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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

物語を彩るミュシャと挿絵の世界

堺アルフォンス・ミュシャ館でミュシャの描いた挿絵の展覧会が開催されている。
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ミュシャといえばサラ・ベルナールと組んだポスターがまず思い浮かぶが、繊細で緻密な描写の挿絵も多く残していた。
これはジュディット・ゴーティエ「白い象の伝説」の挿絵下絵。
彼女はテオフィル・ゴーティエの娘で、アジアに関心を持ち、アジアを舞台にした小説を書いた。
初版は1894年、挿絵はその前年の作である。
ラオスで生まれた白象が仲間に受け入れられず、一人ぼっちでさまよううちに文字などを覚え、王の象となり、その姫の守護をするが姫の望まぬ結婚に自分も嫌気がさし、消息を絶つ。芸が出来たことでサーカスで働くようになるが日々鬱屈する象。しかしある日ショーにあの姫君が偶然訪れたことで象はようやく幸せを得る。

多くのミュシャの挿絵がついた本は初版の後に1910, 1925年と版を重ねたが、2005年まで完全版は出なかった。
ミュシャの全挿絵の入った「白い象の伝説」は日本で出版されているそうだ。



姫を助ける象
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全体の挿絵を集めたサイトがあった。こちら
このゾウさんはなかなか賢いだけでなく、よく働くのだが、「オツベルとゾウ」同様に心に染まぬ仕事をさせられ、鬱屈する。
物語には色々時間の経緯による変化もあるのだが、ゾウの一生は結構波乱万丈なのだった。

アジアの姫の装飾なども美麗で、さすがミュシャだという表現だった。
一方、ゾウの賢いのにびっくりする人々の様子や他の灰色のゾウ達の嫌そうな顔つきなどもいい。
綺麗なものばかりでないミュシャの細密な表現を知ることが出来てよかった。

ミュシャは本の装幀も多く担当した。
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「スラヴィア 思いやりの深い母親たち」1935年 もはや「ムハ」としてチェコに戻った時代の仕事だが、表現はアールヌーヴォー様式である。


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この装飾性の高いところなどはいかにもパリ時代のミュシャらしさがある。
「トリポリの姫君イルゼ」 1897
この物語はサラ・ベルナールが演じてもいる。

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「クリオ」挿絵 1900年 海上の道となる月明かりが巨大な女の顔へと至る。
明治の浪漫派の人々が憧れたのはこうした絵だった。
絵の背景となる物語はわからないが、惹かれる何かがある。

他にも多くの挿絵や装幀がある。
繊細な描写のミュシャの挿絵はとてもよかった。

11/11まで。


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水木しげる 魂の漫画 その2

「水木しげる 魂の漫画」展の続きである。
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二階の展示室へ降りた。痛烈な展示風景があった。

4.総員玉砕せよ! 壮絶な戦争体験記
いやでも気づくものがある。何かといえばそれは爆弾の絵のパネルだ。
それが頭上に林立する風景がそこにある。
わたしはツイッターでこのようにつぶやいた。

そう、作中の爆弾がパネルとなり頭上にずらりと並んでいる。
爆弾の種類はわたしにはわからない。しかし間違いなく殺傷能力の高い爆弾でしかも連続して投下できるものなのだ。
それが頭上に列をなしている。
これには参った。
絵空事ではないのだ。実際にあった戦争の悲惨さを経験した当事者が描き、それを我々は追体験するのだ。
無論完全な追体験ではないが、無視出来ぬ重さがある。

その頭上の爆弾の下に「総員玉砕せよ!」の原画が列んでいるのに胸が重くなる。
一枚一枚一コマ一コマ濃密な絶望感と虚無とが漂っている。
わたしはこれまであえてこの作品を避けてきたが、今日は遂に捉まってしまった。
逃れようのない状況の中で、仕組まれた無駄死にを遂げる人々を容赦なく描いているこの作品に。
人間性も失われ、不条理な上官の命令に従うしかないく、生き延びることは決して許されない中で、何の綺麗ごともなくただただ死んでゆく。
「これが戦争なのだ」
そのことがずしんと胸を圧す。

戦後20数年後に生まれたわたしは、親や教師世代から戦争の悲惨な話を聴き、授業でも学んできた。
だが彼らは全員が内地にいて逃げまどっていた人々なのだ。戦地に行った人の話をリアルに聞く体験をわたしは持たなかった。
わたしの祖父世代は戦地に行って帰ってこれなかった人が多く、帰ってきた人であってもわたしは彼らと接点がなかった。
わたしの母方の祖父は裁判官であり、内地にとどまっていた。父方の祖父はわたしの生まれた頃に亡くなっている。
母方の祖父の弟は戦地から帰ったが、ついにこの人と会う機会を持たなかった。
映画などでみる戦争は「被害者」としてのそれであり、加害者側・当事者側を描いたものはほとんどなかった。
「人間の条件」「独立愚連隊」「兵隊やくざ」がそれにあたるだろうか。
理不尽な死が蔓延する中、武良茂青年がその死者の列に加わらなかったのは、やはり奇跡だと言っていいのではないか。

水木サンのこの作品があるからこそ、21世紀の今日に「ペリリュー 楽園のゲルニカ」という作品が生まれた。
リアルに理不尽さを無残さとを骨髄まで味わった水木サンとは違い、1975年生まれの武田一義さんとでは「実感・実体験」が違うのは確かだが、それでも武田さんがこの作品を描くことは、まだこの世界に希望があることを感じさせられる。
戦争は絶対悪だという認識への。

戦争で南方に行った水木サンの幸運の一つは、現地のトライ族の人々との温かな交流だと思う。
実際このことが水木サンの支柱となって、後年再訪するのだから、南洋の憧憬は根深いものだった。
そのことについてはここに設置された電気紙芝居で、弁士の坂本頼光氏も熱演していた。
26年後に再訪した時、現地の皆さんはそれなりに年を取ってはいたが、篤い歓迎の心を見せたのだ。

ところで戦争により左腕をなくしてしまったが、それとは全く別に模型で連合艦隊を拵えたりするのが大好きだったようだ。
これは自作にも描かれている。
その連合艦隊模型が展示されていて、やっぱりすごいなと思った。
ご夫婦で一緒に拵えたそうだ。奥さんも楽しかったという。
そして小松崎茂にも学びに行っていたそうだ。

ここで道順に従い5を飛ばして6へゆく。
6.短編に宿る時代へのまなざし
正直なところ、非常にシビアでラストがつらい作品が多い。
わたしが最初に読んだ水木サンのマンガは大人向けの短編集で、子供心に「こらあかん、不幸が寄ってくる」と思ったものばかりだった。
子供向けの作品「縄文少年ヨギ」の紹介もあったが、これは通読していないのでどうともいえないが、悲惨なラストが待つ作品が多いのなんの。
これは1970年代までのほかの作家の作品にもその傾向が高く、わたしなどは読みふけっている最中に激しく鬱屈する。
景気が上向いてきてても1970年代はアカン。子供心にも強くそう思ったものだ。
他方70年代は少女マンガの開花の時代でもあり、非常に優れた名作がこの時代にあふれている。

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7.妖怪世界へようこそ
ドラマ「ゲゲゲの女房」でも描かれていたが、80年代になって水木サンの作品発表も落ち着き、妖怪画、妖怪図鑑の制作に軸足を移した。このあたりの作品は先年三井記念美術館でもたくさん展示されていた。
当時の感想はこちら
大妖怪展 鬼と妖怪とそしてゲゲゲ

これらの作品は今も版を重ね、年代を問わず愛されている。そしてこの作品群が水木サンの再評価へとつながるのだ。

5.溢れる好奇心 人物伝
90年代に入り、水木サンは人物伝を多く世に贈った。これが実に面白い。
まだ90年代に入る以前に描かれた人物伝の紹介もあるが、その当時からこうした人物伝を描く下地はあったわけで、いずれもたいへん面白い。
原画があったのは「近藤勇」と「ヒットラー」である。
そしていよいよ列伝の紹介が出てくる。

スウェーデンボルグが神と邂逅するシーンなどはやはり水木サンでなくば表現できない情景となっていた。
わたしはスウェーデンボルグは雑誌「ALLAN」や私市保彦「幻想物語の文法―『ギルガメシュ』から『ゲド戦記』へ」などから知ったが、それ以前にどうやら「悪魔くん」で見ていた可能性がある。
神秘家としてのウィリアム・ブレイクを知ったのは水木サンまたはつのだじろう・永井豪両氏の作品からか判然とはしない。
しかしこの三人の作品から知ったのは間違いないのだ。

「東西奇っ怪紳士録」のうちから平賀源内のエレキテルのシーンが出ていた。
この本はもう本当にあまりに面白くて何度読み返したかわからないし、今も折々読み返している。
わたしが本当に水木ファンになったのはどう考えても90年代以降からだった。
TVで鬼太郎アニメを見、「悪魔くん」「河童の三平」を大切に保存しつつも、大してよい読者でもなかったのだ。
しかし90年代から最期まではずーっと一貫してリアルタイムに読み続けてきた。
特にこの人物列伝は最高に面白いと思っている。

8.人生の達人 水木しげる
筆書きという珍しい表現法による一枚絵が並ぶ。そこに水木サンの人生訓??と言うべき文言が記されている。
「なまけものになりなさい」
いや、それは困るねんけど。

2000年代に制作され未完に終わった水彩画の「虹の絵本」も公開されていた。
さらりと描かれたとても綺麗な絵の連なりだった。
人生のスタート頃に絵本を描いた水木サンだが、晩年に到り「初心忘れず」というところなのだろうか。
それとも単に日々の楽しみの一つだったのだろうか。

やがて京都会場限定コーナーが現れた。
水木サンx宗教文化
ここで幼少期の「のんのんばあ」の思い出が紹介されている。
のんのんばあから地獄やオバケの話を聞いて育つ水木サン。
その時に見たお寺の地獄極楽図の複製画が現れる。
龍谷ミュージアムでこの展覧会が開催された価値がここで活きる。
ようやくここで納得した。
そうか、そうだ、と一人で納得する。

やがて2015年、水木サンは新しい旅に出た。
水木サンの新しい旅先はあの世だ。水木サンは全ての生命体の先達として、旅に出た。
死の世界へ行くのも旅だ。
多くの旅をした水木サンだが、今度の旅にはツレはいない。
だがそれは淋しい旅ではないと思う。
いつか追いつく人々のために水木サンは新しい知見を発見するのに忙しい気がする。

去年この「追悼水木しげる ゲゲゲの人生 」展の時から思っていたが、この展覧会を見てますますその意を強くした。
当時の感想はこちら

いい展覧会だった。
11/25まで。


水木しげる 魂の漫画 その1

龍谷ミュージアムで「水木しげる 魂の漫画」展が開催されている。
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龍谷ミュージアムと言えば仏教系の展示が多く、ここで「妖怪マンガ」を数多世に送った水木サンの展覧会をする意図は何か。
仏教と妖怪の関わりか…!?
とかそんなことをチラリとも考えず、ただ単に水木ファンとして喜んで美術館へ向かった。
予想以上にお客が多く、皆さん熱心に見ている。
展示リストはないが(何しろあまりに膨大な作品数からピックアップするのである)、展示室のマップをもらった。
モノクロのこちらである。
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1. 武良茂アートギャラリー 天才少年画家あらわる!
時系列での展示なので、鳥取・境港での天才少年の絵の軌跡を見ることから始まる。

水木サンの本名は武良茂である。子供の頃から抜群に絵がうまく、タブローだけでなく物語絵を描くことに長けていた。
これは以前からの展覧会でも大きく紹介されていることなので、わたしも心得ていた。
まずは絵本「白雪姫」である。これは以前にも見ているが、今回は更に小人たちの様子を描いたシーンも出ていた。
実はこれらはディズニーの映画が輸入される以前に描かれた作品だという。制作は1938年。ディズニーの「白雪姫」もほぼ同年だが、現代と違い、当時は情報が軽々と手に入ることはなく、しかも鳥取という場所から考えても、当時の武良茂少年がディズニーの作品を少しでも観たとは考えられない。実際「白雪姫」のアニメーションは1950年に日本へ来たのである。

グリムの作中で姫は「炭のように黒い髪・血のように赤い唇・雪のように白い肌」を持つ娘として描かれている。
16歳の武良茂少年が何を参考にしたかはわからない。
当時のどの本を読んで・誰の挿絵を見たかもわからない。文中の描写と、それ以前に見てきた様々な絵本からの情報で、このような表現を採ったにしても、とても魅力的な作品になっている。

他にも原本のわからない「グリム童話」の物語絵がある。
当時流通していた本を全て知ることは出来ないので、武良茂少年が何を作品化したかはわからないし、もしかするとそれをベースにしたオリジナルなのかもしれず、その辺りは何もわからない。
だが、物語絵としてはたいへん上質なのは確かだ。
タイトルはドイツ語をそのままカナ書き。
「ルムペルシュティルッヘン」

あとは虫絵巻が凄い。こちらは童画家・武井武雄、初山滋らを思い起こさせる。
手塚治虫、松本零士、水木しげる、みんなとても虫を愛し、虫のマンガを描いている。
松本零士の作品集の解説に「虫を愛する者は心が優しい」とあったが、三人の作品に共通するものはとても多いと思う。
作風というのではなく。ある種の強烈な意識である。
これについてはここで記すと長くなるので措く。

そしてそれ以前のもっと幼ない時分に描いた水彩画も展示されている。
これらは高等小学校時代に描き貯めたもので、当時鳥取県の二科展と関わりを持っていた教師の勧めで、地元の公民館で「個展」を開催した時に展示された作品だそう。
幼少期から青年期を振り返ったエッセー「ほんまにオレはアホやろか」を踏まえつつこれらを見ると、単に勉強が苦手なだけの才ある少年だということがわかる。

紙芝居作者であった様子を再現するかのような設えがある。
そこで水木サンの「波乱万丈人生紙芝居」映像が流れる。弁士は坂本頼光氏である。
観客は熱心に映像を見ている。わたしもじっくり見たかったが、垣根越しになったのであきらめた。

2. 水木しげる漫画研究 片腕で生み出す独自の画法
一時染め物工場で働いたことからか、染粉を溶いてそれで彩色をしたそうだ。
あの独特の色彩感覚はこうしたところから生まれたのか。
実際の使っていたガラス瓶が並んでいた。

と、ここで丁度ミュージアムシアターで「水木しげる氏を語る」13分のプログラムが始まるというので、一旦離脱してシアターに入った。
・元講談社編集担当 田中利雄氏
・チーフアシスタント 村澤昌夫氏
・漫画家 池上遼一氏
このお三方による水木しげるという人物の思い出話である。
これはやはり面白かった。
田中氏は編集者という立場からの話をされ、村澤氏は仕事の様子などを語られた。
池上遼一氏は何故か背中からの撮影で(しかし若い頃の一緒に写した写真などが出ている)、思い出話である。

皆さんかなり面白い話をされた。
・オチが浮かばない時、つげ義春氏を呼び二人でぼそぼそと話をする。
・妖怪画「雪女」の髪を担当したのは池上氏。水木サンの奥さんとその妹さんも美人で、だからか「雪女」などにその面影が出ていて、描かれた雪女はたいへん美人に。
・点描を担当する池上氏はついつい居眠りしてしまい、水木サンから小言を食らった。
・背景画の凄まじいばかりのリアリズムとデフォルメされたキャラとの落差。これが水木マンガの魅力。
その背景は「背景画」として大量に制作されていた。そして使われるときはストックから物語の情景にぴったりのものをコマにはめ、切り抜いたりして製作時間の短縮を図った。

実際、どの作品でも背景の見事さには常に粟立っていた。
特に山中や石仏の集合体、夜の田舎道、異界…
わたしなどは田舎はニガテ、季節性鬱、要するに誰もいないところ・暗いところがたいへんニガテなので子供の頃からあの背景が怖くて仕方なかった。
そのピースをここで見てやっぱり震え上がった。

田舎の民家の絵などは二川幸夫の「日本の民家」を思い起こさせもした。
というより、あの写真展を見たとき「水木サンの作品みたいだ…」と思ったことを改めて思い出した。
当時の感想はこちら
日本の民家 一九五五年 二川幸夫・建築写真の原点

無縁仏の集合はやはり恐ろしかった。

シアターを出てからまたブレイク前の作品を見る。
絶望の町 1948  浜田知明の初年兵にも似た髑髏風なキャラがしょんぼりしている。

ここには展示されていないが元祖デスノートのような作品が水木サンにはあって、現代ものは「糞神様」に収録されているが、そのもとになったような「死人帖」とかいう作品もこの時代に生まれている。

非情な「猫忍」もある。こういう無残で不条理な話が水木サンにはとても多い。
前述の手塚・松本零士と共通する云々はこうした点をも。

水木サンの這い上がるきっかけとなった「テレビくん」もある。この作品はわたしも好きだ。
羨ましさとちょっぴり悲しいような何かがあり、「児童漫画」の傑作だというのも納得の作品。

3.水木しげる人気三大漫画 鬼太郎、悪魔くん、河童の三平
今日までどころか未来にもこれらの作品は愛され続けるだろう。
2018年現在も「鬼太郎」はアニメ化されて放送中である。

鬼太郎の原画の内「大海獣」の表紙が出ていたのを見て震え上がった。
鬼太郎の変身が並んで描かれているからだ。
実はもうこの作品こそがわたしの中では最大のトラウマの一つで、今に至るまでおののき続けている。

鬼太郎の67年の第一巻表紙、鬼太郎が掌を開いてこちらを止めるようなポーズ、いつみてもカッコいい。
とてもアクティブでアグレッシブで。
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「悪魔くん」は実写版をわたしも見ている。ただし1982年の話。当時テレビ大阪が「懐かしの少年ドラマ」シリーズとして「月光仮面」「隠密剣士」「ハリマオ」「悪魔くん」などを放映したのだ。
この当時から既に戦前の少年小説、戦後の少年マンガに関心が高かったわたしは非常に面白く見た。
そしてその実写版の出演者たちの写真があった。メフィストは吉田義男。真吾は金子光伸君。百目もいる。
金子君が若くして亡くなったことを知ったのは今夏だった…
彼はわたしの中では「ジャイアントロボ」のU-7大作くんでもある。泣ける。今もファンサイトがある。こちら

とはいえ以前の水木しげる展の感想にも書いたが、「悪魔くん」は山田真吾版と松下一郎版があり、全くの別物である。
真吾は水木サンのキャラで唯一の美少年。一郎は1万年に一人の異能児で、非常にクールで、苦々しい表情もいい。
わたしはどちらも好きだが、やっぱりややこしいのでタイトルを変えてくれたらよいのに…と今もよく思う。

「河童の三平」の原画では河童の世界に連れて行かれて人間だとばれて必死の逃走をする三平と河童たちのシーンが出ていたが、あの超絶な背景画がいい効果を生んでいた。

終盤、三平はまさかの死を迎える。そして知り合いの死神と共に黄泉路を行く。
普通の人の目には見えない道だが、同居しているタヌキは人ではないのでその道が見え、三平と言葉を交わせる。
三平はタヌキに自分のいない後のことを託し、タヌキはこれまでの三平の厚意に感謝の言葉を挙げつつ泣く。

せつなかったなあ…
解説によると当時このタヌキはなかなか人気があったそうだ。

長くなるので続きは後日。

「やじきたが来た!見た!食べた?藤澤・東海道の名所と名物」から

先日は芳幾の描いた弥次喜多ばかりを集めたが、今回はそれ以外。

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楽しいチラシ。

広重の貼り混ぜ絵もある。
東海道五十三次図会シリーズから>
1856年 この二年後に広重はコレラの為に命を落としたが、晩年にいたるまで多くの旅をした。

神奈川・程かや(保土ヶ谷)・戸塚・藤澤
藤澤は照手姫、神奈川で浦島。
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この右端が何かと言うと…
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ぎょぎょ…玉手箱の呪いの結果、浦島太郎がお爺さんになる様子を…けっこう怖いぞ。


江尻・府中・鞠子・岡部
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貼り交ぜ絵に描かれた絵の一つ一つの意味を知ることは案外難しい。
昔のヒトの共通認識は現代に伝わらなかったものが結構多いからだ。
だから大南北の芝居も台詞の本当の面白さはぜいぜい二割くらいしか伝わらなかった。
「藤八、五文、奇妙」なんてその典型的なものだ。
また「地獄」という言葉もインフェルノの地獄だと思うばかりだが、南北の言う地獄はそれではなくて…
これは谷崎の「痴人の愛」にも現れるので、戦前から戦後しばらくはまだ活きていた言葉なのだと知る。
やっぱりあれか、333でなくなったのかもしれないな…
と、書いてその「333」も完全に伝わる人とそうでない人がいることにも気づく。
そんなわけで土地と人物のエピソードが現代と江戸時代とは違うことを踏まえなくては、このシリーズは楽しめないのだった。


歌川貞秀 見立浮世源氏相州江ノ島須磨 1840
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田舎源氏の見立て絵なのだが、海辺でタイやタコを取る赤尽くしの坊やが光氏というのがいい。
そして取れたものを少女に見せて気を引こうとする。

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歌川国丸 児が淵  稚児が淵を読みこんだ句が書かれている。女たちとちびっこたち。
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これが本物の十返舎一九の作画による東海道中膝栗毛。
藤沢宿での様子。茶店でわんこと。
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ところでこれを見るとわたしは井上ひさし「手鎖心中」のラストシーンを思い出すのだ。
一九、馬琴ら戯作者の決意表明を…

歌川芳員 東海道五十三次之内 浜松・荒井
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弥次喜多のツアーの浜松と荒井では蒲焼屋の主人が鰻そのもので、冷やかしに来た客がスッポンに指を噛まれる。
この蒲焼屋の主人が鰻そっくりと言うのは一九が書いてたのだったか、杉浦日向子もそれを絵にしていた。
まぁこの絵ではギャグだが、実際にはホラーですわな。岡本綺堂辺りが書くと、もっと怖そう…

最後は五十三次名所双六で遊ぼう。
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今回もとても楽しい企画展だった。
これで無料とは申し訳ないような気がする。
また今度も辻堂へ行こう。
いつもいい展覧会をありがとうございます。

「やじきたが来た!見た!食べた?藤澤・東海道の名所と名物」から「東海道中栗毛弥次喜多」

藤澤浮世絵館で弥次喜多の旅をモチーフにした楽しい浮世絵展が開催されている。
作者・一九の手から飛び出して、仮名垣魯文と落合芳幾のタッグを組んだ「東海道中栗毛弥次喜多」という作品群が生まれ、それが今日にも伝わっている。

万延元年1860年に出たシリーズもので、日本橋から京へ向かうのは原作のままである。
ただしどういうわけでか53次の順ではなく、なんでやねんな駅順になっていた。
まぁええやんということで、撮って行った。

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・姥が餅の店先でウゲゲな弥次さんの背中を喜多さんがとりあえず叩いて介抱。
・鰻ならぬ鯰のかば焼きを食べさせる店らしいが…大津の名物だったのだろうか。


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・焼き蛤 桑名の名物だが、いい匂いがしていそうでこちらにもくる
・焼き飯 石薬師 そう、幕末は焼きめしがあった。ただしどんなのかは知らない。これで見る限りは焼きおにぎり風。
描かれたとほぼ同時代、中岡慎太郎は竜馬と共に襲撃を受けたが、焼き飯を食べてから死んだそうだ。やっぱりこんな焼きおにぎりだったのだろうか。


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・由井でさざえに指を挟まれる喜多さん。
・二川では柏餅屋の婆さんに捕まる。


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・日本橋のたもとでお酒ですかな。
・大磯 鴫立澤で鴫焼きか。


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・品川 町飛脚とぶつかったらしい。
・川崎 六郷の渡しで間違って手ぬぐいやなくて…まぁ同じく長いからなあ。


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・藤澤の宿で狐拳
・小田原では五右衛門風呂で大失敗。わたしはこれを読んでから実際に五右衛門風呂に入った。すごくドキドキしたなあ。
小4のときの話。


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・三島 いやもうほんとにね…スッポンと護摩の灰の騒動。
・蒲原 仏壇の中へ入るて…「呪いの館」でも「蛇山庵室」でもないんだけど。


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・日坂 座頭とトラブル。
・掛川 茶店でもタイミングが一緒。


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・神奈川 「人穴」に落ちてすってんころりん。
・島田 大井川を渡るのに、姫様は物凄く立派なので渡る。こっちの二人組は…


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・平塚
・原 どちらもトラブルは発生する。


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・岡崎 今ならオカザエモンが出て来るかな。
・宮 立派な船が。このシリーズで唯一の風景画


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・浜松 宿で夜干しした浴衣の柄をオバケだと思い込んで…
・赤坂 キツネツキを祓ってやるとばかりにポカポカポカ…狐が笑いながらそれを見ている。


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・池鯉鮒 豆腐小僧じゃないよ
・坂の下 トラブルの種ってどこにでもあるものらしい。


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・土山 雨の中を行く。「坂はてるてる 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」
・京 ついた途端にいらん梯子を買わされました。

まあなんとか変な道筋だが、無事に京へつきました。

「日本画の挑戦者たち ―大観・春草・古径・御舟―」展を見る

山種美術館の「日本画の挑戦者たち ―大観・春草・古径・御舟―」展を見た。
日本美術院創立120年記念での企画展である。
たいへんよい展覧会で、名品が並ぶだけでなく滅多に見ない作品も多く出ていた。
これらは全て山種美術館の所蔵品である。
言えばコレクション展だが、名品ぞろいのこの展覧会は貴重な機会・場となって、わたしたちを魅了する。
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名画が集まる理由の一つに、所有者と画家との関係の篤さを挙げていいと思う。
今から半世紀ほど前に生まれたこの美術館には、創立者の山崎種二氏と画家との暖かな交流から集まった作品も数多くある。
一つ一つのエピソードを思うと、こちらの胸もあたたかくなる。
茶道具の場合、その道具に付随する物語・逸話・噂じたいがその道具の華にもなる。
絵の場合、そこまで逸話は必須ではないかもしれないが、知っているとよいことも多い。

絵を見る。
最初に現れたのは小林古径の「猫」、そうエジプトの猫神様と縁浅からぬ風情の虎柄のお猫様である。
可愛らしさと気品のまざりあう、立派なお猫様のお出迎えで気分がよくなる。

1.日本美術院のはじまり
狩野芳崖、橋本雅邦といった幕末生まれの人たちの絵がある。明治の世になって描いた二作はそれぞれ明治初めと明治末の作品だが、どちらも新しい世に生きようと描かれた絵だと思えた。

横山大観 燕山の巻 明治末の墨絵の巻物。随分と長く、そこに建物とヒトの姿がある。建物のパースは崩れているが、それが妙な愛嬌と存在感になり、そこがやはり大観らしくていい。

下村観山 不動明王  凄い筋肉美。マッチョだわー。かっこいい。それが空を飛んでやってくるのだ。20世紀初頭の空を。

菱田春草の坊やと牛の絵が二点。どちらもとても可愛い。
初夏(牧童) 牧歌的で坊やも牛も童画風。
月下牧童  牛の雰囲気がリアルになり、強めの風の中で坊やもきりり。

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2.再興された日本美術院
朦朧体から離れ、新たな表現法を模索する中で生まれた名品たち

大観 喜撰山  いつみても感じるのは「まんが日本昔ばなし」に現れるような山だということ。とてものほほんとおおらかで、平和で、のびやかな心地よさがある。

今村紫虹 大原の奥  今は尼僧となった建礼門院徳子の立ち姿。舅であり敵でもある後白河院が自分を訪ねてきたことをまだ知らないらしい。素足が痛々しい。

古径の「清姫」全点が並んでいる。改めてその良さが胸に来る。
始まりの「旅立」だけごくシンプルな線描画で、そこから色彩が物語の加わる。
なまなましさは全くないのに清姫の執着の深さが何もかもを壊してしまうのがはっきりと伝わる。
情炎に焦がされた末の死。不条理な死を迎える男と、手に入れられなかった絶望感で死ぬ女と。
彼らの姿は描かれずとも、脳裏に想像がはしる。
文の間に活きる「行間」、その感覚がこの絵にもある。

富取風堂 もみぢづくし  この画家は初めて見た。多種多様なもみじを描き尽くしていた。18種くらいか、短冊にそれらの名前が記されている。

速水御舟 前期に「昆虫二題」、後期に「名樹散椿」が出る。
今回は写生帖が出ていた。薔薇が描かれていて、なかなか素敵だ。

3.戦後の日本美術院
今日に至るまでの道

前田青邨 大物浦  海の青さは多層的で、それが嵐を表現し、船に乗る人々の運命の暗さを暗示させているようだ。

青邨 腑分  若い女の刑死人の腑分け。胸の形が綺麗だとかねがね思っていたが、この死体のモデルはお孫さんだったのか!びっくりしたー

守屋多々志 葛の葉  既に童子丸を置いて家を出た後の葛の葉である。胸も腹も露わにしたまま嘆きの顔を挙げる。
しかし彼女はどこへのその哀しさ・せつなさを訴えることはないのだ。言葉に出来ぬ悲痛さが満ちている。
灰色の夜、星が一つ。それだけが彼女の悲嘆を見ている。

小山硬 天草(洗礼)  多くの隠れキリシタンたちが見守る中で、小さな赤子に洗礼が。
丁度いま隠れキリシタン、潜伏キリシタンの資料などが世界遺産になった。
長崎ツアーをしたわたしは、信仰の重さに負けた…
そのことを思いながら絵の前に立つ。

宮廻正明 水花火(螺)  投網する瞬間を水花火と。かっこいいな。これは現代が舞台の投網なのだが、江戸時代の昔、旦那衆は漁師に弟子入りして投網の稽古にいそしんだそうだ。

多くの名画と新しい絵とを見ることが出来てとてもよかった。
やはり日本画はいい、とつくづく思う。
11/11まで。

東洋陶磁美術館「高麗青磁」の美に溺れる その2

全体も細部も何もかもが繊細で美麗。
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刻まれたものは決して消えない。
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色の濃度にときめく。
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みんなといるときはそうでもないけれど、ひとりのときはさみしそう。
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色の違いが興味深い。並ぶからこそのことか。
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何故こんなにも美麗なものばかりが生み出されたのだろう・・・

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パネル展示の絵を見る。
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野宴 ごちそう。

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ここでも使われていたのだろうな。米色の物がみえる。

釉溜りの美を堪能する。
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貫入が可愛い。

有馬筆のようだと思った。
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少年と少女
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かわいいなあ。
最初にこんな水滴があるのを知ったのは萬野コレクションからだった。
あれらはどこへ流れて行ったのだろう・・・

高麗青磁の美をあつめた展覧会。
恐らく今、これ以上の高麗青磁の名品を集めた展示は見られないと思う。
残影が今も残っている…




「大谷光瑞師の構想と居住空間」展をみる

短期間の展示なので見に行けないかもしれない、と焦った。
龍谷大学大宮学舎・本館での展覧会である。


10/3から10/13、そして10/18という短期間に、とても興味深い展覧会が開催された。
10/18は映像展示がないそうで、資料のみとなる。
わたしは10/11の午前中になんとか見ることが叶った。

開催場所はここ。



この建物を撮影したものをまとめたのはこちら。
龍谷大学を訪ねる

チラシを見て分かるように大谷光瑞の周囲に5つの魅力的な建物が配置されている。
現存する伝道院、築地本願寺、失われた二樂荘の魅力に溺れている身としては、なんとしてもこの展覧会に行かずにいられなかったのである。
イメージ (1363)

擬洋風の龍谷大学の本館へ入ると学生さんが受付をされており、とても立派な図録をくださった。
展示もこの図録も無料なのである。申し訳ないような心持になる。

今回のわたしの主目的は前掲の建物のほかの建物の資料を見ることにあった。
そして「大谷光瑞と言えば大谷探検隊」という意識が中学生の時から今も活き続けているので、その資料にも会えるのではないかと期待していた。以前の展覧会の感想にもその想いを記している。
二楽荘と大谷探検隊

展示はとても充実していた。
今回はわたしの初めて見る建物について少しばかり紹介したい。

チラシの建物は上から
六甲の二樂荘
大連の浴日荘
西本願寺向かいの伝道院
高雄の逍遥園
ジャワの環翠山荘
現存するのは中二つである。



このようにツイートしたが、実際どう考えてもそうとしか思えない。
伊東忠太との出会いがそうさせたのか、元からその傾向が強いのかはわからない。
尤も近代の宗教者の拵えた建造物は素晴らしいものが少なくない。
天理教は竹中工務店だったか、近代和風の傑作だし、お東さんの住まいは武田五一、大本教も…
中でもやはり大谷光瑞の建てた建物の魅力の深さは非常なほどだ。

イメージ (1366)
月見山別邸 現在の須磨離宮公園に1903年に建てられた。
これは光村印刷が出した絵はがき。ここで大谷探検隊が将来した資料の研究がすすめられたそう。
それを想うだけでドキドキする。
尤もこの建物はたった四年後に明治天皇の武庫離宮とされ、手放してしまう。

須磨の月見山界隈は光源氏の昔から風光明媚な土地として知られているが、他にも多くの富豪が別荘を建てていた。
たとえば住友春翠は今の須磨水族園の地にこれまた素晴らしい大邸宅を拵えていた。
「邸宅美術館の夢 Baron住友春翠」展には住友須磨別邸模型があった。
その模型は撮影可能だったのでパチパチ撮った。
こちら

わたしがこの地が別荘地だと知ったのは横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」で読んだからだった。
玉虫伯爵の別荘があるという設定で、舞台は戦後すぐの1947年、戦災の無残な痕を歩く描写があった。
横溝は神戸出身なので、隣の須磨にも詳しいのだ。

そんなことを思いながらほかの建物写真をみる。
上海の共同租界にあった無憂園…ドイツ風な趣を見せる美しい建物。
旅順大谷邸…写真は廃墟だったが、現在は修復されたとある。
わたしはどうやら見に行けそうにないが、いつかどなたかがこの写真を挙げて下さればなと願っている。
ほかにもまだあるまだある(この言い回しは芝居の「天下茶屋聚」のかまぼこ小屋の元右衛門だ)

二樂荘の写真絵はがきもあり、それを見るだけでも楽しい。
展示はまた光瑞の大志ともいうべきものを見るようにも設えられていた。
たとえば都市計画である。
その地図を見るのも興味深かった。
他にも陶器の破片を鏤めた扁額、著作などなど。

そして13日までの映像資料は「二樂荘と大谷探検隊」と大谷光瑞の法事の様子を捉えたものだった。
どちらもたいへんよかった。
特にわたしとしては橘瑞超と吉川小一郎の2ショットなども見れたのは嬉しい。

今後もこうした展覧会があれば何としてでも見に行きたいと思う。
10/18、資料展示のみだが、行ける人にはぜひ勧めたい。

東洋陶磁美術館「高麗青磁」の美に溺れる その1

東洋陶磁美術館の所蔵する高麗青磁は本当に魅力的で、あまりに良いものばかりが集まっているので、それを見るだけで時間が足りなくなる。
このコレクションの始まりは安宅コレクションで、破綻後は中之島を大事にする住友グループの保護により、流出は避けられた。
全く以て感謝以外ない。

この東洋陶磁美術館が優れているために、李博士もご自分のコレクションを寄贈してくださり、一層の充実となった。
今回、そうした優れた人々に愛された高麗青磁の名品が一堂に会している。
この美術館の所蔵品だけでなく、大阪市立美術館、大和文華館、遠くは東京国立博物館、根津美術館からも優品が来ており、将に「ヒスイのきらめき」を存分に味わわせてくれた。

またなんともありがたいことにノーフラッシュでの撮影可能ということで、節操もなく興奮するままパチパチ撮り倒した。
きちんとリストには印をつけているが、名を挙げてそれらを紹介することより、今回はただただその美に酔って、フラフラになったわたしに共感していただきたいと思った。


象嵌された花の愛らしさ…



内側から外へ開く花たち。



刻まれた花びらは無限に。



笑う怪獣



ウサギさん。ロマネスクのウサギさんと縁戚のようだ。同時代に東西で生まれている。



賞玩したい。



平安を象徴する鳥。平安と平和は違うが、西洋では平安をどの鳥に託しているのだろう。



大きな花びらの一枚一枚に別な花が咲いているようだ。



見ようによっては大理石のようでもある。



チカチカの中を飛ぶ。



闇に咲いた花の輪郭線は白い。



シダだろうか、シダなら嬉しい。



繊細な表現。


ここでパネル展示された絵の一部を紹介する。
文人たちの楽しい暮らしには年端の行かない坊やたちが従事する。
可愛い様子を眺める。
  
ほっと一息。



釉溜まりのその色に溺れる…


ポットという英語はその通りなのだけれど、優美さが薄いのが惜しい。

実際に使われたのだろうか。



注ぐときはこのように見える。


枕たち
  

花のような獅子  そして働く獅子


こんにちは


ぐわっくわっ(こんにちは)



透かしが綺麗。



香油や化粧品を入れる容器として大事にされてきたのだ。


梅瓶の美
 

黒もまた好きだ。



水注 形も文様もさまざま。
  


蓋はなくとも魅力は損なわれない。


文様の美を追う。

刻まれた美は永遠となる。


静かに楽しい世界はこのように狭く、そして広い。



黒い蝶の鱗粉は鉄でできている。


陶板二枚。
この世で最も好きな高麗青磁の名品。

この静謐さにただただ陶酔する。



可愛い。タイルとして使いたいとすら思う。


色の濃淡が面白い。
  



肩が広く、そこにも文様が広がる。



何をしてるのだかよくわからないのだが。まあええか。



釉溜まりで濃くなったその透明な深さに惹かれる。


以上、前者はタブレットに入力した分。元記事はgooに。

2018.10月の東京ハイカイ

自分でもめちゃくちゃなところがあるのはわかっていた。
わかってはいたが、機会がある間は我慢も見逃しもしてはいけない。
出来る限りアグレッシブに動きたい。
というわけで、長崎から帰宅後すぐに堂島行って、京都から近江八幡行って、休む間もなく仕事と家事と意味不明な親の世話もして猫の始末もして、一泊二日で東京へ出た。
例によってハイカイするのである。
ただし今回は荷物は事前に定宿に送り、わたしは小田原で下車したのだった。

びっくりしたのは小田原までののぞみもひかりもほぼ満席だったこと。
のぞみもぎっしり、ひかりもあまねく。
何のことはない、夢と希望があるようでいて、その実はぎゅう詰めというわけだ。
小田原から茅ヶ崎へ。途中寝てたので湘南は実感できない。
しかも平塚・茅ケ崎・辻堂の駅周辺の様子がごちゃ混ぜになり、自分が茅ヶ崎市美術館へ向かうのか、平塚市美術館か遊行寺か藤澤浮世絵館へゆくのかわからなくなった。
まずい。ここで行動予定表を見てそれに従う。
ああ、事前にきちんと予定表を印刷してると、やはりいざというときに助かりますわ。

茅ヶ崎市美術館。小原古邨展の後期。前期の半券で500円に。
盛況でした。TVで紹介されたから見に来たという層がたくさん。
詳しくはまた別項に挙げるけど、別バージョンの「ぬくめ鳥=雀カイロ」や悲しい目をしたバンなどもみて、いい絵師だなあとつくづく感心。
今度は太田浮世絵美術館が別な作品を集めた展覧会をするそう。そちらも楽しみ。

先にお昼にしようと駅ビルに入り、うどんとてんぷらにしたが、実はこの夜には天丼にうどんと似たようなものを食べてしまい、どうも東京にいるとこうした現象が起こるなと反省。
どちらも某チェーン店で、味がわかっているので食べるのです。

横浜に出てみなとみらい線で馬車道。日本郵船歴史博物館へ向かう。
今まで使ったことのない6番出口で地上へ上がると、横浜の第二合同庁舎の素敵な建物が見えた。

そこを曲がると…あ、見えた。

今回は戦前ポスターなどを見に来たが、それだけで済むはずがない。
そう、ここに来るといつも戦禍で失われた豪華客船たちへの追悼の念が湧き起こるのです。

今回は特にじっくり資料を見た。
パンフレット類も引き出しにあるのを眺めたり。
いいのは旅行ガイドで、「死都ポンペイ」とか「埃及旅行」とかドキドキしたなあ。
実際のポンペイは物凄く快晴の日に行ったからか明るさばかりが記憶に残る。

橋口五葉、小磯良平らの美人画ポスターだけでなく、フジ子・ヘミングの父の拵えたクールなのもみる。
かっこいい時代だったのだ。

みなとみらい線が西武線とつながっているので、そのまま石神井公園へ向かう。
途中小竹向原で乗り換えたが、本当に便利。
それでこの線が出来たとき、たまたま元町中華街にいて「西武球場」行きの特急を見たので写し、妹に送ったところ
「とうとう横浜ベイスターズが西武の二軍になったか」
というムゴイお言葉が返ってきましてなー。ファンの人、怒りはるで。

ついたら四時やから速足で向かう。池のほとりを歩くのをやめて住宅街を延々と。そこから先に分館へ。
そちらでは茂田井武の展示。これがまたとてもいいのですよ。
ゴーシュ、ヤマネコ、ゾウ、「ねむいまち」などなど。
それから公園を抜けて本館へ入り、鳥観図展を楽しむ。
先般藤澤浮世絵館でも大いに楽しんだが、こちらは西武沿線のおでかけマップも出ているのが良かったな。
きっちり閉館時間までいたから鳥観図マスキングテープ手に入れられず。

池のほとりは真っ暗に近いので怖いが、まだ六時でこれだからランナーもいる。しかしわたしは季節性鬱なのでアウト。
季節性討つだと赤穂浪士みたいやな…

池袋から上野に出て、東博へ。特別展はまた来月に回し、今回は常設を楽しむ。やっぱり常設展を楽しませてくれるという点では日本第一のミュージアムだと思う。
コレクション展というべきか。いいよなあ。

足も大抵痛んできたなと思ったら二万歩超えてたか。そのまま宿へ向かう。
荷物も届いていて、フロントの仲良しさんとちょっとおしゃべりして、部屋に入ってから2時間完全に寝落ち。こまるなあ…
初日ここまで。

さて日曜、荷をまた預けてモノレールに乗りに行く。東京流通センターでの同人誌即売会に出向いたのですよ。
丁度わたしたちの愛するキャラの誕生日なので、かれの誕生祝本がたくさん出てましたわ。
好きな作家さんの薄い本をたくさん買いまして、ご挨拶もしようと…しようとして、焦って逆上して、「好きです」しか言えない。
どんなけ純情なんだ、わたし。
「またご感想ください」と言われて、なるほどとも思う。やっぱりきちんと考えて書く方がいいなと。

かつてわたしもあるジャンルにハマって二次創作サイトを運営していたが、そのときいただいたファンレターはやっぱりすごく嬉しかった。
しかしなから、世の中にはやっぱりめんどくさいことを言うてくる人がいて、それが厭さにとうとう感想お断りという方向へ向かった。
感想をシャッタウトして、好きなことを好きなように書いていた時期、張り合いはないが、完全な自己満足があり、それはそれでよかった。こういう人の方が少ないとは思うが、やはりいるのである。

撤収後、浜松町でランチにしたが、ここでもまたフライ物にうどんと言う選択肢をしてしまう。
季節性鬱のせいかもしれない。あんまりものが考えられないのだ。
気分は昂揚しているが、妙なところで具合がよくないということだ。

恵比寿に出た。
山種美術館へ行く。古径の猫神様のお出迎えで始まる展示。
好きな作品も多く出ていてよかった。

本を早く読みたいが、帰宅を早くすればいいというわけでもない。
どこか一人でいられるカフェを道すがら探したが見つからない。
それであっという間に定宿についてしまった。
結局1時間早い便に変えて帰途に就いたが、これが正解だった。
案外客数の少ない車両で、本を読める環境だったのだ。
よかった。

いいキモチで帰宅。短い一泊二日だが、気分は良かった。
また来月までサラバ。

「なにわの企業が集めた絵画の物語」展をみる

あまり宣伝がなかったのか、単にわたしが見なかったからか知らないが、堂島リバーフォーラムで企業所有の秘蔵絵画の展示があった。
東京では毎夏ホテルオークラが「アートコレクション」として20数年間チャリティ活動を続けてき、今年で一旦停止した。
実に盛況で、長年八月の楽しみの一つだった。

大阪ではなかなかこうした取り組みがない。
尤も1990年代、朝日新聞社に隣接したビルの大阪府立情報センターだったか、そこで時にこうした展覧会が開催されはした。
そこで非常に良い作品を多く見たが、こうした展覧会は常のものではなく、なのでこの取り組みは根付かなかったようだ。

それがどうした理由か知らないし、知る必要もないが、今回短期間とはいえ企業の秘蔵絵画の展覧会が開催された。
500円である。しかもアンケート記入をすれば招待券がもらえた。そちらは隣家のオジにあげたが、つまり招待券の客とはいえ、足を運ぶ人が現れたわけである。

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フェルトで名画再現。可愛くていいなあ。

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広くはない展示室だが、壁面をそれぞれ色分けし、絵の作品解説VTRを流した。
更になんとフラッシュ禁止の撮影可能というありがたい状況なのだ。
わたしは喜んでころこんでパチパチ撮り倒し、SNSに挙げた。
挙げたところ、それを見て「行ってきます」とおっしゃる方も現れたので、やっぱり宣伝は大切だと痛感した。
また、作品の所蔵先も明記されていたものはわたしも記したので、それがどうやら別な展覧会の企画につながりそうな気配も見受けられた。(期待してますよー)

というわけで、自分の撮った作品を集めてゆこうと思う。
本当はツイッターのモーメントでまとめればいいのだが、それよりブログにまとめる方がよいように思えた。

















マルケ、いいなあ。この絵にもまた再会できる予感が強い。


他にも広重の江戸百などもあり、とても良かった。
そして観客もいい具合に来ていて、みんな決して展覧会に関心がないわけではないことがわかる。
ただ、行く機会がなかなかないだけだ。そしてそれが大きい。
いい展覧会であれば、大掛かりなものでなくても来る。しかし宣伝はやはり必要だ。
そのことを改めて実感した。

「長崎は今日も(案外)マシな天気だった」の巻 その3

いよいよ最終日。
この日は快晴で暑くて暑くて。ついに袖なしで歩いて日焼けする状況になっちまいましたわ。
10/7長崎おくんちの始まりの日。
とりあえず生中継で諏訪神社の様子を見る。
おおーすごいな。

ホテルのチェックアウトは11時なのでそれまでにと長崎駅方面へとことこ。
これまで来たことのない26聖人殉教の碑を見に行く。

前日に大浦天主堂で学んだことを思い出し、まだほんの子供もいることに胸が痛む。
浦上での「信徒発見」の話は感動的だったが、やはり殉教は痛ましい。

記念館は開館前なので入れず、なんだかガウディぽいなとか堂本印象ぽいなと思ったが、設計は今井兼次だった。
早稲田の会津八一記念博物館や坪内博士記念演劇博物館や内藤多仲邸などの人ね。
ちなみに内藤多仲邸は以前撮影した。こちら。
内藤博士旧自邸見学


ほんで駅に行き、色々お土産を物色。やっぱり長崎は「クルス」を買わずにいられない。
会社の後輩yが「イチゴ味をぜひ」というので買う。さがほのかが使われているそう。
わたしはバニラジンジャーが好き。色々かいました。

二駅だけど路面電車に乗りホテルへ。
友人は荷物を送り、わたしは荷物を預けてチェックアウトし、そこからバスで小菅修船場へ。
ここは海のきわきわで産業遺産。


たくさん撮影したのでまた後日。
ボランティアの人の説明がかなり良かった。これまでいろんな説明を聞いたけど、この人のは大変良く、色々と納得し、質問もした。
こういう件は珍しい。

一旦中華街へ出てランチ。
どこにしようかと思いつつ、二人からのセットの店に入る。
角煮バーガー、麻婆豆腐、酢豚、餃子、杏仁豆腐…
まあまあ。それでいちばんおいしかったのは餃子。これはよかった。
町を出て出島の端をみつつ電停へ向かう。

次は石橋まで出て、孔子廟へ。
ここも修学旅行以来のごぶさた。
ああ、いい風情。レンガ塀がね。
中庭もいいなあ。パチパチ。
撮りすぎたのでまた別項に。



当時既に諸星大二郎「孔子暗黒伝」、中島敦「弟子」を読んでいたので、孔子の弟子たちがずらーっと並ぶ様子に「これは誰だ・ああ、彼か」と感慨深く眺めたものでした。
そしてここでわたしは珍しくおみくじを引いたもので、それを思い出して今回もおみくじを引いたところ、まさかの大吉。いやー嬉しいわ。
まあ尤も、久しぶりに来て同じことをするわたしに孔子さまが「ヨシヨシ愛い奴じゃ」と接待してくれはったのかもしれないが。

博物館もあったが、これがまた面白くてじっくり眺めた。
あの当時はここまで楽しめなかったから、やはり知識が増すというのはよいことだ。今だからとても面白い。

近所の教会と銭湯とがとてもいいな。
これは入りたいわ。



それからまた長崎駅方面へ戻る。一つ手前のところで降りて酒屋さんへ向かう。
全国各地のお酒を扱ってはるのは素人のわたしらにもわかる。
こうした酒屋さんは貴重だと思う。

ものすごく暑い中、おくんちを眺め、ちょっと負けた。
交通産業会館へ入り、カステラアイスを食べてクールダウン。
暑い…ほんまに暑い。

祇園祭、岸和田のだんじり、長崎のおくんち…みんななんらかの形あるものをこしらえて、それを運ぶ。
そこには愛情と熱狂が生き続けている。

ようようクールダウンしてから路面電車でホテルに戻り、空港直行バスを待つ。
来るまでの間、ちょっとばかりぐったり。よいホテルでしたわ。
バスで空港まで小一時間。
大村にあるので後輩yおすすめの大村寿司を買いに行くと、残り3つ!!!やばかったなあ。

なかなかこちらには来れないだけによかったよ。
残念なのは軍艦島へ行けなかったことだけ。
あれも中学の時に長いめのコマーシャルで見たのだよな。
そうそう、卓袱を食べ損ねたな。花月に行けなかったのも惜しいわ。
吉宗の茶碗蒸しは銀座で食べるか。

伊丹についてからは速攻でタクシーで帰る。
長崎はやっぱりよかったよ…
余韻を味わいつつ、現実へ戻る。
いいツアーでした。

「長崎は今日も(案外)マシな天気だった」の巻 その2

前日の暑さに比べるとこの日はまだマシで、台風の為に開園時間は2時間遅れても閉園ではないのは助かった。
どこへ行くのか。
グラバー園と大浦天主堂の話ですよ。

小雨と強い風の中、今日は長崎電気軌道の一日拳500円を購入して好き勝手に乗り降りGO!
というわけで終点の石橋へ。
ここはグラバースカイロードというルートを選んだわけです。
なんでも斜めに上がるエレベーターらしい。
こういうのは憧れるのだが、身体は別に斜めになるわけでもなかった。
横浜の中華街の6出口だったかな、あの5階まで上がると港の見える丘公園が近くなるというあれ、ナカーマですな。

グラバー園、詳しくはまた後日挙げるけど、これまたやっぱり楽しかったよ。
初めてきたときのことも色々思い出したしね。
そうそう、わたしが初めてグラバー邸を知ったのは「サザエさん」のOPから。
あれは日本各地の名所観光地を教えてくれてよかった。

色々楽しかった。やっぱりいいなあ。
出口にはおくんちの展示もあるし…
それでこれだ。



四海楼へ行こうとしたのだけど満員御礼でアウト。
で、下りる道にある巨大なホテルに見覚えがあるなと思ったら、ここが昔のわたしの修学旅行の宿泊先。
中のレストランでフレンチ。バイキングでもよかっけど、友人がそれよりこれだというので。

















懐かしくて涙が出るわ。

さて再び坂を上ります。
今度は大浦天主堂。

正直なことを書くと、ここへ来たことで非常に重いものを抱えたように思う。
つらかった。

旧香港上海銀行へ。ここは今や梅屋庄吉関連のステキな展示のある「孫文と梅屋庄吉」ミュージアムなのでした。
ここも写真を撮り倒したし、面白いところだったなあ。

後は眼鏡橋。



花はなかったが。



この後は崇福寺に行き、それから出島で楽しく遊ぶ。
ここもいいなあ。

あとは少し歩いて海鮮丼などいただきましてな。
ところで今回、驚いたことがある。

これまでの二度の長崎では現地の男性に非常に腹立たしい思いを懐いていたのだが、今回は行く先々にちょっとしたトラブルがあって、そのたびに男性または少年がわたしの為に親切にしてくれまして。
すっかり気持ちよくなったので考えをちょっとかえる。

一旦ホテルに帰ってからお迎えのバスに乗り時から稲佐山へ。
ああ、遂に降ってきた。寒いので合羽を着ていてよかった。




二日目ここまで。

「長崎は今日も(案外)マシな天気だった」の巻 その1

前川清の名曲「長崎は今日も雨だった」がアタマにあるので年中天気は良くないのかと思いきや、別にそういうわけでもなかった。
いやいや、ちがうちがう。
10/5は晴れに晴れて31度の暑い日だったが、10/6は台風の影響で午前中は降ったり吹いたりの長崎でした。

長崎には1984年3月と1994年10月の二回行っている。
最初は修学旅行、次は会社の社内旅行。
前者は大浦天主堂近くの東急ホテル(現・ANAクラウンプラザホテル)、後者はプリンスホテルでの宿泊。
今回は電停・宝町前のザ・ホテル長崎BWプレミアコレクションである。
もう次は行けるかどうかわからない。

というのは…
飛行機が非常にニガテで、今回もつらかった。
家庭の事情がよくない。
これまでの時間の経過から考えると、次に行けるとすれば…
どうも難しい。




それはともかく長崎空港から市内へのバスに乗ったが、同行の友人がホテル前のバス停で下車できるのではと気づき、それなら楽で結構だなと思ったが、そうそううまくゆくはずもない。
バスは確かに宝町に止った。
しかしあれだ、対岸なので、渡らねばならない。渡るには目の前の陸橋を使うしかない。
ひーっ
しかもこの陸橋は長崎電気軌道、つまり路面電車の乗り場(電停)に行く道でもあるので、何が何でも上り下りするしかない。
ああ…いくら坂の町とはいえ、長崎の人はこの陸橋や坂のぼりをどう思っているのだろう。



いいホテルです。

荷物を預けてまずは浦上へ向かう。
浦上は過去二度の長崎ツアーにも何故か行かなかった。
わたしの意思ではなく、学校や会社の総務の都合。

まず平和公園へ。
エスカレーターで上る。


祈る。

この北村西望の彫像は近くで見ると更に巨大だった。
穏やかな表情、素晴らしい体躯。
日本郵船歴史博物館にもかれの作った鎮魂の像があるが、確かにこの穏やかな表情の男性像はそれにふさわしい。

公園の裏手から坂を下りるとカトリック浦上教会へ着く。
歩くとさすがに長崎だけに紫陽花モチーフのマンホールやなんだかんだと目につく。
椿、躑躅もそう。花の国・長崎。
天主公園にもいろいろと色ガラスが。
そして「長崎の鐘」の♪も刻まれている。

近くにあるレトロなアパートも素敵だ。別項にまとめる。





浦上教会は実に荘厳なたたずまいをみせていた。
戦後に建て直されたことはわかっているが、内部の青色に浸された空間、そこに立つだけで言葉を失う。
ただ、沈黙を守ることもカトリックには必要なことなので、異教徒のわたしも従うことに不思議はない。

原爆被害を受けたマリア像の首、吹き飛んだ鐘楼の跡、そしてどのような原爆であったかの説明を読む。苦しい沈黙を以てそれらに向き合う。

如己堂、永井隆博士のうちには行けなかった。
修学旅行の年、加藤剛さま主演「この子を残して」が上映されたことを思い出す。
脳内では藤島一郎の美声による「長崎の鐘」が響いていた。


長崎大学の方へ進む。ここは十年前にノーベル賞もらった下村さんの母校だったかな。オワンクラゲの…
京大名物の立て看板ではないけど、ここにも何かあるなと微笑ましく思いきや、中身は近辺住人からの色々な抗議だった。
こういうニュースは知らないからなあ。

一本足になった鳥居を見る。これも原爆のせい。

そこから長崎歴史文化博物館の方面へ向かう。
途中、聖福寺へ寄るが、これがもうどうしようというほど無人で…妙に荒れてて、怖かったなあ。


「じゃがたらお春」の碑もあったのか、わからなかった。
いたたまれなくて早々に去るが、鬼瓦を埋め込んだ鬼塀はよかった。
ちょっとばかり「聖闘士星矢」の蟹座のデスマスクを思い出しましたわ。

そこをまっすぐ進むと長崎たばこ販売協会とかあって、たばこと塩が専売だったことを改めて思い出す。
すぐそこには西園寺公望の仮寓跡もある。そうそう斎藤茂吉もこのあたりに住んでいたな。
でると目の前に黒い巨大な建物が。
ジャジャジャジャーン長崎歴史文化博物館でござる。
なんで「ござる」かというと、あれだ、ここは大昔は長崎奉行所だったのだ。
「長崎犯科帳」を思い出すぜ。あと「十時半睡」シリーズの「包丁さむらい」な。

先にサント・ドミンゴ教会跡資料館へ。
これが実に見ごたえのある「遺跡」で。近世の遺跡という点では超一級資料ですわな。
非常に面白かった。
井戸の跡一つにしても数十年の経緯があるわけだし、なんだか妙にドキドキした。


時間にゆとりをもってお向かいの長崎奉行所跡地の長崎歴史文化博物館へ。
ここは翌日から特別展「高倉健」展と「映画界の風雲児・梅屋庄吉」展とが開催されるので、当日は内覧会があったらしい。
われわれはですね常設展へ向かうわけです。

ここの所蔵品は折々にツイッターで拝見しておるのですよ、またこれは別項で詳しく挙げます。たいへんよかった。
体験型なところもあり、楽しい。

六時前に出てからまずは諏訪神社へ。
おくんちの見物のための桟敷席というのか、かなりの勾配の席を拵えてた。
拝みに行くにしてももう「かわたれ時」になりつつあって、やめる。母子が遊んでいるのをぼんやり見る。

日銀がいい建物なんだが、どうも設計士がだれかはわからないらしい。
これまた詳しくは後日別項。

図書館もちょっとのぞく。坂とカーブとが危ないのだが、妙に魅力的なフォルムの先にあるのがいい。
ここで六時前まで待ってから再び博物館へ向かい、レストラン・銀嶺に入る。
トルコライス。


ようやく食べた。
8歳の時、地元のダイエーにあったレストランがトルコライスを出していて、常々食べたいと思っていたが、わたしのミスで食べる機会を失くした。外食嫌いな母が折れて食べに連れて行ってくれたのに、ついつい他のことに気を取られ、閉店時間になってしまったのだ。
強く叱られたのも食べられなかったのもショックだったが、更に輪をかけてショックだったのは、その店がしばらくして閉店してしまったことだ。
あれから随分の歳月がたったが、ようやく食べることが出来た。
しかしあのショックが癒えることはない。あれはあれ、これはこれなのだ。
だからこの先もあのトラウマは生き続けるだろう。
とはいえフライもケチャップ炒めのスパゲティもおいしかったが。

店から電停まで歩き、ホテルへ帰る。


この日は友人に合わせ、22時に就寝。
むろん寝るのに時間はかかるが、それでもそのようにした。

初日はここまで。

大阪市立美術館 コレクション展 2018年10月 「人物を描く 美人画と自画像」

今回もコレクション展から。

晩秋 上村松園 1943  戦時中、戦争礼賛画とか国策絵画とかそんなものを描かねばならなかったのだが、松園さんはそうはせず、女性の日々の暮らしの中の慎ましい手仕事の様子を描いた。
障子の孔に花型の紙を当てて補修する。その様子を豊かに描く、

芸能譜 中村貞以 1943  これも同年の作。貞以は芸の習得に熱心な娘をテーマに描いた。
イメージ (1361) イメージ (1362)

今回、この絵の修復が完成したので、これが初のお披露目らしい。
わたしが持つ画像は1991年の没後十年展の図録から。
だから今回展示されているものより若干色などが違う。
そして左の舞う娘はこの絵よりもっとモダンな感じがする。
ポプラにインコが止まる柄の着物。昭和モダンな着物。
右の先生ともう一人の娘はわりとオーソドックスな様子。
イメージ (1361)

イメージ (1362)

春雨 鏑木清方 1908  随分昔の絵で、後年の清方美人とはまた異なる様相を見せている。
とはいえ、この当時すでに清方は挿絵画家として人気が高く、「風流線」なども世に出した後。
どちらかといえばややもっちゃりしたところがあり、それはそれで興味深い。
三味線の糸を調べる娘の様子を音のない春雨を背景に。

星 北野恒富 1939  戦争前のまだ世の中にゆとりのあった頃の大阪の家庭の娘さん。花火を見ている。
しかしその花火は描かれず、彼女の浴衣に花火が拡がるのだった。
この絵は去年の恒富展のポスターの一つにもなった。
イメージ (536)

夜桜 恒富 1943  戦時中だが可愛い舞妓さんである。もう遊ぶのも難しくなった時代に、かつての楽しい記憶を絵にした恒富。
保津川下りのあと、嵐山泊まりで桜を楽しむという…そして舞妓は「菜の花に蝶が寄る」飾りをつけている。

全然関係ないが、9/9にわたしは社内旅行で本来ならば五条の鶴清の床、翌日には行きはトロッコ電車・帰りは保津川下り、お昼は嵐山という予定だったのだ台風で流れてしまったのだった。

cam190.jpg

無題 島成園 1918  「アザのある女の世間を恨む心持ち」と言われても…社会への憤りなども含めた絵なのだが、いつもどうも困るのだ。

自画像も出ていたが、こちらも何となく困った…

舞妓 中村大三郎  鶸色または若草色に桜と楓を大ぶりに描いた着物。半襟は赤地に青海波。投扇興で遊ぶ舞妓。
一人しかいないが、周囲には他のものもいるだろう。

自画像 中川一政 1919  まだ26才の若き中川だが、風情はもうおっさんである。南伸坊にもちょっと似ている。
98年の長い生涯のまだまだ始まりの頃の絵。

武者小路実篤像 椿貞雄 1917  師匠・岸田劉生の青土社時代の画風にそっくりな頃の絵。「首狩り族」岸田同様にこちらもバストアップで、ムシャさんはなんと手に一輪の花を。
この頃はもう「美しき村」の時代。

自画像 村山槐多 1918  エグイ絵だなあ…サインは縦書きのカナで「カイタ」

友人像 槐多 1917  鉛筆風の絵でそんなに悪くはない。

二十歳の自画像  田川寛一 1920  パレットを持つ姿。なんというか自意識過剰なあの頃…

こういうのを見るのがやっぱり楽しい。
10/21まで。

大阪市立美術館 コレクション展 2018年10月 「おおさかの仏教美術」

大阪市立美術館のコレクション展を楽しんだ。
もっと宣伝すればいいのに、といつも思う。

まずは仏教美術から。
古い地に生きる寺院の仏像・仏画が集まっている。

文殊渡海図 1幅 鎌倉時代 13-14世紀 南河内郡太子町 叡福寺  聖徳太子ゆかりの叡福寺から、こんな凛々しくも愛らしい少年・文殊が来た。
五髷に吊り上がる眉、引き結ばれた口元、凛々しいなあ。そして白い肌に緑と白金の装いが。
周囲の従人たちには緑色の獅子がガオーっと吠えかける。
彼らの先導は小さな善財童子。こちらも可愛い。
始まって早々にこんないいのがあるのだ。

当麻曼荼羅 1幅 鎌倉時代末期-南北朝時代 14世紀 大阪市天王寺区 実相寺  元々の絵の模本。かなり綺麗な絵。それも向かって右の観音菩薩の美貌には打たれた。とても涼やかな美貌で見惚れてしまった。
左の勢至菩薩も綺麗なのだが、やはり絵描きの手が右からの向きの顔をよく描けるからか、とても綺麗だった。

観経序分義図 1幅 鎌倉時代末期-南北朝時代 14世紀 大阪市平野区 長宝寺  何かと言うとイダイケ夫人が釈迦に自分の置かれている惨状について訴えているところ。
実際この王舎城の悲劇は凄まじい。わたしなどは手塚治虫「ブッダ」で描かれた様子がいちばんに浮かぶが、悲痛な話である。
さてその訴えを聞く仏陀のいる台座の下に注目。隙間の中に獅子がいる。こちらを向いて「シャーッ」と言っている。
彫刻でなく生きた獅子、セキュリティは万全らしい。
  
釈迦十六善神像 1幅 室町時代 15世紀-16世紀 大阪市平野区 全興寺  おお、あの「町ぐるみ博物館」のお寺。
釈迦は両肩に薄絹を懸けている。

仏涅槃図 1幅 鎌倉時代末期-南北朝時代 14世紀 大阪市平野区 長宝寺  モンシロチョウが目立つ弔問の皆さん。いや、聴聞ではないか、瀕死だものな。人間たちはただただ嘆き悲しむばかりなのだが、どうぶつたちの大半は花を持ってきている。
蜂か虻らしきものも、テントウムシめいたものも、猿もウサギも。

地蔵菩薩変相図 1幅 朝鮮時代 16世紀 大阪市天王寺区 大福寺  パッと見て「高麗仏画ぽいな」と思ったら李朝のだったか。赤と緑、この配色にそれを感じたのだ。緑の光背と赤衣と。慈悲のめぐみをみせるお顔のそのずっと下の足元は地獄の責め苦の最中。

如意輪観音像 1幅 南北朝時代 14世紀 大阪市天王寺区 大福寺  仏の左下に綺麗な少年が。しかし剥落がやや強い。

十一面観音像 1幅 南北朝時代 14世紀 大阪市平野区 全興寺  いわゆる「長谷寺様式」の観音図。舟形の光背が金色に輝き…ああ、サーフィンのに似てるな

弘法大師像 1幅 南北朝時代 14世紀 大阪市平野区 志紀長吉神社  大師の背後に釈迦がいて、マジで「眼からビーム!!」
それが大師を直撃・・・

沢庵宗彭像 [木村徳応筆] 1幅 江戸時代 寛永16年(1639) 堺市堺区 祥雲寺  頂相図。
悦山道宗像 1幅 江戸時代 天和3年(1683) 大阪市生野区 舎利尊勝寺  黄檗宗の僧侶。

仏像もある。
金銅 菩薩半跏像 1躯 白鳳時代 7世紀 河内長野市 観心寺  実は入室直後に出迎えてくれるのがこの仏さんなのだ。
いかにもこの時代らしい体躯で顔が大きく首が見えず、ドレープは大きめ。細部はキラキラ。特に首の装飾が丁寧でとても綺麗。

銅 五輪塔錫杖頭 1柄 平安時代後期-鎌倉時代 12世紀 大阪市平野区 大念仏寺  二つの五輪塔がついている。縦並びに。
ここのお寺も年に一度の幽霊画公開のときに行きます。融通念仏宗の総本山。

木造 閻魔王坐像 1躯 鎌倉時代 13世紀 堺市堺区 正明寺  小さくて海洋堂のフィギュアみたい。それがまた可愛い。

銀製鍍金 光背 1面 鎌倉時代 13世紀 大阪市天王寺区 四天王寺  七宝で仏を表現。小さい丸の中。13面かな。裏打ちで文様もでている。

綺麗でしたわ。

10/21まで。

藤田嗣治展を見ながら思うことなど

東京都美術館で藤田嗣治展をみた。
いいタイミングで見たので適度な混雑があった。
これくらいの方がほっとする。

近年になり、藤田の展覧会が開催されるようになった。
色々と事情があるが、やはり素直に嬉しいと思う。
しかし亡くなって大分経つが、誰か藤田に謝った人はいるのだろうか。
藤田が日本を追われるように出ていき、日本に愛想尽かしをしたことに対して、その原因について藤田に謝った人は…
わたしが知らないだけかもしれないが、まだ誰かが藤田に謝った話は聞かない。
そんなことを思いながら藤田の絵を見る。
だからか、たまにわたしは鬱屈に噛まれる。

わたしは専門家でも研究者でもないただの観客なので、好きなことを以下、勝手に記す。

藤田の生涯を追うスタイルの展示である。
先年、藤田の挿絵関連ばかり集めたオシャレな展覧会が西宮と目黒で開催されたが、こちらはクロニクル形式である。
随分若い頃の絵から始まっている。
美学校の学生としてアカデミックな教育を受けていた藤田の絵を見る。

藤田の父は決して息子が画家になるのを厭だと思わなかったそうだ。
かれは陸軍軍医で、森鴎外の同僚であり、かつ鴎外を尊敬する人でもあった。
藤田の描いた父の肖像画を見る。
たいへん似ている。軍服姿の藤田嗣治だと思うくらい、似ている。
藤田はこの父を敬い、そして愛した。
父親もこの次男を愛し、応援した。

藤田嗣治にはいとこに劇作家の小山内薫・岡田八千代がいる。この兄妹はなかなか美貌の人だが、藤田とはあまり似ていない。それは藤田が父親似で小山内兄妹とは母方の血縁者だからだろう。
以前に藤田と小山内兄妹がいとこだと知りびっくりしたが、藤田の芸術家の血は母方に由来するのかもしれないと思うと、勝手に納得できた。
藤田の血縁を調べると、建築家の芦原義信までいたので、たいへん興味深く思えた。
尤も明治の名家は縁を繋ぐのを好んだので、名のある人はどこかで姻戚だったりする。
有島武郎を長兄とする有島兄弟は長女の孫に山本直純がいるし、四男の里見弴の息子には映画プロデューサーも出たし、武郎の息子の一人は俳優・森雅之という、そんな華やかな家系も少なくはない。

藤田の父・嗣章は尊敬する森鴎外のもとを、息子を連れて訪ねた。息子の進路についての意見を求めたのである。
陸軍軍医総監であり文化に造詣の深い鴎外の言葉をうけて、藤田父子はきちんと日本の学校を卒業させる。
鴎外はこの面会のことを日記に記しており、それは「東京・文学・ひとめぐり~鴎外と山手線一周の旅」展にも出ていた。
偶然ながらわたしはこの藤田展の後、てくてくと歩いて団子坂上の鴎外記念館へ向かった。
鴎外と藤田のつながりを知ることが出来てよかったと思う。

パリへの「留学」時代の絵はどうも裏寂れていて、あまり気持ちのいいものでもない。
この静けさは侘しい静けさで、俯いて感情を殺して生きているような世界の絵にみえる。

瞽女の絵で有名な斎藤真一は学生時代に藤田の絵のとりことなり、戦後ようようパリへ出て藤田に会いに行った。
藤田はこの若者に親切だった。
藤田から東北へ行くことを勧められ、かれはそこでライフワークとなる対象を見出し、制作と追及に生涯を費やした。
その斎藤真一の描く瞽女や哀れな女性たちは、この時代の藤田の絵に似ている。
少年だった斎藤真一が「見た」藤田の絵は、「グラン・フォン・ブラン」、豪奢な白い裸婦の絵だったことを思うと、とても興味深い。
2010年に武蔵野市立吉祥寺美術館で見た斎藤真一展の感想はこちら


ようよう1920年代になり、藤田の才能と人気が大爆発という時代が来た。
百年近い前の、この狂乱の1920年代ほど魅力的な時代はないのではないか。
本当に素敵だ。

ああ、猫「の」いる自画像、猫「と」いる自画像、猫がいなくては彼の自画像とは思えないほどだ。
猫はキジ柄が多いのか、可愛いなあ。キジ猫は特にかわいい顔をしている。

エミリー・クレイン= シャドボーンの肖像 1922 油彩・銀箔・ 金粉、カンヴァス シカゴ美術館  この絵は初見。背景がこれより40年くらい後の創造美術の日本画家または江戸時代の絵師がやりそうな箔貼り。それが壁面となり、長椅子で猫と共にくつろぐ様子を見せる婦人を美しく見せる。
鮮やかな青地に文様の入ったガウン、黒地に金糸で綴られた大きな牡丹文様の入った服も素敵だ。靴だけちょっと色合わせが良くないように思う。
黒いシャムとキジの混じったような猫もいい。

ヴァイオリンを持つ子ども 1923 熊本県立美術館  熊本で見たとき、この子が少年か少女かわからなかったが、当時は上流の子供は少女めいた装いもしていたことから少年だと考え、絵ハガキ購入後は自分のファイルの美少年フォルダに収納している。
そう、少年なのですよ。可愛いなあ。

猫 1932  可愛すぎて苦しいよ。

そしていよいよ偉大なる乳白色の時代へ。

先年、藤田がこの乳白色をどのように生成したか、その秘密の一端がわかったというようなニュースを見た。
天花粉、ベビーパウダーを転用したというのがその真相らしい。
画室の写真には確かに天花粉が映るが、だれもそれを絵に使ったとは思わず、藤田の汗抑えくらいにしか思っていなかった。
よくそれを絵に使った、と導けたなと感心している。
こうした秘密というのは当時もわからず後世もわからないまま、というのがままある。

居並ぶ白肌の裸婦たちを見ながら、「ああフランスの女の身体だ…」という感慨が胸にわく。
そしてこのフランスの女たちは男だけでなく女をも誘うのだ。

実をいうと、藤田展でいちばん期待していたのは、猫の絵が出来るだけたくさんあればいいなということだった。
わたしは藤田の裸婦より藤田の猫が好ましく、東京国立近代美術館にある藤田の絵をいつも猫目当てで見てしまう。
藤田は猫と女は同じものだというような意味の談話を残している。
女にひげをつければ猫になる、というような表現だったと思う。
なるほど。

五人の裸婦 1923 東京国立近代美術館  綺麗な裸婦たちが立ち並ぶのだが、いつもいつも今も今も、ちんまりくつろぐキジネコに眼がゆく。可愛くてならない。
この絵の右下にはパリらしいわんこもいるのだが、その存在に長らく気づかなかった。
要するにわたしは猫しか見ていなかったのだ。

猫たち14匹が暴れまくる絵もあって、たいへん嬉しかった。
この絵を見たくて東近美へ通った時期もある。
その当時、解説には「奇怪な」と記されていた。
今から思えば単に学芸員さんが猫が嫌いなだけなのだろうが、まだ20歳そこそこのわたしはすねてしまった。
藤田の描く猫はどんな状況でも可愛いのだよ、と今なら言い切れるのだが。

しかし猫の絵が輝いているのはやはり「グラン・ブラン」の時代で、メキシコや日本にいた頃のはどうもよくない。
それは定住せず、旅の人だったからではないかと思う。
猫は人より家に着くともいう。
藤田の旅に猫は連れていけなかったのだろう。
そして猫のいない藤田はどうにも侘しい。

若い頃の裏寂れた灰色のパリより、功成り名遂げた後のメキシコや東洋の旅を繰り返す頃の、あくどいような色調の(そのくせ妙にうらぶれた彩色)作品群は、どうにも酷く侘しい。
「旅絵師」を演じたかったのか、それとも心情的に漂泊者になりたかったのかは知らない。
好きな女を連れて、それまでとは違う作風の絵を描いて、旅を続ける。
その心情がどんなものかはわからない。

旅を続けてそこから名作を生みだした画家は多い。
浮世絵でいえば広重も北斎も旅をして、その感銘を絵にした。
広重の叙情性は後世の版画家・川瀬巴水にも活きていて、かれも旅をすることで心を新たにし、名作を次々と生み出した。
同時代の吉田博もそうだ。
かれは若い頃、義妹のちに妻となるふじをと共に欧州を旅し、その地その地で絵を描き、描いたものを売って長く旅を続けた。
その様子について夏目漱石が「三四郎」に書きもしている。

尤も旅に出て得たものより失ったものが多い画家もいる。
日本国内は良かったが、アメリカへ出た夢二はそれまで培ってきた技量も人気も矜持も何もかも手放す状況になり、失意ばかりを手に帰国し、ほどなく世を去ることになった。

どうも藤田の旅先の絵を見ているとうらぶれた侘しさがひしひしと身に染みるような気がするのだ。
本人がどう思っていたかは知らないが、あれだけの成功を捨てて、妙にものさびしいような荒んだような絵を描く必要はどこにあったのだろう。
並ぶ絵を見ながらそんなことばかりを考えてしまう。

その当時の藤田が描いた対象は言えば底辺の人々である。
華やかな世界からメキシコあたりへ「流れた」という気分でそうした絵を描くのか、それもポーズなのかは知らない。
中国人を描いた絵もどこかあざといようなものを感じもする。

やがて戦争画の時代になった。
いつも東近美でこのコーナーにたどり着くたび、言葉も何も飛んでしまう。
今回も何を言うことも出来ない。

きちんと向き合い、言語化できる人々はえらい。
わたしは言葉を持たない。


戦後、フランスへ戻り「レオナルド・フジタ」になってからの藤田の描く対象は架空の子どもたちだった。
どの子もみんな口をつぐんでいる。
そのことをいつも思う。
様々な行為・行動を行う様子を描いているが、どの子どもも皆口をつぐむ。

あまりこの子供らの絵は好きではない。
ただ、藤田がこの子供らを描いたことを、その心情を考える。


二年ほど前、兵庫県美術館で「生誕130年 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画」という展覧会を見た。
当時の感想はこちら
府中市美術館、名古屋市美術館などを巡回した展覧会である。
今回はそれとは違う展覧会だが、本当にこの近年の間にこうして大小さまざまな藤田の展覧会が開催されるようになったことをめでたく、そしてありがたく思う。

没後数十年後の日本で、あなたの絵をこんなにも愉しむ人々が多いことを、フランス人・レオナルド・フジタに伝えたいと思う。
そして誰もあなたに責任をかぶせたりする人も今はいないことも。

10/8まで東京都美術館。その後に京都へ巡回予定。
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