美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **自宅でログイン出来ないので、現在「遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う」で感想を挙げています。

蕪村と呉春 雅俗山荘での最後の展覧会

逸翁美術館が移転するのはわかっていたが、やはりこの雅俗山荘から離れるのは淋しい。
空間そのものが所蔵品の位を高めていたように思う。
新しい美術館は池田文庫の隣に建ち、この山荘は逸翁記念館になるそうだが。
その雅俗山荘での最後の展覧会は『蕪村と呉春』。前期終了間際に出かけた。

池田は古い地で、渡来人が織物も伝えてくれたりしている。
呉春はその池田を愛し、そこに8年ほど住んで制作に励んだ。

hpにはこうある。
与謝蕪村は、南宗画法を消化して、独自の様式を創造し、池大雅と並んで、日本南画の大成者と成りました。また、軽妙洒脱な俳画の世界を完成させ、自らも天下一と自負するほどでした。蕪村は俳人でもあり、その句は画人として名を成しただけに、極めて絵画的でした。
 呉春(松村月溪)は、蕪村に俳諧と絵画を共に師事し、師風をよく取り入れた南画や俳画を多く描きました。師の死後、池田から京都に住まいを移し、円山応挙の画風も加味して、詩情豊かな画風「四条派」を創り上げました。


池田には今も清酒「呉春」の酒蔵がある。呑んだことがないのでよくわからないが、酒蔵がある風景は、それだけで気持ちいい。

玄関を行き、すぐのケースに師弟の牛若丸と弁慶がいた。
 牛若丸画賛  与謝蕪村 と呉春と。
丸顔と言うより大福のような牛若丸は師弟共通しているが、弁慶は微妙に違う。
七つ道具を負うているのは同じ。なんとなく楽しい。こうした俳画の良さは最近になって味わえるようになってきた。軽妙洒脱さが実にいい。
蕪村の方には素敵な句がついていた。
雪月花 つゐに三世の ちぎりかな
主従というよりも・・・ああ、すてきだ・・・

濯足万里流図 与謝蕪村  昨夏の展覧会にも出ていたが、オジサンが足を水に浸している。まぁあんまりうれしくない。特にこのオジサンの睫毛がビミョ?なのだよ・・・

ホールに移る。
五老酔帰図 与謝蕪村  これは二年前に新発見のやや大きい幅で、画面いっぱいに酔老と支える侍童らがいる。髪の毛の墨黒と花の桃色とが眼を惹く。

寒山拾得図 双幅 呉春  グロさは薄く、風狂の二人の楽しそうな様相が描かれている。目元が優しかった。やはり呉春の絵にえぐいものはない。

句の短冊もいくつかあり、絵だけでなく書の楽しみもそこにあった。江戸時代とは実に風流だとしみじみ実感する。
呑んで句をひねって絵も描いて。ああ、あこがれるなぁ・・・

十二カ月行事句画賛巻 松村月溪(呉春)  節季候から初午稲荷に始まり、雑多な人々の姿が活写されている。唐津くんちに出そうな大きい鯛が何匹も並び、まことにめでたい。
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奥の細道画巻 与謝蕪村  新館展示で上下とも開かれていた。手が違うのに初めて気づいた。蕪村だけでなく違う人も文章を写したのか。
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白梅図屏風 呉春  呉春の中でいちばん好きな作品。縹色の背景に白梅が咲いている。
満開ではなく蕾に近いような。可憐な愛らしさに満ちている。これは2/6からの後期展示には出ないので、見ておいてよかった。
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新館に踏み込んだとき、真正面に見える壁展示ケースに鎮座ましましている。
白梅に惹き付けられて真っ直ぐそちらへ歩いたが、本当に季の美そのものだった。
2/6から3/2まで後期展示。それが終わればこの空間での展覧会は終わる。
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俳画だけでなく、絵俳書と摺物を観る機会が少し前にあった。
昨日挙げた宮武外骨展は伊丹市立美術館だが、併設の柿衛文庫では『初春のよろこび』として俳人の短冊や摺物を展覧していた。

江戸時代には初春の言祝ぎをする万歳があちこちに現れた。
蕪村  万歳や 春はじめての みやこ人
素檗  万歳や されば是はの 春の友
こちらはネズミの万歳と才蔵。
子年らしい選択。なんとなくこういうのが楽しい。寛政四年(1792)。
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月渓(呉春)の京名所双六もあった。これはかなり流行したそうで、模写や刷り物が伝存しているそうだ。

池田も伊丹も共に古くからの町で、共に酒蔵を抱えてもいる。
地元にこうした町があることが、なんとなくわたしには嬉しいのだった。
こちらの展覧会は2/17まで。

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宮原外骨・稀代のジャーナリスト展に行く

伊丹市立美術館で宮武外骨の展覧会が開催されている。
明治から昭和にかけて「滑稽新聞」などを出版し、 “過激にして愛嬌あり”の精神で大活躍し、入獄したり喝采されたり、好むところに生きて、88歳で世を去った。
そのカゲキにして痛烈な批判精神を展覧会で見ることが出来る。
「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもせず、ハッタリもせず」。
この言葉を編集方針に、雑誌の表紙にも書き込んでいる。
大正時代には、大志があるとか大義があるとか言ってあちこちエラソォに無心して歩く輩がいたそうで、石川淳の『白描』にそんなキャラが出ている。
だからこういう台詞はギャグ+リアルなのだ。
わたしが行った日は赤瀬川原平X南伸坊の対談日だったが、生憎なことに赤瀬川氏が体調不良で欠席になり、展覧会の企画の方がその任に当たった。
面白い内容だったろうと思うが、わたしも急に疲れてきて、残念ながら聞くのをやめた。
たいへんな人出だったので、会は盛況だったろう。
mir515.jpg ミヤハラ・ガイコツとは凄い名前だ。

先日小林かいちの展覧会の折に挙げたチラシの中に、雀の舌を切ったと同型の鋏の絵があり、そこに男と女の横顔が描かれていた。キャプションは一言「切っても切れない仲」。
一事が万事こんなセンスで「滑稽新聞」も「スコブル」も出版され続けた。

ところでわたしが宮武外骨の名を知ったのは、マンガからだった。
小池一夫作・上村一夫画『修羅雪姫』の後半に奇人の小説家・宮原外骨が現れる。
その名前のイメージが強く印象に残っていたので、後年そのモデルの宮武外骨の奇行や写真を見て、なんとなく親しみを懐いていた。

それにしても明治生まれの人間には偉人と奇人とが混在している。
『滑稽新聞』も『スコブル』もみんなヘンである。
幕末のええじゃないか精神が引き続いたか、明治初の日日新聞などを見ると、今日のスキャンダルもメじゃないような、ケッタイな事件・ケッタイなニンゲンばかりが集められている。
これらの新聞を集めた展覧会は昨年の伊丹市立美術館の正月展だったが、今回地下の企画室にいくつか展示されている。
どちらもやっぱりヘンである。
mir516.jpg 痛烈な諧謔精神は絵にも表れる。
ちょっと面白いのはこちら。mir515-1.jpg


外骨は私生活でも色々あったようで、作り手側の方が取材ネタより面白い状況にあった。
戦時中の魚釣りがそれだけで面白い。韜晦もここまで行くと酔狂としかいいようがなく、それが生涯続いたのは、全く以ってすばらしい。なかなかそんな領域にはたどり着けそうにない。
外骨と言う名をガイコツからトホネに変えたとき、小林一三からユーモアに満ちた手紙が届いていた。それを見ると外骨と言う人が個人的にも人気者だったとわかる。
ニヤッと笑う内容の多い展覧会だった。
伊丹市立美術館は耳長斎以来、大阪の諧謔味をテーマに楽しい展覧会を年初に行っている。
今から来年の展覧会が楽しみになってくる、そんな良さがここにはある。
展覧会は2/17まで。どうか楽しんでキテクダサイ。


「世界遺産」と「写真の美術」

十日ほど前、大丸梅田で『ベスト・オブ・世界遺産』写真展を見に行った。
TVを見ないから知らないが、『世界遺産』の番組が人気だそうで、そこに紹介された世界遺産の写真が地域別に展示されている。
エジプト、ローマ、中国、欧州、南米、アジア、日本、そして海。
大変な人気だった。
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知ってるところと言っても、「行った」「見た」「聞いた」では深度が違う。
エジプトのアブシンベルの映像は見ていても、実際に行くことはないので、画像上での知識に過ぎない。
ヴェネツィアに遊んでも、細かいことはわかっていない。
しかしそれだからこそ、この番組が好まれているのかもしれない。
それにしてもなんと世界遺産とは偉大なのだろう。
これらの全てを見て回ることはできないが、平面的な「見た」「知った」であろうとも、深く喜ばせてもらえるのだ。展覧会は既に終わっているが、巡回すれば随分人気の出る企画だろうと思った。

一方、大阪市立近代美術館(仮)では『写真の芸術X美術の写真』展を開催している。
こちらは26日の初日に出かけた。
副題が『「浪華」「丹平」から森村泰昌まで』とあるだけに、’30年代のゼラチン・シルバープリントの素敵な写真たちも並んでいる。
わたしは’20?’30年代の古い写真がとても好きで、これまでにも多くの展覧会に出かけているが、今回は大阪に本拠地を置いていた写真倶楽部『浪華』と『丹平』での作品が色々出ているので、喜んだ。
実験的な技法も多く、見て回るのが楽しかった。
いくつか気に入った作品がある。
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河野徹 砂漠 波打つ砂漠の風紋を捉えている。不条理さを感じさせるほど、不毛。
アントニオーニの映像を思い出す。永遠に、不毛。

川崎亀太郎 秋の彼岸日 屋上の金網越しに、彼岸参りに行く人々の姿を捉えている。
様々な家族の姿があり、行く人もあれば帰る人もある。
佐保山尭海 大仏殿大屋根より タイトルどおり、大仏殿の大屋根から見下ろす作品。
筋目の通った瓦の海からまっすぐ滑落して地面を越え、向こうの屋根にたどりつく。
そんな動きのある写真。

安井仲治 海辺 突端へ向かう道には枕木が埋められている。学帽をかぶった少年たち、そして波上にはヨットが幾隻か漂っている。

梅阪鶯里 田の雪 これは当時主流になりつつあったゼラチン・シルバープリントを拒み、一世代前のゴム印画で作られている。雪がモコモコしている。ちょっと不思議な面白さがあった。
その一方、ゼラチン製の「紫陽花」は静寂な作品だった。

杉本博司の映画館シリーズは発表当時から好きで、資料を集め続けている。
チラシにあるのは「インペリアル・モントリオール」劇場。
これを見て思い出したが、京都の専門館「八千代座」はとても素敵な建物だった。
そして大阪千日前の「国際劇場」は映画館というより、舞台そのものだ。

やなぎみわ 案内嬢の部屋 実はこの建物がどこなのかそれが気になって仕方ない。
ちょっとしたトリックを使っての建物「構造」にはときめいた。しかし私はこの作家は少女や老女が好きなので、このシリーズはあまり興味がないのだった。

山中信夫 ピンホール写真で都会や田舎の風景を切り取っている。暗い背景と、光を放つ丸い輪。ひどくノスタルジックで、とても惹かれるものを感じたのだった。

トドメは森村泰昌だった。
このシリーズはひどく面白かったが、改めてこの「美術史の娘」を目の当たりにすると、ややグロテスクささえも感じ取ってしまう。顔の大きさ・手の大きさなどからか。
しかし一方で「楽しい」と感じてもしまう。
今度この人のゲバラを清澄まで見に行くつもりだ。とても楽しみなのだった。

なかなか満足したが、リストがない。本は安いがちょっと悩んでいる。展覧会は3/23まで。


映画『スウィニー・トッド』を見る

池田にある映画館『池田中央』まで『スウィニー・トッド』を見に行った。
大阪府知事選挙に投票してからでかけましたよ。←オトナノギム。
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元々有名なミュージカルが原作だと言うだけに、わたしもなんとなくタイトルを知っていた。
『悪魔の理髪師』・・・納得。日本でも上演されている。
以下、ネタバレ大有りです。

パラオ−ふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功

秋にこの世田谷美術館で『福原信三と美術』展に来たとき、チラシを見て胸を衝かれた。
わたしは中島敦を偏愛している。そして決して行くことはないが、ミクロネシア・ポリネシアに対して深い憧憬がある。何故この展覧会に行かずにいられるだろう。
わたしの1月・東京ツアーの目的の半分がこの展覧会だった。

戦前・戦中の大日本帝国の南下政策の中で南洋がどういった地位を占めていたのか詳しくは知らないし、知ったことで重いものを抱えるのもつらいので、調べないでいる。
だから私にとって南洋と言うと、高橋葉介の諸作品に現れるか、『浮雲』のどうしようもない二人の出会いが思い出される。映画『戦場のメリークリスマス』や水木しげるの追想作品は、もう少し方角の違う地が舞台だったか。
魔都・上海、浦塩、南洋・・・憧れが巨大化すると妄想が生じるばかりだ。

中島敦が重い喘息持ちで、少しでも暖かい南の国へ行こうと望んで、それが却って身体によくなかったということは、「中島敦」の名や作品を知ったときに、同時に知った。
教科書に『山月記』が掲載されていて、作品の後に著者略歴がある。そこで知ったのかもしれないし、教師の解説が耳に残ったからかもしれない。
受験勉強以外の教育に力を入れていた母校はプリント授業が多く、公民も日本史もとうとう一度も教科書を使わなかった。私学だからこその恩恵だろう。
現代国語でもプリントが多く、『山月記』の直後に『牛人』を知ったことで、中島敦にのめりこんでしまった。教師はたぶん喜んでいたと思う。
こうしたノスタルジイと妄想に近い憧れに衝き動かされて展覧会を見るのだから、ただただ胸苦しいまでにときめきつづけた。

会場入ってすぐに二つの映像が巨大スクリーンから音もなく流れ続けている。
新潮文学アルバムの映像化とでも言うべき内容。年譜もある。
それを交互に見上げる。
1900年生まれと1909年生まれの二人の男の邂逅は1941年だった。
数ヶ月の交友は、しかし非常に深いものだったと思い知らされる。
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わたしは「日本のゴーギャン」と呼ばれた土方久功を知らなかった。
土方姓と聞けば土方歳三、土方与志くらいしか思い浮かばない。
その土方与志の親戚が土方久功なのだった。
彼は彫刻家で民族誌家で詩人で、帰国後はかつて過ごした南洋の文化を、この国に贈り続けた。
彼の作品が最初に展示される。
木彫レリーフと明るい絵画と。モティーフは全て南洋に尽きるが、絵画と木彫との差異は大きくはない。相互補完しあっているような感じがある。
『国立民族学博物館』の展示(特にポリネシア文化)に溺れ、諸星大二郎『マッドメン』にのめりこんでいた時期を過ぎ、今のわたしでは少し南洋の人々に風物に距離がある。
しかしこの『猫犬』は可愛い。撫でてやりたくなる彫刻だった。
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土方の絵画や工芸より、詩作や日記に惹かれるものが多かった。
擬古調の詩はどことなく白秋や杢太郎の世界を思わせたが、南洋での詩は魔術的リアリズムとでも言うものを感じさせた。そして帰国後の晩年に向かう頃の詩はまっすぐで、透明さに満ちていた。
(これらの詩や南洋文化についての論文などが、三一書房から刊行されていることが、妙に嬉しくなった。さすがという気分である。)
土方の日記やエッセーがひどく面白かった。
もう一人、ミクロネシアといえば忘れてならぬのはポール・ジャクレーなのだが、彼と土方は山城丸という客船に同乗していた。
少しだけそのことが書かれていて、ジャクレーファンの私は嬉しかった。
ここらあたりは図録を買い、後で詳細に読むことにして、会場を見て回った。

中島の展示を見るより先に、少し先で放映されているVTRを見に走った。
数年前、野村萬斎が世田谷パブリックシアターで上演した『山月記』の丁度袁 がトラになった李徴から告白を聞く件に差し掛かっていた。
能面と白い衣装とが心に残り、萬斎の魅力的な声にも口惜しいが、ゾクゾクした。
芝居を見ていて、李徴の虎への変容は非業ではなく宿業だと考える。尊大な羞恥心、臆病な自尊心・・・世界の原初の悪意は静かに彼を浸食する。

ついで『名人伝』が始まったが、途中で席を立った。萬斎の声が背後から追いかけてくるのを感じ取りながら、今度はムットーニのからくり『山月記』を見た。
こちらは世田谷文学館に展示されているもので、わたしは行くたびに楽しみにしている。
満足してコーナーを出ると、再び萬斎の声がする。
「・・・人生は何かをするには短すぎ、何もしないなら長すぎる・・・」
萬斎=<中島敦>の役柄を超えた何かがそこにあった。

神奈川近代文学館で見ていたが、ここでこうして改めて中島敦の生の原稿を見れるのは嬉しい。『耽美派の研究』を読む。とても判りやすい読みやすい文字が並び、書き換えもない。
ないのは、書く以前に凄まじい推敲を脳内で行っていたからなのだった。
夫婦』初見。帰宅後ネットで読んで笑ってしまった。中島敦はマジメなまま凄いギャグを飛ばしている。
一方、中島敦は泉鏡花の文章をたいへんに褒め称えていた。わたしは鏡花をやはり偏愛しているので、嬉しくなった。

文学者の生原稿を見ると、必ず(その続き)が読みたくなる。
ここにあったのは『木乃伊』『狼疾記』『狐憑』『悟浄歎異』などであった。
他に中央公論誌上に掲載された『弟子』があり、見るとその挿絵には虎猫が描かれていた。
何とも言えず可愛くて逞しいトラネコだった。
また、本人による西遊記の戯画もあった。

最後に、パラオでの二人の深く楽しい交友がそれぞれの日記から読み取れる展示があった。
ここでの土方の闊達な日記に登場する中島敦?トンちゃん?はとても可愛い。
「トンちゃんはサツマイモとバナナがあれば飯はいらないと言う人間だった。」
嘘みたいに可愛い中島敦・・・・・・
マンゴーをむさぼって「うまいうまい」を連発する様子を読んで、わたしもマンゴーが食べたくて仕方なくなってきた。
わたしが最初にマンゴーを食べたのは丁度十年前だった。後輩の父上がマニラに駐在していたので、贈ってくださったのだ。今でこそコンビニ菓子にも登場するマンゴーだが、最初に食べたときの衝撃は大きかった。あの官能性は言葉では表現できない・・・
中島敦がマンゴーを「うまいうまい」と喜ぶことに私も深く満足した。

二人の集めた風景絵はがきがたくさん展示されていた。
モノクロ写真に手彩色。マーシャル諸島、ヤップ島、サイパン、パラオ。
豊饒で爛熟の地。ナマナマしい笑顔の女たち・・・
そういえば伊東深水もかつて南洋の女たちを作品にしたことがある・・・
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深い満足と重い図録とを持ち帰って、東京ツアーは終わった。展覧会は1/27まで。



北斎 ヨーロッパを魅了した江戸の絵師

北斎の人気の高さには感心する。
江戸東博で北斎の展覧会があるのはわかっていたが、ニュースで大混雑だと聞いて思案していたのだ。しかし私の襟首を掴まえる手があり、土曜の夜間開館に出かけた。
とにかく人は多い。北斎展は東博で開催されたときも大繁盛したし、個人コレクションの北斎展でも、息苦しいくらいお客さんが多かった。
これでは感心より寒心だった。しかし中に入った以上は、とことんまで見ないと気がすまない。
「がんばろーおおー」・・・がんばれないくらい、人が多かった。
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オランダ国立民族学博物館はじめ、諸外国に所蔵されている<北斎工房>の作品群は、奇妙な彩りに満ちていた。
絵の構図には奇異なこともない。それどころか知っている気がする。・・・それも道理でほぼ同じ構図で版画が流通している。ところがそれが肉筆彩色版になると、非常に不思議な世界になる。
洋画の技法を流用したとはいえ、どうにも不思議な感覚である。
外人の描く東洋、そんな感じがある。つまり意識の錯綜がそこに生まれている。

魚屋北渓や北斎・応為父娘協働だと推定されている作品が幾つもある。
摩訶不思議としか言いようのない感覚。
なんとなく清朝末期頃の風俗画の色彩にも似ている。
この世の外の風景を描いたような。
幻惑されてしまった。

作品のうち、面白いと思ったものをいくつか挙げる。
『茶店と往来』 鳥刺しの姿があった。お鷹の為の鳥刺し。けっこう威勢が強かったらしい。お鷹の威を借りてのごり押しも多かったそうだが、ここでは普通に歩いている。

『初夏の浜辺』 巨大な碇で遊ぶ子ら。時間の止まったような。永遠の初夏の風景。
どことなくシュールな感覚さえある。

『素麺作り』 江戸以外のどこかの地で。座して手繰る細糸のような素麺。車座になって手繰る姿はまるで「百万遍」の数珠のようである。

『西瓜の陸揚げ』 縞なしの西瓜。時代を感じさせる。黒緑の丸い玉。小舟から放り投げるが、その放物線まで見えるような空間。しかし動きは感じられない。
しかしその素描がそこにあり、こちらは人々の動きがあり、息遣いさえ感じられる。
ところで夏生まれのわたしは西瓜が大好きで、一度この江戸時代の西瓜を食べてみたいと思っている。

『海女』 なんとなくこれは北斎一人の作のような気がする。喜んで描いたのではなかろうか。ぬめぬめぬめぬめしている。

この後にはいつものというか、「北斎」ブランドの富嶽三十六景や諸国瀧廻りなどが並ぶ。
しかし先の洋風肉筆画を見たあとでは、安堵できるというより「・・・そうね」と言う気分になった。毒気に当てられたのが抜け切れていないのと、人々の群がりとで、嘘くさく感じたのかもしれない。
しかし摺物は楽しい。これまでにも色々見てきたが、読める程度の句もあるので、なんとなくいい感じだ。しかも摺物はお金をつぎ込むから、技法も様々なのである。

再び肉筆画、ただし国内向け。
『瑞亀図』 去年府中の動物画の百年にもお出まししていたが、改めて眺めるとやっぱりヘンな絵である。井戸から亀が出てきて、翁も媼も喜んでいる。これを物語にすると杉浦日向子なら『百物語』にしてしまいそうだ。
奈良県立美術館所蔵だが、あそこは時々不思議な所蔵品を見せてくれる。

『夏の朝』 鏡を見る女。この構図はお気に入りなのか、他にも見ている。昔、麻布工芸館だったか、そこのチラシやナビオでの展覧会でも見た。どちらの美術館も今はないが。

『松下群雀図屏風』 北斎の小禽の眼は個性的だと思う。わたしがトリオヤジと呼ぶ若冲のそれとは全く別種の生物のような目をしている。ベタぬりの目。しかしそれが愛らしい。
田中本家の所蔵。・・・数年前、須坂の田中本家の雛人形を見物に行ったとき、地元新聞の取材を受けたことがある。それであがってしまい、ここで見た名品は半分くらいしか思い出せなくなっている。

『雪中鷲図』 えらそぉな鷲である。フンッと鼻息が届きそうだが、こいつの眼もベタ塗りでどこかにくめない。

『花和尚図』魯知深。棒を振り上げている。松葉が舞う。『新編水滸伝』の挿絵を描いているが、やはり好漢図は後進の国芳に尽きるように思う。

『恵比寿図』 えべっさんは普通、鯛をつかむものだが、ここではヒラメかカレイかと一緒だ。咄嗟にどっちがどっちか忘れてしまった。

『竹林の虎図』 北斎のトラはいつもいつもちょっとヘンでかわいい。キモカワイイ。ヘンなシマ虎。竹に巻きつく虎。

『唐獅子図』 こちらも変な顔である。なんとなくへん、それがいい。

『生首図』 恨みの残る顔。歯茎は黒ずんでいる。元からなのか死んだためなのかはわからない。縄と柄杓と細竹と。杉浦日向子『百日紅』第一回目を思い出した。
想像でなく写生しながら描いたような。

『日の出と双兎』 天保14年(1843)の干支。白と茶のうさぎ。大体なんでウサギと言うのは絵になるとあんなに魅力的なのだろう。

版本も集められていた。
『東都勝景一覧』『画本狂歌 山満多山』『絵本隅田川 両岸一覧』などは慶應大図書館のデジタルアーカイブスにも収蔵されている。
わたしの見た『山』は洗い髪の女と、二重瞼の金太郎風の子供の2ショット絵だった。

『幾夜星』 柳亭種彦の読み本で、四谷怪談の書き換えらしい。お岩さんでなくお沢という名での怪談のようだ。

『皿皿郷談』べいべいと読む。馬琴の作。こちらは紅皿欠皿姉妹の継子いじめ譚である。
これは幕末には舞台に乗り、三世田之助がこの芝居の最中に怪我をしたのが元で・・・

化政期の陰惨で残虐な嗜好の濃い物語は、なんでこんなに面白いのだろう。

かなり濃い展覧会だった。
しかもこの特別展だけでなく、常設展では『北斎漫画』の展覧会が開かれている。
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実は私、何年版のかわからないが、北斎漫画は実際に手にとって眺めたことがある。
大阪市平野区は何年も前から『町ぐるみ博物館』を開催していて、決まった曜日になれば、商店や江戸時代からの町家や普通の民家でも、お宝開陳を続けている。
それでさるお宅では浮世絵コレクションをされていて、そこで北斎漫画を開かせてもらったのだ。何篇のかも忘れたが、ご厚意に感謝している。
見ていると面白いことは面白いのだが、ちょっとわたしのセンスと合わないところもある。
北斎より国芳ファンだからかなぁ・・・しかしこの企画展では復刻版画も展示していて、「がんばってるなー」という好意を抱いてしまう。
楽しむにはちょっと疲れていたので、残念ながら簡単に通り過ぎてしまった。
特別展は1/27まで。企画展は2/11まで、どちらも江戸東博で。



片岡球子・追悼

先日、片岡球子さんが亡くなった。これはささやかな個人的追悼である。

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どちらかといえばニガテな画家だった。
美人画、花鳥風月、線の美を愛する私には、手にも眼にも余る画家だった。
特に面構えシリーズは一目見て逃げるほどだったが、しかしあるとき思いがけずファンになる契機が生まれた。

過日書いたようにわたしはカレンダーを愛している。美と機能を併せ持つ存在・カレンダー。
そのカレンダーの大半を私は会社から持ち帰る。会社に届くカレンダーは良いものが少なくない。そのとき画家の名を見ずにめくったカレンダーにひどく惹かれた。
そこには富士が描かれていた。富士山と手前に元気いっぱいな花々と。
富士山は青く塗られ、背景の空は黄色に染まり、楽しげな雲が湧いている。
天衣無縫、という言葉がアタマに浮かんだ。
日本画の枠をはみ出してひたすら疾走する。悲愴感はなく、元気いっぱいな明るい逞しさ。
一目で惹かれてそれを手に入れた。
実物の富士山は好きなのだが(車窓から見るそれ)、描かれた富士で好ましく思うのはわずかだった。
北斎の富嶽百景のうちいくつか(大抵それは遠目に矮い富士である場合が多い)、横山操の清雪富士(白雪がジェラート状だった)、それくらい。
ニガテな富士の絵は数多いのだが。

この富士はええやないの、とめくった視線の先に「球子」のサインがある。
日本で球子と言えば片岡球子しか知らない。
まがうことなく片岡球子の富士シリーズだった。
今でも面構えシリーズはニガテである。
苦手なものを克服することは尊いかもしれぬが、わたしはそこから遠く離れて生きている。
偏ったまま生きている。そしてそれをよしとしている。
面構えシリーズには引くが、富士シリーズには惹かれる。それでいい。
もう二度と新作には会えぬが、片岡球子の描く富士山から貰った元気は失われることはないだろう。
しんどくなったら球子の富士を見て、嘘でもいい、カラ元気を出そう。
もたれかかったり・癒されたり、は他の絵に任せて「元気」は球子さんの絵で行こう。
ありがとう、球子さん。
どうか彼岸の彼方であなたの描いた「面構え」の人々と楽しい時間を過ごしてください。
一言だけお礼を申し上げます。

『国宝 雪松図と近世絵画』展 

「国宝 雪松図と近世絵画」展を見た。
「お正月は雪松図から」とキャッチコピーがついている。
年末に始まった展覧会なので、何人もの先達の記事を見て「・・・ほほー」と興味を持った作品もいくつかあるが、直に見れて、やっぱりよかった。

茶道具を眺める。
明代の香炉に近代の火屋を乗っけたものがある。火屋を穂家とするあたりがいい。
銀製の二見ケ浦夫婦岩の図像。実はわたし、おとどし初めて伊勢に行ったのだ。
なんとなく「うわー」なリアルさ。

享保時代の三井高平による青楽茶碗 苔むした色合いで、見込みに4つの☆がある。
プロでなく三井北家の当主の手遊びなのだが、それが何とも言えずよかった。

同じくその父子合作による赤楽大福茶碗(字面だけ見れば赤福餅のようだ)これは見込みに亀が描かれ、外側には吉祥文様が描かれている。

ノンコウの赤楽もあり、楽しく見て回った。

さて絵画。
清長 駿河町越後屋正月風景図 これは随分見ているが、それでもお正月に見るとなんとなく明るい気持ちになる。富士山に見守られて三井家は末代まで商売繁盛なのだろう。

わたしは近世風俗画が好きなので誰が袖図を見ると、それだけで喜ぶ。
二点出ていたが、どちらも似ているように思う。
海松貝、揚羽、笹竜胆、帯には鹿、それから疋田絞に揚羽。
実際に着るかどうかは別として、誰が袖文様は一目見るだけで嬉しいものだった。

17世紀の美人図 これはお能仕立てで、この美人は額に能の鉢巻を締めているだけでなく、着物の柄は牡丹に獅子なので「石橋」を想起させるように描かれている。
ただし面はなく、おんなはきれいな顔を晒している。

蹄斎北馬 遊女とかむろ図 三人の後姿が描かれている。顔を見せないことが床しく、却って想像力が働き、印象的な作品だった。

鳥文斎栄之 桜下美人図 賛は蜀山人。こちらも花魁とかむろがいる図。あいにく賛は読めなかった。

応挙 雪松図 この試作というか同じ題材で若い頃に描いたものが逸翁美術館にある。それに比べるとやはりこちらは落ち着いた作品である。
ちなみに昔新井薬師辺りにあった頃の三井記念の半券がやっぱりこちら。
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雲龍図 白抜きの波の上に龍がいるが、この龍の目はこちらを見ている。射抜くような眼、と言うより「あー意識してるな?」な眼である。コワモテに見えて実ハお茶目さんなのかもしれない。

呉春 四季草花図小襖 ここには草花が描かれているが、泉屋の蔬菜図巻も忘れがたい。
土筆、菫、蓮華、牡丹、露草、うこん、水仙、笹・・・
花の名前を連ねるだけでも楽しみが湧いてくる。七宝金具に三井家の桐文もある。

東都手遊図 源 「三井家六代高祐が27歳離れた弟高就誕生に際して、応挙の高弟源に注文したものです。」と解説にあるが、意外なことに初公開と言う。絵葉書で前々から見知っていただけに「あれれ」である。美人画の多い源の愛らしい絵。江戸人の好むミミズクの玩具。
兄の後にこの弟が七代目を継いだそうだが、27歳差の兄弟と言えば呉春と景文とを思い出す。なんとなく一人で楽しい。
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亀岡規礼 酒呑童子絵巻 しっかりした線描に鮮やかな色彩。4シーンが出ている。
?宴会。床の間には青磁の瓶があり、肉の乗った盤が置かれている。ご馳走(でも人肉)。
まだヒトの姿をした大男がくつろいでいる。頼光ご一行の方がよっぽど悪相である。
?神様の支度した鬼毒酒に酔っ払い、酩酊状態の鬼たち。柘榴入りの盤も見える。(ザクロは血の味、赤い味・・・)
?寝込んだ鬼たちを尻目に隣室で姫君たちと談合・・・みんななかなか悪人面に見える。
?四天王たちは鎧着用に及ぶ・・・

アルコーブには切手が並ぶ。今回はルーマニアの切手だが、ドラキュラ伯の図柄はなかった。なんとなく残念だ・・・。

最後の展示室に来ると松阪三井家に伝わる作品たちが並んでいた。
ここに抱一の仏画があった。
皆さんのブログで見てギョギョになった仏画。観音図。足元には波。
暁斎の観音図のややグロさに比べるとまだ温和ではある。

弟子の其一は応挙に倣うとして大黒などの図を描いているが、こちらはみんな丸々している。本歌がどうかを知らないので、この丸々がそのままなのかどうか。

狩野常信 盧山図 三幅図で滝・庵・月を描いている。大瀑布。・・・盧山の滝を見ればすぐに「盧山昇竜覇」と叫びそうになるのもなんだかな・・・。

狩野常信 郭公図 カッコウはホトトギス。ホトトギスの字は実に多い。不如帰、杜鵑、時鳥・・・浪子と武雄、トケンイッセイ、側室コロシ・・・。
これは啼きながら飛ぶのがなるほどホトトギスなのだろうが、絵ではこの状態を見ていても実際の鳴き声を聴いたことがないのだ。

狩野惟信 源氏物語 夕霧・浮舟 これらの絵は三井家の息女たちを楽しませたのだろう。

土佐光起 天神図 この天神さんは怒ってはる?上畳に座しておられるが瞋恚に燃えてる?怒りのカンコーなのでした。

景文 清水寺・熊野図 二幅のうち一は清水の舞台遠望。一は熊野(ゆや)がうずくまるような姿を見せている。嘆きの姿。身体の描線自体が能楽図になっている。

牡丹小禽 景文 雀が可愛い。こういうのを見ると、三井家が四条円山派の加護者だと感じるのだ。

躑躅に兎図 渡辺崋山 白と茶色の兎がいる。兎も猫もヒトに愛されている。
見ていて撫でてやりたくなった。

かなり機嫌よく見て回った。今月末まで続き、その後は恒例の『三井家のお雛様』の展覧会に変わる。

小杉小二郎展を見る

mir502.jpg 損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞記念。

最初に小杉小二郎の作品を見たのは、何かのチラシでだった。
「メトロ、か。・・・昔のSF映画のメトロみたいな感じ・・・」
絵とタイトルを見てそんなことを考えた。
惹かれるものを感じたので、名前を覚えた。
基本的に現代作家にあまり関心がないわたしとしては珍しいことだった。

その小杉小二郎の回顧展が損保ジャパンで開催されている。
前夜のうちにチケットを手に入れ、初日朝一番に出向いた。
ひどい雨の日だが、小杉の絵には風雨は存在しないだろう、と歩くしかなかった。
最初の観客の一人として、場内に立つ。
時間の都合だけでない静寂がそこにある。
小杉の絵にはざわめきが存在しないことの証明。
ノルマンディーの船着場mir505.jpg


コンカルノの家mir504.jpg ボートがなくては行き来できない。

「巴里・漂う時の流れ」
このタイトルに既に静寂がある。
パリでもPARISでもなく巴里。

感想を書こうと思った。文章による賛美と頌とを。
しかしそれが虚しくなるのを感じた。
文章と文字の羅列とは異なるものだが、小杉の作品にはむしろ文章でなく文字の羅列、
ただし選りすぐった言葉の列がふさわしいように思った。

この30年の軌跡。大きな変化はなく緩やかな成熟がそこにある。
60余点の作品に詩的なタイトルはなく、平明で静かな言葉がそこにある。
青いコップとビン、パァニュー鉄道発着所、窓辺の三色スミレ、窓辺の静物、村の教会・・・
私は例によってそれぞれの絵の感想を執念深く書き綴っているが、それをここに書いても虚しさを覚えるほど、
小杉の作品は歩き続けている。
小杉の言葉がある。
「独りが好きでなくては絵が描けない。しかし人が好きでなければ絵が生きない」
パリを離れサン・レミで暮らしながらの言葉。
前半には共感するが、後半は実感がない。
彼の作品を眺めながら少しの疑問を抱く。そしてそのこと自体が楽しくさえある。

セスナ機が飛ぶ絵があった。
『ギィヤンクール飛行場』mir504-1.jpg

セスナたちが飛ぶ。格納庫や管制塔がある。しかし人の気配はない。
セスナを動かすのは人である。しかしどこにも人の温度はなく、セスナたち自体が活きて、空を飛ぶように見える。
音のない絵が多い中で、このセスナ機にはエンジン音が備わっている。まりんまりんまりん・・・空を飛ぶのにまりん(marine)と聞こえる。

アンリ・ルソー?岡鹿之助?牛島憲之?小杉小二郎。
額縁に封じられながら、その中で息づく世界は共通の何かを持つ。
それを「静寂」という言葉で封じていいのかどうか。
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小杉の仕事のうち、絵画でないものたちを眺めると、なにやらユーモラスさを覚える。
聖書の物語を具現化したオブジェたちは、木製のジオラマのようでどこか可愛い。
牛や馬にしても穏やかな眼をしている。
どことなく温和でやさしい世界。

この画像だけでは絵画に見えるが、実は箱の壁面に描かれた絵をアルミの網戸のようなシャッター越しに見せるオブジェがいくつもあった。
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この星座たちは真正面から見れば確かにこう見えるが、少し身体をずらせばビロロロンと形が崩れ、正確に見えなくなる。それがとても楽しくて、この展示コーナーを何度も往復しては身体を動かしたりした。

わたしがそうして楽しんでいるとき、ちょうどそこへ画家ご本人が到着し、会場内の人々を眺めていたらしい。
私の様子を眼にしたなら、「やってるやってる」とニヤリと笑ったかもしれない。

展覧会は2/17まで。来月もう一度行こうかと思っている。

初山滋回顧展

121-2.jpg 『たなばた』より

ちひろ美術館で初山滋展が開催されている。
武井武雄、初山滋と日本童画の神様ふたり、これまで幾度か展覧会を見てきた。
RRR武井武雄は諏訪湖のほとりに美術館があるが、初山滋にはない。
惜しいなと思うが仕方がないし、こうしてちひろ美術館が立派な回顧展を開くので、機嫌よく雨の中を出向いた。
初山滋生誕110年記念、色彩と線の詩人が織り成すモダニズムの世界、と副題がある。
確かに初山滋の流麗な線にはトキメキを覚える。

この展覧会には出ていないが、わたしの持つ雑誌『銀花』’74春号の特集には、初山のアールヌーヴォーに影響を受けた作品『シンドバッドの冒険』が掲載されている。
この他にも深いモダニズムを感じさせる作品が多いが、それらはやはり線の美に立脚している。
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色彩についてはここに挙げる画像を一目見るだけで、深い納得が生まれる。
この『はるのはこび』とはボッティチェリの『春』を思いながら描いたそうだが、これはボッティチェリにインスパイアされた、というのではなくどこまでも初山滋の描く『春』そのものなのだった。
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亡くなる十年ほど前の作品と言うことだが、つまりこの『春』は65才のときに生まれたのだ。晩年にあってもすばらしい感覚が活きている。
春を彩る精霊たち。少女のように見える美しい存在。冬の最中に春を見た喜びが溢れた。

初山滋の絵本の仕事の中に「再話」ものがある。つまり『赤い靴』『たなばた』『人魚姫』などである。
それらの中で『人魚姫』の絵本のあり方には、胸を衝かれた。
アンデルセンの原作に描かれている心情が、絵として描かれていた。
アンデルセンの文章によって生まれた王子と人魚姫が眼に見える形でそこに存在し、姫の悲しみがわたしたちに見えるのだった。
ただただせつなさが満ちてくる。IMGP3056.jpg

王子に可愛がられる「拾い子さん」と呼ばれる人魚姫。王子に馬に乗せられ森を走る情景では、初山は背景を黒くしていた。闇の中の乗馬。行き着く先はどこなのか。

木下順二の昔話『ききみみずきん』の絵本は子供の頃に手にしていた。
不思議な絵だと子供心に思っていた。
わたしは子供の頃からフォルムのハッキリした絵が好きなので、こうした抽象画に近い作品は苦手だった。その絵が初山のものだと知ったのは、この展覧会でだった。
びっくりするのと同時に納得した。
ききみみずきん (岩波の子どもの本 (18))ききみみずきん (岩波の子どもの本 (18))
(1956/01)
木下 順二、初山 滋 他


『不思議の国のアリス』もまた初山は絵本にしている。
このアリスは事件に巻き込まれたというよりも、自分から周囲をパニック状態に陥れるアリスだった。
アリスの表情を見るとそんな気がして仕方がない。

一方初山はオリジナル童話も手がけている。
『食べるトンちゃん』 大正らしい不条理でユニークな物語。
以前も眺めていたが、そのときはラストのブラックさに笑ったのだが、今回は笑えなかった。
たべるトンちゃんたべるトンちゃん
(2005/11)
初山 滋


トンちゃんは何でもかんでも「食べるビィ」と言って食べつくす。とにかくこの世に在るもの全てを食べつくす勢いで闊歩する。
ところがラストで肉屋さんに売られたトンちゃんは
「・・・食べるトンちゃんは食べられるトンちゃんになりました。」
この原文どおり、トンカツにされてしまうのだった。
これまでそのブラックユーモアに満ちたラストに笑っていたわたしだが、今回この絵本をじっくり読んで、勝手に胸がいっぱいになった。
トンちゃんには唯一友人とまではいかないが、(なにしろトンちゃんは相手にしていない)へんな女の子がトンちゃんの後をついてくる。
頭にスカーフを巻いているちっぽけな女の子はトンちゃんが「食べるビィ」というのに呼応するように、「にゃー」を語尾につける。
猫なのか人なのかわからない女の子は、しかしトンちゃんの「食べる対象」ではない。
トンちゃんが世界中のものを食べつくすのを見ながら「どうしたにゃー」と言うのだ。
遊ぼうとしてもトンちゃんに相手にされない女の子だが、食べられずに生きている。
しかし、とうとうトンちゃんの年貢の納め時が来る。
トンちゃんは肉屋さんの車に乗る。そのとき初めてトンちゃんは女の子に声を掛ける。
「さよならビィ」
女の子は車を見つめながらトンちゃんに呼びかける。
「どこへ行くにゃー」
そしてあのラストが来る。
「食べるトンちゃんは食べられるトンちゃんになりました。」
わたしはたぶん、勝手に自分の中でこの物語の二次創作をしていると思う。それで自分勝手にせつなくなっているのだろう。
しかしもうダメだ。トンちゃんが可哀想で仕方なくなった。女の子もこの後どうなるのか。
読むのがつらい話になってしまった。

初山には小林多喜二へのオマージュとも言える『蟹抗戦』(多喜二の『蟹工船』をもじっている)がある。蟹の闘いと言うかなんというか・・・
こうしたセンスはやはり大正モダニズムが骨の髄まで染み込んでいないと書けないだろう。
ちょっとSFぽい物語だった。

色彩の魔術師たる所以・・・
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驚いたのは、光村図書のこくご教科書の表紙絵をなんと22年間も続けていたこと。
わたしはこの後帰宅して、早速自分のこくご教科書を調べてみた。残念ながら違う出版社だった。

他にも初山の多岐に亙る作品世界を紹介すべきなのだが、展覧会では出ていないものも多く、それが少し残念だった。
彼の私生活の愛用品などが展示されていたが、そのことには触れない。
また後年の版画についてもここでは挙げない。
いつかまたどこかで(ここでもいい)初山滋の回顧展が開かれたとき、書けばいいし見れたら嬉しい。
そういえばずっと以前にこのちひろ美術館で蔵書票の展覧会があり、そのとき初山の作った作品を載せたチラシがあった。
それを少しだけ載せる。mir500.jpg


最後に。童画家協会の画家たちの集合写真で、初山だけでなくそこにちひろもいた。
ちひろもまた初山滋から影響を受けていたそうだ。

ちひろの展示室には、『こどもの世界』表紙原画が飾られていた。
『スケートをする子供たち』mir499.jpg

これは偶然にも『毎日夫人』の今月号表紙絵でもある。

元々の雑誌『こどもの世界』では表紙に一枚目隠しの穴あきをしてつけていた。
だから当時、この雑誌を手に取ると最初はこう見えていた。mir497.jpg

楽しい遊び心。もしわたしが読者だったらきっと大喜びして何度も何度もめくったり隠したりしただろう。
展覧会は今月末まで。




水野美術館コレクション 近代日本画 美の系譜

大丸東京店が新しくなり、当然ミュージアムも変わった。
新装開店に相応しい展覧会、『近代日本画 美の系譜』と称して信州の水野美術館の名品を展示している。
長野には他に北野美術館と言うこれも素敵な美術館があるが、しばらく行っていない。
水野の方はチラシは手に入れても出かけたことはない。
わたしの展覧会逍遥の始まりは大丸だ。
心斎橋の大丸ミュージアムがわたしに誘いの手を差し伸べてくれ、そこから展覧会の・芸術鑑賞の楽しみを深く知ったのだ。
これまで大丸各店での展覧会に不満を覚えたこともない。内容の充実は当然ながら深いに違いない。わたしは期待してミュージアムに入った。

出た、大観『無我』 チラシでここにある分は見ていたが、三枚のうちで一番愛らしいとは思うが、あまり好きにはなれないのである。
わたしが最初に見た『無我』は切手になった分で、大学の頃に友人から貰って「なんなんやー」と焦ったことがある。あれから今まで感想が変わらない所を見ると、どうもわたしは『無我』とは無縁でいたいらしい。

大観で好きなのは実は美人画なのである。印度の三婦人を描いた『流燈』、『お万の方』などだが、次いで好きなのは梅に桜に松などの作品である。富士にはあまり関心が湧かない。
ここには『双龍争珠』がある。
月下の松の枝先がそれぞれ龍に見立てられ、彼らが珠に見立てられた月を奪おうと合い争う。うまいタイトルだ。月の白さと松の枝振りの黒さとが見事な作品だった。

春草『稲田姫(奇縁)』 これはスサノオの妻になるクシナダ姫を描いている。ヤマタノオロチに捧げられることになった姫とその両親が嘆くところへスサノオが現れる。
図は川のほとりに筵か竹簾を敷いた上に姫が座し、ヤマタノオロチを酔わせるために仕度した酒瓶をみつめている。まだヤマタノオロチは現れてはいないが、雲の形が微妙な影を映し出している。それが姫の背後に迫りつつある。
音と動きのない世界だが、その分とても優美に見えた。

春草もまた意外なほど美人画によいものがある。梅の精を描いた『羅浮仙』がある。新潟の敦井美術館のそれとはまた異なるものだが、鼻筋の通った美しく気品豊かな仙女である。
こんなよい作品を残しながら、惜しくもしばらくのちに世を去っている。

西郷孤月『月下飛鷺』 以前にどこかで見ている。チラシだったかもしれないが、今となっては特定できない。月の光は鷺の目にも届かず、薄い闇の中に白い翼がただ眼に残る。
鷺は一体どこへ向かうというのか。画家の心象風景がここにあるような気がした。

観山『獅子図屏風』 くつろぐ獅子ファミリー。一人息子と妻とを見守る父ライオン。ただしライオンと言うより彼は唐獅子に近いのかもしれない。百獣の王と言うより霊獣である獅子、そんな風格がある。

観山『三猿』 盲聾唖の三人の男性がそこにいる。顔や手足といった肉体には細い筆で巧みな描線が走るが、衣装は太い筆で一気呵成に描いたようにも見える。
観山は男性の盲者を比較的多く描いているように思う。『弱法師』もここにいる僧体の男性も、いずれも静かな面持ちである。

玉堂『清湍釣魚』 激しい波に棹をさすひとがいる。波の瑞々しさ、岩の滲む黒さ、青々した葉、こちらの胸にまで水が押し寄せてきそうな清清しさがある。
他に『鵜飼い』もあったが、そちらは夜漁とはいえ、やはり水は清清しく、黒い鵜たちも勇ましかった。
玉堂の描く「水」は純度の高い清潔さに満ちている。

池上秀畝『歳寒三友』 雪の中に竹、梅、椿がある。小禽が飛ぶ。椿の赤さに惹かれた。
今年最初に見る椿がこの絵の椿だと言うことが、嬉しい。そんな作品だった。

松園『汐汲み之図』 これは同題で野間にもあるが、こちらの女の目つきはかなり妖しい。
千鳥に網の図柄の打掛が綺麗だ。彼女は『花筐』の照日の前に似ている。男と別れた女。
照日の前は再会した男から「狂った様相で舞え」と命じられたが、この松風(たぶんそうだろう)は遠くにいる人を想ってこんな表情を見せている。

チラシにもなった『かんざし』 その娘などが言えば松園のパブリックイメージというか、多くの人が好む「松園らしい気品ある婦人像」なのだが、わたしはにはどうも息苦しい。
わたしはもう少しどこか崩れたようなところがほしい。だから昭和十年頃からの松園の作品には、敬して遠ざかっている。
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清方『花ふぶき・落葉時雨』 つくづく好きだと思う。清方の描く女は手の線から生え際まで、何もかも好ましい。
前者の花吹雪の下にいる女はまだ娘なのだが、もう疾うにたけている。そして着物は桜の時期より少し先の菖蒲柄である。鼈甲の櫛笄も美しく、女の爪紅にも目が惹かれた。

契月『歌舞図』 明治末の作品なので、女たちは唐風俗とは言え、やはり明治の人物画である。歌舞音曲のかかるめでたさ。女たちの表情にも優しいゆとりがあった。

『後宮』 回廊を行く。八手か何かの植物が大きく育ったのにも眼もくれず、女が一人で歩く。丸い団扇を持つ手を髪にやる。なんとなくホッとしたような表情。声の聞こえてきそうな絵だった。

蕉園『灯ともし頃』 同題の作品が他にあるが、ここでは娘が欄干に掛けた着物を取り入れようとしているらしい。桃山時代から江戸初期の風俗、ピンクの着物が愛らしい。
輝方と蕉園夫妻の作品には好きなものが多いが、夭折した為か、あまり多く世に出ない。
いつか二人と、そして仲良しの清方を交えての回顧展が見たいと思う。

南風『横山大観先生』 大観は絵を描くだけでなく、写生会のモデルとしてもよく働いたようだ。細川護立が大観先生を描こう会、というような会を主催してもいる。色んな大観先生図を見てきたが、なかなかこの風貌は良いものだと思う。
首や手や指の皺にも明治男の良さが滲んでいる。
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蓬春『夏蔭』 青い森の中にインコらしき青い鳥が二羽、枝に止まる。ただそれだけなのだが、この色調の美しさに見蕩れるばかりだ。こちらの肺まで青くなりそうだ。目くるめくような、青の世界。

『留園駘春』 白木蓮と赤い木蓮とが奇岩の間に咲き誇る。この絵は以前からチラシなどで見知っていたが、ガラス越しに対面すると、なんとも豊かな春を感じさせてくれる。
蘇州の明代の庭園か。本当にこんな光景に逢えるなら行ってみたいように思えた。

希望『春月』 満月の光で満開の木花が白く浮かび上がる。静謐な花の林の中、そのことを誰も知らない。緑苔も灰色にみえる。静謐にして大胆な作品だった。

深水『鏡獅子』 このタイトルの作品もいくつも見ているが、ここにいる弥生は唇をきっと噛み締めている。大奥勤めもまだ日が浅いからか、緊張感が弥生を少しずつトランス状態に向かわせている。豊かな髪に挿された櫛笄簪それぞれにも惹かれた。

高山辰雄『牡丹』 先日なくなった折、わたしはわたしなりの追悼をしたが、そのときやはり高山辰雄の真髄は、こうした静謐さだと強く実感していた。
布の質感まで感じさせられるような絵に、静かな歓びを感じる・・・

『朝凪の濱』 金と墨とのコラボレート。この絵は『日月星辰』展で見た。東洋思想とでも言うべきものを感じつつ、不思議な感動に打たれていた。
今、再会したがやはりいいものはいい、と深く思った。そして亡くなったことがやっぱり残念だと思った。

大山忠作『游鯉』 実はこの作品は数年前、わたしのカレンダーの一枚にもなっていた。
その当時、三匹の鯉の絵を切り抜いてちょっと遊んでいたことがある。すみません、大山先生・・・でもけっこう楽しかったんです・・・

加山又造『猫と牡丹』 本当にこのシリーズはどれを見ても猫が可愛い。わたしは日本猫系が好きなのだが、シャム猫さんで好きなのは又造さんのこのネコさんが一番だ。
ところで、画集をみてウケてしまった。
この絵は左ページにあり、右ページには上の鯉がいる。つまりこの猫の視線は鯉たちに向けられている、という本の構造なのだった。
わたし、そんなの大好きです。

実に良い内容だった。水野美術館は行くには遠いが満足した。しかしいつかは必ず行ってみたいと思ったのも確かだ。展覧会は28日まで。充実した素晴らしい内容だった。


香と恋心 バルビエと香水壜

銀座並木通りにある資生堂の「ハウス・オブ・シセイドウ」で現在「香と恋心」としてジョルジュ・バルビエの版画と、同時代の香水瓶とを展示している。
前後期入れ替えがあり、その前期に出かけた。
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フランス文学者の鹿島茂氏のコレクションからの出品が多いらしい。
平日夕方だったが、賑わいでいるわけではないので、静かな心持でギャラリーを歩いた。
「アールヌーヴォー=ミュシャ」と言うなら「アールデコ=バルビエ」と言って差し支えない。
おしゃれで、そして少し意地悪く、官能的な情景。
メタファを読み取らねばルールから外れてしまう。無知もずうずうしさも罪。
都会的でとてもシャレたセンスがいい。エスプリを理解出来なければここにいてはいけない。
そんな作品。
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けれど全てがパリの、都会の匂いに満ちているわけではなく、エキゾチックさも好まれている。
西洋人の見たアジアの情景。インド、シナそして。
実感が伴わない分、夢想は無限に広がる。ありえないような情景にこそ、惹かれるものだ。

一方、ここに香水壜がある。ラリックとバカラと。mir491.jpg

左の上から二つ目のゾウの形の瓶に惹かれるのは、わたしもまたその国の人間ではないからだろう。
憧れの地、遠い夢の国、アジアの片隅で。

展覧会は2/5から後期に変わる。
わたしは後期も行こうと思っている。

『王朝の恋』 伊勢物語を楽しむ

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出光美術館には岩佐又兵衛の業平がいる。
業平はマメオくんだからどこなと出かけ、いつでもOKというスグレモノなのだが、なかなか好みがうるさい。
価値観のまったく違う相手とはつきあえない、という見切りが早いのも特徴で、そうした別れのエピソードも実に数多い。
同じマメオくんでも光君とは違い、女から逃げ出すのも得意技だ。
ところがそういうのに限って、女の目は鋭い。
「どこへ行きなさる」朝もまだ開けてませんよ。
ギクッとなるその情景を又兵衛は描く。
この絵師は人間の見せたくない表情を描くのが巧い、といつも思う。
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出光美術館の所蔵品を中心にした『描かれた伊勢物語』展が開催されている。
二ヶ月ほど前、和泉市久保惣美術館で伊勢物語の大掛かりな展覧会が開催された。
日本中から伊勢物語に関する名品を召集した展覧会で、宗達の伊勢物語色紙も随分多く出ていた。
大和文華館蔵の『芥川』があのシリーズでは一番よく知られていると思うが、これは今のところ60枚ほど世にあることが知られている。
宗達の色紙シリーズは個人蔵が多いが、かつては益田鈍翁所有が36枚あったそうだ。
しかしながら散逸し、今の表装から考えて同一所有者ではないようだ。

久保惣でも思ったが、こうした展覧会になると別れ別れのシリーズが参集し再会する。
作品同士も嬉しいのではなかろうか。
大和文華館の『芥川』は女をおんぶする昔男くんだが、他にもこんな逃避行が・・・。
葦原の中に隠れる二人。すぐそばを追手が・・・。mir489-1.jpg

前々から好ましく思っている小杉放庵の業平もいる。どう見ても元・阪神タイガースの広沢に見えるにこにこ温厚な人。
以前大阪の出光美術館で小杉放庵展が開催されたが、また回顧展が見たいものだ。

展覧会のコンセプトがこれなので、季違いだが抱一の八つ橋図屏風が出ていた。
大きな屏風に大きな花。八つ橋の板を追いながら進むと、実際にそこにいるような心持になった。
藍色の花の艶かしさに嬉しい気持ちが湧いて出る。

実際に『東下り』を体感出来るよう配慮された展示が楽しい。
富士山も武蔵野もいいものだ。
そういえば東下りはあったが、布引の滝を見物したりする図はこれといって見受けられなかった。
やっぱり東国での展覧会だからだろうか。

2週間だけの特別展観となる「伊勢物語絵巻」(重要文化財・和泉市 久保惣記念美術館蔵)は1/11見学の折には展示されていないが、わたしはその久保惣で秋に見ているので、ちょっと嬉しい。
面白かったのは、出光本と泉屋本と称される屏風が並んでいて、確かにそっくりだった。
異時同時図ではなく、エピソードがてんこ盛りに屏風に載せられていて、右にも左にも上にも下にも昔男が出没している。金雲は流れもしない。

近代にも伊勢物語は人気が高く、日本画の題材にも活きているが、山種美術館所蔵の絵巻は五人の画家と一人の書家による見事なコラボ作品だった。
以前からこの絵巻は好きなのだが、こうして眺めることができて嬉しい。
書は尾上柴舟の優美にして細いがしっかりした草書、絵は五つの段を選んでいる。
中村岳陵(春日の里)、荻生天泉(西の対)、吉村忠夫(筒井筒)、松岡映丘(河内越)、川崎小虎(都鳥)・・・各自の個性がよく出ているが、やはり『伊勢物語』そのものなのだった。
わたしは伊勢物語の中でも『芥川』『筒井筒』『河内越』などが物語として好きだが、こうして多くの情景に囲まれると、なにもかもが良いと思える。

伊勢物語のエピソードの面白さを改めて楽しめる展覧会だった。

小林かいちに魅せられて

弥生美術館で高畠華宵の特集と、小林かいちの回顧展が開かれている。
初めて小林かいちの作品を見たのは随分以前だ。
世に多く出たのはボストンのローダー・コレクション展、それから去年の田中翼コレクションあたりか。それ以前は弥生美術館で多くの他の画家たちと共に並べられるか、個人コレクション展でもチラリと姿を見せるか、そんな程度だった。
わたしが最初に認識したのは、奈良そごうで見た絵はがき展覧会だったように思う。
'93奈良そごうで『絵葉書芸術の楽しみ』という展覧会があった。
フィリップ・バロス・コレクション。
それは松涛美術館からの巡回で、松涛でのチラシはあまり面白いものではなかったが、そごうのチラシはよかった。
つまり「チラシに呼ばれた」状況で、喜んで北摂から奈良へ飛んで行ったのだ。
これはその図録。右一番下にかいち。mir487.jpg

そこで小林かいちの作品を見た。
多くの中の一つだったが、たいへん惹かれる作品で、イメージだけは鮮烈に意識に残った。
明治以来絵葉書がブームになったこともあり、実に膨大な絵葉書がこの世に送られたが、やはり何の世界にもマニアがいるもので、お店側や彼らが大切に保存してくれたりしたおかげで、今も世に残った。
わたしも実は絵葉書コレクターで、数だけで言うと6000余枚あるが、あまり希少価値なものは持っていない。
中右コレクションの中にもかいちの作品があったように思う。

小林かいちの作品は女の顔がなく、あっても口元だけという個性的なものが多い。
「二號街の女」などは目鼻立ちがはっきり描かれているが、しかしその表情に惹かれることはない。却って何もない顔の方に深い情緒や感情が籠められている。

今回こうして多くの作品を眺めてみても、レトロモダンでシャープな叙情性がそこにある。
決して楽しい内容ではなく、そこには「せつなさ」が常にある。
セット販売されたものの多くは小さなシリーズ作品であり、個としてみても十分楽しめるが、4枚1セットとして眺めると、思いがけなく小さな物語を見出すことになる。
起承転結のある物語。それが顔のない女によって綴られる。
「目は口ほどにものを言い」と言うものの、目鼻立ちのない女の仕種一つでその心模様がこちらに伝わる。
細身の女の全身から漂う遣る瀬無さ、哀しみ、そして。
それらと共に背景にも深い魅力がある。
墓地、夜の街角、一人の部屋。
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わたしが夜の絵が好きだと言うこともあり、いよいよ深くかいちの作品に惹かれてゆくのは必然か。
背景は別にリアルな描写ではなく、ややねじれたような空間である。
つまり'20年代にドイツで流行した表現主義の影響も見受けられる。
それは夢二の作品にも姿を見せている。
現に夢二は表現主義の傑作『カリガリ博士』の映像を、自分の絵で再現してもいる。
またセノオ楽譜の表紙絵にもそんな作品がいくつかある。
夢二と同時代人のかいちも表現主義の不思議な空間に惹かれたか、リアルさから離れることで彼の描く「夜の夢」が開いたようだった。

『青い鳥』のチルチルとミチルの兄妹は幸せの青い鳥を求めていろんな国に旅をする。
彼らは誤ってかいちの世界に迷い込んだようである。
かいちの世界に入った二人は、そこでは子供本来の溌溂さをなくし、静かにその世界を立ち去ろうとするかもしれない。
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かいちの正体はわからない。
京都の着物関係の職人の中に名を連ねているが、それが彼の生存証明にはなっても、かれの芸術の生きた証にはならない。
何十年も昔の画家の仕事が、今になって世に出てきた。
深みに溺れようにも底がしれない。浅いのかも知れず外海に通じているのかも知れず。
しかしこうして回顧展が開かれたことと、一冊の労作が生まれたことで、「自分の手の中に」かいち作品の一部を納めることが出来た。
これはめでたいことだ。
これがきっかけになり、またどこかからかかいち作品が現れたり、すっかり世から忘れ去られた素敵な画家が蘇るかもしれない。
そのことを期待して、この場を去ろう。mir485.jpg

宮廷のみやび  近衛家1000年の名宝

'96年3月に裏千家の茶道資料館で『陽明文庫の雛』展を見ている。
五摂家の近衛家のお雛様が見れると言うので、喜んだ展覧会である。
そのときお雛様より御所人形に惹かれるものが多かった。
元々御所人形が好きなので、いよいよ目が離せなかったのかもしれない。
茶道資料館の近所には和宮ゆかりの門跡寺院・宝鏡寺があり、春秋には人形展が開催されそこでも多くの雛や御所人形を見ているから、この時は随分楽しかった。
昨秋、いつもお世話になる京都の画廊・思文閣さんから『陽明文庫見学会』のお誘いがあったが、気後れして参加できなかった。東博で見るからいいか、ということで諦めたものの、やはり今更ながらの後悔がある。
今、その東博で『宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝 陽明文庫創立70周年記念特別展』が開催されている。


第1章 宮廷貴族の生活
お出迎えくださるのが、
藤原鎌足像 1幅 室町時代
彼一人やなく長男次男の三人図で、これはよく見かける構図。ちゃんと藤の花も描かれている。次男から脈々と藤原家の栄光が始まる。

賢聖像 狩野常信筆 3幅 江戸時代・宝永6年(1709)
太公望、蕭何など。親分を補佐して帝に押し上げた功臣たち。

春日鹿曼荼羅図 1幅 鎌倉時代
これも藤原家には多く伝わる図像。鹿の目が凛々しい。mir483.jpg

不空羂索神呪心経(藤原高子願経) 1巻 平安時代・元慶5年(881)
パッと見た瞬間眼に飛び込む文字は大抵こんなもんです。
「衆人愛敬 身穢・・ 亦得除愈」
なんとなくわたしはいつもお経に対して強迫感があるな。

御堂関白記 寛弘四年下巻 藤原道長筆 1巻(自筆本14巻の内) 平安時代・寛弘4年(1007)
これが国宝で、展覧会のキャッチコピーにもあげられているもの。
「―見たことがありますか? 道長自筆の日記。」
一応ここで「ハイ」と答えよう。Becouse次の作品を見ているから。
紺紙金字法華経(金峯山埋経) 藤原道長筆 1巻 平安時代・長徳4年(998)
これは去年京博で見ましたによって、「ハイ」はうそではないのさ。
だから
国宝 金銅経筒 伴延助作 1口 平安時代・寛弘4年(1007) 奈良・金峯神社蔵
などは「お久しぶりです?」という気分です。

国宝 白氏詩巻 藤原行成筆 1巻 平安時代・寛仁2年(1018)
白居易はわりと好き。というか、わたしは漢詩・唐詩がかなり好きなのだ。
たぶんわが国の百人一首より好きだと思う。

源氏物語 20帖(54帖の内) 鎌倉時代
流通しているのを感じたが、見ているほかのお客さんが「わーコンパクト」と言うのを聞いて、納得。確かにそう思う。読みふけりやすそうな本だった。

書状や消息にはあまり関心を向けなかったので、ここはおわり。


第2章 近世の近衞家
柿本人麻呂像 後水尾天皇賛 聖護院道晃法親王画 1幅 江戸時代
いつものポーズの人麻呂氏。確定されたパターンと言うのは崩せない。
近衞信尹は賛だけでなく画も描いていた。文字で身体のアウトラインを描いている。能筆家の遊び心か。

渡唐天神像 近衞信尹画賛 1幅
こちらもそう。考えれば渡唐天神というのはSFなのだった。

源氏物語和歌色紙貼交屏風 近衞信尹筆 6曲1双 安土桃山?江戸時代
実は今回楽しみにしていたのが信尹の手蹟。寛永の三筆の一人、三藐院(さんみゃくいん)の直筆をこの眼で見たかった。書に興味がないと言いながら、見たいものは見たい。
いつもお世話になる思文閣さんから出版されている研究書に惹かれているが、マジメに学ぶほどの気合はない・・・。
屏風にぺたぺたと良い間合いに貼り付けられているが、金地に白菊と、波の屏風自体も見事なのだ。
三藐院 近衛信尹―残された手紙から三藐院 近衛信尹―残された手紙から
(2006/04)
前田 多美子


和漢色紙帖 近衞信尹筆 1帖
なかなか大きな文字で書かれている。なんと書いてあるかはよくわからない。

和歌六義屏風 近衞信尹筆 6曲1双
「なにわ津に 咲くやこの花・・・」この詩歌が書かれているのは嬉しい。

和歌懐紙「侍 行幸聚楽第」 近衞信尹筆 1幅 天正20年(1592)
春日侍と書かれている。これはまだ信尹が三藐院以前の書で、京都から出奔する直前に書かれたそうだ。
そんなエピソードがなかなか興味深く思える。

詠草(身のうち茶) 後西天皇筆 1幅 江戸時代
このお軸の表装がとても綺麗だった。中廻しは花鳥の刺繍。

3と4とが家熙の世界。
イエヒロ表具と呼ばれるお軸の表装などを集めている。明清初の織文様・刺繍を使った明るく派手で優美な表装。見るからに豪華で楽しくなる。

百寿 近衞家熙筆 1幅 江戸時代
百個の「寿」の字を書く。様々な書体での寿は、時に変容し異なる様相を見せもする。

隷書心経 近衞家熙筆 1幅 江戸時代・元禄15年(1702)
隷書体で般若心経を書いているが、その隷書体を見て、峰倉かずや『最遊記』のロゴが実は隷書体に近いことを初めて知った。

消息 伝後鳥羽天皇筆 1幅 鎌倉時代
この中廻しにいる動物、どう見ても鹿とキリン。麒麟でなくジラフの方のキリン。
後鳥羽院は剛毅な方だという話だが、以前この天皇の掌判を見ている。朱を塗ったもので、とても大きかった。

書状 藤原為家筆 1幅 鎌倉時代
こちらのキリンはビールの方の麒麟に見える。ナゾだ・・・書については私がどうこう言う権利はないな。

和漢朗詠集断簡 伝世尊寺定成筆 1幅 鎌倉時代
こちらは牡丹、
消息 中和門院筆 1幅 安土桃山?江戸時代
こちらは揚羽。
近衞家熙は楽しみながら表装したのだろうな・・・。
わたしは蝶がとても好きなので、図案化されたそれも大好きだ。すぐ欲しくなる。
蝶と猫と山吹色と椿とが、理性も前後も何もなく純粋に欲しくなる種類だ。それらがなんであれ、見ればほしくなる。
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表具裂がたくさん出ていた。
これがもぉ素晴らしいの一言に尽きる!
縫箔、錦、繻珍、模様、という文字を見るだけでときめくのに実物がずらずらずらっと列ぶのを見れば、ただただ動悸息切れ眩暈だ。
大胆な蝶、キリストの訪れたマルタの家の廊下、蝶・梅・蘭・菊・柘榴が等間隔にバシッと並ぶ、花盛りの様子…すばらしい図柄の布の海。
中に一枚面白いものがあった。
「IHS」これはイエズス会のマークだったっけ。Takさんの記事で見ていたが、改めてご対面するとなかなか感慨深いものだと・・・思った。
なにしろこれはキリシタンのマークなのだし、表に出たらどうしたろう、と色々考えたのだった。

宇治拾遺物語絵巻 詞書:近衞家熙筆 絵:狩野尚信筆(巻第一)/狩野探幽筆(巻第二)
これはたいへん面白かった。わたしが見たのは所謂「猿神退治」と「報恩雀」のふたつ。
猿神退治で一番有名なのは「光善寺の早太郎」伝説である。子供の頃から特別好きな伝説。
大抵この伝説のパターンは決まっている。
白羽の羽が立った家の娘は、棺に納められて社に送られる。娘は生きて帰らない。人身御供の根を断つ為にヒトと犬とが立ち向かう。
絵は丁度犬たちがヒヒを噛み殺すシーン。下っ端の猿たちは逃れる。
報恩雀は舌切り雀の別バージョン。ただし舞台は同じく丹後の国。文にもそのように書いてある。
つまりここには舌切るようないじわるばあさんはいなくて、米を与える家族があり、雀はそれを恩に着て、瓜のタネを持ってくる。その瓜からは尽きることなく米が溢れ続ける。家族はニコニコ、飼い犬もにこにこ。いい絵だった。

賀茂祭絵巻 詞書:近衞家熙筆 絵:渡辺始興筆 1巻 江戸時代
春日権現霊験記絵巻 巻第三・四・五・十二・十五 詞書:近衞家熙筆 絵:渡辺始興筆 5巻(20巻の内) 江戸時代・享保20年(1735)
これら二つの絵巻で目を惹いたのは、前者は大きな牛・後者はバンビたち。
渡辺始興の動物たちはなかなか賢そうだった。

最後に伝世の品として、御所人形、太刀、和歌色紙、書状などが随分沢山展示されている。
中でも御所人形や豆道具が私の目的だから、楽しく見て回った。
銀細工の雛道具などは思文閣で見たように思う。
本当に可愛らしくて、その繊細な造りにわくわくする。
かつての技巧は現在にも伝わっているだろうか・・・
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御所人形への愛情は自分でも深い方だと思う。これまでかなり多くの白肉さんたちに逢って来た。どの子もみんな愛らしい。凛々しい子・優しい子・賢そうな子・はにかんだような子。
撫でて撫でて撫で回してみたい。この愛しさが突き抜けて彼らに届けばいいと思う。
かつて茶道資料館で出逢った頭巾かぶりさんもいた。久しぶりに逢えて嬉しい。
猿回し・大名行列・兜を持つ・鶴をだっこする・手毬で遊ぶ・・・
本当に優美で、そして愛らしい。
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見たことのある名品がほかに二つあった。
池坊専好立花図巻 1巻 江戸時代
四季花鳥図屏風 酒井抱一筆 6曲1双 江戸時代・文化13年(1816)
どちらも見知っている。再会はやはりとても嬉しい。
前者は京都文化博物館で見て、後者は’06ホテルオークラ「アートコレクション」が最近か。
春夏は鷺、秋冬は雉のいる風景。花を数えるのも楽しかった。
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本当によい展覧会だった。
こういう展覧会を見ると、やはり学ぶべきものは無限にある、と実感する。
とりあえず気持ちよく楽しめる展覧会だった。ありがとう、陽明文庫。

一月の東京ツアー

例によって例の如く、というか三ヶ月ぶりに東下りした。
出光で『昔男』の展覧会を見るので、この言葉がピッタリだ。
展覧会の内容の詳述は後日に任せるとしてどういう道筋を辿ったか、書いてゆこう。
長いのはやっぱりいつものことです。

『永遠のベルサイユのばら』展に行く

大丸元町店での『永遠のベルサイユのばら』展初日に出かけた。
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原画展なのだ。実はわたしが池田理代子せんせの原画展を見るのは’90夏以来だから、本当に久しぶりだ。
ベルばら。無論わたしも書籍は所持している。台詞もいくつか覚えているし、好きなエピソードやシーンはすぐに瞼に浮かび上がる。
ときめきのコミック。
しかしわたしは最初期のベルばらファンではなく、’79年に初めて読んだ「遅れてきたファン」なのだ。読んですぐに夢中になり、集英社の新書版を好きな巻から購入していった。
(何巻からかは内緒)。
オスカル様。ああ、オスカル様。わたしの気分はロザリー。
宝塚歌劇も近所なのでよく見に出かけたが、それはここでは書かない。
会場には多くの婦人客が溢れている。五十代くらいの方が多い。
皆さん中高生時代に、連載をリアルタイムに読んでいた方々なのだろう。
目がキラキラしている。その目が追うのは原画たち。キラキラはいよいよ増してゆくが、不意にそのきらめきがくすんで、ぬれ始める。ときめきのキラキラと感無量のうるうる。
わたしは完結したものをまとめて読んだひとだから、続きが気になり心が痛くなる経験はない。なんともそれが残念だ・・・
オスカル様が一度だけドレスを召すエピソードがある。
それはオダリスク風ドレスなのだが、そのドレスが会場入り口すぐに展示されていた!
さる大学で今回の展覧会にあわせて拵えたそうだ。
どきどきした。オスカル様はこのドレスを着てフェルゼンと踊ったのだ・・・
原画のそのシーンが展示されている。
それだけでなく、劇画に音楽をつけて再構成した映像が流れていた。
そちらを眺めるだけで泣けてくる。
ガラスケースには表紙絵のためのカラー原稿が収められているが、初めて見るものも多く、見ているだけで物語が脳裏に広がる。
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原画の流出や消失が多かった時代に池田先生はご自分で保管されていたのか、色褪せない見事な原画をこうして見ることができ、本当に嬉しい。
これら原画が活きているのを感じる。
不遜なことを言うようだが、わたしは池田先生の絵は『オルフェウスの窓・第三部ロシア革命篇』の頃が最高だと思っている。それから『妖子』でのアールヌーヴォー風な構図や背景もすばらしい。
しかし、今回こうしてベルばらの原画を間近で見て、深い感銘を受けている。
やはりどんなに時間が過ぎようと、名作は永遠に名作なのだ。
そのことを改めて実感した。

原画を眺めるうちにジェローデルに好意が湧いてきた。
彼は最初からオスカル様を「マドモアゼル」と観ていた。
物語の流れの中ではアンドレの存在があまりに大きくて、ついつい彼をスルーしてしまうが、オスカル様にくちづけた男三人のうちで、唯一上流階級に所属しているのだ。
アンドレは平民、アランは貧乏貴族の端くれ。
綺麗な男性で、しかも優雅で、まるでボルゾイ犬のように素敵だ。
オスカル様がジェローデルの求婚を断る一連の流れを追ううちに、せつなくなってきた。
何度読んでいても、やはりこうして提示されると、それだけで打ち震えている。
すばらしい展覧会・・・。

ところで、この展覧会のための図録を眺めて「え゛っ」なことを一つ知った。
それがなにかは書かないが、そのときの私の独り言だけをここに書く。
「・・・アンドレそーなのか、きみ、あんなこと言うてたけど実は18のときに・・・」
これが何を示しているかわかるひとは、「アンドレのそのことをいつ知ったのか」教えてください。少なくとも私はこの図録見るまで、知りませんでしたよ。

展覧会は15日まで。
最後にこちらは私の購入したポストカード二種。いずれもオスカル様とアンドレ。
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会社を休んで出かけた甲斐のある展覧会だった。

国立ロシア美術館展

国立ロシア美術館展が大阪で新年を迎えた。
昨春日本に来て東京、金沢、愛媛と廻り、大阪のサントリーミュージアムに来たのが秋。
二ヶ月開催して満員御礼だったが、いよいよ14日で終幕、最後に八王子に廻り、その後ほぼ一年のツアーを終えてロシアへ帰る。
そんな間際にわたしは天保山へでかけた。
既に美術ブロガーさんの記事は見つくしている。どんな名作が来ているかも予習済みどころか、実際に見ていないのに見たような気になっているほどだ。妙に満足もしている。
まずい、実にまずい。その満足が今回のテイタラクの原因なのである。
既に三度ばかり機会を逃し四度目のトライでやっと見学に出たのである。
1/9の夜間開館。これならさすがに入場制限はなかろうと出かけたが、中はやっぱり大繁盛していた。
101点の作品のうち、10点だけあげてみたいと思う。(順不同)
全般的にアカデミックで綺麗な作品が多いように思う。
ロシア史への偏愛は、既にブログ上で何度も書き連ねているので今更書かない。

フョードル・ロコトフ 幼少のアレクセイ・ボブリンスキーの肖像
『女帝エカテリーナ』でこの幼児の出生のことなどを知った。ボブリンスキーの名の由来も。この幼児は白い膚にばら色の頬をしている。衣裳も愛らしい。幼児特有の手のぷにぷに感がたまらなく愛しい。

カルル・ブリュローフ ウリヤナ・スミルノワの肖像
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小冊子の表紙にもなった。慎ましそうな綺麗な女。目元より唇に惹かれる。やや厚めで柔らかそうな唇。そして腕に抱かれた犬の賢そうな眼差し。唇と犬の眼差しに惹かれた。

イヴァン・アイヴァゾフスキー 月夜
浮かぶ船を照らす月。月光が波に及ぶ。蝋燭を多く描いた高島野十郎もまた不可思議な月夜を描いたが、実際こんな景色はありえたのだろうか。別に現実の月でなくても構わない。ただただひどく惹かれる月。この月の光を浴びるとどうなるのか、と不意に思った。

オレスト・キプレンスキー 若い庭師
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カラヴァッジョは同性の美しい顔を多く描いた。この若い庭師はカラヴァッジョの好みかもしれない。彼は何を思うのか、左手のナイフにはどんな意味があるのか。腕まくりしたシャツの質感までこちらの掌に伝わってくる。彼の造る庭は誰のための庭なのだろうか。

カルル・ブリュローフ 水浴のバテシバ
白い肌のバテシバとチョコレート色の奴隷女の比較が鮮やかだった。浴槽の縁に布を敷いて腰掛けるバテシバと彼女に仕える奴隷女に惹かれ、周囲をよく見渡さなかった。覗き見する長老たちの影はなく、しかし水をあふれ出し続ける水道が何かの隠喩のように、思えた。

イリヤ・レーピン 何と言う広がりだ!
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1903年の製作だから、まだ第一次ロシア革命も始まらず、不穏な空気が街に流れはしても、人々の多くは文句を口にしなかった時代、こんな絵が生まれるのか。
胸がすくような、そして絵の中のカップルに微笑みかけてしまうような。

セルゲイ・ザリャンコ 宮殿のアンフィラード(連続する部屋)
これは絵画として好きと言うよりも、建築好きなわたしの興味を深く惹いたから、と言うべきか。床模様の雷文、メダイヨンレリーフなどなど。もしこの場に今のわたしがいたら、写真を撮りたおしているのかもしれない。そんな欲望が湧く。

イヴァン・シーシキン 冬
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雪に埋もれ、雪にまきつかれた林。これを見てダニエル・オルブルフスキーの出演した映画『白樺の林』を思い出した。ロシアの映画は自然描写に抒情が含まれている。この冬の林にも何かしらの物語めいたものを感じる。雪はあくまでも白い。静かな雪が林を埋める。

アレクサンドル・ポポフ モスクワ、ヤウザ河岸
これもまた建築に惹かれる私の眼が選んだ一枚。
煉瓦を使った建物がある。台形のかたちを見せている。何積みなのかちょっと判別できない。木は緑の葉を見せているが、これも何の木かはわからない。そんな日常がある。

ヘンリク・イッポリートヴィッチ・シェミラツキ マルタとマリアの家のキリスト
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ラファエル前派の影響の濃いような作品だった。キリストの美貌、マリアの衣裳、バラと鳩。石段を下りかかるマルタは妹とキリストとの間に入り込むことは出来ないだろう。

今回、驚いたことがある。民衆を描いた作品がたいへん多かったことだ。
リアリズムが流行したのか、物乞いや貧困を負うた子供らの作品にも驚いた。
その一方で、貧しそうでありながらも新しく誕生した命を喜んで迎える子供らの姿などの絵も描かれていて、そちらにも惹かれた。
なにも貴族を描くばかりではないのだ。庶民の姿を描くことも重要だ。
農奴制のことなどをなまじ思い描いていたため、虐げられた人々を描く作品は収められていないだろうと思っていたのは、やっぱり私の不明だ。
しかしおかげで丸顔のロシア娘さんらの明るい顔を見ることが出来て、嬉しかった。

いい展覧会なのにどうしてわたしはこんなに遅く出かけたのだろう・・・・・

もうひとりの美人に逢う

2006年の文化の日に京都の画廊・思文閣さんで菊池契月のすばらしい美人画を見た。
大正ロマン漂うなよやかな美人で、梅を見ていた。
そのときの感想はこちら
ピンクの着物の美人だった。

今回そのピンクの着物の姉妹のような美人に出会った。
浅葱色の着物の美人。彼女も艶かしい。
ときどきこういう予測の外の幸せに出会うことがある。

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宋元と高麗 東洋古典美の誕生 2

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昨日の続編。

高麗美術 麗しの楽土

大方広仏華厳経 2冊(巻第35,36) 朝鮮・高麗後期 紺紙金泥著色
各帖31.0×11.0の連なり。表紙絵は仏楽土。釈迦だけ肉身を彩色されている。多くの仏たちは金の線描。文字は肉太で雄渾ながら、まとまっている。なかなか迫力があった。
前田家旧蔵というが、なんとなく納得する。

青磁合子 「尚薬局」銘
小さく可愛い。掌に乗るような愛しさがある。文字もいい感じ。薬箪笥にしまいこみたくなるような可愛さがある。抽斗を開くとそこに隠れているような。

青磁陰刻柳鳥文合子
高麗青磁でいちばん綺麗なパターンのものは、薄青い地に白い水鳥を小さく描いたものだと思う。柳は揺れて、鳥たちは静かに遊ぶ。中世に生まれた観念パラダイス=閉じられた庭園、そのものではないか。優雅な静謐さに惹かれた。

青磁象嵌水禽文細口瓶
こちらもそう。陰刻と象嵌の違いはあっても、精神に差はない。
なぜ高麗青磁はこんなにも優雅なのだろう。そのことを思うと、それだけで心が静かになる。

青磁五葉花形托
花の蕊に当たる部位が低めの筒状になっている。それを囲む花びらは五枚とも大きい。貫入の入り具合の繊細さにも惹かれた。
今ならこれはそれぞれの花びらに小さなオードブルを載せて、真ん中に少し手の込んだ一品を入れても素敵だと思う。

青磁人物形水滴
小さな陶器人形、表情までは読み取れない。身体の中には水が満たされている。
身体を傾ければ水は溢れ、真っ直ぐに立てば水も静まる。

青磁九竜浄瓶 全羅南道康津郡出土
重文らしいが、竜頭の細かい作りに感心する。しかしやや多すぎる。切り落としたくなる。
切り落とせばどうなるか。・・・面白みが薄れてしまうのは確かだった。

羅漢図 五百羅漢のひとつ乙未(1235)七月銘
このシリーズは他に根津美術館が所蔵しているそうだ。わたしはあまり羅漢図には関心が湧かない。へんなおじさんに負けました?という気分になる。

楊柳観音図
足下には童子がいる。童子と言うより嬰児のような。可愛らしい幼子だが、これは善財童子だというから、本当はもう少しトシも上だ。観音は円満具足な顔をそちらに向けている。

阿弥陀八大菩薩図  
一番手前右側の観音菩薩の美貌にみとれた。左の勢至菩薩はややトボケている。
綺麗な顔立ちの男性的な観音。見ていて嬉しくなった。

海舶八稜鏡 「煌丕昌天」銘
珍しい鏡だった。時代が高麗だからか、動物の打ち出されたものではなく、荒波を蹴立てて行く船の図像だった。ちょっと思い出そうにも思い出せないようなパターン。
これまでかなり多くの鏡を見てきたが、こんな文様は初めてだった。

元代美術 大元ウルスの世紀

青白磁貼花牡丹唐草文壺 伝大分県宇佐八幡宮境内出土 中国・元  
これは青白磁とはいえやや濃い色をみせていて、そこがやはり元代の作品だと思った。
宇佐八幡宮は格式高い神社だというが、だからこそ、この作品がそこにあったのだろう。
そんな品格がこの壷にはある。

青磁貼花雲竜文四耳壺 竜泉窯 伝小田原城址出土 中国・元後期  
こちらは小田原城から出土したか。こちらもたっぷりしたいい感じの壷で、日本人がどういった作品を愛したかがわかるようなものだ。

赤絵仙姑文壺 磁州窯系
仙姑つまり仙女の様子を描いている。捧げものを眺める・にっこり笑う・庭園に飛ぶ鳥たち、咲き誇る花々・・・何面かそんな情景が描かれている。

堆黒屈輪大盆   中国・元  
たいへん大きな盆で60cmある。ぐりぐり柄。種類によってはアールデコ風にも見えるが、これは一筆書きのコックさんの顔のようである。

六道図 中国・元
六道図は面白いものが多いが、ここに現れる地獄の官僚たちは、みんなそんなにコワモテ系でもない。現実の官僚のような装いがそう思わせるのか。しかし解説を読むと、この六道図にはマニ教の影響が濃いそうだ。マニ教関係には殆ど知識がないからよくわからないが、そうなのか。
社寺境内図も六道図も名所図も、何故こんなに面白いのだろう・・・

墨蹟 虎丘十詠跋 霊石如芝筆 大徳8年(1304)
高僧の書にも詩にも遺喝にもあまり関心はないが、虎丘には関心がある。(タイガースファンだから、と言うだけでなく)蘇州に行った時、そこへ出かけた。東洋の「ピサの斜塔」だった。傾いでいる。ここは随分昔から人気スポットだったのだ。
トラの丘。呉越同舟の故事にもゆかりのある虎丘。

宋元の美の継承者たち

青花牡丹文大鉢   ヴェトナム・15世紀  
ヴェトナムの青花はコバルトの発色も濃く、しかしどこかに粗さがあるが、却ってそれが遊びにもなる。この鉢は意外と図柄もきれいに収まっているので、本国のそれのようにも見える。

文姫帰漢図巻 18場面 中国・明
真ん中から終わりの11.12.13.14が開かれている。
三国志の時代の哀話が描かれている。蔡文姫は攫われ匈奴の王の妻となる。優しくされ子どもらに恵まれても、中華の文化が言葉が忘れられない。
・月を仰ぎ見る。子供が膝で甘えるのを撫でながら、空に一つの月を見る。お付の侍女は琴を抱えている。文姫は琴の名手であった。
・文姫の父の友人・曹操が彼女の身代金を払い、匈奴の国から中華の国へ帰る手筈を整えてやる。大きなパオもあり、駱駝もいる一族の居住地に現れる使者達と、話を聞き胸躍らせる文姫。
・別れ。母に泣きすがる二人の子供ら。匈奴の王は侍女らに支えられながら天をあおぐ。
国へ帰る喜びと、子らを置き去りにする悲しみと。
・去り行く中華の一行と、残された人々・・・
せつない物語を見てしまった・・・。かつて谷文晁旧蔵品だったという。

営造法式 李明仲著 民国14年(1925)版 中国・民国
1100年版の再版。建物や工芸品の装飾のパターニング教本。細かい色指定と色彩設計が書き込まれている。方勝合羅という名称の装飾様式を眺めると、その細かさには本当に驚かされる。
間違えたら取り返しがつかないのがすごかった。

随分深く楽しませてもらった。初日に出かけたが、展覧会は2/11まで続いている。
もう一度来ようかという気持ちにさせてくれる展覧会だった。

宋元と高麗 東洋古典美の誕生 1

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宋、元と高麗の名品をたずねて大和文華館に出かけた。
長い中国の歴史の中でも唐代、宋代、明代、清の乾隆帝の時代が、文化面で突出して面白い時代だと思う。
文化の爛熟。それを愛する人ならば多分うなずかれるだろう。
わたしが到着したとき、学芸員の解説ツアーが終わったところなので、ちょっと惜しいことをした。
テーマは四つに分かれている。

宋代美術-古典主義の誕生-

青磁雕花蓮華文瓶 耀州窯中国・北宋
この瓶の美については曰く言い難いものがある。
雕花はチョウカと読み、蓮華文を彫った瓶と言うわけだが、まるで全身に花を刻み込まれた身体のように、見えた。
官能的な美に吸い寄せられるように、そのガラスの前に立ち尽くした。
北方青磁と呼ばれるオリーブグリーンの磁器。
釉薬は均一化せず、ところどころに薄さを見せているが、それが酷薄な美にさえ思われる。
なんという美なのか。
丁度時代も北宋ということなので、ある連想が生まれる。
徽宗皇帝の御世なら随分刺青が流行したと聞く。水滸伝に現れる好漢たちの多くは刺青を負うているが、中でも九文龍の史進はその名の通り九匹の竜を負い、浪子燕青は美しい花を負った。二人はどちらもその父や主人から膚の美を愛でられて刺青を刻まれている。
己には刻まず後進の雪の膚に酷烈な美を刻む。
松田修はそのことを著書『刺青・性・死』において過激なまでに「告発」している。
この瓶を見ながらわたしは自分の妄想の中で、その膚を思う存分撫で回す。
その時わたしの眼は、史太公や盧俊義が息子や家来の膚に、刻み込まれてゆく刺青を眺めるそれと、変わりがないのかもしれなかった。

紅斑文盤 鈞窯 中国・北宋?金
20cmほどの盤上に微妙な赤みを見せる紫の斑が広がっていた。
瓶でならデヴィッド・コレクションの優品を見ている。
わたしはこんな青磁に赤斑の広がる磁器に惹かれる。
艶かしい、と思うその感情自体が好ましい。

柿磁金彩碗
鉄が変化を起こして柿色になる。この柿は木守り柿のような沈んだ色合いを見せている。
ちょっとなめし革にも似ている。微妙な角度の円錐の側面に、金色の花鳥らしきものが見える。それが可愛い。

青白磁輪花盃 景徳鎮窯 
色の薄さが青白磁の特色だが、輪花だけに通った筋目は色目を変える。
まるでハクサイの葉脈のようだ。茎から葉広に向かうあの白と青の違い。
シャリシャリしているような気がする。

三彩印花魚文長盤 中国・遼 缸瓦窯 
これは縦長変形盤で、見込みに魚たちが泳いでいる。回遊魚。そんな感じの魚。
唐代のような派手な三彩ではなく、少しの釉薬が使われて三彩になったような。

青磁鯱耳瓶 竜泉窯 中国・南宋  
日本人が一番好む砧青磁。耳に鯱。単品で見るのと茶室で見るのとでは値打ちが違うような気がする。長年茶人に愛されてきたからか、どうしても軸の前に置いてみたくなる、そんな瓶。

秋塘図 伝趙令穣筆 中国・北宋
静かな池畔。柳と飛ぶ鳥たち。静かな世界。静かだが淋しくはない空間。
もの侘しさのない平坦な気持ちが生まれるような図だった。

雪中帰牧図 李迪筆 双幅 中国・南宋
これは国宝なのでご存知の方も多いと思う。今回二枚ともが出ていた。
牛に乗る図、牛を引く図。牛を引く図はあまり見ないので新しい発見があった。この牛、目を見開いている。
ドナドナではなくこの牛は飼い主共々家へ帰るというのに、目を見開いている。
この模本を狩野守道が描いているのも展示されていた。

蜀葵遊猫図 伝毛益筆 中国・南宋
麝香猫の家族がくつろいでいる。仔猫たちはころころ転がり、今にも消えそうな茶色い猫は花に近づく蝶の動きをみつめている。わたしはこの猫たちを手本にボストン美術館の『松下麝香猫屏風』が描かれたのでは、と思うことがしばしばある。
 
萱草遊狗図 伝毛益筆
上の絵の兄弟、ただしこちらはわんこ。カヤクサかと思えばカンソウと言う植物らしい。しかし画面のどの植物がそれなのか区別はつかない。くるんとしたシッポ、賢そうな目つき。可愛らしいわんこたち。バッタを追うわんころもいる。ママ犬は花を見ている。ユリのような小さな植物を。


少し各品への感情が多くなりすぎた。ここらで一旦置くことにする。
続きは後日また新たに。

30年分のコレクションとペンギンパレード

今日は天保山のサントリーミュージアムで『ロシア絵画の真髄』を見に行くつもりだけ、だったが昨夜いきなり予定が増えた。
『国立国際美術館 30年分のコレクション』と大和文華館へ行く気になり、大阪市営地下鉄&近鉄乗り降りフリーの奈良&斑鳩一日チケット1600円を購入して、まず肥後橋へ出た。
しかし明け方五時頃から咽喉が痛かったので起きたり、赤い月を見かけたので撮影しようとしたりしたので、体調が大変悪くなっている。でも体調不良だからと言うて遊ぶのをやめるのはイヤだ。だから出かけた。
肥後橋辺りの小さな近代建築など。 IMGP3032.jpg IMGP3033.jpg

クリックすると大きくなるが、建物はやっぱり小さくてかわいいままだ。

♪何でこんなに可愛いのかょ?と言う歌詞もあるが、本当に可愛いものは可愛い。
大阪朝日友の会のおかげで、この展覧会は入場無料になった。
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この案内にはセザンヌ、佐伯、舟越桂、カンディンスキーの作品が載せられている。
とはいえ『30年のコレクション』・・・大方は現代アートなので、ホントを言えば私のニガテ分野。
しかしいつまでもニガテではどうにもならんから見て歩こう。
アソートと作品のコラボ。mir464.jpg
こんなチラシ、好きだな。
関係ないがわたしは17になるまでチョコレートが食べれなかった。アンコは赤福(!)はともかく粒アンはハタチすぎてから食べれるようになった。
経済よりも嗜好のため。
とりあえず22に分かれたコーナーを見て回る。好きなもの・多少なりとも理解できたものにだけ、感想を挙げる。

藤田『横たわる裸婦(夢)』 裸婦もねこも子供もイヌもみんな寝ている。珍しい。全員キモチよさそうに寝ている。

パスキン『バラ色の下着の少女』 いつも思うのは、この少女が『じゃりン子チエ』のチエちゃんに似ていることと、パスキンが少女への嗜好を隠さないことなど。

マン・レイ『マルセル・デュシャン、星型の剃髪』 赤瀬川原平の短編小説に、その星型のハゲを愛でる二笑亭主人の話がある。あの小説を読むとどういうわけか、サティの音楽が静かに耳の中に流れ出す。他の人はどうかは知らない。

コーネルの箱、中西夏之のオブジェなども見ていて嬉しくなる。時間の観念がなくなるような気がする。

浜口陽三、長谷川潔、駒井哲郎、山本容子・・・深く深く好きな版画家たちの作品も並ぶ。
前衛的でも抽象的でも、どうしてか版画になると深く惹かれるのが不思議だ。
技法は別として、版画そのものが好きだからかもしれないし、他に何か理由があるのかもしれない。見れば見るほどのめりこんでゆくのを感じる。

杉本博司の写真は実はニガテだが、『光の教会』はそれ自体が福音そのもののように見える。
一方、石内都の傷痕シリーズは「・・・見たくない」し、「見させられてしまった」感がある。
ただこのシリーズを見る人々の反応を眺めるのは、たいへんに興味深いものだった。
宮本隆司『九龍城砦』は'87の作品らしいが、たしか上梓されたときに学校で見たように思う。取り壊されてしまったその街には、嫌悪と共にひっそりした憧れが寄り添っている。

最後に森村康昌『ファン・ゴッホ』などをみた。わたしは現代アートは本当にニガテなのだが、この人は作品も好きだし、書く文も好きだ。しかしこのゴッホは’85年の作品で、わたしは近年の作品の方がもっと好きなのだった。

結局わたしはやはり門の外にいるような気がする。門は開けられているが入ろうとしないのだった。

その後大阪港・天保山へ出ると、嬉しいことにペンギンパレードに間に合った。
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その模様はデジカメで動画にもしているがIMGP3036.jpg IMGP3038.jpg

このブログでは動画を挙げられないようで、ちょっと残念。いや??可愛かったー
しかしこの可愛らしさにかまけてて、気づけばサントリーミュージアムは入館待ち90分なのだった。・・・諦めた。最終日14日に南港へ行く予定があるのでそのときに廻す。
この後わたしは奈良へ出かけたが、それは別項。
帰り、東大阪のいつもの大好きなケーキ屋さんレジェール・ソルティに行き、抹茶ティラミスを
いただくと、その器の新品分をプレゼントされた。とても可愛くて綺麗。
そして嬉しいことに、以前卵アレルギーの甥っ子のために卵なしケーキが作れるか訊ねていたのを覚えていてくれて、わざわざパティシェさんが「台はパイだけでなくスポンジも開発しました」と教えてくれたのだった。
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気にかけてくれていて、とても嬉しかった。
2008年最初の展覧会廻りとしては、まあよかった方だと思う。

勝手な連想

今回、完全にわたしの妄想独断の妄言です。自分で書いててもわけがわからない。
読まれる方はご注意を。でも短いです。

今年のカレンダー(洋画篇)

カレンダーが好きだ。
名画とか庭園とか町並みなど、とにかく素敵なカレンダーが好きだ。
しかし自分ではまず買わない。
ヒトサマが下さるのをじっと待つ。
会社ではわたしを優先してくれるので(単にゴネるのがうるさいからかもしれない)エエ気になって色々カレンダーを物色した。
どうしてか同じ会社の人でわたしのようにカレンダー好きな人はいない。
競合相手がいないからたやすいのだが、なんでか不思議だ。
みんなあんまりそういうことに関心がないのかもしれない。

今年の我が家のリビングには印象派のカレンダーと東山魁夷をかけた。
各部屋に必ず全て掛けて歩くが、リビングはいつも必ずルノアールまたは印象派集めの作品なので、まぁなんとかなったというか保持したというか。

ルノアールmir461-1.jpg

とにかくリビングにはルノワールが一番温厚でいい。
来た人々も「ああルノワールですね」とわかるので、これがいちばんいい。
しかし春になると、セザンヌ先生ご登場。mir462.jpg

じつは母とか隣のオジなどはセザンヌに安井曽太郎が一番好きらしい。
わたしはルノワールに梅原なのだ。
一月から十二月まで続くのならちょっとリビングにはどうかと思うが、初夏の頃にはゴーギャンがやっぱりいいと思う。
特にタヒチの女たちがいい。mir461-2.jpg

そして夏になるとカミーユたちが出かけてゆく。
波は緑色に見えた。mir461-4.jpg

モネはどの時期の作品も好きだ。去年の回顧展はよかったなぁ・・・

やがて秋になる。mir461-3.jpg

ゴッホの色彩も秋に眺めれば豊饒な時期にふさわしく見えもする。
最後の冬にはコートールド・コレクションのマネの作品から。
mir461.jpg

あれからもう十年が経ったのだ。高島屋での展覧会はすばらしかった。
画集を開くと当時の感想などが蘇る。
やっぱり好きなものは何年経っても変わらない。

とりあえず今年のリビングはこれらの絵で飾られるのだった。

一月の予定

今月はナンダカンダと忙しいですが、隙間を縫って出かけます。
予定は未定の予定表、二月に廻せるものは二月に廻し、体力・財布・時間の許す限りハイカイしようと思います。
因みに1/11から1/13まで都内潜伏します。二月は二周目か三週目かで揺れています。
千葉市美術館には二月と決めていますが、茂木本家に行くか、成田山にゆくかで日時がずれます。来週決定予定。←優柔不断。

蕪村・呉春展 逸翁美術館
石はきれい、石は不思議 —津軽・石の旅—  INAX大阪
30年分のコレクション 国立国際美術館
パノラマ地図でたどる近代の名所 堺市博物館
国立ロシア美術館展 ロシア絵画の神髄 サントリーミュージアム天保山
ベスト・オブ・世界遺産展 大丸梅田
外骨 —稀代のジャーナリスト 伊丹市美術館
初春のよろこび 〜俳諧摺物と絵俳書〜 柿衛文庫
ヴィクトリア&アルバート美術館所蔵 初公開 浮世絵名品展 神戸市立博物館
池田理代子 永遠のベルサイユの ばら展 大丸神戸
ヨドコウ迎賓館
根付コレクション 俵美術館
新春 大谷コレクション 近代絵画の美 西宮大谷記念美術館
北斎 —ヨーロッパを魅了した江戸の絵師— 江戸東博
陽明文庫創立70周年記念「宮廷のみやび—近衞家1000年の名宝」 東博
雪げしき 横山大観記念室
鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち(仮) 永青文庫
開館10周年記念 浮世絵名品展 礫川美術館
謎の画家・小林かいち展〜大正ロマンから昭和モダンへ、花開く絵葉書・絵封筒の美〜 弥生美術館
生誕110年記念 初山滋展 線と色彩の詩人/ちひろの構図—色・線・形 ちひろ美術館
香りと恋心 バルビエのイラストレーションと香水瓶 ハウス・オブ・シセイドウ
小堀遠州 美の出会い 松屋銀座
美術の中の動物たち メゾン・デ・ミュゼ・ド・フランス
王朝の恋—描かれた伊勢物語— 出光美術館
水野美術館コレクションの名品より 近代日本画 美の系譜 大丸東京
日本郵政グループ発足記念 ていぱーく
春のめざめ —横山大観・上村松園・小林古径・安田靫彦— 山種美術館
印象派展 青山ユニマット美術館
町田市立博物館所蔵 — 光と彫刻の芸術— ガラス 大倉集古館
『旅』展−異文化との出会い、そして対話− 国立新美術館
和モード日本女性、華やぎの装い サントリー美術館
吉祥のこころ 泉屋分館
冬季展 花によせる日本の心—梅・桜・椿を中心に 畠山記念館
あかり / 光 / アート 汐留ミュージアム
小杉小二郎展 損保ジャパン
特集展示 延原コレクション展 早大會津八一記念博物館
幕末ニッポン 〜ハリスと黄昏の大君の都〜」 たばこと塩の博物館
鍋島−江戸の至宝・創出された美− 戸栗美術館
パラオ−ふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功 世田谷美術館
幕末・明治の浮世絵 国際基督教大学博物館湯浅八郎記念館
林静一展 1967−2007 八王子夢美術館
土門拳写真展 日本のこころ 吉祥寺美術館
神沢利子展〜いのちの水があふれだす〜 三鷹市美術ギャラリー

このすぐ上四つは多分ムリでしょうが・・・

二月か今月か未定なのが以下の京都。

玉村方久斗展 京都国立近代美術館
京の鳥瞰図 京都市歴史資料館
−文化・文政期−「江戸時代後期衣裳展」 京都伝統産業ふれあい館
川端康成と東山魁偉 —響きあう美の世界— 京都文化博物館
新春の遊び カルタ 茶道資料館

風邪やインフルエンザに気をつけて過ごしましょう、皆さん。

迎春 新年ご挨拶

あけましておめでとうございます。
今年も標榜する日々是遊行を続けたいと思います。
本来「遊行」とはムカシの高僧が「山野を修行のため行脚する」の意だったようですが、フラチなわたしは「遊びに行くゾ」のキモチで諸国行脚を続けております。
また今年もよろしくお願いいたします。

さて子年とは言え子子年(ネコどし)と言い換えたくなるわたくしです。ネコとネズミなら「トムとジェリー」の画像がいいかな、と思いつつ「今年は源氏物語・千年紀」だと気づきましたので、こちらを新年の画像としてあげました。

石山寺所蔵「初音」 伝狩野養信。mir460.jpg

昨秋思文閣本社で特別展として展示されました。
雪丸に若松のめでたい図会です。

九曜文庫所蔵「絵合」mir458.jpg

昨年いただいたカレンダーから。ありがたいことでした。

こちらは昨秋鎌倉芸術センターで開催された守屋多々志「扇面源氏物語絵」より。
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歴史画・物語絵を多く描かれただけに、どの情景にも深い潤いがありました。

最後に4/26から6/8まで京都文化博物館で開催される「源氏物語 千年紀」展チラシ。
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今からとても楽しみな展覧会です。

なお1/27まで和泉市久保惣美術館では常設展として「源氏絵 麗しき桃山の美」展が開催中です。土佐派の名品を多く所蔵している美術館なので、その辺りかと思います。


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