあくまでも、わたしの中のイメージに過ぎない。
原作では郎女は死者の足音 つた、つた、つた という音を聞いて目覚め、幻を見るのである。
郎女の目に映るものは死者ではなく、既に円満具足なほとけの相好を見せている。
金髪に見える髪は、日の光を吸うたためであろう。(日想観と深い関係がここにはある)

川本はそのシーンを言葉に出来ぬほど美しく、そして静かに作り上げている。
郎女に会いに来ながらも、その視線を拒むように・恐れるように大津皇子は顔を背け、逃げてゆく。しかし郎女の眼にはその姿はほとけと二重写しになっている。
これは、映像作家・人形作家川本喜八郎の力業である。
この情景の凄さは、見ないと到底理解できないし、伝わらぬだろう。
わたしが絶賛したいのはこのシーンなのである。



わたしは偏愛の傾向が強いので、上記のシーンにばかり拘るが、細部にもすばらしい演出が施されている。
例えば郎女の着物の移り変わりなどである。これはお人形の着せ替えだと思えば、とても楽しい。何しろ郎女は写経するとき、まるで昔の市役所の役人のように腕にカバーをかけるのである。こうした濃密な細部は微笑ましいし、嬉しくなる。

また、乳母が梓弓をとり、皆で「あっし、あっし、あっし」と足踏み、つまり反閇した。
これは『陰陽師』のコミックの方に詳しいが、大変な行為なのである。
しかしながら映像として見てみると、なんだかおもしろいのだ。

姫のことばかりを書いたが、大伴家持や仲麻呂つまり恵美押勝についても書きたいことがある。
家持は築土垣ツキヒヂガキの建築様式を羨ましく眺める。
映像で見て、初めて私にもこれがどのようなものか得心がいった。奈良にはまだそれに近いものがあるのだ。しかしあれはこの時代に流行りだした建築様式だったのか。

また、躑躅の時期を待ち望む声を聞き、これは大変にドメスチックだなあと感心した。
葛城山。この山は実は躑躅の一大名所なのである。
それを思うと、なんだか面白かった。

映画は70分で終了する。
開始する前に、この時代状況や二上山の説明を兼ねた良心的な作りの映像が流れる。
それを見るのも楽しかった。

この『死者の書』上映を記念して、渋谷の方で川本喜八郎作品上映大会が行われるそうだ。
いくつかのプログラムに分かれての上映会。
その中には見たい作品がいくつもある。

わたしは『いばら姫またはねむり姫』を愛している。
当時大阪には来ず、時を経て宝塚の手塚治虫記念館で偶然見ることが出来たのだった。
そのとき一度だけ。
私も執心が深い。
執心。一度見ただけの耳面刀自の面影を求め、その血を引く者を求めて、大津皇子は墓の中で五十年の歳月の後に蘇るのだ。
・・・不条理な追憶が胸を噛む。
だからこそ、見る機会のある人はこの映画を味わうべきだと、わたしは言葉にしたい。

グンナール・アスプルンド展

グンナール・アスプルンド展を見に行こうとする。

朝一番に東京美術倶楽部で日本美術を堪能した後、新橋6丁目のその場所から汐留を目指した。
日曜日なので走る車も行き交う人の姿も殆どない。

一瞬、自分のいる場所がわからなくなる。
個性のない建物の並んだ街の中、わたしはどこにいるのか。

標識や持っている地図や自分のケータイのGPSをたよれば、足の踏みしめる地がどこかはすぐにわかる。
しかしそれはあくまでも二次元レベルの理解なのだ。
私がどこにいて、どこへ向かうのか、実感として伝わっては来ない。

建造物はランドマークとしての役割も果たす。
この場合私は方位把握が出来ないので、右後方にアーバンホテルの影をみつけ、左前方に電通ビルを見る。ずっと背後には巨大なネジのような森ビルが見える。あれは虎ノ門だろう。
歩く・歩く・歩く。

汐留の一帯はこれで完成と言う状況には入っていない。
巨大建造物群の中の小さなわたし。
建築家は一個の建物を作るだけではなく、その建物を内含する場を作るべき存在であるべきだ。
私の信ずる思想は、しかし現実には実現されず、こうして私を道に迷わせる。

行きつ戻りつを多少続けた後、ようやく復元された新橋停車場をみつける。その隣の松下のミュージアムへ行かねばならない。
ガラス仕立てのビルは強固に聳え立っている。

わたしがまだ建築やインテリアに深い関心を持たなかった頃、世間では北欧のインテリアが流行していたそうだ。
わたしは自分のシュミ以外にはあまりものをみないから、そんなことも知らなかった。

絵画や彫刻なら海外の作家に眼を向けもしたが、いまだに建築に限れば、国内を追うだけで手一杯と言う至らなさなのである。
グンナール・アスプルンド。
チラシを手にし、penkou師から勧められていたにも関らず、私は彼を知ろうとはしなかった。
展覧会で見ればよいだろう、くらいの軽い気持ちでいたのだ。

アスプルンドを示唆する写真たちが入り口の壁に何枚も飾られている。彼の設計した家、その遠景、状況。スカンジナビアの短い夏、ザリガニ料理、アーキペラゴ(群島海=多島海)。
そういえば、この展覧会のポスターは雪の森の中に広がる『森の中の墓地』だった。そしてその写真は先ほど美術倶楽部で見た岡 鹿之助の絵にそっくりなのだった。

アスプルンドについてはこちらに詳しい。
http://www.aalab.com/asplund/index.html

私は普段会場に設置されたパネルは読まないが、アスプルンドを全く知らないので割と真面目に読んだ。

彼の出世(文字通り、世に出たのだ)作はコンペで選ばれた森の中の墓地である。
墓地。スエーデンも近代国家になり、人口増加とその後に悩み始めた時代に入りかかっていた。
土葬から火葬へ。
そのための国家プロジェクト。

まだ人生の鳥羽口に立ったばかりの青年の最初の仕事が墓地設計とは、いささか皮肉が強すぎると思ったが、アスプルンドはみごとにそれを作り上げる。先輩や友人の助言を受け入れながら。
その墓地風景写真、模型、ハウスに実際に使われる扉などがそこに展示されている。
見事なアラベスクを見せる扉。髑髏と蛇をモチーフにしてもいる。
不意にわたしは映画『ドグラマグラ』の1シーンを思い出す。
精神病院の解放病棟の壁に浮かんだ影。
私だけの小さな娯しみ。
蛇は双頭である。それが髑髏を囲む。遠くから見れば髑髏とも蛇とも見えないだろう。
『今日は私 明日はあなた』
墓地の入り口に掲げられた言葉。
その反語もまた生まれている。建てられなかった建物に掲げられるべき言葉。
『今日はあなた 明日は私』
こちらは未完成のままだ。―――未完成なままだ。

死生観の違いというものがある。
それは洋の東西というだけではない。
同じヨーロッパ・キリスト教圏の人間であろうとも、北欧には北欧の感性がある。
墓地などはその点、各国・各地・各民族の違いを見ることが出来て興味深い。
火葬場は日本の場合、大方は忌避すべきもののように見える。
アスプルンドはその火葬場に美しい模様を施す。モザイクの宇宙。
キリスト教が布教される以前の北欧神話を想起させるような、豊かな世界。

東京へ来る機内ではシベリウスらの楽曲が響いていた。
フィンランディア、カレワラ、レミンカイネン。
風邪と結膜炎とで苦しいわたしは難聴気味になり、耳の中の海は乱され、鳥の羽ばたきが始まっていた。その中で聴く北欧の透き通る音楽。それがこのアスプルンド展で再現されている。
現実の音楽なのか、羽ばたきの続くわたしの耳の、あるいは脳の幻聴なのかはわからない。

しかしそうした状況に入り込むほど、アスプルンドの建築した建物は静謐さに満ちていた。
チラシでは『癒しの空間』とある。わたしはそれをあまり信じなかった。
癒されると言うことは、その外に出れば再び傷つくことでもある。
そのくせここにとどまることも許されない。
が、それでもわたしはここにいる。
ここにいて、アスプルンドの残した建造物の写真を、映像を、模型を愉しんでいる。総体を、ディテールをあじわいながら。

図書館がある。
外観より中の設計に惹かれた。こんな図書館にいつまでもいたい。
強い欲求が湧いてきた。
本と本が円を描いている。棚は横並びに円を作る。右から回れば左につくのは夕方だろうか。左から回れば右につくのは明け方かもしれない。それでもいいと思った。
すばらしい空間。ボルヘスの図書館、司馬遼太郎の本棚、アスプルンドの図書館。

カール・ヨハン学校。青少年の活動にふさわしい場所。
裁判所の増築も先人への敬意を忘れずに行なわれる。
そこの飾り窓は青海波ではないか。

やがて今度はアスプルンドが日本文化に敬愛を寄せていたことが提示され始める。

それらの資料をみているとアスプルンドの『静けさ』がこちらにも伝わってくる。彼の『夏の家』の暖炉、椅子、テーブル。家具もまた彼の美意識と思想を体現する。

彼は生涯に亙って墓地を作り続けた。
森の中に埋没するような構造の墓地を。

ここには彼の墓碑銘が残されていた。
それをみたとき、何故この展覧会でこのような静謐な心持になれたのかわかったように思う。

その言葉は、会場の中でみつけだしてほしい。

前川國男展

前川國男展をみた。
開催前夜の会場での写真をpenkou師のブログで見て以来、心が逸るばかりだった。

わたしの本来の嗜好は、明治大正昭和戦前までの近代建築にあるが、この世界に分け入れば分け入るほど、モダニズムとの対峙を迫られるようになり、必然的に、現代へ至る道を作り出してくれた巨匠たちの作品にも眼を向けるようになった。
先ほど逝去した丹下健三、清家清、現役として活躍する安藤忠雄、黒川紀章、没後久しいが現代都市を生み出した建築家たち――前川國男、堀口捨己、村野藤吾たち。
(安井、渡邊は私にとって愛する『近代建築家』なのである)

保存と使用と再生と、色々難問が山積みされている。それらの問題はクリアーされることはない。

今回、前川國男展の会場に立ち、前夜祭の写真で見たと同じ、あるいはそれ以上の熱気を感じた。
お客は老若男女入り乱れている。
模型と設計図と写真で構成された会場のそこここで、こんな声を耳にする。
「あっ、ここ知ってる知ってる、行ったよね」
ナマナマしい実感のこもった言葉。
「あっ、この建物この人が作ったのか」
新しい発見と、様々な追想と。
現代に生きる建築を残した作家への無意識で純粋なオマージュ。

わたしもその一人に過ぎない。

前川展の前日、東京都美術館でバーク・コレクションを愉しんだ。
その展示会場の『空間』『使い心地の良さ』『見て歩く実感』それらを生み出したのが、前川國男である事実。
わたしの愛する近世風俗画の屏風絵が並ぶ空間は、連続性のある『離れ』のような空間である。
以前ここで『アールヌーヴォー展』が開催されたとき、この空間にはパリのメトロ入り口が再現されていた。
何年経っても記憶に残る情景。それを演出したのは作品と、この場の構造なのである。
ここをそのように使用しようと言う意図が最初から前川にあったのかどうかはわからない。この空間は他に較べて多少狭く、展示する数も限られる。しかしそのことが却って学芸員の意欲を高める役割を果たしているのかもしれない。
見る側であるわたしなどは、この空間を見おろす位置にまで階段を上がった後、必ず『眺める』のである。
作品が置かれた空間を愉しむ為に。

今わたしは『見おろす』と書いたが、前川の美術館にはそうした特徴があるように思われる。
例えばこの都美は、場所柄、半分以上を地下に空間設定しなければならなかった。しかしそれが別な楽しみを生み出す作用を齎した。
面倒くさいし、バリアフリーの面から考えれば問題はあるが、一旦中に入るとそれは忘れられてしまう。
地下の会場が広々と眼下いっぱいに見える。そこでは二次元作品より、彫刻や盆栽などの三次元的造形美を具えた芸術作品がふさわしい。見おろすことで、全体を把握し、今度は細部を濃密に見たくなってくる。巧妙な手法だと思うのだ。
予告編の次は本編へ、と期待が高まるように。

美術館では他に熊本県立美術館がある。
二年前、私は熊本城の一隅にあるその美術館を訪れた。
広い広い熊本城の初夏、緑の芝、清正の誉れの城砦、そこからの眺めを愉しんでから、シンプルな外観の美術館へ入る。
入る前にツゲか何かの植え込みがあり、そこに大阪では見ないような鮮やかなアゲハが縺れるように飛んでいた。
それに誘われるうちに玄関へ向かった。
仰々しさのない、もう少し装飾が欲しくなるような建物。
しかし、中に落ち着くとその考えはどこかへ消える。
ここも空間の分割が見事だった。
作品を見て回るのに適度な距離感がある。そして迷うことのない構造。作品を見せる為に作られた空間だと言うことを実感する。

京都会館。
これは美術館や平安神宮のある岡崎公園一帯に広がる建物である。ただ、これに関してはわたしはある種の不満を感じている。
それを説明することは難しい。
ただ、ここには『入りづらさ』を感じてしまうのだ。広々と奥までのぞけるにも関らず。もしかすると、それが答えかもしれない。

戦時中の前川の仕事で眼を見張るものは自邸である。
現在小金井市のたてもの園にある。すばらしい空間だった。住んでみたくなる家。二人の師匠から学んだことと自分の考えとが結実した『民家』。個人的感慨として、わたしは前川作品では自邸が一番好ましい。


私は自分の経験した前川作品の空間にばかりこだわりすぎているようだ。視線を変える。


東京ステーションギャラリーの窓からのぞく場所に、前川の高層ビルが見える。本来はもっと高層だったはずが、さまざまな経緯のためにあの高さにとどめられたと言う。
工事中の丸ビルの後ろ。赤いようなビル。
しかし親しみを感じる建物ではある。
これは、前川にとっては不本意な感想かも知れず、彼の信奉者にしてもバカなことをと思われるかもしれない。
それでも目の当たりにしたあのビルは優しく見えるのだ。

前川の設計コンペへの積極的な姿勢は、これから建築家への道を進む人全てに感銘を与えるものではないだろうか。
落選しようがしまいが、未構築になろうが、試行と思考を重ねることは重要だ。わたしのようにただただ建築を見るのが好きだ、と言うような人間にさえ、ある種の感銘を与えるのだから。

設置されている模型の制作に携わったのは学生さんたちのようである。細かく出来ていて、それを見るだけでも楽しい。
コンサートホールの模型には、舞台に小さな人形が立つ。これは楽団の指揮者ではなく前川なのだろう。
なんとなく、愛らしい。

コルビュジェ、レーモンドの弟子として育ち、戦後の前川作品はそこから離れ、自身のスタイルを貫く。静かな空間。それが前川の魅力ではないだろうか。

最後に写真について一言。
木村産業だったか、入り口からの階段写真はとてもよかった。
一枚の写真からその空間へ踏み込んでゆける気がした。
(もしかすると、現実空間よりこの写真が優れている可能性もあるのでは、と思うほどによいショットだった)
前川の作品を撮影したものは、どれもこれもひどく魅力に満ちていた。エハガキを買う楽しみに私は溺れた。

この展覧会の後は東京ステーションギャラリーは何年も閉館され、場所を変えて新装オープンするようだが、寂しく思う。
しかしここでの最後の展覧会が前川國男でよかったと思った。

岩田専太郎の挿絵

弥生美術館で岩田専太郎展を見る。
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/

私は‘91年からここの会員だが、これまで何故か一度も彼の展が行われなかったなと、今更ながらに気づいた。会員になる前から戦前までの挿絵などが好きで、集めれるものは集め、無理なものは図書館に頼んでやっぱり無理から集めてもらい、撮影やコピー等をしては自分のコレクションにしていった。偏愛体質が更に追いうちをかけ、我ながら感心するほどになった。
そんなだから、当然専太郎にも愛が深い。

先日ここで『竜馬がゆく』のことを書いたが、同じ司馬遼太郎作品『世に棲む日々』『峠』も専太郎が挿絵を描いたようで、なんでもござれの絵師だったのだ。
とにかくその生涯に六万枚描いたそうだ。
これはギネスものではないのか。
記憶はともかく記録に自信がないのでよくわからないが、比類する挿絵画家は果たしているのだろうか。

私が集めた本の中に『鳴門秘帖』上下巻がある。
上梓される以前、つまり新聞連載時から大人気で、キネマにもなっている。
私の祖父母の時代の話である。そのポスターなどはコレクター御園京平氏のおかげで何度か見ることも出来た。
小説の筋立ての面白さは無論のこと、挿絵が素晴らしい。
当時の読者が熱狂した理由もよくわかる。
毎日新聞史の中にも必ず『鳴門秘帖』の記事がある。(ライバル朝日新聞では『照る日曇る日』が人気を博していたそうだ)
わたしが入手したのは中央公論社版・昭和37年版。
神戸の古書店でみつけたが、これには全ての挿絵があるのだ。
嬉しかったなあ!
吉川英治はそれまでやっぱり挿絵に惹かれて『神州天馬侠』を読み、あまりの面白さにハマッていたが、それ以来のわくわくがあった。(『新・平家物語』や『水滸傳』は読んでいたが、あれらはやはり今風に言えば二次創作で、完全なオリジナルではこのニ作が最高傑作だろう)

文と絵のコラボレート!これです、これ。
(当時の吉川と専太郎の2ショット写真がある。背景には黒田清輝の裸婦がある。この絵もいい)

既に鳴門の挿絵は画集等で手にいれていたから、概要は分かる。しかし絵を見ながら文を読むとわくわくは更に高まる。面白くて仕方なかった。大正という時代がそこにまた加味される。
何もかもが専太郎の仕事にプラスになるばかりだ。専太郎の絵はいよいよ大衆に望まれるようになる。すばらしい!
和製ビアズリーと謳われたのもむべなるかな。
実際、妖艶の極みだと思った。
三上於兎吉とのコンビにおいても艶かしい作品が生まれている。
三上於兎吉と言っても知らない人の方が多いかもしれない。『雪之丞変化』が代表作だが、他にも大正から戦前の大衆文芸の人気作家だったのだ。奥さんは美人で有名な、えーと・・・資料なしで書くからこんなところで詰まる。またいずれ。
『日輪』『女妖正体』の挿絵が出ている。いずれも妖艶だ。
伊東深水にも師事していたというから、清方の系譜に連なるのだが、それは口絵などに見出せる。『湯の宿』は深水風美人、『洗い髪』は清方的美人なのだ。
頽れたような妖艶さがたまらなく、いい。
とにかく描かない雑誌・新聞はない。表紙絵もすばらしい。
婦人グラフ(これは夢二の木版画の見事なものが18冊ある。わたしは夢二の仕事の中では、婦人グラフとセノオ楽譜が最愛だ。今回の併設夢二美術館ではそれらが全て展示されている)
少女向けの『令女界』、サンデー毎日、婦人公論、週刊朝日などなど。
しかし妖艶さは横溝正史の『真珠郎』あたりで一旦潜んでしまう。

勉強家の専太郎はありとあらゆる技法で挿絵を描き続けたのだ。
だから、同じ横溝作品でも『夜光虫』になると、全く変わってくる。
この挿絵は、後年の三島由紀夫の『音楽』にも通じるものがあると思う。

しかし昭和五年の白井喬二の『人肉の森』挿絵は時代の流れもあり、妖艶さを失ってはいない。
これは江戸時代版の『白髪鬼』である。白井といえば『富士に立つ影』『新撰組』くらいしか知らないが、この元ネタはどうも外国の小説らしい。乱歩も白井もそれぞれ好むところで二次創作したのだろう。いいねえ。
その『人肉の森』挿絵は白と黒の妖美な世界だった。

わたしは挿絵画家で好きなのは伊藤彦造、専太郎、小村雪岱ら白と黒の魔術師たちである。
色彩が入れば、加藤まさを、須藤しげる、笛谷虹児ら叙情画家にときめくのだ。

しかし実に色々な小説家と組んでいる。
土師清二、親友の川口松太郎、牧逸馬、大佛次郎。
え゛っ『赤穂浪士』もか!・・・展示されていないのがつらい。わたしの手元にもない。
見たいなあ・・・!堀田隼人の虚無や蜘蛛の陣十郎とか・・・ああ、もぉぉぉ。
うちの親がよくやる『おにょおにょぐぁた』の元ネタだな。
→一体、遊行はホントはいくつなのだ。不惑にはいってないのに・・・。あっ迷惑はしてるか。

しかし日本はとうとう面白くない時代に突入した。
戦時中の気の毒さはたまらない。

戦後すぐはなんだかカストリ雑誌みたいなのにも描いていたみたいで、これがまあ、案外よいのですな。あぶな絵に近いような口絵が多い。
女団七、油地獄、延命院日当などなど。

それから本格的な始動が始まる。
戦前すでにモダニズムな技法も身についていたし、実験的な描き方もしていたのがここでも花を咲かせている。
『われら九人の戦鬼』『幸福号出帆』『薄櫻記』、前述の『竜馬がゆく』『世に棲む日々』『木枯らし紋次郎』などなど。下母澤寛の『逃げ水』も専太郎か。

私の父は司馬遼太郎と下母澤寛と池波正太郎を随分集めていた。
特に下母澤寛は、現在では入手不可能な本も家に沢山あるので、わたしはこの数年愛読しているが、あいにくなことに文字ばかりなのである。
小村雪岱も専太郎もわたしの脳内で勝手に文の上に投影されるばかりだが、この脳内プラネタリウムをなんとか、実物として眼にしたいものだ。


専太郎はモテモテ君だったようで、『溺女伝』なるエッセーで色々なハナシを書いていた。
わたしは実はその本を持っていたが、さすがにちょっと手放してしまった。
しかし面白い話を一つここに。
戸板康二の『ちょっといい話』に載っていたか、専太郎が急死したとき付き合っていた女の人たち七人ほどがお葬式の段取りをしたそうで、付き合いのある仲間たちが「あれ、あの女は来ていないの?」と訊くと、「アレは心がけが悪いので呼びません」
・・・見事なものである。かっこいいなあ。

今回の展覧会は、たいへんに中高年男性が多かった。
弥生美術館は挿絵や叙情画専門なので高齢のお客さんが多いのだが、専太郎の美人画に惹かれた男性がいかに多かったかの証明だなと、考えた。
普通、どのような展覧会でも女客が圧倒的に多いものだが、こんな状況は珍しいと思った。

どちらにしろ、わたしは大変に満足した。
美術館の正面には東大農学部前の門がある。そこをぬけて真砂坂へ向かうのだが、東大構内を歩きながら、次から次へと専太郎の女や美青年やシャープにして妖艶な絵が浮かんでは消えてゆくのを愉しんだ。

予告編

18、19と東京うろうろハイカイしてました。

バークコレクション→岩田専太郎→文京ちょっと昔の写真→歴史を彩った人々→天狗たばこ岩谷松平→映画『死者の書』

美術画商の百年→グンナルト・アスプルンド→前川國男

・・・時間かかりますが、感想文を書くぞ、と一応予告をば・・・・・・
多分、順不同です。

プーシキン美術館展

木曜日には人気展へ行け。
昔から私の中にある考えだ。人出の多いプーシキン美術館展へ行くのは木曜がよさそうだと、会社を休んでのお出かけ。

印象派は日本人の大方が好む。無論私もそうだ。
梅原と安井が日本洋画檀の二大巨匠となりえたのは、若い頃のそれぞれの師匠がルノワールとセザンヌだったからではないか、とジャスイするくらいだ。いや、弟子のデキが良いから本家本元への人気も高まったのかもしれない。
松方ゆかりの西洋美術館、児島の眼による大原美術館。
印象派の二大美術館が迎えたお客さんが、これまた印象派に好意を抱く。

世界的に印象派コレクションで有名な美術館からの展覧会が日本で賑やかに開催され、その都度、皆機嫌よく向かう。
バーンズ・コレクション、コートールド・コレクション、オランジュリー美術館展、オルセー美術館展・・・。
そしてこのプーシキン美術館展。
既に東京でも大好評だったのが、大阪に来てくれたので、私も嬉しい。

今回はマティスの『金魚』がなんでも40年ぶりに来るらしく、大阪でのチラシポスターはこれがどーんッとB2大だった。
ルノワール、モネ、マティス、皆が喜ぶ画家たち。

いそいそと私も会場へ進む。

最初に出迎えてくれたのは、ドガのダンサーの一人だ。
きれいなポーズでわたしたちを歓迎してくれているみたい。
それからルノワールの黒い服の娘さんたち。
こちらを向く少女は、ちょっと知り合いに似てたりする。
『こんにちは』
『こんにちは。連日大変でしょう。お疲れ様です』
『ありがとう、がんばります』
そんな勝手な会話をする。そんな親しみがこの絵にはある。

パリが広がっている。
ムーラン・ド・ギャレット、オペラ座の舞踏会、マドレーヌ大通り、サン=ミッシェル大通り。
天気が悪くても人出は多く、みんなパリを闊歩する。雨でも雪でも。


マティスの金魚。ビーカーなのか、鉢と言うには縦長すぎ、シンプルすぎる。この金魚、大和郡山の産地ではないのか。
『右手を上げて前を向き、ぐるっと回って下を向く。そのまましゃがんで・・・』楳図かずおによる金魚掬いのテクニック。それでビーカーに入れられたのかもしれない。

マティスの完成へのプロセスは以前にも見ていて、衝撃を受けていた。
一見して、塗り残し・乱雑・エエ加減、に見える作品ほど、幾多の過程を通り過ぎた後の完成品だと今のわたしにはわかるようになっていた。しかし、そんな理屈や背景など関係ナシに見て、この金魚は可愛い。4匹の赤い金魚はトボケた顔で狭い水の中にいる。
彼らは國芳の金魚のように戯画にはならず、知らん顔でいる。
・・・もしかすると、いつか緋鯉になるかもしれない。

モネの睡蓮。白い睡蓮。太鼓橋の下に咲いている。ジヴェルニーにゆきたくなるのは、こんなときだ。大山崎山荘の地中の宝石箱(安藤忠雄の傑作だとわたしは思うのだが)そこにいるとモネの睡蓮がぐるりと『私』を取り囲んでくれる。静かな安らぎ。
いつでも、どこでも、・・・モネの睡蓮には誘われてしまう。

しかし積み藁には私は関心が湧かない。
ああ紫色の塊やなあ、くらいしか思えないのだ。
ここに人がいたらミレーのお百姓さん、火をつけたら『稲むらの火』、中から抜き刃を上げた男が出たら定九郎。そんな感じ。

庭や木のこと。
シニャックの松の木はピンクと青のモザイクで出来たセーターのように見える。こういうのは商品化すると喜ばれるかもしれない。みかんの木のような絵もあるし、セザンヌの黄土色の道から見たサン=ヴィクトワール。田舎じゃのう。『廃墟のある風景』。信州みたいにも見える。

満月の真下で三人の男が「えいこーら」とばかりに『船曳き』している。こういうのを見るとすぐにアタマにBGMが流れる。
♪えいこーら やれこーら も一つえいこーら・・・
月下で働くおじさんたち。

カリエールが二枚来ていた。
セピアの世界。懐かしさと薄い恐怖の混じる記憶。魂の抱擁のような母と娘たち。
カリエールの絵画には、何故かいつも彫刻を見たときのような気分が残る。


わたしは恣意に作品を上げているが、実はきちんと分類されて展示されているのだ。
しかしわたしは気ままに、書く。




ゴッホの『刑務所の中庭』。レンガ造りの獄舎が並ぶその中庭で縁を作る囚人たち。青かびが生えたような画面。死の数ヶ月前の作品。
昨夏フィリップスコレクションで見た『アルルの公園の入り口』にも通じる危うさがここにもある。しかし私はそれこそが好きなのだ。
刑務所の中と言えば、花輪和一の怪作がある。平凡な囚人たちの日常を淡々と描き、しかもその静けさが異様におかしかったことを思い出す。崔監督が見事な映画に仕立て上げてもいた。
が、ゴッホのこの作品にはそうしたユーモアもペーソスもない。
かと言って帝政ロシア末期の政治囚の悲惨さでもない。

建築の話になるが、かつての刑務所と病院と修道院と学校とには、ある共通点が見出される。
外部を拒む、ということだ。今はそうでもなくなっているが。
刑務所と修道院の同一視は、立原正秋の小説を思い出させてくれる。
しかしこのゴッホの建物は、同じオランダの映画『さまよえる人々』あのアムステルダムの矯正院を想起させる。それから切り裂きジャックの徘徊するロンドンの裏通りと。

ゴーギャンの『逃亡』これは前々から不思議に思っていたのだが、何故画面の右から左へ向けば『逃亡』になり、左から右へ向かう絵は『侵入』になるのだろうか。右から左へ『侵入』する絵もあるが、左から右へ逃亡する絵は見ていない。
タヒチから逃げる人々の行く先はどこにあるのか。
鳥も逃げてゆく。しかし犬は一体どちらを向いているのか。

今回の展覧会では添え物の犬に私の目が向いた。
『サン=モーリスの古代ローマの橋』
座る婦人の足元に犬がいる。散歩の途中かもしれない。ああしんど、と座ったときにわんこもクンクン鳴きながらそこにいるのかも。向こうには泳ぐ人々がいる。
こうした絵は人々の行動がまちまちだが、どうしていつもどこかに水浴したり泳いだりする一群れがいるのだろうか。
西洋の人間にとって水浴または水遊びとは、どのような意味を持つのか。遠景になぜ描かれるのか。

ローマ帝国の拡大が入浴の習慣をユーラシア一帯に広めたのは確かだろう。
それまでは皆水浴だけだったのだ。
西洋の入浴の歴史をひもといた本があったはずだが、絵画に描かれた理由を調べるのに即しているかどうかはわからない。
近景なら別な理由が読み取れるが。

風呂場で殺される男の絵といえば『マラーの死』だが、わたしはすぐに歌舞伎の『湯殿の長兵衛』を思い出す。
水野に槍で殺される幡随院長兵衛。

話を元に戻す。
ゴーギャンは不気味な版画を残している。ノアノア・シリーズ。黄色い体は謎だ。同じく神話を基にしていても、『彼女の名はヴァイルマティといった』美しい女。
エジプト壁画のようなポーズ。創世神話。背後の石像はその元の話をうつしたものか。
・・・ポリネシアの夢は悪夢に変じたのだろうか。

一方、大都会の片隅。
ボナールやヴュイヤールが好きだ。
都会の片隅で。何をするでもなく、なんとなく楽しくなる。
人物が室内に溶け込む。家具の、インテリアの一つになる。
なんとなくこの絵を壁にかけると、その絵の中にも額絵が増える気がする。そしてその絵の中にも絵が・・・無限の観念。
『ノルマンディーの夏』ボナールの奥さんと語らうお友だち。彼の絵にしては珍しくボブカットの女の人だ。カーディガンがきれい。こんな色のが欲しい。

ピカソの女王イザボーの青いドレスもきれいだった。髪も眉も睫毛も青緑で、きれいだった。色合いだけならアニメキャラのようではないか。
キュビズム。
そういえば、小川の絵があった。セザンヌの『池に架かる橋』。
橋がなければ抽象画だとコメントがついていたが、見ようによってはこれもキュビズムに見える。
菱形に分割・統合された世界。

そういえばマティスの『ブーローニュの森の小道』を見た途端、デジャ=ヴに襲われた。
と言うより先に思い出した。
六甲山の外国人別荘跡地を探索したときの気分だった。

マルケが出ている。
おじはマルケのファンで、先に見に行ってよかったよかったと言っていた。
『パリの太陽』は初冬の日暮れ時らしく、くすんだピンクベージュに包まれていた。声をあげてはいけないような場所。そんな感じの絵だと思った。



終わり近くになって、ルノワールの裸婦版画があった。
なんだか親愛なる体つきだ。
わたしも彼女に黙って笑いかける。
ロートレックの騎手たちは前にも見た。
どこでかな。リトグラフはたくさん兄弟を作る。

なんとなく山本容子を思い出す。山本容子から彼らを思うのではなく。
ロートレックの女たちの眼差しは物憂いだけでなく、せつなく孤独だ。
こうした女たちはロートレックに親切だったのだろう。そんな気がする。

ヴァラットンの白と黒。
戯画のような・モブシーンのような・スラップスティックのような。
いつも感想が同じになる。
特別好きではないが、ヴァラットンを見ているとワルター・トリヤーの親戚筋のような気がする。
それから丁度百年前のダンサーたち。腕や髪がリアルな少女たち。
ルイ=ルグラン?わたしは知らない。名前だけを見たとき、ルイ・ル・グラン学院(ロベスピエールの入った学校)、中学の近所にあったパン屋さん、ルパンの作者はモーリス・ルブラン、モンキーパンチはルパン三世、とかいった事がタタタタタッと浮かんだ。

そうだ、ルドンの男の巨大な横顔。それを眺める人々の小ささ。
正直、気持ちのよくない絵だ。
先日はハンプティ・ダンプティみたいなのも見たな。ベオグラード美術館展で。
ルドンこそまさに久世光彦の『怖い絵』の代表格かもしれない。

ルドンやムンクは何故あのような絵を描くしかなかったのだろう。
別に楽しい絵を描けとは思わない。
それは他の画家がすればよいことなのだ。
しかし何故こうした絵を曝け出す必要性が彼らにあったのだろう。
その方に興味が惹かれてしまう。

アンリ・ルソー。
密林ではなく都市の公園の絵が来ている。
複葉機と気球と飛行船が同時に浮かび、川に架かる橋はケーブルを分離させる工事用品のように見える。手前にある船は白頭巾をかぶった『快傑ナントカノ介』とでも言うべき風情だ。
対岸の林はそれぞれ様相が全く違う。灯台のある方は紅葉狩りによく、杉らしき林はスズキコージが潜んでいそうだ。しかしなんとなく、岡 鹿之助のような静けさを感じもする。その一方で古賀春江のようでもある。

もう一枚『モンスーリ公園の眺め』人物と建物と植物の大きさの対比が変なので、眼を引かれる。植物の大きさ。うーん、わかった。ナイト・シャマランの映画『ヴィレッジ』だ。
あんな感じだといえば、いいのかもしれない。

そうだ。ピサロの次男の絵は女と孔雀が様式美から離れつつも閉じ込められているようで、なかなか面白かった。金色が『ぎらめく』ようにみえた。
きらめきは他にある。
ブラックの『ラ・ロッシュ=ギュイヨン城』なにやら鉱石で出来たお城のようだ。爪も立たず、滑り落ちてゆく。クリスタルの城。中には百年の眠りについた人々がいるのかもしれない。

そうこうするうち、とうとう出口だ。
大変充実した。75点か。よかったなあ。展示の仕方もよかったと思う。
カタログとは全然違う並び方だが、(多分東京での並べ方がカタログ番号なのだろう)面白かった。本も二千円とは、大変素晴らしい!


マティスの間、セザンヌの間の写真を見ていると、日本と展示法が違うので何やら興味深く感じる。
日本では、たとえ絵を飾ってなくとも大谷光瑞の建てた二楽荘くらいしか比較できないように思う。ニ楽荘の写真を見たからこその感想かもしれないが。
失われた建物、失われた楽園、失われた身分。
『桜の園』を思い出させてくれる経緯。


最後に。
モロゾフもシチューキンも帝政ロシア末期のカネモチとして良いことをしてくれたが、私有財産の没収はやはり気の毒ではある。
でもおかげでこうしてみることが出来たのだから・・・
とりあえず、ありがとう。

泉布館から銀橋

朝から国立国際美術館に行きプーシキン美術館展を堪能し、近くの肥後橋商店街にあるお茶屋のニ階にあるカフェで抹茶甘酒を飲んだ。この界隈には小さいが可愛い近代建築が多い。行く末を心配していた建物も新たにカフェになり安堵した。
さて私は一旦リーガロイヤルホテルに行き、バスで梅田に連れて貰った後、今度は帝国ホテル行きバスに乗った。昼からは建物を見て回るのだ。先程のバス窓からは新福島駅前にアカンサスつきの多分、元は銀行らしき建物を見たが、今度は源八通り(元は渡しだ)にやはり古い建物を見た。知っているようで知らない建物をみつけることが私の小さな楽しみだ。
今日は造幣局に来た。桜の通り抜けで全国的に有名な場所でもある。銀橋は新橋が出来上がりつつある。元の橋には昭和五年の武田五一の階段室がある。かまぼこ型橋だ。いい感じ。大川にかかる橋は大概よいものだ。浪速も江戸も。造幣局の向かいには毎年春分の日の前後三日間しか開かない泉布館がある。ベランダ・コロニアルの典型的なタイプ。私は大体3、4年毎に通う。今は囲いの中にある。

まだご覧になっていない方がおられるなら、是非ご覧になることを薦める。
藪 明山 デザインの作品などがあったのだが、これらは今歴博にあるようだ。
泉布館の『泉布』と言う言葉は、古語で言うおカネのことだ。明治天皇がそこから命名されたらしい。

造幣博物館の正門は明治時代のものでガス燈もあり、見ごたえがある。
門の花柄飾りはとても可愛い。しかし造幣が“mint”とは知らなかった。

さてわたしは今日、小銭が出来上がる過程を工場見学に来たのだ。
ガイドのお姉さんの説明とスライド上映の後、いよいよ現場へ。
ガラス越しに見えるお金の精製過程は・・・『す・ご・い!』の一言だ。
何が凄いのか。機械から次々に生み出されてくるお金たちを熟練の人々が目視検査して不良品のチェックをしていることだ。これは凄い。人間の力が機械を凌駕するのは、こうした職人・職工の技芸だ。素直にわたしは感動する。
面白かった。

続いて貨幣を集めた博物館。東京でも見たが、こちらはコイン専門。日本の昔々からのおカネと世界各国のコインと。うーむ、見ていて飽きない。
今は名前の変わったD銀行にも貨幣資料室があったが、そこでも係りの人々はこちらの質問に懸命に答えてくださる。
おや、金塊と銀塊だ。刻印は日本云々とある。えっイギリス製なんですか。オンスだから正確なグラム表示は出来ないようだ。
わたしは某三菱マテリアルの金塊は見たことがあるが、これもそれも傷が入っているのは、触ったお客さんたちが・・・・・・・・・

寛永通宝が並ぶ。銭形平次だ。
ほりのぶゆきのギャグで、平次が悪人を倒すために、より強いスーパー寛永通宝を作ったが、通貨偽造法でお縄になる、と言うのがあった。あと銭型フェチとか色々。笑ったなあ。

ところで私が個人的に必ず探すのが、天保銭だ。これは当時の幕府の施策ミスと言うか確信犯と言うか、『悪貨は良貨を駆逐する』というか・・・
あった。ありました。
江戸時代の戯言でこんなのがある。
『天保銭を空しうする勿れ』
これは児島高徳が桜か戸板かに書いた言葉のパロディだ。
『天 勾践ヲ空シウスル勿レ 時ニ范蠡無キニシモ非ズ』
呉越同舟や臥薪嘗胆の元ネタの人々の話。

さすがにおカネの資料館の方々はおカネに対してマジメなので、こういう不真面目なネタには縁がないようだ。

おカネで思い出した。
里見の小説でずばり『かね』と言う作品がある。
貧乏な職人の倅が奉公先を転々とする。彼は手癖がよくない。しかし常に貧しい。
とうとう彼は窮乏の中で死ぬ。彼の住まいを探った人々はそこに沢山の金を見出す。
彼は遣うことにはなんら関心はなかったが、一種のマニアとして『かね』を集めていたのだった。
・・・・・・初めて読んだとき、へんな引っ掛かりを覚えた話だった。里見は時々こんな『けったいな』人間を描き出す。

あと二ヶ月もすればこの造幣局の桜の通り抜けだ。八重桜がすばらしい。いく種類もの八重桜が植えられていて、毎年『今年の花』を決められる。昼もいいが、夜桜のよさは又格別だ。
しかし梅もまだ咲いていない。
お水取り、センバツが終われば春本番だが。







司馬遼太郎・菜の花忌は昨日だった。

昨日は司馬遼太郎の菜の花忌だった。
十年前、司馬さんは急死された。
手術室に向かわれる前に奥様に『がんばるぞ』と言われた、というのを当時の新聞記事で読んだとき、涙がこぼれてしまった。

作家なり芸術家なり音楽家なりの方が亡くなられると、追悼特集が組まれることが多い。
音楽家だとその作品を演奏することが多く(歌手でさえなければ)演奏者は代わるにしても、その音楽は長く残る。
画家や彫刻家などもそうだ。無論作家もそうだが、どうも一番分が悪いのは作家のような気がする。

作家の場合、読者のニーズがあり続ければ、版権が切れようと切れまいと増刷は続く。しかしいくら凄い作家であっても、出版社にその気がなくなれば、絶版という状況が訪れるのだ。

司馬遼太郎はその点では稀有な存在になるだろう。
死後十年でも人気に陰りはなく、その文明評論はいよいよ評価が高まるばかりだ。
『彼は預言者だったのだ』と強い確信を抱くほどの状況が現出している。
それはわたし一人の感慨などではなく、総論としての感慨だろう。
論者は必ず言う。
『・・・今の日本の状況を見て、司馬さんはどう思われるだろうか』
誰もが必ず同じことを言う。
批判は出来ない。わたしも同じことを思うのだから。
まるで司馬さんの意見を聞くことでこの国の進むべき先が見えるとでも言うかのように、願うかのように。

司馬遼太郎とは、ほぼ全ての日本人にそうした期待と幻想を抱かせる偉大な存在だったのだ。


わたしは評論家でも研究者でもない、ただのファンに過ぎない。
しかも『この国のかたち』を始めとする文明評論の方のファンではなく、小説家・司馬遼太郎のファンなので、これからごくごく私的な追悼と感想とオマージュの文とを、のたくた書き連ねようと思う。

膨大な数の小説がある。
その中から永遠の一冊を選ぶとすると、『竜馬がゆく』か『燃えよ剣』に二分されるだろう、と思う。
わたしはどちらも好きで仕方ない。
変な比較だが、夏目漱石の代表作を『坊ちゃん』か『我輩は猫である』か選ぶのにもめるのと似ている。

しかしながら、最初に司馬遼太郎作品を読む若い人へは『竜馬がゆく』を勧めたいと思う。
これは何も自分がそうだったからというのでなく、この作品の発表媒体が新聞だったという事と、『燃えよ剣』が雑誌だったという違いに理由がある。
いずれは単行本として広がることはわかっていたことだが、新聞連載ということは、より普遍性が高いということである。
新聞でも、その新聞の読者しか読まないとかそういうことではなくに。

『燃えよ剣』は読者対象を、より大人向けに作っている。冒頭のシーンを無視しても。
『竜馬がゆく』は土佐から江戸へ出る青年の期待や不安やもろもろの事柄から始まる。そうしたことからも、若い人たちに『読んでもらいたい』と思うのだ。

わたしが最初に読んだのは小学五年生の夏休みだった。
今でも大概なまいきでペダンチックで、そのくせベタな人間だが、子供のときはそれらが何の洗練もされずに現れていた。
読む本もアンナ=カレーニナ、ロード・ジム、月と6ペンス、ジェーン=エアなどの外国文学ばかりだった。
このことについては別な項目で記している。

そんなところへ『竜馬がゆく』を読んだのである。
新鮮だった。
強烈に新鮮だった。話の展開も文章も、何もかもが面白く、夢中で読み進んだ。
父が揃えていたのは単行本の五巻セットのもので、一日一冊ずつ読みふけり、五日目にとうとう竜馬が死んでしまった。
・・・つらかったなあ。

翌日には各巻の内から、特に気に入った箇所を探し出して再読することを始めた。
竜馬が食べたものをおかずに出してくれと母に頼んだ。
(父は読書系での子分が出来たと思ったのかもしれない。)
とりあえず京都に出かけてもいる。ゆかりの店でご飯まで食べている。
土佐に行きたいと思った。桂浜の銅像が見たい。ただそれだけ。

梅の花を見てはじいやと乙女姉さんの会話を思い出したり、長襦袢を見ては祭り見物を思い出したり。

挙句、わたしの生まれる前にNHK大河ドラマで放映されていたと知るや、図書館でその資料を探しまくった。
無論竜馬関係の資料は父にリストアップしてもらって読みふけり、更に自分で探し出したりもした。

ここで面白いのは母の存在である。
母は圧倒的に『燃えよ剣』派なのだ。
これは栗塚旭主演の名ドラマに感動したことに始まる。
わたしも何度目かの再放送を熱心に見たが、幼稚園だったので、先日のジャイアントロボ同様、ところどころの記憶しかない。
だから勘違いも多い。
しかしちびでも感動する。わたしが今でも覚えているのは最終回手前の回である。
五稜郭の土方が夢を見る。
最後の夢である。夢の中では昔の仲間がいる。皆笑っている。
はっと目覚めると車座に敷かれた座布団には温かみがある。
「まだ温かい・・・!」
胸を衝かれるようなよさがあった。

今はソフトも出ているので見ることは可能だ。
しかし母は頑なに拒む。見ることでイメージが劣化するのを恐れている。
わたしの周囲のおば様方も皆、同じだ。
そのくせ原作は何度でも読む。読み返しては『あー最高ー』という。
これはもう司馬文学ではなく『燃えよ剣』への萌えになっているのだ。

どうも周囲の状況を見ると、『竜馬がゆく』はむしろ男性の方に人気が高いような気がする。
『燃えよ剣』は双方を得ているが。


ハナシが長くなりすぎた。

父が死に、'80年代以降の作品はわたしが集めることになった。
『項羽と劉邦』から最後の小説『韃靼疾風録』まで。

『韃靼疾風録』は司馬遼太郎の言語感覚の面白さにも着目してほしいと常々思っている。
例えばヌルハチ。モンゴルの大汗。その名を耳にして庄助は『微温八とは変わった名だ』と思うのである。
このセンスを他に捜すと、はるき悦巳が浮かんでくる。
そう、じゃりン子チエのはるき悦巳だ。
テツのけったいな感覚は庄助の言語感覚と―――司馬遼太郎の諧謔―――身内のような親しさを見せるのだ。
これは司馬遼太郎が大阪人として生まれていることの証明ともなるだろう。

『俄』という作品がある。
『大坂侍』は別として、ほぼ唯一に近い大阪の男を主人公に置いた作品である。
これは今 東光もひっくり返るようなオモロイ話なのだが、司馬遼太郎はいやになったか照れたか、この系列の作品はとうとう他に生まれなかった。
それはそれでいいとも思う。
オモロイが、司馬が書かずとも他の作家が生んでくれた可能性があるのだから。
わたしなどには『あほらしいて、オモロイ』のだが。

愛妻家で有名な司馬遼太郎の作品世界には、魅力的な女が沢山現れる。
そしてエッセーなどで奥さんの話を読むと、これは奥さんを基にしたキャラかな、などと楽しく想像したりする。
わたしはたとえば、『韃靼疾風録』のアビアが好きだ。
ツレにはなれないが、彼女のためにお惣菜を持っていってあげようかと考える。
『十一番目の志士』のお嬢様や劉邦の部下・夏侯嬰の女房とか、脇にいるキャラたちにも深い魅力がある。
いいなあ、といつも感じるのだ。

一方、ところどころにちょっと好悪の分かれるところがある。私などは大好きだが、母は嫌う、と言うような。
『割って、城を』
この短編が好きである。文章と話の構成に、多少陰惨な何かがにじんでいる。
しかしそれはおくとして、死に導かれる美青年の運命に惹かれるのだ。

南篠範夫ほどのそれ好きではないだろうが、『義経』での中にも多少あやうい描写がある。
鞍馬での遮那王の『勤め』など。その一方で、知盛はこう描かれる。
『知盛はしゅどうのひとではなかったが美童を愛し、つねに五、六人の少年に身辺の世話をさせていた』いいなあ、すてき。

キャラクター造形になにがしかの面白さがある。歴史観などの思想のほかにもどこか愛嬌がある。しかしながら殆どの物語は終末に来ると、さらさらと書き流されるようでもある。
『いなくなった』キャラたちへの愛のためなのかもしれない。


わたしは特定の小説のことばかりをぐずぐず書いてきたが、ここで少し『街道をゆく』について話を進めたい。
大抵の中学生が、最初に出会う司馬遼太郎の文章が、この『街道をゆく』だと思う。
特にモンゴル紀行のようにも思う。
ツェベックマさん。
ナゾの名前だ。何年か前ご本人が来日されたとき、
「うわーツェベックマさんやー」
と声をあげてしまった。そしてツレたちや妹などにも
「ツェベックマさんやー」
それを聞いてみんなも、
「ツェベックマさんやー、ホンマにツェベックマさんやー」
なんだか奇声を上げて変にうれしくなった。

よくあれだけ旅をすることが出来たのだなあ、とまず感心する。しかも小説と文明評論も怠りなく書き続けていたのだ。すごいとしか言いようがない。
挿絵は長い間、須田剋太が描いていた。
わたしが須田剋太ファンになったのは、間違いなくここからだと思う。
埼玉生まれなのに関西で骨を埋めてくださった。
わたしが行った限りの展覧会を下記に記す。

’92 梅田阪急、’96 思文閣、’97 日本橋三越、’98 文化情報センター、などなど。
阪急宝塚線の岡町には、『街道をゆく』の常設ギャラリーもあったし、東大阪市民文化センターでは、しばしば展覧会も開かれる。
元興寺には屏風もあり、淀屋橋の至峰堂でもしばしば珍しい作品も展示される。
至峰堂のカタログ案内が来たとき、『同行二人』という作品に眼を奪われた。ああ、なるほどと言う感じ。こればかりは絵を見ないとわからない感慨だろう。

司馬&須田コンビの旅の話はとても面白い。
十歳ほど年長ながら、世間離れして、髪も真っ黒な須田を弟のように世話をする楽しそうな司馬遼太郎。機内で子供用のおもちゃを欲しがってイジける須田のために交渉する司馬サン。
なんだか笑えるが、笑った後、胸が熱くなるようないい話がいっぱいあった。
そんな話を読むたび、ファンはいよいよ惹かれてゆくのだ。

・・・随分長くなった。
まとめも何もないままだ。

最後に。
京都に朝鮮美術の粋を集めた高麗美術館と言う立派な美術館がある。こうらい、ではなくコウリョウと読む。ここの題字を書いたのも司馬遼太郎だ。
味のある、可愛い字。
それから今は閉鎖された赤坂見附のサントリー美術館から眺めた先に、文芸春秋の社屋が見える。そこにどう見ても司馬遼太郎の『馬』の字が躍る。
あの独特の書体。
わたしはそれを見るのが好きで、夜間開館の金曜日に薄暮れのビルの波をガラス越しに見ていた。美術館のすばらしい展示品を見た後、なんとなく寛いだ気分になって。

早稲田は強い

早稲田がトヨタに勝つのを見た。
昼のニ時から40分ハーフで。後半40分間、トヨタも猛追した。
SO広瀬選手のファンなので、彼が土を寄せて山を作る手元をじっとみつめた。蹴る足を追う。
巧いなあ。

でも。
・・・・・・早稲田、強いなあ。これしか言葉が出ない。
次は東芝府中だ。う???ん。
・・・がんばってください。

島 成園と大阪の女流画家たちと・・・

島 成園と大阪の女流画家たちの展覧会を見た。わたしは美人画を見るのが一番好きだし、ずっと待っていた展覧会だからわくわくしていた。大阪画壇は東京、京都と違い、女の地位も高く展覧会も頻繁に行なわれていたそうだ。大正時代、大阪が東洋のマンチェスターと呼ばれたことと無縁ではないだろう。現在とは大違いな話だ。高島屋は以前から女流画家の展覧会を多く開催してきた。大正時代、都市生活に百貨店が根付き、女客が機嫌良く遊びに・買い物に出るようになり、そうしたニーズを高島屋や大丸は読んだのかもしれない。
それから八十年、こうした形で大阪の画家たちの作品を見ることが出来、嬉しい限りだ。
蛇足ながら、私がこれまで見てきた大阪の日本画家の展覧会を少しあげてみよう。

‘94年の大丸心斎橋店で『関西大学所蔵・大阪の書画』
恒富の桃山風な美人画を覚えている。書が多かったので、判読しようとして果たせなかったことが懐かしい。
‘97年の枚方市民ギャラリーでの『近代大阪の日本画名品展』。
恒富、成園、花朝女、楯彦、貞以らの他に江戸時代の木村蒹葭堂の作品まで出ていた。
恒富が見たくて出かけたが、楯彦の良いのを色々見て、嬉しかった。
‘98年の大阪美術倶楽部での『大阪画壇物故者展』、ここでは菅 楯彦の『大漁』を見た。鯛がたまらなく可愛くおいしそうだった。赤バージョンと黒バージョン。お弟子の花朝女や、恒富、成園らを見た記憶がある。
それから’02年の池田市立歴民資料館での『木谷千種』など。
これで千種を知ったのだが、良い展覧会だった。
まだある。
‘01年に大津歴史博物館でシアトルの白澤庵コレクションがあり、これには千種とその弟子たちの絵が多く含まれていた。
‘03年には堺市立文化館で成園と恒富の展覧会を見ている。正月なので羽子板の絵などがあった。また、北浜の三越と四天王寺宝物館で、楯彦や花朝女をみている。
そこでは花朝女ゑがく四天王寺での蛸踊りとでもいうのか、その絵もあった。


今回はそれらで見た作品が多く含まれている。とはいえ、初見が大半を占めるのだが。
現況での近代大阪画壇への関心の低さの傍証をあげよう。
図録の値段である。2940円だ。わたしはそこに落胆を感じるのだ。
しかし土曜日の夕方過ぎとはいえなかなか盛況なので、これを機会にと願っている。

昔、『三園』と言うて『京都の松園、東京の蕉園、大阪の成園』が女流画家の大家であった。
わたしはみんな大好きだ。
松園の格調の高さ、蕉園の愛らしさ、成園の艶かしさ。
松園は女性初の文化勲章を受賞もし、松篁、淳之、と画風の異なる立派な子孫を残された上、現在でも様々な美術館でその作品を見ることがたやすい。
蕉園は夭折したのが何より惜しい。
しかし彼女の作品は例えば美術コレクター福富太郎氏が多く所有し、惜しみなく展覧会に出品してくださるので、見る機会も多い。
成園はどうか。
上記にあげた展覧会のほかには、'98年の『女性画家が描く日本の女性たち』展や野間記念館
での色紙や、殆ど何の知らせもない大阪市立美術館でチラリと出されるくらいではなかったか。
しかしそれでも木谷千種より扱いはよかったのかもしれない。

とはいえ、千種の作品はシアトルの白澤庵コレクションに多く収蔵されているから、それも今の状況の原因の一つかもしれない。(彼女自身十三歳ごろシアトルに留学しているのだ)


大阪の女流画家たちは環境も悪くなかったようなので、機嫌よく仲間付き合いもしていて、それが景気のよかった頃の大阪にもマッチしていた。
みんなの集合写真がある。
みなさん、アクの強い娘さんだ。今もいてます、こういうカオ。
池田での展覧会から千種を知りファンになったが、彼女は近松研究者の木谷蓬吟と結婚して、夫婦仲良く芸術活動していたようだ。
蓬吟の兄は、先日ここでも書いた芝川照吉である。羅紗王と呼ばれ劉生や藤井達吉らのパトロンになった人である。http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-345.html

千種は機嫌のエエ人だったようで、母娘揃って絵を習いに来る人もあり、大繁盛していたようだ。資料を見ると、六十人以上のお弟子さんがいたそうだ。めでたいなあ。
池田でも見たが、その母娘の絵が出ていた。なにかなし、せつないような絵である。

評論家でも研究者でもないくせに私は延々と何を書くか。

絵の話に移る。

文展等ではよく落選していたようだが、現実には人気と言うか評判も高かったらしい。
成園の『黒髪の誇り』は特にわたしなどの好むところで、胸の形、色合い、流れる髪、能面の柄の衣装、女の鼻の形・・・何もかもが良いと思うのだ。
しかしこれが賞を取れない理由もまた、わかるのだ。
松園に『焔』という凄艶にして恐ろしいような絵がある。東京国立博物館にあるが、大々的な宣伝を好まぬような作品である。それと同じ匂いの絵だ。
恒富が『浪花の悪魔派』と謳われたのもそれと根を同じにしているのだろう。
清方にもまた、あぶない絵がある。
『妖魚』『刺青の女』などである。
みな、ぎりぎりのところで『こちら側』にいる。

成園の『無題』は自画像でもあり、架空肖像でもある。現実にはない痣を女の頬に入れている。
これを見ると私などは、梶原緋佐子の大正期の市井の女たちの作品を思い出す。
皆やはり、意識が高かったのだ。

『祭りの装い』には三種の女の子がいる。左から右へ行くほど、貧しくなる。ちびでも女の子の切なさと言うものがじかに伝わるような作品だ。
どうも祭りにはそうした意味合いが込められているのか、
千種の『をんごく』にもせつなさがつきまとう。
これを池田で見たとき、をんごく=お盆のとき燈篭を手にして悲しい歌を歌いながら歩く行事、と説明されていた。明治頃にはまだその風習があったようだが、今では完全に消えてしまった。
失われた風俗を見るのは、興味深くもあるが、どこか哀しい。
それがまだ生きていた時代に描かれた作品には、特にそうした哀しさが漂う。
明治風俗を昭和になって『追想』する清方の作品には、その哀れさはない。

この展覧会の前に発見された千種の大作『芳澤あやめ』が興味を惹いた。
あやめは無論、旧幕時代の女形である。
化粧道具などが描き込まれているが、ちゃんと蒔絵で梨地なのである。細かいようだが、こうしたところに目がゆくものだ。

他にもお弟子さんたちのよい絵が多かった。
なぜ白澤庵の所蔵に彼女たちの絵が多くあるのか調べたいところだが、これは後日の仕事になるかもしれない。

そうだ、生田花朝女のことにも触れたい。
彼女は師匠の楯彦ゆずりの洒脱で飄々とした、その上健康的な絵を多く残している。
高津神社だと思うが、立派な絵馬もある。
子供らがみんな元気いっぱいで、その成長を見守りたくなるような良い絵柄なのだ。
楽しい。これが第一印象だ。
その花朝女の残した蛸踊りについて。

わたしが『蛸踊り』(数眼鏡というらしいが)を知ったのは小出楢重の随筆からである。
お彼岸になると四天王寺の境内で『蛸眼鏡』(小出はそう表記する)がある。他のどんな見世物よりこれが面白い、と子供の小出は夢中になる。挿絵を見ると、なるほどなかなか楽しそうである。彼がこの随想を書いたのは昭和五年のことで、既にそのときには蛸踊りは消えていたようだ。母に祖母から聞いたことはないかと問うたが、ないらしい。なるほど絶滅か。
しかしある日、わたしは思いがけないところで『蛸踊り』を見た。

現在大人気のさる昆布屋さんの商品リーフレットに楯彦ゑがく『蛸踊り』が使用されてるではないか。早速それを小出の本に挟んで、蛸踊りの対決とした。
それから数年後、前述した四天王寺で花朝女の『蛸踊り』をみたのだ。しかも昭和38年に何十年ぶりかで復活しましたと新聞記事まで隣に展示されている。
・・・・・・なんとなく、面白かった。

わたしがそもそも菅 楯彦の名を最初に知ったのは、今 東光の『春泥尼抄』からだ。
近所の散髪屋が店仕舞いするから、と蔵書まで払うたのを、あんた好みやろとうちの母が夢野久作『犬神博士』と共に貰ってきたのだ。他にも『お吟さま』とか何か色々あったようだが、わたしは今日に到るまで『春泥尼抄』『犬神博士』を溺愛している。
なんだか凄い縁だと思う。
稀にこういうことが起こるから、日頃から好きなもののことなどを『真剣』に念じないとあかんのだなあ。
その後、楯彦の作品を眼にするにつれ、今度は龍村とか乾邸のことにかかるので、これは後日また延々と書き綴りたい。

話が随分ずれた。
ずれたというより、本筋はどこにあるのか。
要は、忘れられている近代大阪画壇の人気復活を祈りたいのだ。
それで延々と好き勝手なことを連ねている。

面白い展覧会だった。

四ツ橋・雑感

大阪四ツ橋といえば、江戸時代の俳人・上島鬼貫の句

涼しさに 四ツ橋を 四つ渡りけり

この俳句を知る方も少なくはないだろう。
かつて川があり、四つの橋が架かっていたそうだ。
いつの間にやら暗渠になり水脈も途絶え、橋の跡には白い横断歩道が残るばかりだ。
また、少し向うの陶器神社ではつい数年前まで夏の天神祭りの頃に、大々的な陶器祭りがあり、有田辺りの素敵な磁器がかなり安く出ていて、掘り出し物も多かった。
これは阪神高速の入り口を封鎖しなくてはならぬと言うことから、靭公園に移ったものの、かつての繁盛から遠のいてしまった。今は行われているかどうかすら、知らない。
うちの母などは、夕食後に祖父に連れられ信濃橋まで市電に乗って、縄でくくったお茶碗や小鉢などを買うて帰るのが楽しくてならなかったと言う。
実際、数年前まではわたしたちはぶらぶら冷やかして歩いたのだが。

信濃橋と聞いて小出楢重、鍋井克之、辻愛造らの名前が出る方は洋画好きな方だろう。
信濃橋洋画研究所は、今で言えば三和総研辺りになるのだろうか。
さっきあげた靭公園のもう少し西には大塩平八郎の石碑もある。彼は陽明学の学者だったと言うが、もう一人名をあげれば、越後の河井継之助も陽明学を身につけていたらしい。
なにやら『わかる』気もする。

四ツ橋のちょっと向こうが新町、つまり日本三大遊郭の一つ大坂新町の色町があったところだ。
西鶴・近松のハナシにも現れるが、今は名残もない。

近代に入れば『四ツ橋の電気科学館・プラネタリウム』だ。
これは1989年に閉鎖するまで、大阪のみならず近畿一円の科学好きな人々の嬉しい場所であった。世界に六台しかプラネタリウムのない時代に、ここにはあったのだ。
今はそれこそあちこちにあるが(現にわたしの隣の町内の青少年館にもある)考えればすごいことだったのだ。
私も小学生のときしばしば連れられてきては、星々の海に見蕩れた。
エジソンの竹とかロボットとか、並列・平行のことなど・・・

閉鎖される少し前の休日に行くと、大繁盛していた。その中でぱちぱち写真を撮り倒した。
淋しい想い出だ。この頃から写真を記録の手段に用い始めている。

ここを舞台にした小説がある。
今江祥智の『ぼんぼん』か『兄貴』かのどちらかだ。
戦争中、九百枚のクラシックレコードを所蔵する兄と二人、プラネタリウムを眺める。
上映が終わったとき、疎開させるのかどうするのか、と言うような話をするが結論は、出ない。
とうとう大阪にも空襲が来る。兄は選びに選んだレコード三十枚ほどを風呂敷にくるんで負うて逃げ惑う。しかし。
・・・・・・わたしは戦争など決して起こしてはならんと思うのは、個人・国家を超えた『財産』を失くすことに憤りを感じるからだ。
話がずれた。

この建物はやがて‘94年頃まで図書館としても使われたが、まことに惜しいことに壊された。
モダニズムの素敵な建物だったのだが、今ではホテルやオフィスになっている。
大阪には文化は消失していると思うのは、こういうときだ。
しかし、がんばってくださるところもある。

長瀬産業。
この優れた近代建築は、優美な姿を今も四ツ橋筋にみせている。増築部分まで既設の建物と同じ風に作られているのだ。そして社員の方々はそれを誇りに思われている。
わたしまで誇らしくなるほどだ。ありがとうございます。

だいぶ北に来たが、そうなると地名も立売堀イタチボリに入るようになる。
そちらへは行かず、わたしはINAXへ行くのだ。

去年のクリスマスにINAXで『小さな骨の動物園』展をみた。
感想はこちら。http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-313.html

もう会期も終わりに近づいているので、最後にもう一度見たくなったのだ。
東京には六月から巡回だ。

物好きと言われようと、また骨を見に来たのは骨に惹かれたからだ。
・・・やはり愛らしい。
認識がパカッと変わったように思う。
♪骨まで-骨まで-
ではなく、骨だから、愛したのかもしれない。

今回は割りにお客が多い。家族連れだ。父親が子供に説明している。
子供らは骨になる前の肉のついた状態からの変容をどう受け止めるか。原因と結果、過去と未来。
そうしたものを考える力を養ってくれるだろうか。私は親子連れを見るといつもそんなことを考える。

海亀はやはりもの悲しい。元気なガメラも骨になればこうなるのだろうか。
鳥たち。オオミズナギドリ、アホウドリ、彼らの群れ。飛行と終焉。
前回と同じ感慨がよぎる。

錦蛇のトンネル。見通しの良い蛇行。上野の科学博物館にもあったっけ。
蛇、長すぎる―――かな?これでもいいと思うよ。ルナールかサン=テグジュペリか。
きれいな骨たち。
もしかすると、生きているときより可愛いかもしれない。

今日は肩が痛い。私は歩きすぎると肩が落ちるのだ。どんな筋、骨の構造なのか不思議だ。
・・・・・・・・・・・・
わたしの骨格標本の想像図。

それで思い出した。
横溝正史の幻想小説で骨格標本にされた(らしき)男の話があった。全編大阪弁で、なんとも物悲しく、そして怖い小説だった。『面影草紙』だったか。
それからこれは『ハチミツとクローバー』の羽海野チカさんの昔の作品で、授業に使う人体標本を壊したために、『身体で払ってもらうぞ』と言われて、体育の先生に半身に
『これが上腕二頭筋、ここが三角筋』と『油性マジック』で書かれるギャグがあった。
笑いすぎて苦しかったなあ。

INAXを出てから東へ進む。
ビル全体が巨大なプランターのようなオーガニックビルを通り過ぎ、船場へ向かっている。
蛇行はしてないが、メイソウしている。
瞑想ではなく、迷走かもしれない。

巨大な御堂筋まで来た。走らなくてもいいし、空いているけど、なんとなく走ってみた。
何秒で渡りきるか数えながら。

絵画好きな方への100の質問を

百の質問に答えてみました。

出題元はくりなさまです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kurina/

Q&Aは…

岐阜に行かれる方あれば

 2006年2月23日(木)-26日(日)/個展/アートスクランブル19HARMONIA MUNDI-天上の音楽-HIPPE作品展/→9時?19時まで※最終日は17時まで/多治見市文化会館展示室


仲良しさんがいる。
ここにリンクもしているHIPPEさんの展覧会が上記の通り行なわれる。
http://harmonia-mundi.chu.jp/

わたしと彼女とは別な場所・別な空間・別な時間に出会った。
喩えれば、涙のカノンと帰れソレント くらいの間柄のわたしたちだ。

彼女の色彩感覚が好きだ。がんばってほしいと思う。
最愛だ、とはまだ言えない。
まだまだこの先には彼女の新しい世界が開け行くはずだからだ。

でも現時点での彼女の全力がここにはある。
わたしは勝手に彼女の宣伝をする。
行くことが出来ない分、大阪からweb上から彼女を応援する。


そして追記。
この記事を山桜さんのもとにTBしました。
山桜さんのお友達ひらりんさんの可愛い和ものを紹介いただき、わたしはひらりんさんの応援も始めています。
以下、ひらりんさんのお店です。
http://www.geocities.jp/kh3502215jp/kh3502215jp/A10_1.htm#2

伊福部 昭 追悼

伊福部 昭が亡くなった。享年九十一。
一般的には『ゴジラ』のテーマ音楽が一番知られているところだが、確にあの重厚さと音が重なる繰り返しは、一度耳にすると決して忘れられない名曲だと思う。
しかし私は『ゴジラ』や最初に彼の名が高まった『日本狂詩曲』より、ずっと好きな楽曲がある。アルバム『鬢多多良』に収められている数々の曲目だ。
『サハリン島土民の三つの揺籃歌』などは林務官の頃に北方少数民族の各部族を巡って採集した子守唄を元にアレンジされているようだが、わびしくせつなく、そして豊かなメロディだった。

数日前わたしはこの場で『アムール虎』のことを書いたが、アムール虎にハマッた頃に同時に伊福部 昭の楽曲にも惹かれたのだ。
つまりわたしにとって北方領土からカムチャッカ半島、タイガ地区はアムール虎と伊福部 昭と夢野久作と檀 一雄なのだった。

タイトルにもなった『鬢多多良』は’73年の発表だが、これはもう聴いていると踊らないわたしでさえ身体が動き始めるほどの音楽だった。
振付師でもないのに勝手に振りが浮かぶくらいだ。
そして終焉を迎えるときの高い笛の音で不意に陶酔から目覚め、一瞬にしてカタストロフが訪れる。
初めて聴いたときの衝撃は大きかった。
こうした経験は他にはラヴェルの『ボレロ』しかない。

すばらしい音楽をありがとうといいたい。

蛇足ながらこんなことを思い出した。昭という字は『昭和』という年号が定まるまで殆ど使われなかった字らしい。照という字はよく使われていたが。
中国の由緒の古い辞書から探し出してきた文字らしい。
だから昭和以前に生まれた方で『昭』の字をうけた方は少ないそうだ。

アムール虎

今夜のNHKの動物番組はアムール虎の生態であった。
アムール虎は他のベンガル虎、インドシナ虎ら熱帯の連中と違い、ツンドラタイガ地域に生息している。
だから亜熱帯の虎たちがやや精悍にしなやかで、茶系統なのに対し、白地の多い、雄偉な体つきをしている。

寒冷地の悪環境下の生活だから、子育ては夏に限定されている。
カメラが捉えた仔虎たちの可愛らしさには『きゃー可愛いー』これしか言葉がない。
猫の親分みたいな行動も多い。じゃれたり、べろをだしたり、猫パンチしたり。
うちの猫共と大違いの可愛さだが、やっぱり虎は虎で、なかなか怖い。

北方少数民族のある部族の方々が、ソ連崩壊後に激減したアムール虎の保護に熱心に取り組んでおられるそうだ。
アムール虎はこの部族の神様という位置づけだから、ここのトーテムの在り様がよくわかる。

虎は本来単独生活者である。
しかし、父虎はたまに子供とその母に会いに来る。
なんだか微笑ましい。


これらのことから私の思い出すことなどを書いてみたい。


アムール虎の生態については、ニコライ・A・バイコフの名作『偉大なる王』に詳しい。
アムール虎の王様は生まれながらに額に『王』の字が、首の後に『大』の字が浮き出している。つまり虎の大王。中国語読みで『わん』である。
わたしはこの小説に感動し、一時その周辺を調べ倒し、溺れたり沈んだりしながら、やたらめったらシベリアから北方領土辺の地誌や小説などを読んだり民俗資料を見たりした。

だからちょっとはアムール虎にも詳しくなった。

『偉大なる王』は、生まれながらの大王虎の一生が静かな筆致で描き出され、精密な挿絵とともに深い印象を残す名作だ。
『狼王ロボ』のロボも凄いが、読後、悲しみの方が強くなる。
このアムール虎も最後は人の前で生を終えるのだが、偉大なる大王虎の最期の時間を、まるで皇帝の侍医のように見届ける猟師の老人がすばらしいのだ。
読み終えたとき、ある種の明るさが含まれた諦念が、胸に広がる。

時間が永遠のものになる感覚が、ここにはある。


TVを見ながら私は、様々な感慨にふけった。
そしてオリンピック後に今度はベンガル虎の特集をすると聞き、これまた関連することを色々と思い出している。

しかしそれはまた次回にしよう。
今はただ、『偉大なる王』に会いたい。

虎党の一員として『六甲おろし』をBGMにしながら。

明日に向けて・・・

明日はわたしが別名で参加しているweb上の団体で、嬉しいイベントのある日だ。それは水瓶座に入ったときから始まり明日がピークで、今週末には終わるそうだが、わたしはそこには参加表明せず、個人的にお祝いをした。少し前の山羊座の時にはお祝いループに参加して盛り上がったが、今回は個人で勝手に始め、勝手に終わる。
わたしのような人も割と多くいて、仲良しサイトさんのところへ遊びに行くと、やっぱり個人的お祝いという感じで色々とされる方も多い。
他方、参加されて愉しんでおられる方も多い。
わたしは掲載されている作品を眺めて愉しむ。

まずなにより、自分が楽しいということがいい。
わたしもその例に洩れない。
そしてそれらを愉しむお客様が、やっぱりなにかしら嬉しい気分になるのが、何より『お祝い』になるのだ。

わたしももう一本製作しようかと思ったが、ちょっと時間がないし頭が縺れているので、浮かんでこない。
でも、なんとなく楽しい。うん、それが一番。


鏡花本とその周辺

先々週に録画していた新日曜美術館の『鏡花本』を見る。
しばしば記すことだが、わたしは鏡花宗の信者である。
そこから現在の趣味の基盤が生まれているようにも思うほどだ。

今回英朋の『風流線』河童の多見次の絵にスポットライトが当てられている。
わたしは鏡花の作品ではこの長編『風流線』が一番好きなのである。
多見次または多見治のこの絵は、何年か前の弥生美術館での展覧会でもポスターになり、私の手元にある。

岩波の『風流線』は愛玩本となり、しつこくしつこく読み返している。

ところで、この小説で、というより本の編集で一つ不思議がある。
それは、小題『邂逅』回五十二のラスト近く、168ページのシーンについてである。アナーキーなテロリスト集団を率いて村岡不二太が旧友の技師水上規矩夫と再会する。
二人はそれぞれの恋でトラウマを抱えているが、再会の折に不二太は水上に許しを乞うようにして、
『村岡は君の、と・・・も・・・だ・・・ち・・・だ (中略)此の朋友を何うするか』
と泣くようにして訊ねる。
すると岩波版では、即、水上は傍らに向けて
『此の方たちの寝床は何うです』
・・・なんら葛藤もなく話がつながれている。

ところが筑摩版の明治文学全集に納められているところでは、村岡の台詞の後に、水上が彼をぶちのめすシーンがある。
それを甘んじて受ける村岡と、その場で泣き出す村岡の恋人・龍子がいて、そこで初めて水上が先のせりふを言うのだ。

数行のことだが、何故この文が消えているのだろうか。
小説は既に百年を経過している。今更『いつ』この文章が脱落したのかもわからない。
不思議でならない。
わたしはこのシーンがあるほうが好きだ。
しかしもしかすると鏡花本人が削ったのかも、と思うこともある。
『信友の寝床は何うです』という台詞が筑摩には入っているのだから。

しかし筑摩版も続編のほうは入れていないので、味わうときは両方を手元に寄せなければならない。それはそれで楽しいのだが。


先にも書いたが、わたしは幼児期に『琵琶傳』の美しい装丁をみて鏡花に関心を持ち、村松定孝の著作から進んで行ったのだが、ここに忘れてはならぬ方がある。
辻村ジュサブローである。
現名を寿三郎と記しておられるが、ここではあえてジュサブローと記したい。
『新八犬伝』『真田十勇士』の人形の数々、同時期の新聞連載小説の挿絵『まどう』、それらはわたしの魂に刻印を打った。
とにかくジュサブローの作品写真集を手に入れるためにどれほどの努力をしたかは、ハナシにできないほどだ。
また不思議な縁と言うものも、度々感じた。

何かしら、予感がする。私を呼ぶ気配がある。
歩き出すと、そこに『新八犬伝』上巻、中巻がある。行きつけの古本屋で不意に振り向くと、先ほどまでなかった『真田十勇士』の写真集がある。
静かな狂熱がわたしの身内を駆け巡る。
歓喜には熱狂が伴うものだ。それがなければ、わたしは愛せない。

わたしは実は本に対して激しい執着がある。
手に入らねば本に対して申し訳ないが、コピーするくらいだ。絶版ものに限って私の好むものがある。普遍化しないものにばかり愛を抱いてどうするか。
貴重本を全て撮影したときは眩暈がした。
だがどうしても、欲しいのだ。この欲望だけは抑制が効かない。抑制する意義さえ持たない。
つまりそうしたわたしのややパラノイア的な資質が、これらの蒐集を可能にしたのかもしれない。

話がずれた。
最愛のジュサブロー作品に触れるうち、彼が熱烈な鏡花宗の信者だと知った。
わたしは坊主憎けりゃ袈裟まで憎むが、愛するとその周辺にまで眼を向けなければ気がすまない。
ああ、鏡花。
わたしは延々とその美の世界に溺れた。
そこから周辺に愛を見出しながら。

清方の絵は『築地明石町』のような清楚で上品な美人画をよしとする向きもあろうが、わたしは『妖魚』『刺青の女』『ためさるる日』『二の口村』、卓上芸術では『少年』『朝顔日記』などにこそ、愛を感じる。雑誌『苦楽』表紙絵・口絵・絵物語などに。
そして清方の師の師たる月岡芳年、その師の一勇斎國芳にも深い視線が通いだす。
当然弟子たちにも眼が行く。
清方の系譜についてはいずれ別項を設けて延々と綴りたいと思う。

TVでは鏡花本の装丁に関わる三人の画家として、英朋、清方、雪岱を特集していた。
清方の本といえば、それはまことに美麗で、文章の美しさ・妖しさに劣らぬように心を込めた素晴らしい造りになっている。
橋口五葉の装丁も素敵だし、岡田三郎助の『草迷宮』の口絵も懐かしい、うつくしいものだが、ここではやはりTVに倣い、英朋、清方、雪岱に話を集めたい。

英朋は清方とコラボレートしてもいる。また、当時人気の『生さぬ仲』の口絵なども残しているが、相撲の取り組みを描き続けたことにも功績がある絵師だ。(『己が罪』もこの人だったか?)
何年か前の弥生美術館で彼の回顧展を見たが、その相撲の取り組みには実に感心した。
TVのない時代にはこうした写生図が一番よくわかるものだ。
こうしたライブ感溢れる絵は、須田国太郎の能狂言デッサンを措いて他にはない。
清方はその後本絵に移行し、雪岱も挿絵と舞台装置の二本柱で活躍したが、英朋はそうした意味では純粋な挿絵画家であった。
その辺の事情は本になって出ているので、ご一読をお勧めしたい。

清方と鏡花の友情は生涯続き、鏡花の死後、清方は『遺族代表』として皇居にあがる。
(しかも、その生涯でただ一度のフロックコートを着用している)
『苦楽』などで名作の絵物語化の企画があったときも、清方は『高野聖』を描いている。
そして『註文帳』をいくつかの情景に分けて描いてもいる。
先年、雪ノ下の清方記念館で『註文帳』原画を見たが、物語が言葉を使わずに伝わるように思えた。すばらしい作品だった。
また話はそれるが、大御所わたなべまさこが『註文帳』をコミック化していたのを読んでいる。十年近い前だから彼女が七十歳を越えたくらいの作品だが、すばらしいと思った。
現代で鏡花の世界を絵画化できるのはこの人と波津彬子だけではなかろうか。
艶麗にして繊細。そしてそれは清方の卓上芸術にも通じるものだと思う。

そういえばわたしは清方の師匠・水野年方による『黒百合』の口絵も好きだ。滝太郎青年が馬から下り、小手をかざす絵など、忘れがたい。

小村雪岱。
この人の絵を最初見たとき、関心が湧かなかったのは、わたしがまだそこまで到っていなかったからだと、今にして思う。
しかしあるとき、劇的に変化した。それは鏡花本の装丁『日本橋』と邦枝完二『お傳地獄』の挿絵をみたからだった。
ここでは鏡花本の話を進めるべきなのだが、やはり邦枝完二のための挿絵にどうしても言及したい。
『おせん』『お傳地獄』は二人の傑作中の傑作だと言うのは間違いない。
白と黒の妖艶な絵には、今でも息が止まりそうになる。
しかしこちらも複製や本ですら手に入れることが難しい状況にあった。

ある秋の日、国立劇場で『桜姫東文章』を雀右衛門で上演するのを楽しみに、赤坂に出た。
少し時間があったので、さるホテル内にある美術館に向かったが、ホテルから三宅坂へ出るまでに随分手間取った。案内が不親切でぐるぐるたらいまわしにされたのだ。
わたしがまだ二十歳少しだったからか、悪い応対に眩暈がした。
ようやく売店近くまでたどり着いたとき、ふと外人客が困っているのが目に付いた。
あ、この人もここの対応に困らされているのか。
そう思ったわたしは多少の義侠心?を出して、May I help you?と話しかけた。出口に行くなら一緒に迷いましょう、くらいの気持ちで。
聞けば、日本的な絵葉書が欲しいのだが何が良いのかわからないと言うのだった。
広重、歌麿、北斎は既に買い集めていると言う。困ったな。ここにそんなもの、ないぞ。美術館に行けばいいのだが、と言おうとしてわたしの目の端に凄いものが飛び込んできた。
雪岱の絵葉書である。
それも『お傳地獄』の彩色葉書。
お傳が刺青を入れる絵がそこにあったのだ。

もう不平も不満も腹立ちも一挙に消えて、買いましたね。外人さんにもお勧めした。
三種類全てを買ったときには勝った気分になっていた。ははは。
ああ、嬉しかった。

これを皮切りにどんどん雪岱の絵葉書や本が手に入るようになったのだから、不思議なものだ。今はなきリッカー美術館の画集、神奈川近代文学館の鏡花展カタログ、埼玉県立近代美術館の画集、雑誌『サライ』の特集などなど。
それから雪岱の随筆集。

やっと鏡花の話にたどりついた。
雪岱の随筆集には色々とわたしも思い入れがあるが、それを語りだすとやはり止まらなくなる。
わたしの偏愛文庫棚でその『日本橋檜物町』は静かに暮らしている。

鏡花の装丁は雪岱の一生の喜びになった。
彼は鏡花宗の集い『九九九会』のメンバーになり、毎月の飲み会を楽しんでいた。
彼の随筆だけでなく、水上滝太郎の『貝殻追放』や里見の随筆からも、その会の楽しさはよく伝わってくる。

雪岱は舞台芸術にも大きな仕事を残している。
今も人気演目の『一本刀土俵入』の装置が彼の仕事だ。我孫子屋の店構えなど、オオそこからまた話が飛びそうになる。初演時の酌婦に出た八世三津五郎の襟巻きの話などだ・・・
江戸と大坂の民家の作りの違い(春琴抄の舞台を作るにあたって)を見る話など。

鏡花は生前も徹底的に彼を愛する人々の支持のみを受けて生きていたようだ。
普遍にならずともよいではないか、一部の熱烈な信者さえあれば、とわたしなどは常々思うのだ。そうして鏡花を取り巻く人々はその高い芸術性を以って自らも輝いているのだ。
たとえ死後百年二百年経とうとも、鏡花芸術は生き続けるだろう。
それを確信して、わたしもまた今日も好きなものばかりを眺めて生きるのだ。

おばけといっても・・・

オバケと言ってもQ太郎や水木しげるせんせの仲間ではない。

祇園では節分の日の舞妓さんらの仮装行列をお化けと言うそうだが、大阪では子供に和装をさせたとき頭につけるのをおばけと言うて、ウチの母などは、
「あんたも小さいときはオバケしたげたんやで」
と言う。更には、
「孫が女の子ならと思ってオバケも大事に置いてるんやけどね」
・・・すんませんね。
妹の子供は男の子だし、わたしにはなんら予定がないもんで。
「ほな、わたしが今やろうか」
「やめとき、あんたが今したら、ホンマのオバケやー言われるで」
ほっといてくれ。

豆もまいたし、もうねます。おやすみなさい。

節分のことなど

今日は節分である。
TVでは東西の成田山の豆まきを中継していた。
千葉では横綱が豆をまいている。
日の下開山が豆をまけば、厄も消えるだろう。
江戸では市川団十郎家が成田さんを信仰しているので、ここはそれだけでも霊験あらたかなのだろう。

節会は京の公家文化から道を立てる。
豆も元は石だったそうだ。
『歴史を紐解けばそこに感動が』というが、慄然となることも多い。
以前、面白いことを聞いた。
中村勘三郎家では、豆をまくとき『鬼は外、福は内』と声を出すと、『ご尤も!』と箒を持ってついて歩く人がいたらしい。
個人的状況なのか民俗として広がっていたのかは、知らない。

昨日はまんが日本むかし話を見た。
孤独な爺さんがやけくそになり、『鬼は内、福は外』とやらかすのだ。
ニワカのような面をつけて。
するとそこへ鬼たちが『よく呼んでくれた』と喜んで続々と現れる。
人間に相手にされず、孤独に耐え切れなくなっていた爺さんは大喜びをし、鬼たちに焚き火のぬくもりを振舞う。
鬼たちは疎外されるモノたちとして、爺さんを仲間に見做し、大喜びで宴会をする。
爺さんは自殺をやめ、生きている限りは節分に鬼たちをもてなそうとする。
婆さんではこうはならない話だろう。

またわたしは毎年この日になると想う物語がある。
いわさきちひろの絵による『おにたのぼうし』だ。
鬼の子おにたの孤独と無償の愛と、そして。
・・・最後に女の子のまく豆のぱらぱらという音がわたしの耳にいつまでも残るのだ。

わたしのことにすれば、家では母が伊勢湾の海苔をもらったので巻き寿司を作ると言っていた。
恵方を向いて丸かぶりだ。大阪人だから沈黙して食べるだろう。
この『黙して食べる』けったいな風習は四十年前に海苔問屋の連中が考えよったことらしい。
とりあえず、続けている。アホらしいが、なんとなくオモロイので。

それから豆まき。
これは必ず行なう。
すべての戸窓を一旦開けて豆をまき、再び鎖すのはかなりの負担だが、必ずしている。

イワシは庭のヒイラギの木に直接刺すことにしている。
これが面白いことに細い枝で、登ることは難しそうだし、塀からも離れているのに、翌朝には何の痕跡もなくなっている。
猫はどうやってこのイワシを食べるのだろうか。
観察したいが、戸窓を鎖し引き篭もるので、見ようがない。残念。


もうすぐ三時だ。
今日のおやつはわかっている。
毎年欠かさずこの日には厄除け饅頭がいただける。
大阪南部にあびこ観音がある。
厄除けで有名な観音様。
わたしは北の人間だから門戸厄神が近いが、饅頭のおかげでかあびこ観音に親しみを感じる。(行ったこともないが)
ありがたいメーカーさんが毎年持って来て下さるのだ。
嬉しいなあ。
レンジでチン!してほかほかの厄除け饅頭がもうすぐ・・・

Muttoniに幻惑されて

久しぶりにムットーニの劇場が見られるというので、阪急に行った。
愛する忠太の建造物をナイガシロにされて以来足を踏みいれなかったが、ムットーニなら別だ。
私はアサヒグラフで見てからそのファンになり、キリンプラザで実物を見た時には嬉しくて仕方なかった。更に大丸でご本人による実演に出会えた際には、幻惑されてクラクラした。
間には世田谷文学館で『山月記』などを見ていたが、これも行くたびに楽しみで仕方なかった。

今回もなかなか大がかりである。関西初目見得もあるそうな。私は六時少し過ぎに入ったが、ご本人による実演が始まっていた。

作品を作る人は総じてメーカーである。
メーカーの語には当然ながら神様と言う意が含まれている。
それを実感するのがこのムットーニの世界だ。
彼を神として生まれたこの世界には一つの秩序がある。律とでも言うべきか、その中でからくりBOXと電気人形たちは生命を与えられ、それぞれに振られた役処をこなす。謀反は許されない。
彼等の神ムットーニは現代の錬金術師だ。
更には私たちのカリガリ博士だ。端正な面と少年のような肢体を持つムットーニの声は、人形だけでなく観客であるはずの私たちまでもたやすく支配する。そして私たちはその支配を快楽に感じてしまう。
危ない、それは危険だと理性が必死で呼び掛けてくるが、もう遅い。
気がつけば私たちの身体は縮こまり、表情筋はこわばり、思わぬ角度に手足が動いてゆく。動けなくなった、いや違う、人形になった私たちはムットーニの魅惑的な指に掴まれ、彼の次の迷宮の住人にされてしまうのだ。だから入った人より出て行く人が少ないのだ。きっとそうに違いない。

・・・そんな妄想に駆りたてる力がムットーニの世界にはある。


不調法な店員たちへの不満も消えるほど、彼の暗闇に輝く電球の世界は魅力的なのだ。

速水御舟 私見

速水御舟私見

大仰なタイトルだが、わたしなりの御舟芸術論のアプローチを試みたい。

小学五年生時の美術教科書に、近代日本画の代表として御舟の『炎舞』が掲載されていた。
それを見たときの異常な衝撃は、今も忘れない。
燃え上がる炎に次々と飛び込む蝶や蛾たち。

わたしは蝶が好きな子供で、近辺に大きな公園やガーデンや放蝶館があるのも幸い、好きなだけ蝶と戯れることを許されていた。
その大好きな蝶たちが炎に我から身を躍らせてゆく・・・

燃え尽きる情景ではなかったが、容易にそれは想像された。
虫の性質として灯や火に飛び込むことはわかっていた。
しかしそれでもその絵は衝撃的だった。

その衝撃は、私の意識の底にひそむ湖に沈められた。
子供がこの絵に対峙することは許されない、と本能的に忌避したのかもしれない。
以後長らく『炎舞』とは縁が切れていた。

’89.11は私にとって記念すべき月である。
それまで家族や友人と訪れていた東京に単身訪れ、五日ばかり滞在したのである。
その間何をしていたのか。
ひたすら美術館・博物館巡りを続けていたのである。
わたしには記録魔とも言うべき面もあり、日記だけでなくデータとして記録することも好きである。
だからこの11月初旬にはどういう巡り方をしたのかも、二十年近い後の今でもたやすく類推できる。

先日ブリヂストンの項で山種美術館のことを少しばかり書いたが、このときにわたしは山種美術館へ行き、そこで速水御舟と再会したのだ。
丁度その頃山種では速水御舟回顧展を開催していた。
当時、美術館は茅場町にあり、モダニズムの粋の中、絵画は見事な飾られ方をされていた。
『名樹散椿』をメインにした展覧会ではあるが、わたしの意識はやはり『炎舞』に引き寄せられることになった。
壁にかけられた『炎舞』は、黒塗りの式台にその姿を反映させていた。
わたしは絵そのものを見ず、黒い式台に浮かび上がる炎と蝶たちを見ていた。わたしの視線が動くたび、炎が揺れ、蝶が舞った。

どれくらいそうしていたか、わたしはやっと本当の絵に目を移した。
影から実体へ。
炎は煙を伴うナマナマしさをわたしの前に曝け出していた。
二次元のフィクションでありながら、わたしは口元を覆っていた。
蝶が死んでゆくのを実感として感じたのだった。



四年後山種でまた速水御舟展が開催された。
二ヶ月で展示換えを行なうというので、連続して通った。
そのとき『炎舞』は他の絵と共に普通の壁にかけられていた。
しかしわたしの目はそれを見ず、四年前の情景を『見て』いた。

このとき、黒猫と白兎の絵をみている。
にゃあとした黒猫。
黒猫といえば菱田春草の『黒き猫』か夢二の『黒船』の女の抱く猫だ。この頃、明治から大正にかけて黒猫は病を払うという俗信が広まっていたそうだ。
御舟の『黒ちゃん』はにゃーと鳴いて病を蹴散らしそうだが、彼はやはり夭折した。
夭折が病から来るものか事故によるものかは問題ではない。
御舟の絵には、夭折する者にしか描けない何かがあった。

それを深く感じたのは、’99.6月の横浜そごうでの里帰り展だ。
これは首藤さんという立派な方が敗戦直後の邦人を救う為、集めに集めた日本美術のコレクションをソ連に売り払ったというイワクつきの作品展だった。
コレクションは幸い散逸せず、現在ではロシアの某美術館に収められているようだが、そこでわたしは福田平八郎の紅白梅と小禽の三幅対と、御舟の花々に惹かれた。
福田の絵は、今日の彼の最大パブリックイメージのシンプル造形ではなく、野間記念館に多く残る色紙に表れるような、ほのぼのした花鳥画であり、見ていて心が豊かになるものだった。
一方、御舟。
「あ、死ぬな」
正直な感想がこれだ。
描かれた花は赤く可愛らしいのに。

不吉なものを感じたわけではない。
しかしなにかしら伝わるものがある。
それがこれだ。
「あ、死ぬな」

『生き急ぎの記』といえば藤本義一から見た映画監督・川島雄三のハナシだが、御舟に接していた誰かはそんなハナシを書かなかったのだろうか。御舟のパトロン吉田は彼の作品に危うさを感じていたのではないか。
画家の死とその風景については、例えば宇野浩二が小出楢重を書いた『枯れ木のある風景』などを読むことが出来る。
遺族から抗議を受けたとしても、作家は自分の目で見た物語を紡ぐ。

御舟にそれはないのか。
同時代人にとって速水御舟とはなんだったのか。

それへの答えはみつからなかった。
しかしわたしは武智鐵二の回想にその一端を見たと思う。

まだ京大生だった頃の武智はある日、御舟の花の絵を見かける。
因業そうなじいさんの店で、日に曝されている。
武智財閥の御曹司といえど一二の三でカネは出ない。
武智はこの頃京大の学生委員長だったそうだ。(だから滝川事件についても彼の回想は激しい)
彼は当時は一般的ではなかった月賦でその絵を需める。
すれっからしの客に飽きていたじいさん(彼自身がまずその元締めだ)は若い大学生に絵を持って帰れと告げる。
「あんたは学生で嘘はつかんやろ」
そう言って。

武智がその絵を買わずにいられなかった理由は、単にその絵が名品だからというだけではなく、今のうちに買わねば作者がこの世からいなくなるという切迫感に襲われたからだそうだ。
御舟の最盛期の最中に、武智はそんな衝動に駆られているのだ。

それが答えではないか。
同時代人武智の切迫感。
美の探求者武智鐵二を奔らせたのは、御舟の作品に漂うある種の危うさに感づいたからなのだ。

わたしは無論、御舟の死後何十年も後の人間で、彼を知ったときにはその評価は定まっていた。
彼の展覧会は間を置いて何度も行なわれる。
仮令回顧展などではなくとも、日本画名品展などには必ず借り出される。

御舟の絵の魅力、それは危うい均衡に立つものだ―――それは私いちにんの意識だろうか。
円満具足から遠く離れた、何かの極限に立つ絵。
それが御舟の美の本質だと私は思う。

しかしながらこの場で私が試みた論は、既に誰かの頭から零れ出ているのかもしれない。それであろうとも、わたしもまた言いたいのだ。
わたし自身が炎に飛び込む蝶になるために。
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