随分以前から徳岡神泉の展覧会に行きたいと思っていた。
どういうわけかその機会がなかなか巡ってこないまま、あっという間に何十年かが過ぎていた。
「行きたい」と思ったのは1996年の京都国立近代美術館での生誕100年記念徳岡神泉展からである。
チラシは手に入れていたが、当時あまり関心がなく、展覧会が終了したと同時に、難儀なことに神泉に興味がわきだしてきた。
こんな因果なことはない。
大体関心のない対象であっても何らかのアプローチがあればそちらに目を向け、そこから意外なくらいのめりこみ大好きになる、という経験がかなり多い方である。
またそういう時はいいタイミングでそれに耽る機会が与えられるものだが、どういうわけか徳岡神泉だけはそれがなかった。
小出楢重、岸田劉生、須田国太郎。
かれらの絵がニガテだったのが今では大好きでしょうがないと変容していることから考えても、神泉も当然そうなるはずだった。
それがどうしてこんなことになるか。
こればかりは縁の問題かもしれないが、このほどようやくにして徳岡神泉の展覧会を見ることになり、長年の懸案事項が解消した。
堂本印象美術館での回顧展である。
ここは秋になると必ず魅力的な企画展がある。
オリジナルのもあれば巡回展もある。どちらにしても絶対裏切らない内容の展覧会が長く続いている。
この日のわたしは複雑なルートでここを目指した。
普段なら烏丸あたりから12系統バスで行くのが一番多いが、既に秋のハイ・シーズンを迎えているし、わたしもちょっとお寺など見に行くかと、西院から嵐電に乗り太秦広隆寺、そこから本当は等持院へ向かうはずが寝過ごして北野白梅町。
少し買い物してからわら天神経由のバスで向かった。
堂本印象美術館は以前は「ぐるっとパス関西」に参加していたが、今年の春まで長く工事で休館していたためそのメンバーに参加しなかった。なので500円で入館しようとして、はたと気づいた。
財布に諭吉しかいない。野口英世でも夏目漱石でもいいがいないのである。しかしそこで面倒なお釣りを出させるのは気が引けた。
するとそこへ助け手が来た。
「お嬢さんご一緒に」とご年配の奥様がわたくしに招待券をくださったのである。
ありがたいことである。しかも「お嬢さん」と呼ばれるのは気分もいい。
お礼を丁寧に述べてから、ありがたく展示室へ入った。
神泉は神泉苑のある辺りの地主の息子として生まれ、それが雅名の由来となった。
もし烏丸御池辺りなら「御池」になっていたかもしれないが、神泉苑なので「神泉」である。
この名が深く浸透しているので、わたしなどは渋谷の神泉駅を見るたび勝手に徳岡神泉を思い起こしていたりする。(場所が違うのは別にどうでもいいのだった)
前置きが長いのはいつものことなのであれだが、ここからが本題になる。
今回は初期の「狂女」がないことに気づいた。
あの作品は行き詰った神泉が京都から逃げ出して富士山麓の岩淵に住みだしたとき、近所で見かけた女乞食をリアリスティックに描いたものだという。
この絵を描いたことが転機になった、と物の本には書いてある。
とはいえ、そこから社会派リアリズム絵画に移ったわけではない。
梶原緋佐子、池田遙邨もそうだが、一旦そうした視点から離れたことで、ついには自在の境地へ至ることになった画家は少なくない。特に日本画家にはその傾向が強いと思う。
徳岡神泉もそうだった。
彼もこの絵を描いたことが転機になり、後の「神泉の絵」の人になった。何を転機とし、どの方向へ向かうかはわかったものではないのである。
そして今回の展覧会は「その後の神泉」の絵が多く集まっていた。
印象美術館は第一展示室へ向かう緩やかな坂の壁面にも展示がなされている。
芍薬 1952 ほんのりと黄色いめの花が開いている。背景色はわら半紙に近い色。こうした薄黄色い花びらの芍薬もあるようで、持ち重りのする花の頭が静かにある。
菊花 1954 こちらも同じような背景色に二輪の花が咲いているところを描く。
曖昧な背景色の前面にこれも曖昧な色の花。
フォーブの人にはありえない取り合わせか。
桔梗 1961 鶸色の背景に紺色の花がいくつか咲いている。野ではないどこかで。
筍 1960 有名なのは三つの筍が転んでいる絵。これは一つ。若菜色を背景に転がる筍。じっ と見ているうち、皮をむいて炊いたのを食べたくなってきた。これくらいのサイズならむいてもまあまあ大きいだろう。
長岡京辺りで掘り出したか。
青林檎 1961 地の色と林檎の色がほぼ同色である。背景に溶け込む五つの林檎。それでいて自己主張する林檎たち。
蜜柑 1961 葉と地の色がよく似る。二個の蜜柑は中の実の色も想像させるが、少しばかり堅そうである。よく揉まねばならない。
水仙 1962 こちらも葉と地の色が似ている。しかし背景が鮮やかな緑かというとそうでもないのだ。
白い水仙のその白がにじむようにもみえる。
桜 1957 この絵には驚かされた。桜と言えば大抵は全体または桜の花そのものだけ、あるいは遠望などだが、これは幹が非常に存在感を出している。
というのは描かれた桜はいわゆる「胴咲き桜」なのだ。老木の幹のあちこちに吹き出して咲く桜。
これを主題にしている絵は初めて見た。
蕪 1958 たぶんこの絵と「流れ」が神泉の絵の代表だと思う。しかしこのかぶら(京阪ではカブやなしにカブラという)がこんなに深遠な世界を表現するとは誰も思わなかったろう。神泉がこの絵を描いた動機などは知らないが、冬の野菜のかぶらがこんな幻想的かつ深遠な哲学的表現で描かれるとは、凄いことではないか。
世界の深淵をのぞくような趣すらある。
そしてその一方、京都の冬の風物詩たる千枚漬けも、北陸のかぶら寿司もこのかぶらから作られるのである。

「蕪」の背景色は魅力的な青灰色だが、ふと振り向けば同色のセーターを着た金髪の北欧女性がいた。
わたしは彼女に「あなたのセーターとこの絵の色がよく似ている。素敵だ」と話しかけた。彼女はたいへん喜んでいた。
言うてよかった。
筍 1963 前述の三個の筍が転がる絵である。色彩の取り合わせの静謐さが心に残る。

どれもこれもよく太っておいしそうだが、皮をむいて米汁で湯がいて柔らかくなったのを炊いたり・焼いたり・揚げたり…するのを想像してはいかんのである。
長岡京から桂の辺り…錦水亭、筍亭 あぁ…
同じように野菜を描いても料亭の息子の竹内栖鳳のは純然とおいしそうであり、こちらが色々妄想するのも許される。
陽 1969 白牡丹がぼんやりと咲いている。その上に黄蝶が二匹飛ぶ。上下逆にひらひらと。どこかメルヘンチックでもある。
哲学的と言った趣はなく、のほほんとした良さがある。
緋鯉 1970 …金色やん。
展示室に入る前廊下のガラスケースに神泉の若描きがあった。
魚市場 小下絵 1917 文展の様式で描いたものだが落選。働く人々を描いている。
当時の神泉はまだ試行錯誤の中にあったのだろう、後の徳岡神泉とは全く違う絵だった。
これらの絵は他の人が描けばいいもので、彼が描くものではなかった。
文展の審査員がこの絵を落とした理由は知らないが、そのあたりのことをちょっとばかり知りたいとは思った。
蓮 1932 巨椋池に小舟を出して蓮を観察。巨大な池で湖に近かったそうだが、昭和の初期には干拓されて失われたそうだ。
ここで蓮が群生していたのは有名で、和辻哲郎の「巨椋池の蓮」という本もある。
なので神泉が描いていた頃はもう池も終わりの頃だったろう。
下絵やパステル画が続く。
赤松 1956 幹が赤い。ああ、それで赤松か、と改めて気づく。
俑 1965 三体の女性俑。立つ・坐す・立つ。漢代のだろうか。それらの写生を経て本画があがり、一体の俑が微笑むのを見ることになる。
漢灰陶怪獣俑 牛風なのがある。意外に怖い。聖獣なのか辟邪なのか魔物なのかは判断がつかない。
再び本画へ。いずれも東西の近美や京都市美術館、静岡県立美術館などに収蔵されている名品ばかりである。
そして抽象画に近いものを感じた。
芋図 1943 芋の大きな葉を幾本か描く。雨の日には傘になってくれそうな大きな葉。
鯉 1950 萌黄と青灰色混ざり合うような池。背景が池だということを考えると、他の絵も背景に実在感を感じるようになるだろうか。いや、それはないか。

刈田 1960 奈良町へ向かう途中の風景に惹かれたそうだ。
このシンプルな構成。福田平八郎とも通じる何か。
その何かがわからないが、しかし引き寄せられる。

流れ 1954 灰色の中に赤灰色の流れが。実はこの絵はわたしは長いこと縦だと思い込んでいた。
絵ハガキを買ってファイリングしてた時の癖でどうしてもこれは…
薄 1955 六甲での風景から。真っ直ぐに立つ薄。茜色の中に立つ。
小野竹喬はこれをどう表現したろう…

枯葉 1958 金茶色に古苔色の混ざり合う背景に枯葉が。

神泉のスケッチ・下絵類を先ほどまとめたのを見ていたが、そこに面白いものがあった。
額装済みの絵で、絵ハガキ大のサイズに富士山が11ばかり。とても可愛い。
あれらがあるからこの富士がある。

ようやく神泉展を見ることが叶い、たいへん嬉しかった。
良いラインナップだった。
会期末ぎりぎりになったのは反省すべきことだが、本当に見れてよかった。
ありがとう、堂本印象美術館。
さてこちらは堂本印象の作品の展示である。
日本の風景、ヨーロッパの風景 1956年にヨーロッパへ出て各地を見て歩いた成果が絵になっていた。
戦前の表現とは全く違う方法を手に入れて、それを使う。

ベニスのゴンドラ ベタ塗で洋画のようだと思った。
しかしこの旅が後のナンデモアリを生み出す下地になったのは確かだ。
こちらはそれまでの絵である。
中山七里 1945

繊細な表現で「近代日本画」だということを感じさせる。
五条坂を見下ろす作品もあり、わたしとしてはやはり日本の風景の方が楽しかった。
ただそれは単に鑑賞するわたしの趣味に過ぎないのだった。
次回の展覧会には早めに行きたいと思う。

これはあんぜんちな丸の遺品なのだなあ…
