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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

ムンク展に行った

ムンク展に行ったが、正直なところ「困った」。
物凄い人出で皆さんムンクの絵を見ておられる。
わたしもその仲間に入ろうと思うのだが、どうにもムンクのどこがどうよいのかが実は全くわからない。
これはもう随分前から明らかにしていることなのでこのブログをお読みの方には「ああ、はいはい」かもしれないが、わたしには明らかにニガテな画家がいる。
その一人がムンクなのだ。
日本では萬鉄五郎。どちらも配色や描写がニガテ。
なのでムンクの絵を熱烈に見ておられる皆さんに尋ねてみたい衝動にかられた。
それを抑えて作品の前に立つ。

ムンク展といえばブリヂストン美術館で開催されたムンク展に行ったのが最初だった。1989年11月。
当時、ムンクと言えば「叫び」くらいしか知らず、そこで「マドンナ」「吸血鬼」の連作を見て、非常に気持ち悪くなった。
わたしは吸血鬼といえばクリストファー・リーのドラキュラ伯爵に幼いころから恐怖を抱いており、この当時はまだ克服できていなかった。
そこへずらりと女吸血鬼が並ぶのを目の当たりにしたのだ。
マドンナもあれだ、なにか堕胎児の怨嗟の声が聞こえそうな絵で、そんなのがずらりとあるのは、幽霊画や妖怪画を見るのと違う厭さがある。
この展覧会でムンク=叫び、マドンナ、吸血鬼と気持ちのよくないものが三つ揃ったことになる。それに負けた。

「病める子」や「思春期」には惹かれたが、どちらにしろニガテ意識がとても強くなったのは確かだ。
それでもムンクを<観ること>が出来るようになったのは、これは間違いなく出光美術館のおかげだった。

1995年から2015年10月まで出光美術館・東京でノルウェー・オスロ市立ムンク美術館から毎年三点ずつの作品が展示されていて、それを見ることでだいぶ慣れてきた。
わたしは2006年の正月から東京の出光美術館に通うようになった。つまり十年間で合わせて30点のムンク作品を観るようになったわけだ。
内訳はこちら

中でも「夏の夕暮れの官能」と「殺人」はよかった。
よかったと書いたが、あまり「道徳的」ではない歓びがあった。
ムンク作品がナチスによって「退廃芸術」扱いされたのもわかるように思うのはこのあたりだ。

今回の展覧会はあれ以来ほぼ30年ぶりの鑑賞となるわけだが、わたしとしてはかなり構えての行為となった。

最初に自画像が延々と続く。
実在人物の自画像、肖像画はニガテだが、特定個人ではなくモデルがあっても主語が人でなく絵ならば平気だという難儀なところがわたしにはある。
どうもこれは安井曾太郎の描いた一連の肖像画がそうさせているらしい。

スペイン風邪の後の自画像 1919  よくまあ生き延びたな、とそっちの感想が先に出てしまうのには反省するしかない。
つまりこういうことを絵を見ながら考えてしまうので、自画像も肖像画もニガテなのだ。

ああ、やっぱり1920年代だ…
そう思わせてくれる色彩の肖像画もあった。
イメージ (1537)

こういう配色は好きだ。
それにしても度の肖像画も自撮りぼい風情なのだなあ。
肖像画のうちマラルメ、イプセンがけっこうこわいな…

病める子 この子の優しい眼がいただまれない、
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ムンクのおねえさん。少女のうちに死んでしまった。哀しい。

ニガテなものでも見ていくうちに「これはいい、あれは好み」というのが大体現れるものだ。
実際この記事に挙げている画像のいくつかはわたしの所有する絵ハガキなので、その絵ハガキを購入したのは、やっぱり惹かれるものがあるからなのだ。

ブローチ、エヴァ・ムドッチ 1903  綺麗な女で、バイオリニスト。ストラディバリの所蔵者。彼女に魅せられたムンクは、とても綺麗に描く。

夏の夜、人魚 1893 カラフルな石がいろいろ。こちら向きの女が人魚らしいが、奥にいる女たちには足がある。
アンデルセンはデンマークの人で、儚くも美しい人魚姫を描いたが、ノルウェイのムンクもスイスのベックリンもなんだか逞しい人魚を描いている。
イメージ (1531)

とか何とかいううちにとうとう「叫び」にきてしまった。
イメージ (1527)
色んなパターンがあるそうなが、この絵と写楽の「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」はみんな顔技やってしまうよね。
絶対する。わたしもやった。チラシを見ると黒柳徹子さんもしてる。やるよなあ、これは。

それで俯きながら次へ向かうと、今度は「絶望」と来た。
イメージ (1541)
いやいや、あかんでしょう。しっかりしないと。
帰宅してから気づいたが、この絵は以前に絵はがき購入していた。出光美術館で入手。

接吻 1897  開いた窓の前で裸で抱き合いながらしてますね。つまり見せてる・見せつけてるわけですね。はいはい。
…もっとスゴイコトヲシテクレ。

いよいよ「マドンナ」や「吸血鬼」がずらずら並ぶゾーンへやってきてしまった。
かつてほどの恐怖はないけど、まぁあまり気持ちのいいもんではないわね。
イメージ (1539) イメージ (1535)
どうしても端っこの赤子が堕胎された子供に見えて仕方ない。

そしてバンパイア
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「妖怪人間ベム」に出てきそうなんですよね…

緑の中の吸血鬼 これはあれでしょ、なんかヨーロッパ的ではないでしょ、この吸血鬼は。
イメージ (1534)
まぁ会いたくは、ないな。

愛情の縺れを描いた作品をいろいろみる。
別離 1896 男は心臓を押さえ、おんなはもう顔のない様子に。
別離2 1896  黒一色。こちらの方がいいな。ああ別れてしまったのだという納得がゆく。

女の髪に埋まる男の顔 1896  赤毛は淫らだとでもいうのか、わるく思われるようだが、それが魅力的でもある。
わたしはこれを見てて「聖闘士星矢」の黄金聖闘士のアクエリアスのカミュを少しばかり思い出した。

売春宿の情景がいくつか。淫売宿と言うほうがふさわしそうな感じもある。
要するに絵から臭いまで感じてしまうのだ。

マラーの死 1907  これもあれだ、事後のぐったりにしか見えない。全裸の女がこちらを向いて立ち、マラーは実はムンクと言う仕立てなのも面白い。

生命のダンス 1925 つよい色の取り合わせ。海に反映する月光が逆ⅰの字に見えて仕方ない。
イメージ (1529)
なんだかもう色々と人間関係のまずいのまで見えてきそうである。


再び肖像画。
ニーチェとその妹の肖像画がある。
兄の著作を宣伝し倒したのはいいが、色々やらかしたひとである。
「新ゲルマニア」の件と言い、難儀な話が色々残っている。
ムンクが何故彼らを描いたかは知らないが、そのあたりのことを聞いてみたいとは思う。

緑色の服を着たインゲボルグ  背景の緑と女の服とが区別がつかなくなりそうだが、素敵だ。
イメージ (1530)

青いエプロンをつけた二人の少女 1904-05  珍しいことにニコニコしている少女を描いている。山吹色に近い色がよく似合う。

並木道の新雪 1906  おどろおどろしい並木と消失点が気になる一枚…

黄色い丸太 1912  どーんと丸太があるのだが、どうもセザンヌ風なのが目立つ。

水浴する岩の上の男たち 1915  こちらもそう。主題もそうだし。

疾駆する馬 1910-12  走る!!人は銅でもいいが、走る!かっこいい。

太陽 1910-13 おおおおお。黄色く強い光があまねく降り注ぐ。
イメージ (1538)

そして晩年。
孤独と鬱屈が溢れていて、みていてつらかった…

庭のリンゴの樹 1932-43  まだまし。しかしナチスから退廃芸術だと見做されたのもわかる気がする…

なんというか、やっぱりムンクの本当の良さと言うものは多分わかっていないままだと思う。
隠しておきたいものを露わにされた感覚がつらいな。
でも見ておいてよかった。

1/20まで。
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徳岡神泉展に行った ようやく行けた

随分以前から徳岡神泉の展覧会に行きたいと思っていた。
どういうわけかその機会がなかなか巡ってこないまま、あっという間に何十年かが過ぎていた。
「行きたい」と思ったのは1996年の京都国立近代美術館での生誕100年記念徳岡神泉展からである。
チラシは手に入れていたが、当時あまり関心がなく、展覧会が終了したと同時に、難儀なことに神泉に興味がわきだしてきた。
こんな因果なことはない。

大体関心のない対象であっても何らかのアプローチがあればそちらに目を向け、そこから意外なくらいのめりこみ大好きになる、という経験がかなり多い方である。
またそういう時はいいタイミングでそれに耽る機会が与えられるものだが、どういうわけか徳岡神泉だけはそれがなかった。
小出楢重、岸田劉生、須田国太郎。
かれらの絵がニガテだったのが今では大好きでしょうがないと変容していることから考えても、神泉も当然そうなるはずだった。
それがどうしてこんなことになるか。
こればかりは縁の問題かもしれないが、このほどようやくにして徳岡神泉の展覧会を見ることになり、長年の懸案事項が解消した。

堂本印象美術館での回顧展である。
ここは秋になると必ず魅力的な企画展がある。
オリジナルのもあれば巡回展もある。どちらにしても絶対裏切らない内容の展覧会が長く続いている。

この日のわたしは複雑なルートでここを目指した。
普段なら烏丸あたりから12系統バスで行くのが一番多いが、既に秋のハイ・シーズンを迎えているし、わたしもちょっとお寺など見に行くかと、西院から嵐電に乗り太秦広隆寺、そこから本当は等持院へ向かうはずが寝過ごして北野白梅町。
少し買い物してからわら天神経由のバスで向かった。

堂本印象美術館は以前は「ぐるっとパス関西」に参加していたが、今年の春まで長く工事で休館していたためそのメンバーに参加しなかった。なので500円で入館しようとして、はたと気づいた。
財布に諭吉しかいない。野口英世でも夏目漱石でもいいがいないのである。しかしそこで面倒なお釣りを出させるのは気が引けた。
するとそこへ助け手が来た。
「お嬢さんご一緒に」とご年配の奥様がわたくしに招待券をくださったのである。
ありがたいことである。しかも「お嬢さん」と呼ばれるのは気分もいい。
お礼を丁寧に述べてから、ありがたく展示室へ入った。

神泉は神泉苑のある辺りの地主の息子として生まれ、それが雅名の由来となった。
もし烏丸御池辺りなら「御池」になっていたかもしれないが、神泉苑なので「神泉」である。
この名が深く浸透しているので、わたしなどは渋谷の神泉駅を見るたび勝手に徳岡神泉を思い起こしていたりする。(場所が違うのは別にどうでもいいのだった)

前置きが長いのはいつものことなのであれだが、ここからが本題になる。

今回は初期の「狂女」がないことに気づいた。
あの作品は行き詰った神泉が京都から逃げ出して富士山麓の岩淵に住みだしたとき、近所で見かけた女乞食をリアリスティックに描いたものだという。
この絵を描いたことが転機になった、と物の本には書いてある。
とはいえ、そこから社会派リアリズム絵画に移ったわけではない。
梶原緋佐子、池田遙邨もそうだが、一旦そうした視点から離れたことで、ついには自在の境地へ至ることになった画家は少なくない。特に日本画家にはその傾向が強いと思う。
徳岡神泉もそうだった。
彼もこの絵を描いたことが転機になり、後の「神泉の絵」の人になった。何を転機とし、どの方向へ向かうかはわかったものではないのである。
そして今回の展覧会は「その後の神泉」の絵が多く集まっていた。

印象美術館は第一展示室へ向かう緩やかな坂の壁面にも展示がなされている。

芍薬 1952  ほんのりと黄色いめの花が開いている。背景色はわら半紙に近い色。こうした薄黄色い花びらの芍薬もあるようで、持ち重りのする花の頭が静かにある。

菊花 1954  こちらも同じような背景色に二輪の花が咲いているところを描く。

曖昧な背景色の前面にこれも曖昧な色の花。
フォーブの人にはありえない取り合わせか。

桔梗 1961  鶸色の背景に紺色の花がいくつか咲いている。野ではないどこかで。

筍 1960  有名なのは三つの筍が転んでいる絵。これは一つ。若菜色を背景に転がる筍。じっ と見ているうち、皮をむいて炊いたのを食べたくなってきた。これくらいのサイズならむいてもまあまあ大きいだろう。
長岡京辺りで掘り出したか。

青林檎 1961  地の色と林檎の色がほぼ同色である。背景に溶け込む五つの林檎。それでいて自己主張する林檎たち。

蜜柑 1961  葉と地の色がよく似る。二個の蜜柑は中の実の色も想像させるが、少しばかり堅そうである。よく揉まねばならない。

水仙 1962  こちらも葉と地の色が似ている。しかし背景が鮮やかな緑かというとそうでもないのだ。
白い水仙のその白がにじむようにもみえる。

桜 1957  この絵には驚かされた。桜と言えば大抵は全体または桜の花そのものだけ、あるいは遠望などだが、これは幹が非常に存在感を出している。
というのは描かれた桜はいわゆる「胴咲き桜」なのだ。老木の幹のあちこちに吹き出して咲く桜。
これを主題にしている絵は初めて見た。

蕪 1958  たぶんこの絵と「流れ」が神泉の絵の代表だと思う。しかしこのかぶら(京阪ではカブやなしにカブラという)がこんなに深遠な世界を表現するとは誰も思わなかったろう。神泉がこの絵を描いた動機などは知らないが、冬の野菜のかぶらがこんな幻想的かつ深遠な哲学的表現で描かれるとは、凄いことではないか。
世界の深淵をのぞくような趣すらある。
そしてその一方、京都の冬の風物詩たる千枚漬けも、北陸のかぶら寿司もこのかぶらから作られるのである。
イメージ (1518)
「蕪」の背景色は魅力的な青灰色だが、ふと振り向けば同色のセーターを着た金髪の北欧女性がいた。
わたしは彼女に「あなたのセーターとこの絵の色がよく似ている。素敵だ」と話しかけた。彼女はたいへん喜んでいた。
言うてよかった。

筍 1963  前述の三個の筍が転がる絵である。色彩の取り合わせの静謐さが心に残る。
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どれもこれもよく太っておいしそうだが、皮をむいて米汁で湯がいて柔らかくなったのを炊いたり・焼いたり・揚げたり…するのを想像してはいかんのである。
長岡京から桂の辺り…錦水亭、筍亭 あぁ…
同じように野菜を描いても料亭の息子の竹内栖鳳のは純然とおいしそうであり、こちらが色々妄想するのも許される。

陽 1969  白牡丹がぼんやりと咲いている。その上に黄蝶が二匹飛ぶ。上下逆にひらひらと。どこかメルヘンチックでもある。
哲学的と言った趣はなく、のほほんとした良さがある。

緋鯉 1970  …金色やん。

展示室に入る前廊下のガラスケースに神泉の若描きがあった。
魚市場 小下絵 1917  文展の様式で描いたものだが落選。働く人々を描いている。
当時の神泉はまだ試行錯誤の中にあったのだろう、後の徳岡神泉とは全く違う絵だった。
これらの絵は他の人が描けばいいもので、彼が描くものではなかった。
文展の審査員がこの絵を落とした理由は知らないが、そのあたりのことをちょっとばかり知りたいとは思った。

蓮 1932  巨椋池に小舟を出して蓮を観察。巨大な池で湖に近かったそうだが、昭和の初期には干拓されて失われたそうだ。
ここで蓮が群生していたのは有名で、和辻哲郎の「巨椋池の蓮」という本もある。
なので神泉が描いていた頃はもう池も終わりの頃だったろう。

下絵やパステル画が続く。
赤松 1956  幹が赤い。ああ、それで赤松か、と改めて気づく。

俑 1965  三体の女性俑。立つ・坐す・立つ。漢代のだろうか。それらの写生を経て本画があがり、一体の俑が微笑むのを見ることになる。

漢灰陶怪獣俑 牛風なのがある。意外に怖い。聖獣なのか辟邪なのか魔物なのかは判断がつかない。

再び本画へ。いずれも東西の近美や京都市美術館、静岡県立美術館などに収蔵されている名品ばかりである。
そして抽象画に近いものを感じた。

芋図 1943  芋の大きな葉を幾本か描く。雨の日には傘になってくれそうな大きな葉。

鯉 1950  萌黄と青灰色混ざり合うような池。背景が池だということを考えると、他の絵も背景に実在感を感じるようになるだろうか。いや、それはないか。
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刈田 1960  奈良町へ向かう途中の風景に惹かれたそうだ。
このシンプルな構成。福田平八郎とも通じる何か。
その何かがわからないが、しかし引き寄せられる。
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流れ 1954  灰色の中に赤灰色の流れが。実はこの絵はわたしは長いこと縦だと思い込んでいた。
絵ハガキを買ってファイリングしてた時の癖でどうしてもこれは…

薄 1955  六甲での風景から。真っ直ぐに立つ薄。茜色の中に立つ。
小野竹喬はこれをどう表現したろう…
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枯葉 1958  金茶色に古苔色の混ざり合う背景に枯葉が。
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神泉のスケッチ・下絵類を先ほどまとめたのを見ていたが、そこに面白いものがあった。
額装済みの絵で、絵ハガキ大のサイズに富士山が11ばかり。とても可愛い。
あれらがあるからこの富士がある。
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ようやく神泉展を見ることが叶い、たいへん嬉しかった。
良いラインナップだった。
会期末ぎりぎりになったのは反省すべきことだが、本当に見れてよかった。
ありがとう、堂本印象美術館。


さてこちらは堂本印象の作品の展示である。
日本の風景、ヨーロッパの風景 1956年にヨーロッパへ出て各地を見て歩いた成果が絵になっていた。
戦前の表現とは全く違う方法を手に入れて、それを使う。
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ベニスのゴンドラ  ベタ塗で洋画のようだと思った。

しかしこの旅が後のナンデモアリを生み出す下地になったのは確かだ。

こちらはそれまでの絵である。
中山七里 1945
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繊細な表現で「近代日本画」だということを感じさせる。

五条坂を見下ろす作品もあり、わたしとしてはやはり日本の風景の方が楽しかった。
ただそれは単に鑑賞するわたしの趣味に過ぎないのだった。

次回の展覧会には早めに行きたいと思う。
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これはあんぜんちな丸の遺品なのだなあ…
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芹沢銈介のイラストレーション

型染作家として文化勲章を受章し、フランスでも大きな人気を得た芹沢銈介。
以前に高島屋で展覧会を見て、その染物の良さのみならず、燈籠や行灯にも大いに惹かれた。
以前から静岡県の登呂遺跡の近くに彼の美術館があるとは知っていた。
チラシが案外手に入ったのである。
またどういうわけかそのコレクションの一端を示す絵はがきの良いのも幾葉か手元にある。
しかしなかなか遠くて行く気にならなかった。

ではこのまま無縁でいたか。
いや、そうはならなかった。
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こんなチラシを手に入れたら、やっぱり出かけずにはいられない。

しかもこんな情報まである。
芹沢銈介自宅公開
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挿絵と建物と。
二つも好きなものが揃っていて会期末が近いと言うので、急遽静岡へ向かった。
建物や登呂遺跡については別項にまとめて、ここでは芹沢銈介の挿絵仕事に絞りたい。

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何という愛らしさか。
しかもこれはフランスのエスプリと言うものを感じさせる作品群。
この二枚分は芹沢を民藝の世界へ招きよせた柳宗悦が出す雑誌の為の仕事だった。

芹沢の装幀いろいろ
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絵はがきセットの袋おもて
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「絵本どんきほおて」は以前から見ていた。
絵本はもともと受注制作で、外人のドン・キホーテコレクターが希望したものだった。そして作品の出来栄えは非常に良く、コレクターは大喜びしたそう。
実際巧い翻案だと思う。後世のわたしなどでも「こう来たか…!」とくる。

そうこうするうち小説の挿絵を始めた。
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佐藤春夫「極楽が来た」である。朝日新聞に連載の法然上人が主要人物のドラマで、今回その挿絵がたくさん出ていた。
とても愛らしい。これらは連載当時モノクロで制作されたが、後に画集として刊行する際に彩色されたようだ。
このあたりの事情についてはこちらのレポートが詳しい。

本の表紙は蓮池(睡蓮池というべきか)で、カラーがよりその愛らしさを引き立てている。
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次いで好評を得たのがこの挿絵。
武田泰淳の武侠小説「十三妹」である。
わたしも「児女英雄伝」は好きで平凡社のを読み、同時期に山川惣治の絵物語「十三妹」を読んだ。
泰淳の原作は当時手に入らなかった。
なので今この挿絵を見てドキドキしている。
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既に刊行されている作品を集めた文学全集が出たときも芹沢銈介は参加した。
泰淳「風漂花」、芥川「鼻」などにいい挿絵を創った。

挿絵はまず読者の目と心を一目で掴む必要がある。
現代は作品の本質と無関係な絵も出てくるようになったが、少なくとも昭和の頃までは確実に挿絵でまず人の心を掴む必要があったので、ある意味扇情的・挑発的・ドキドキハラハラ、「なんだろう、どうしたのだろう」、などと絵の中に物語性が求められていた。
なので、昭和までの本職の挿絵画家、日本画家の挿絵、洋画家の挿絵、版画家の挿絵も型染作家の挿絵も、それぞれ違う味わいがあり、とても好ましい。

それにしても手の込んだ挿絵・カットである。芹沢は決して手を抜かず、この小さな作品世界を大事にして名品を生み出し続けた。

大きい作品と小さい作品とでは構成も異なり制作の方法も変わる。
あまり小さい画面にごちゃごちゃ詰め込むより、簡潔にしないと印象が薄れる。
大きな作品は余白の味わいを考えねば間が抜ける。
芹沢銈介はそのあたりがまた絶妙で、どれを見てもよかった。
これまで何度か展覧会を見ているが、いずれも技能が完成した後の作品しか見ていないことに改めて気づいた。若描きというものを見ていない。なぜだろう。
随分早い段階から自己のスタイルを確立していたからそうしたものはないのだろうか。
年表を見ながら少しばかり考えた。

芹沢は若い人向けの仕事もしている。
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「少女の友」などでも可愛い挿絵を描いているし、読み物の挿絵では珍しくガラス絵で表現もしている。
戦後すぐの作品である。とてもいい。
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他に「アリババ」もよかった。賢い女奴隷の様子がとてもいい。

ところで芹沢銈介は偉大なコレクターでもある。
民藝の人だからか元からなのかは知らないが、日本のみならず世界各国の庶民の間で大事にされた品々を数えきれないほど蒐集した。
わたしなどは昔々ここの美術館のチラシをもらった時、「なぜ自分の作品でなくコレクションの展示なのだ」と思ったりもした。
今回は絵馬などが大量に出ていた。
すごい…
宗教的な作品がたくさんあったが他にも布や面なども多い。

今回はこの李朝の民画の絵ハガキを購入したので挙げておく。
イメージ (1513)

またここへ行こうと思っている。

開館30周年記念 鄭詔文と高麗美術館

高麗美術館は京都市内北部にある。堀川通りを北上して、真っすぐな道が曲がりかける直前の所で下車する。
なのでここが堀川通りの果てのような気になる。
その地に高麗美術館はある。
1988年に開館し、今年で30年だという。
高麗と書けば普通は「こうらい」とよむが、ここでは「こうりょう」である。
チラシやポスターでは明朝体などで記されるので特に何も思わないが、美術館に来れば独特の味のある手書き文字に出会える。
筆者は司馬遼太郎である。
司馬さんはこの美術館ととても関係が深く、それでここの館名を書いたのだ。

イメージ (1503)
左端がないのはそこに30周年記念プレゼントのチケットがついているから。

遠いけれど好きな美術館なのでなるべく行くようにしている。
特に今年は高麗成立から1100年の節目の年だというので、各地で高麗祭が行われている。
・東洋陶磁美術館「高麗青磁」展
その美に溺れて感想文を複数挙げてしまった。
その1
・建国1100年 高麗 金属工芸の輝きと信仰 
こちらも感想を複数に分けた。
その1

その高麗を館名に挙げた理由は、初めて統一国家を作ったから、ということらしい。
そしてその高麗を代表するのが高麗青磁。
イメージ (1505)
青磁象嵌の美を深く味わえる。

展示は手縫いのポジャギ(パッチワークの布)から始まる。可愛く作られていた。
その下には二つの箪笥が並ぶ。
半閉櫃とある。木の感じもいいが、がっしりした金具がどれもこれも可愛い。
蝶番はなかったが、花型や何かの文様の形を下金具である。

刺繍の十長生図屏風八曲一隻がある。鶴、亀、松竹梅などが大胆に刺繍されていた。

司馬さんの書があった。綺麗にガラスに収まっている。
「熟柿落ち 碧き丹波の雲と陶 為鄭詔文氏」
そばには鄭さんの書も。
「期必 朝鮮美術館 千九百六十九年元旦」

鄭さんの祈願は果たされる。
1988年、この地に遂に高麗美術館が作られたのだ。
そしてそこへ至るまでの間に仲良しの司馬さんや上田正昭さんらと雑誌も出し、ついには豊饒の時を迎えたのだ。


朝鮮時代の白く豊かな白磁に青花・辰砂・鉄砂などを懸けた壺がいくつもあった。
ふくよかなフォルムに四季の花々が描かれていた。

鹿の絵の大壺もある。面白いことにその牡鹿には八重歯がある。
職人の遊び心だろうか。

船の絵の壺はこれを描いたものと共に展示されている。
イメージ (1506)

花鳥図屏風も妙な楽しさがある。柘榴の実が描かれているのが特に面白い。
蓮と翡翠もいい。薄紅色が多用されていたかせあの華やぎだろうか。

文字図があった。文字に花などの綺麗なものをからめる技である。
これは映画「風の丘を越えて 西便制」で知ったものだ。
ここでは「至忠」と「忠」の二文字がある。
どちらも忠の字が飾られていた。竹と海老で再構築されているのだ。

仏像もおもしろいものがある。三頭身の頭大な如来さんは可愛くてならなかった。
冥官吏のはしくれの少年は可愛い。

民画の十牛図もあり,表情がおかしく見えるのが、面白い絵になる。
こういう素朴な味わいは奈良絵本の素朴なものと通じる。

凄まじいのをみた。長生図8曲なのだが、ここにあるのは桃である。
桃の実の満開の時を、これでもかというくらいに描きこんでいる。
速い流れの川を覆うようにして桃の実が溢れかえり、主張している。
類例はないそうだ。それはそうだろう。
なんだかもう物凄い桃だ。

蝶と花の絵もいい。
やがて猫の図があらわれた。
チラシなどではこうだった。
イメージ (1504)

しかし実際の絵はこうだ。
イメージ (1507)
違う植物を狙っていたのだ。

螺鈿の素晴らしいのもある。大きな箱で海浜の様子や貝殻が刻まれ、そこに鹿が来るのだった。

他にもう一つ興味をそそがれたのがこれ。
青磁鉄彩白象嵌草花文梅瓶である。
黒く光る器に、まるで螺鈿のようにはまり込んだ植物文様がとても艶めかしかった。


最後にこちらはさきほどのチラシの切れ端を出すことでもらえたもの。
ありがたい…
.イメージ (1508)

いい展示をありがとう。

ルーベンス展 ―バロックの誕生 その2

ルーベンス展の続きの感想。

・英雄としての聖人たち ― 宗教画とバロック
ルーベンスだけでなくほかの画家の宗教画も並ぶ。
宗教画の元々は民衆教化のためのものだったが、画家の表現の場として成立すると、異教徒のわたしなどもときめく仕儀となる。

ローマの二世紀前半の女性胸像の綺麗なのがある。
これまたどうやらルーベンスの勉強になったようで、その面影を宿した絵があった。
聖ドミティラ 1607年 ベルガモ、アカデミア・カッラーラ  実際にはこの聖女はいないというか未確認らしい。ただ手に棕櫚を持つので、これで殉教者(という決まりがあるので)確定だという。
像に似た綺麗な女性。

全然関係ないが、今の言い回しで思い出したことがある。
宝塚歌劇出身の女優・有馬稲子さんは若い頃「宝塚三大美人」の一人だった。それがあるとき、某劇作家から「君はインドゾウに似てるねえ」と言われ「あらわたしギリシャ像に似てると言われてますよ」と返したところ、「ギリシャにゾウはいたかなあ」…話が全然かみ合わない。

天使に治療される聖セバスティアヌス 1601-03年頃 ローマ国立古典美術館、コルシーニ宮  そう、矢を射かけられて血まみれのセバスティアン。彼の本当の死因はここで死ななかったので撲殺なのだが、死ななかった原因は天使に治療されたから。
天使たちみんなで医療チーム組んでせっせと働く。

シモン・ヴーエ 聖イレネに治療される聖セバスティアヌス 1622 年頃 ミラノ、 ジャンルイージ・コンドレッリ・コレクション こちらは美人な聖女に治療されているところ。
デレク・ジャーマンの映画ではありえない情景となる。

アベルの死 1617 年 グリーンヴィル、ボブ・ジョーンズ大学美術館  丸まって死んでるのだが、構図が面白い。ところでこれは「アベルの死」となっているが、以前はヨハネだったのがアベルになったそう。後世の人の手が変身させたそう。
あ、犬来た。これで哀しげにクゥンとか鳴いたらこちらもきゅんとくるが、「うまそう」になると「九相図」だ…

二枚のキリスト哀悼図。
1601 - 02 年 ローマ、ボルゲーゼ美術館  皆嘆いている。キリストはもう殆ど全裸に近い。石棺の彫刻はちび天子と炎か。茨冠はそこに落ちている。
1612 年頃 ファドゥーツ/ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション  ベッドに横たえられる遺体。母マリアがその瞼を閉ざしてやろうとする。右端の女の絶望感が深い。

これらの作品に影響を与えたらしい彫像があった。
フランチェスコ・フェッルッチ(通称デル・タッダ) 瀕死のアレクサンドロス大王(ウフィツィ美術館作品の模作) 16 世紀後半(1585 年以前) フィレンツェ、貴石研究所  かなり大きい首。茶赤い斑岩で白大理石の白布つき。
しかしこの像は造形の美より石としての貴重さでここに収蔵されてるのかしら…

そして復活の日。
死と罪に勝利するキリスト 1615 - 22 年 ファドゥーツ/ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵コレクション  後世の補修が激しすぎるらしい。確かに雰囲気が違いますわ。骸骨や蛇を踏んで復活のイエス。

それにしてもルーベンスのマッチョ好き。いい肉体ばかり。ときめくなあ。
わたしは安彦良和さんの描く太腿が最高なんだが、きちんとした観察眼があっての描写はやはりいいなあと思う。

聖アンデレの殉教 1638 - 39 年 マドリード、カルロス・デ・アンベレス財団  X十字の磔刑か。そういえば聖アンデレの十字っていうのはこれか。最近使徒たちがどうしても「聖☆おにいさん」の彼らのヴィジュアルで浮かんでくるのだよな。
だからついつい「えっアンデレってこんなお爺さんだった??」と思ったり。
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さてヘラクレスとヴィーナス特集がありまして、どちらも肉体美がよかった。
ブットーたちが甲斐甲斐しかったり。
この辺りはもう楽しく眺めるばかりでしたわ。
とはいえスザンナに挑む爺どもは粉砕してやりたいな…

パエトンの墜落 1604 - 05年頃、おそらく1606 - 08年頃に再制作 ワシントン、ナショナル・ギャラリー
群れをたいへんうまく配置し、決してうるさくならないところが凄い。
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バロックの良さと言うのはやっぱりこういうところかもしれない。

二枚のサムソン。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ 獅子を引き裂くサムソン 1631年頃 
ジョヴァンニ・ランフランコ 獅子を引き裂くサムソン 1633 - 38年頃 ボローニャ国立絵画館
前者は成人サムソン。後者は少年サムソン。獅子もサイズが小さくなる。

マルスとレア・シルウィア 1616 - 17年 ファドゥーツ/ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション  巨大。タピストリーの下絵らしい。ヴェスパの火を守る巫女。そこへ彼女に恋したマルスがやってくる。二人の間に生まれたのがローマ建国のロムルスとレムス。火はスフィンクスの台の上で燃える。
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小さいサイズの絵もあるどちらもファドゥーツ。

スフィンクスの表情がいい。イメージ (1491)

ヴィーナス、マルスとキューピッド 1630年代初めから半ば ロンドン、ダリッチ絵画館  こちらのマルスはヴィーナスの恋人。そのヴィーナスがキューピッドに授乳中。優しく見守る。でもまあ色々変な疑いが浮かぶよね・・・

ローマの慈愛(キモンとペロ) 1610 - 12年 サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館  これはあれだな、ローマ版二十四孝ですなあ。

エリクトニオスを発見するケクロプスの娘たち 1615 - 16年 ファドゥーツ/ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション  これも大作。女たちの肌の綺麗さに引き寄せられる。
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豊穣 1630年頃 東京、国立西洋美術館  太陽にも顔がある。ブットーたちが可愛い。

肉付きの良さに親しみを懐いているのだが、そこへもう一人肉付きよしの画家も登場。
ルノワール ルーベンス作《神々の会議》 の模写 1861年 国立西洋美術館(梅原龍三郎氏より寄贈)  すごいなあ。ルーベンスの絵を模写するルノワールとそれを貰った梅原というつながり。
本当に豊饒。

ルーベンスの工房、改めてこのシステムもいいなと思った。
さいとう・たかをさんみたいだし。
とても実業家としても外交官としてもよく働いているのも好ましい。

肉体美をとても楽しめた。
イタリアとのかかわりを全面に押し出したこの企画は素晴らしいと思う。
とてもよかった。

ルーベンス展 ―バロックの誕生 その1

ルーベンス展にいった。
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行く前から頭に浮かぶのはアニメ「フランダースの犬」ラストシーンである。
貧しい少年ネロと愛犬パトラッシュが雪の中、酷い誤解を受けて迫害され、金もなく、助けてくれる人もなく、とうとう教会へたどり着いたとき、いつもは高価な見学料を取る教会のルーベンスの絵がクリスマスだからか、カーテンが開け放たれ、ネロの前に燦然と耀いていた。
ネロは歓喜極まって叫ぶ。
「ああ、神様!僕はもう何もいりません」
そしてその感動を胸に抱いたまま、愛犬パトラッシュと共に眠りにつく。
ネロとパトラッシュは小さな天使たちに迎えられて幸せそうに天へ上ってゆく。
魂は救済されたが、現実の肉体は凍死・餓死状況で発見される。
ネロを迫害したしたことを後悔する人々の前にその遺体がある。

思い出すだけで涙がにじんでくる。あまりにネロとパトラッシュが可哀想で。
ルーベンスの絵がそんなにいいのかどうかはわからない。
だが、ルーベンスの絵に憧れ、人生の最期をそこで迎えた、という状況に胸が揺さぶられるのである。

国立西洋美術館ではルーベンスを「イタリアとのかかわりに焦点を当てて」紹介すると宣言した。
そうした視点で来るとは思いもしなかった。
だが、あの輝くばかりの肉体表現はやはりバロックのものだ。
ルーベンス自身強くイタリアに憧れ、そこで学び、ついには巨匠となった。
それを思うと、この展覧会への期待がいや増すばかりなのだった。

ルーベンスはフランドルそうフランダースのアントウェルペンに生まれ育った。
(ネロと全く同じである)
1600年、若いルーベンスはイタリアへ入り、断続的にそこで過ごした。
それは豊饒な時だったろう。
かれの訪ねた時から遡って百年前のイタリアにはルネッサンスの巨匠がいた。
ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ラファエロらである。
(イタリアの場合、統一国家としてはごく近代に成立したので、本来ならフィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリ、フェラーラなどと「国家」ごとに分けるべきだろうが、ここではそのことは措く)
そこで修業したルーベンスが照り輝く肌を描くようになったのは、当然のようにも思える。
ルーベンスは憧れの地を間違えず、自分に向いた地へ赴いて、本当に良かった。
後世の極東の片隅に住まうわたしの素直な思いである。
大きなお世話だとルーベンスを苦笑させるだろうが。

展示室に入る手前、映像で現地のルーベンス展示の様子を紹介していた。
アントワープの大聖堂か、そこの荘厳な様子と巨大なルーベンスの絵に圧倒された。
ネロが見たものはこれだったかもしれない、そんなことを思うだけで泣けてくる。
いたたまれなくなり、室内へ。

クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像 1615-16年  ルーベンス  ファドゥーツ/ウィーン、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション
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この愛らしい幼女はルーベンスの娘で五彩の時の肖像。
幼児の死亡率が高い…というより、成人する確率の低かった時代、この子は12歳でなくなる。

リヒテンシュタイン侯爵家コレクションというと青池保子「エロイカより愛をこめて」のあるエピソードを思い出す。
泰西名画鑑賞家の伯爵がある機会を得て「ファドゥーツ・コレクション」の収蔵庫へ招待される。
そこで見た名画の数々に深い感動を受ける。そこにはルーベンスの名画が含まれている。
かれはなんとか厳しいセキュリティを突破してそれら名画の数々を盗み出したいと目論むのだが…

伯爵はこの連作の中でもしばしばルーベンスを讃えるシーンがある。
輝く肌についての描写が特に素晴らしく、わたしなどは伯爵からルーベンスの絵の美についてレクチャーを受けた気がする。
作者の青池さんがルーベンスを特に好きなのかどうかは知らないが、伯爵がルーベンスのファンなのはとても素敵だった。
なおクラナッハの絵については伯爵よりむしろNATOの部長の表現が意識に残っている。
そしてどちらの場合も芸術オンチのエーベルバッハ少佐の「三段腹のおばさん」「エロチックな三人娘」という呼び方に粉砕されるのだった。

眠るふたりの子供 1612 -13 年頃  この絵はここ国立西洋美術館に収蔵されていて、以前から親しく眺めている。
むっちりしたほっぺの愛らしいちびっこ二人がすやすや…可愛いなあ。

ルーベンスは美女・英雄・聖人・貴人もよいが、実はクピドを含めた幼児がいちばん佳いのではないかと思っている。
あのむちむちした愛らしさにはこちらもついついニコニコしてしまう。
次の絵もそうだ。

幼児イエスと洗礼者聖ヨハネ 1625 - 28 年 ローマ、フィンナット銀行  これまた可愛くてならない。左にちびっこ聖ヨハネがいて、羊を捕まえている。それに向き合いながら羊を撫でるイエス。茶色の髪のヨハネと金髪のイエス。可愛いなあ。
きちんとちびっこ体型なのがとてもいい。

カスパー・ショッペの肖像 1606 年頃 フィレンツェ、パラティーナ美術館  男前だな、この人。ちょっと渡辺裕之にも似ている。
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ティントレット ダヴィデを装った若い男の肖像 1555 - 60 年頃  これもここの所蔵。改めて見たらこの男あれだ、ルパン三世に似てるな。

さてルーベンスのイタリアでの修行の成果というか、彼が何を見て学んだかを知る。
そう、彫像。三次元の理想的な肉体を表現したものにときめいて、それを二次元化することに努力したのだ。

ラオコーンの胸像をみてそれを熱心に模写するルーベンス。
その現物と模写とがある。
蛇に巻きつかれているラオコーンとその息子たち。

アグリッピナとゲルマニクス 1614 年頃 ワシントン、ナショナル・ギャラリー  珍しく男女の横顔だと思ったら、コインのそれと同じ様式なのだった。こんな所にもルーベンスの古美術勉強の成果がある。
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実はこの日のわたし、このアグリッピナと似たような髪型をしていたのだった。とはいえ髪飾りにパールは使っていませんが。

老人の頭部 1609 年頃 サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館  とにかくやっぱりルーベンスは力強いわ。
この絵がここに入った経由は知らないが、もしかするとエカテリーナ二世がじかに欲しがったのかもしれないな。

ルーベンス、ティツィアーノに基づく 毛皮を着た若い女性像 1629 - 30 年頃 ブリスベン、クイーンズランド美術館  眼の描き方がやっぱり違うね。そしてルーベンスもやっぱりお肌の大家!←なんだ? 素敵だ。
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ところでティツィアーノの肌表現について、以前記している。
ティツィアーノの描く膚から思い出すこと

それでルーベンスはこの素肌に毛皮の女にときめいたようで、この主題を多く描いたそうだ。
むろんティツィアーノには「毛皮を着たヴィーナス」があり、それといえばマゾッホの小説がある。
はっはっはっ みんないい趣味だなあ。
そういえば谷崎は素肌に毛皮の女は描いてたかな…
痴人の愛」のナオミは素肌を黒いマントで包んで、ぱっと開いて見せていたが。
いやいや、みなさん芸術さ。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオと工房 洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ 1560 - 70 年頃  この絵もここの所蔵らしいが、案外覚えていないな。好きな主題なのに。むっちりしたサロメがドヤ顔しつつ銀盆の上の生首を突出す。傍らのマントの侍女の方がその生首をじーっとみている。
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逸名の画家によるラファエロの模写、ルーベンスによる紙の付け足しと補筆 賢明 1540 - 60 年頃と 1609 年頃 エディンバラ、スコットランド国立美術館  ヤヌスのように二面ある女。若く美しい顔と爺のような顔と。その美しい方の顔をクピドらしきチビの持つ鏡に向けている。
ルーベンスは旧いスケッチに手を加えて自作とすることも多かったそう。

ルーベンス、アブラハム・ファン・ディーペンベークに帰属されるフランチェスコ・プリマティッチョの模写に基づく 身体を洗うオデュッセウス、テレマコスと牧人たち 1635 年頃 エディンバラ、スコットランド国立美術館  20年ぶりに帰宅するオデュッセウスとその息子。帰宅すると妻に言い寄る男たちを殺す。そしてなんだかんだとバタバタ。
こういうのをみるとやはり百合若大臣はオデュッセイが元ネタなのかと思ったり。

ルーベンスと工房 セネカの死 1615 - 16 年 マドリード、プラド美術館  2世紀のローマの彫像もあるので、それを参照にしていたかも。セネカはなかなか死なないので盥に立って血を…
ジイサンであっても素晴らしく立派な肉体。ルーベンスの筋肉主義、凄いなあ。

長くなるので一旦ここまで。

2018.11月の東京ハイカイ録

11月のギムナジウムならぬ11月のハイカイ録。
まさかの気温上昇の三日間でしたわ。
いつものロッカーに荷物を預け、日本橋からGO!

わたしはEXIC会員なので72時間チケットが多少割引になるという特典がある。
なので三日間は地下鉄三昧ということになる。
ほんで丸の内線東京駅と日本橋駅とでそのチケットを購入するが、今回は日本橋駅へ。
工事中なのでなんかいろいろわからないことになっていたが、まぁいいか。

銀座線の先頭に乗り上野についてからは9出口からエスカレーターを乗り継ぐ。
出ました、パンダ橋。ここからの方がわたしはストレスフリーなの。
それでまず西洋美術館へ。

ルーベンスですね、ルーベンス。
ネロとパトラッシュが最期を迎えたのはアントワープの大聖堂、キリスト磔刑図の前でだった。
思い出すだけで泣けてくる。
あれで泣かない人とは話が出来ない。
展示室前にその大聖堂の映像などを見てしまうと、もう胸がいっぱいになるわ。
それから展示室に入りほんものを前にするとネロの台詞が口をつきそうになる。
「ああ、神様っ僕はもうなにもいりません」
すまんネロ、法悦の中で天に召される君と違い、いけずうずうしいお姉さんはもうちょっとこの地上にいたいし、たぶん君とは違うところへ向かうみたいだ。

というわけで、ルーベンスの肉付きのよい人々・神々を堪能してから美術館を出る。
今度は都美へ。ムンクよ。

ムンク展は並ばず入ったが、大混雑だったな。
わたしは大昔…1989年11月にブリヂストン美術館でムンク版画展を見たが、その時「吸血鬼」「マドンナ」が版違いで延々と並ぶのを見て気持ち悪くなった。

あれからそんなにも歳月が経ったのかとびっくりだが、今回も感想が同じだから、やっぱり元々ムンクが好きではないらしい。
ただ、「叫び」のスノードームは欲しかったので惜しいことをした。なにしろ小一時間くらい並ばないと無理なレジだったのだ。
後に渋谷西武で販売という情報をもらった。新幹線の中で。ヒーっ

子ども図書館でランチしてから「赤い鳥」展をチラ見。
しかしそんなチラ見で済むはずがないので仕切り直しで後日再訪する。
根津から白金台へ。

旧渡辺甚吉邸の見学会にゆく。予め予約していたのでよかった。
ついたら早速建築関係のお仲間に再会しご挨拶ご挨拶。
皆やはり大好きだもんね。
建物、残してくださるとのことで大変ありがたく思う。
そこから「弥生の家」見学会にも誘われたので、急遽翌日の予定を組み替える。

近くの松岡美術館へ入る。
俑の特集をみるのだが、ここでぐるっとパスを購入したところ、馬の俑の絵ハガキをくださった。ありがとう。
けっこう馬が多いなと展示を見ながら改めて気づくなど。
猫の給仕はお元気そう。

庭園美術館へ向かう。
まだ紅葉が足りてないというか、満ちてない。
日本庭園を見てから建物内部に。
エキゾチシズムをメインにした展示は、このアールデコのお屋敷にぴったりだった。
パリという地から見ればアジアもアフリカも全ては…

一旦新橋で下車し、晩御飯。なにやら肉の詰まったワンタンの塩ラーメンを食べる。
好みの味だったな。
わたしは味噌か塩がいいの。しょうゆもとんこつもニガテ。

そこから再び銀座線で上野へ。全く同じルートで今度は東博。
あれだ、デュシャンに大報恩寺に常設に、と回る。
正直なことを書くと、やっぱりデュシャンはわからないし、「泉」はどう考えても男性用便器に他ならないし、アタマがわろうとしても「ムリやー」と悲鳴を上げてきた。
で、そのまま「大報恩寺 快慶と定慶」に行ったら、これまたとんでもないことが発覚。
そう、わたしは千本釈迦堂の大報恩寺とか思わなくて、堀川寺の内からちょっと行ったところの鳴き虎の「報恩寺」やと思い込んでいたのだよ―――――っっっ
ひえーすんませんすんません。

釈迦十大弟子の阿難陀は美男だとか、富楼那は福留孝介選手に似てるなとか、そんなことしか思いつかなかったな。あとは十人の紹介パネル見て「なにやら技能集団の宣伝みたい」と思ったことは内緒です。

宿へは送迎バスがあるのだが、わたしの手がもう少しで触れそうな位置でバスが発車しちまいやがって悲しく20分を待ちました。
定宿へ入ると、あとはぐったり…

二日目。
予定変更して弥生美術館へ先に行く。
一条ゆかり展。これがやっぱりエネルギッシュで面白かった。綺麗だし、かっこいいし。
それに何より人間の生き方の怖さも教わったなあ一条作品からは。

一旦退出して港やさんでお昼食べてから再び入る。
華宵記念室で「魔性の女」、夢二美術館で「明治の絵ハガキ」を楽しんでから、すぐ真裏の「弥生の家」へ。

ここも素晴らしいおうちでした。
お仲間さんからお話を色々伺い、「おおー」と思うことも多く。
いいよねえ。

次に池袋。古本屋さんがまた一軒なくなるという。


そう、700円が210円、8000円が2400円になったのだ…

そこからサンシャインの古代オリエント美術館へ。
シルクロードの新知見の展示。なかなか面白かった。やっぱりシルクロードが好きだなわたし。
どきどきしたよ…

そのあとちょっと池袋らしい本屋二軒回ってこれまた掘り出し物にホクホクしてたんだが、駅に近い店がまさかの半額でびっくりしてたら、大晦日で閉店とな!!!びっくりしたしショックやわ。

タカセでおいしくオムライス食べてから宿に戻り、支度して再び外出。
東博で今度は東洋館。斉白石の書画を見る。
これがまたとてもいいんだよなあ。
なんというか自由な心になると描ける絵、そんなのが集まっていた。

閉館が21時なので長居したが、とりあえずここから次へ。
鴬谷の萩の湯に行くんだが、さすがにお寺の横とか夜の暗い時に通るのムリ。こわい。
それで大回りしつつ長い道を行く。
電気湯やジェットバスで身体をほぐしたよ。きもちよかった。

入谷まで歩く。23時前だがまだまだ歩く人も多くてほっとする。
宿に戻ってからはTVでクィーンの特集を見てちょっと泣く。

二日目ここまで。

最終日。やっぱりぬくいぞ。
東京駅のいつものロッカーに放り込んでから大手町に出て乃木坂へ。

国立新美、ついたら東山魁夷展の行列が凄いことに。
こらあかん。
わたしはボナール展へはいりましたわ。
のびのび猫とか身体洗う裸婦とかみましたが最後の装飾的な作品もよかった。

地下でお弁当食べたが親切したので気分もいい。
さて東山魁夷へ。

よかったよ。特に京都を描いた小品がよかった。
あとは白馬が好きだ。

初めて相田みつお美術館へ。目的は虹児の展覧会だったが、みつおの人気の一端を垣間見た気がする。
虹児もとてもよかった。

そしてスパンアートギャラリー。


本当にドキドキして緊張のあまりしどろもどろになったわ。
本当に優雅でした・・・

最後は三井へ。少しばかり仏像見てから早めに新幹線の時刻を変える。
楽しいハイカイの後は薄暗い家へ帰るのだ。

今月もとても楽しく過ごせたなあ。東京をハイカイするのは本当に大好きだ。

「江戸絵画への誘い」@頴川美術館

江戸絵画の名品を多く持つ頴川美術館、とてもいい作品を季節に応じて展示する。
小規模だからこそのゆったりしたよさがある展示室で、一人楽しく作品を眺めた。

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茶筅売図 岡田米山人  爺さんが何やら歌いながらふくべを打ち鳴らしつつ茶筅を売り歩く姿。これは年の瀬に新年用の茶筅を売る姿だそう。
楽しそうな様子がいい。やっぱり物売りは愛想が大切なのは昔も今も変わらない。特に関西では。
歌詞を挙げる。
「ふくべ打ち鳴らし あなた方らはてむころり かなた方らはてむころり 茶筅めせめせと売り歩き 柳は緑、花は紅のいろいろ」
75翁 米山人写

足柄吹笙図 田能村直入・篠崎小竹賛 1844 カラフルな絵。新羅三郎が師匠から学んだ秘曲をその師匠の息子・豊原時秋に伝授する。桜の下での演奏。
「後三年の役」のエピソードの一つ。

養老瀑図 高久隆古  大和絵+南画な作風。ヒトビトはなぜか平安風な装いである。まあ大和絵やしなあ。

人物図 呉春・柴田義董・皆川淇園賛  子福者で名高い郭子儀を描いているそう。巨大な老人を呉春、その隣の小柄で何故か腹の出ているのと子供は柴田。これは吉祥画で、賛にはその依頼主が古希を迎えたことが示されてている。

漁樵図 岡本豊彦  樵はわりと老人で大量の柴を集めた後でほっと一息中。通りかかった漁師は若い奴のようで、「あっち」となにか指さしているよう。
実際に会話している様子なのだが、かれらの話はここまでは伝わらない。

嵐山桜花満開図 松村景文  けっこうロングで橋を中心に。対岸の山には松がかなり目立つ。岸辺に桜が並ぶ。この時期の嵐山には行かないからあれだが、往時も凄い人出だったろう。それをこのように静謐に描くところが四条派の情緒纏綿たるところ。

どうでもいいが、情緒纏綿という古語を使うのも、この絵が江戸時代のだからだが、しかしそもそも情緒纏綿という言葉自体江戸時代に使われていたかどうか。
むしろ明治から使われだした言葉ではないだろうか。
昭和戦前までに生まれた人までが自然と使える言葉ではないのか。
用例集を見てもそんな気がしてきた。あえて古語を使いたがる人は措いても。
http://yourei.jp/情緒纏綿

秋夜景図 松村景文  墨の濃淡で描かれている。満月は朧に、その下に繁茂する秋草達。
わたしは薄かと思ったが、「オヒシバ(雄日芝)」という草が揺れ、そのそばにはカヤツリグサも。そしてツユクサもあり、鈴虫が鳴く。
オヒシバとはなんぞやと調べたら、「あー、あれか」とわかった。そう、あれ。

芭蕉野菊図 山本梅逸  破れ芭蕉に太湖石。そこで雀ならぬツグミが飛んだり跳ねたり。

樹下煎茶図 中村竹渓  竹洞の子。彼らの絵はこの頴川美術館で知ったわけだが、息子のこの絵は初見。父親に習っただけに煎茶もばっちり。高士らしきおじさんがのんべんだらりと樹下で煎茶道具と共にいる。

雨中嵐山図 塩川文麟  よっぽど大雨らしくゴーーーっという感じで全体が雨でおおわれている。橋を慌てて渡ろうとする人々の姿が小さく描かれている。傘で隠れた人々が。

花火線香図 岡本豊彦  これが実に良かった。しーんと薄暗い中に花菖蒲の描かれた団扇と香炉があり、そこで立てるタイプの線香花火が静かにパチパチ…金色の光を放つ。

浪花百景のうち25枚が出ていた。
2013年にここで「浪花百景 なにわの賑わい」展が開催されたが、今回は前後期に分けての展示。
当時の感想はこちら

四天王寺、雑魚場、堂島、住吉っさん、生玉、高津、桜ノ宮、天満、高麗橋の三井…
多くの名所が描かれている。
ここで一枚取り上げよう。
四天王寺合法辻
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雪の中、御高祖頭巾の女の後ろ姿。
以前もわたしは芝居の玉手御前(お辻)のようだと思った。
今回、解説にも彼女のことが挙げられていた。
お辻の献身、お辻の(秘められた)愛。
絵の右端には閻魔堂がみえる。
この閻魔堂は頭痛によく効くそうだ。

なお浪花百景はこちらで全数が見れるようだ。

11/30まで。

天理図書館「小泉八雲ラフカディオ・ハーン」展

天理図書館の貴重書の展示はいつもありがたく思っている。
今期は小泉八雲の仕事の紹介。
タイトルは「小泉八雲ラフカディオ・ハーン」展。
名前そのままを使用。
ハーンが小泉八雲になって既に122年が過ぎ、かれが天に帰ってからも百年以上が過ぎている。
しかし今なお小泉八雲もしくはラフカディオ・ハーンの人気は高い。
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読者が最初に読むのが「怪談」であることはたぶん間違いないと思う。
平井呈一または上田和夫らを始めとする翻訳者の仕事はいずれも素晴らしく、ドキドキしながら怖い話を読みふけるのだ。
そして「もっと読みたい」という気持ちがわいてくると、次には「骨董」「仏の畑の落穂」「日本人の心」「神々の首都」などの著作からピックアップされて編まれた作品を読むことになり、そこに現れた八雲の「小さな生き物への優しさ」=思いやりを知ることになる。
そうなるともう離れがたくなる。

わたしなども今も折々八雲の著作を読みふける。
手元にあるのは講談社や新潮社の本だが、重複する作品も多い。
その時には翻訳者の個性の違いをも楽しむことになる。
いずれもラフカディオ・ハーンまたは小泉八雲の書こうとしていたことを正しく伝えようとしており、決して妙な改変などはしない。

中学生レベルの英語で原文も読み通すことが出来る。
晦渋な言い回しなどはなく、わかりやすい言葉を綴るのは、かれが新聞記者として世に出たからだと思う。
そしてかれは教師でもあった。
どの文もとてもわかりやすく、いい文章なのだ。
「むじな」の原文を読んだとき、そのことを思った。
また、日本語をも原文に取り込んでいる。
「耳なし芳一」で亡霊の武者が「開門!!」と呼ばわるシーンで原文は”Kwaimon!!”
…凄い迫力である。
Open the gate!!では到底この重々しさは出ない。
(むろん「開けゴマ」ではあかんのである。)
かっこいいとしか言いようがない。

小泉八雲ファンとしてわくわくしながら天理へ向かった。
銀杏の美しい道を進み、図書館へ入り展示室で原稿を目の当たりにした時、とても興奮した。
嬉しさがあふれ出すのを止めないまま、展示を見る。

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 『ラフカディオ・ハーンの初版本カタログ付 小伝』 1933  教え子の大谷青年の求めに応じての自製。

「夢魔の感触」零葉 自筆草稿  少しばかり怖そうな挿絵が入る。幼少期に「視た」ものを晩年の「影」に記したそう。

B.H. チェンバレン宛書簡[1894年8月17日付]  恩人であるチェンバレンへの手紙のあて先は箱根の富士屋ホテルだった。
・カーナボン城のイーグルタワーからの眺め(これについてはwikiに画像がある。)
・テオフィル・ゴーティエの作品の話
・昔乳母と過ごした先で見た極東の美しい本について
詳しい内容はわからないが、こうして箇条書きにすると、ハーンの描いた世界の一端がみえるようだと思った。

ジャーナリスト・ハーンの仕事も紹介されている。
『シンシナティ・エンクワイアラー』1873年5月1日-8月31日号  何かというと「皮革製作所殺人事件」の記事。細かい英文なので読み切れないが、国は違うが、雰囲気的にホームズが呼ばれそうな予感のする事件ぽい。

サン・マロ」『ハーパーズ・ウィークリー』1883.3.31  この「サン・マロ」とはミシシッピ川下流にあったフィリピン人の村のこと。調べると1915年にハリケーン被害を受けるまで存在していたようだ。ハーンの紹介記事により、この村とそこに住まう人々が知られることになったそう。

「ニューオーリンズ万国博覧会」 『ハーパーズ・ウィークリー』1885.1.31  この時ハーンは日本館をしょっちゅう訪問していたそう。そしてそこで官僚の服部一三と知り合う。  
この服部一三という人は内務官僚として有能なだけでなく、浮世絵コレクターとして当時著名な人物で、上村松園らがそのコレクションを見に行ってたそう。それらは帝室博物館で保管されていたというが、今はどうなったのだろう。

ハーンは翻訳もしていた。
T. ゴーチェ著 L. ハーン訳 『クレオパトラの一夜とその他幻想物語集』 これは名訳だったそうで、漱石も芥川も愛読していたらしい。時代性が伝わる話である。
他に『クラリモンド』もある。カトリックの僧侶と吸血鬼との恋を描いた『死霊の恋』である。
八雲、漱石、芥川の幻想文学へのときめきが伝わってくる。

『異邦文学残葉』1884  エジプト、南太平洋、インド、イスラム、イヌイットの口承文学をまとめたもの。…読んでみたい。
『中国霊異談』1887  こちらは中国のもの。こうしてみるとアンソロジーを編むのもとてもうまいひとなのがわかる。

『ニューオーリンズ周辺の歴史スケッチと案内』1885  なんと今も人気のガイドブックらしい。無論実際にはいろいろ変化しているからどうかは知らないが、歴史的な場所がそこに生きてある限りは、このガイドブックは確かに不滅かもしれない。

『ゴンボ・ゼーブ』1885  フランス系クレオールに伝わることわざを集めた本。本のタイトルはクレオール料理の名前。
そしてそのクレオール料理のレシピ本も同年刊行。
蟹、海老入りの牛肉とハムの煮込みなど。
大学の時、友人と松江の八雲の足跡を追うツアーに参加した。翌日は足立美術館に行ったのだが、松江のホテルではニューオーリンズの料理が出た。ハーンが食べたものということでのメニュー。
全然関係ないが、そのときのツアコンのオジサンがあまりに横柄で何を食べたか忘れてしまうほどだった。惜しいことをしたなあ。

 二冊の完全オリジナル小説がある。 
 『チータ』1889  少女チータの数奇な運命。
 『ユーマ』1890  若い黒人の乳母ユーマの自己犠牲の話。

いよいよ日本へと道が開く。
恐らくこれらの本はよい参考書となったのだと思われる。
B.H. チェンバレン訳『古事記』[1882]  これには古代日本での神話の舞台となったちを示した地図もついていた。九州から大体佐渡島辺りまでの地域が描かれている。
ハーンはそれを見て「神々の首都」たる出雲の国へ向かおうとしたのだ。

P.ローウェル著『極東の魂』1888  
明治の日本の<不思議さ>は外国人のみならず、百年後の子孫たる我々をも魅了する。

「日本への冬の旅」 『ハーパーズ・ニュー・マンスリー・マガジン』1890.11月号  船に乗り横浜へ入港するまで。

M.C. マクドナルド宛書簡 1900年1月21日付  この人は後に横浜のグランドホテル(ニューグランドホテルの前身)を経営し、ハーンの友として未亡人となった節子さんらを支えたそうだ。

さていよいよ…
 『知られぬ日本の面影』1894 2巻  表紙が竹の絵なので「竹の本」とハーンに呼ばれた。
この本を手始めに小泉八雲の本は植物が表紙のものと決まってゆくようだった。

W.B. メイソン宛書簡 1892年9月25日付  メイソンの妻は日本人シカ子。それもあり仲良くした。ここでは作家キプリングの鎌倉大仏の記事を評価している。
ところで今調べると、キプリングは92年に二度目の来日をしているが「鎌倉の大仏」という詩を書いた、とある。現物を知らないのでそのあたりのことはわたしにはわからない。
しかし改めてキプリングが同時代の人だということを知る。

小豆澤八三郎宛書簡[1894年1月13日付]  生徒で特に仲が良かったそう。

B.H. チェンバレン宛書簡 1894年3月4日付  ここには日本での自由な暮らしへについて記し、しきたりを守ったり東京で暮らすことへの嫌悪についても。

『東の国から』1895  心中する 「赤い婚礼」や大津事件の「勇子」の話など。
『心』1896
この辺りの作品は今もピックアップして別なものと共に一冊に編み直されて刊行されたりしている。

東京での生活へ。
小泉八雲にとても親切だった東京帝国大學の文科教授で大学長・外山正一との親しいやりとりがいくつか展示されている。
また、学生だった上田敏宛書簡もある。上田を讃えた内容。新体詩というものの鮮やかさを八雲も実感したのだろう。

『仏の畑の落穂』c1897  好きな本…タイトルも「仏陀の国の落穂」とどちらもいい。
『異国風物と回顧』1898  表紙はへちま。
『霊の日本』1899  「梅の本」と呼ばれた。
所載の「破片」零葉 自筆草稿 これはフェノロサ夫人メアリの聞き書きを元にしたもの。仏教説話。
『影』1900  「蓮の本」
『日本雑記』1901 「桜の本」ここには名作がいくつかある。恐怖の 「破られた約束」零葉集 自筆草稿などなど
『骨董』1902 表紙には鳳凰のデザイン。
『怪談』1904 でた!!

ちりめん本もある。
 『猫を描いた少年』明治31年8月10日  表紙は鈴木華邨。屏風に描かれる猫
 『団子をなくしたお婆さん』明治35年6月1日  鼠浄土の話。
 『ちんちん小袴』明治36年3月15日  ものぐさな若妻がそのしっぺ返しをいえば付喪神から受ける話。
 『若返りの泉』大正11年12月10日  挿絵も面白かった。

家族への愛情もとても強かったのが印象的。
写真資料もよかった。次男巌のスーツ姿もある。この人は京大から桃山中学の教師となり40歳で没。
可愛いイラストを最後に紹介する。
イメージ (1455)
黒足袋に草履の子どものアンヨである。
小泉家の子どもの足がモデルだそうだ。

11/11までの展示だったが、見に行けて本当に良かった。

TARTAN スコットランドからの贈り物 タータン

秋の恒例「東灘アートマンス」の一環で神戸ファッション美術館へ向かった。
「タータン」展が11/11までなので間に合ってよかったわけだが、この展覧会で初めて知ることがあまりに多く、その情報量の多さに圧倒された。
まずこのチラシでタータンの質感を感じよう。
イメージ (1463)
上質の染織が圧してくる…

わたしは「タータン」とチェックとが別物とは全く知らなかった。
この展覧会でホントに初めて知った。びっくりしたなあ。



タータンの歴史や意義などについてはWikiがたいへんよい説明をしている。
2018.10.8に更新されているところを見ると、この展覧会とリンクすることを考えたひとが丁寧に記されたのかもしれない。

イメージ (1464)

圧巻なのはタータンの一覧。一つずつ全部違う。こんなに違うのか、とそれにもビックリしたし、判別できないものもあるが(わたしの注意不足だな)、とにかく現物がずらーーーーーっに圧倒される。
こんなにもたくさんのタータンがあるのか…
クラン・タータン…氏族の違いのタータン。実に多くの種類があり、ここでは52種のタータンが出ていた。
ところでわたしが「クラン」=氏族というのを知ったのは実は「バッフ・クラン」からなのでした。
ディストリクト・タータン…地方に根差すタータン。32種
ミリタリー・タータン…「禁止令」が出ていた時も軍隊だけは許されていたそう。11種

今更だが、タータンはスコットランドのハイランド地方で発達した織物だが、だからこそイングランドとは違うぞという気概が込められていたようだった。
「ジャマバイトの反乱」を鎮圧されたスコットランドはタータン禁止令を受けて、軍隊以外は35年間着れなくなったそう。
1746-1782
しかしヴィクトリア女王がタータン好きで、1851年には子供らに着せ、1855年には夫君アルバート公がタータンを着てパリへ公式訪問ということもあった。アルバート公のタータン姿には世界も驚いたらしい。
膝小僧を出したからというのではなく、イングランドの女王の夫がスコットランドの魂をということだ。

そしてロイヤル・タータンという特殊なものも生まれる。
王室以外は身につけてはいけないタータンなのだ。
こういうのをみると古代日本の皇族や清朝までの皇帝の衣裳の色のことを思いだす。

日本のコーポレート・タータンも紹介されていた。
学生服のトンボ・タータン、これはもう親しみやすい。
明治末には日本にもタータンが入ってきたのだが、こういう柄物は日本人に好まれやすいと改めて思った。
戦前のサンデー毎日の表紙を飾る女優たちの衣裳もタータンだったりする。
そしてなによりハマトラやVANがあるではないか。
これでわたしは「タータン・チェック」はトラッドの王道だ位の認識が出来上がっていたのだった。

元々がスコットランドのだというくらいは知っていた。
それはバグパイプを演奏する人が着ていたからだ。
それはたぶん「チェルシー」のCMから知ったことかと思う。
そして「キャンディ・キャンディ」も。
作中で「丘の上の王子様」はスコットランド人の正装をして現れる。
名門アードレー家の養女となったキャンディも一族のお披露目の時にタータンを着る。
それでわたしも覚えたのだった。

マネキンの着る様々なタータンも素敵だが、この展覧会をみたことで、タータンへの尊敬が生まれてきた。
ニガテだったが、わたしも着てみたいと思った。

紙資料ではジョン・ケイの風刺画がたくさんある。
18世紀後半の銅版画家でハイランドの人々を多く描いた。
様々な風刺のきいた絵の他に意外と真面目な肖像画もある。
自画像は巨大な黒猫やホメロス像と一緒のもの。
ジャマバイトの反乱の敗残で錯乱した大地主の奇行、職人組合長でありながら盗賊だった男(後に「ジキル博士とハイド氏」が書かれた時、モデルはこの男だと皆に目された)、風刺画家仲間ドゥ・ラトゥールは眼鏡をかけた猫と一緒の図…などなど

ほかにジョルジュ・ルバーブ、バルビエらのファッション・プレートもあった。みんなタータンを着ている。
こんな絵もある。
イメージ (1465)
右の猫はきちんと正装し、あざらしの毛皮つきスポーランも腰に下げている。

とても面白い展覧会だった。
11/11まで。グッズも素敵なものがとても多い。


建国1100年 高麗 金属工芸の輝きと信仰 その2

続き。
梵鐘をみる。
イメージ (1439)

梵鐘と言えば印象的なものがいくつかある。
・道成寺の梵鐘 安珍が清姫から逃れようと隠れた梵鐘
・弁慶が引きずって谷底に投げ落とした梵鐘
・方広寺の「国家安康君臣豊楽」の梵鐘
・「獄門島」の金属供出から帰ってきた梵鐘
・「夜叉が池」の人間と白雪姫ら妖怪との約定の梵鐘
などなど。

梵鐘にまつわる物語はなかなか多い。
中でも三井寺(園城寺)には梵鐘にまつわる伝承がとても多い。弁慶の鐘もそうだし、他にも少しばかり怖い話もある。
二次大戦で供出されたから現物はないが「童子因縁鐘」などはそれ。
さる富豪に勧進を願ったら「カネはないが子供なら寄進する」との返事。やがて鋳造できた鐘に三人の子供の姿が浮かび上がっている。そしてその日、あの「子供なら寄進する」と言い放った富豪の家から三人の子供が行方不明になったという…
今回はその三井寺から高麗の鐘が来ている。
総高77.2cm・身高57.8cm 口径50.0
太平12年(1032)銘があるが、これは遼に服属中の時代で、しかしながら遼に対し腹立ちがあるのであえてこの年号を使っているそう。
つまり「太平」は十年までなのに12年と刻むところにその思いが示されているのだ。
本体にはほかにこのような文字が見える。
「飛天青鳧大寺」
この鐘は戦前は旧国宝に指定されていたそう。
9つの乳並びは高麗特有だそうで、胴には飛天の姿。首回りや裾には丁寧な文様が入る。
イメージ (1440)

上部に龍頭と円筒形の旗挿があるが、その旗挿を「甬」ユウというそう。知らないことなので覚えよう。
梵鐘の構造と部位の説明についてはわりと調べやすいが、これまで調べること自体、考えもしなかった。

東博の梵鐘は高さ50cmほどだが、こちらは明昌七年(1196)銘でもう中国は金の時代になった頃のもの。遼は滅びてしまった。この梵鐘は徳島のお寺に伝わっていたそう。

高麗美術館のは更に後年のもの。大国・中国の政変は朝鮮を大きく揺るがす。

金鼓 1213年 いわゆる「鰐口」。仏具。制作者の名前も残っている。

阿弥陀八大菩薩図  高麗仏画らしさの強い絵。手前の完全にカメラ目線の二人のおじさん仏は観音と勢至菩薩。女性風ではなくおじさん度の高い二人。奥にはお地蔵さんも。そして阿弥陀さんは高麗らしく赤地の衣に金糸で〇柄が。

イメージ (1443)

4.装いの美-装身具・鏡・飲食器
古代の東アジアの美の粋はまだ続いていた。
共通する美意識の基は仏教の荘厳なのか。

半島を統一した新羅も滅び、高麗が誕生する。
同時期の日本は鎖国し、中国とも朝鮮半島とも文化的交流をもたなかった。
高麗の美を平安時代の人は知らなかったことになる。

新羅の金製垂飾の愛らしさ。8対あるがいずれも丁寧な作り。古墳時代の飾り物を思う。
あれから400年以上たったが、こちらではこの様式は活きている。

高麗の装飾品を見る。
銀製鍍金腕釧 わんせんとは腕輪のこと。釧などと言う字は「釧路」以外ではまあ使わないなあ。読み方もここでは「セン」。つくりが川だからなあ。
とても細い腕輪。どこに嵌めるのかと思うほどに細い。

とても可愛い金製の飾り金具が現れた。
蓮に亀。これは対もので左右の別がある。
そして梅文も。
イメージ (1446)

イメージ (1437)
実物はとても小さい。
亀が2cm、梅に至っては1.65cmだ。すごくちいさい。
けれどこの拡大画像でわかるようにとても精巧。

銀製鍍金の刀鞘や針筒などが並ぶ。
次は銅製鋳造の鏡。

菊花や唐草文、双雲鶴、鯉も鳳も龍もツイン。
双龍文鏡 立体的で龍の胴回りが蛇のようでなんだか生臭さそうなリアリズムの拵えだった。肉感的な龍がうずくまる鏡。

解説を読んでいてわからなかったことがある。
「金鏡の舶載鏡または踏み返し」とある。どういうことを指すのかがわからない。
いや、舶載鏡はわかる。日本で出土する鏡のうち,中国で製作され日本に伝来したものをさしている。
わたしがわからないのは「踏み返し」。これは何を言うのか。
また調べてみよう、

イメージ (1436)

波濤船舶文鏡  この右肩のマカラ魚たちが可愛い。
イメージ (1441)
波の中から何が現れるか知れたものではないな…

最後にスプーンと箸が登場。
銀の匙と銅の箸ではなく、どちらも銅製。今も使われている物と形は同じ。ああ…冷麺が食べたくなってきた。

とても良いものを見て気分は上々。
他にも素敵な作品がいっぱいある。
11/11まで。

建国1100年 高麗 金属工芸の輝きと信仰 その1

大和文華館で「建国1100年 高麗 金属工芸の輝きと信仰」展が開催されている。
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丁度いま東洋陶磁美術館でも「高麗青磁」展が開催されているので、高麗で生まれた名品を特別展示する展覧会がこの秋を彩っている。
既に東洋陶磁美術館「高麗青磁」の美に溺れ、その顛末はここに記している。
感想 その1  その2

「高麗」と書いて「こうりょう」と読ませる「高麗美術館」、奈良の「寧楽美術館」もまた高麗時代の文物を中心にした展示をしている。
いずれも魅力的な内容である。

もともと関西は戦前から中国、朝鮮の美品を愛してきたので、名品がこのように他の地より多くあるようだ。
そしてこの大和文華館の展示には徳川美術館、東京国立博物館、奈良国立博物館、根津美術館、京都国立博物館、大阪歴史博物館といった名だたる美術館が協力して、素晴らしい作品を貸し出してくれて、大和文華館では1100年前の華麗な文化の華が咲きこぼれているのだった。

個人的なことを言えば、わたしはやきものはやはり高麗青磁が最高峰だと思っている。
昭和の末頃、オジが数年間技術提携で向こうに行っていたが、帰国の度に素晴らしい土産をもたらしてくれた。
その中には今出来の高麗青磁の模本がいくつもあり、これは今みても本当に見事な出来栄えで、惚れ惚れする。
千数百年前の技能の美を後世の者が愛で、往時の華やかな世を想う。
良い展覧会が開かれてとても嬉しい。

展示室に入るとⅩ形の何か掛物らしきものがあった。前掲のチラシの下部のそれである。
鉄地金銀象嵌鏡架 愛知県美術館(木村定三コレクション)  ところどころ廃れているが、しかしかつての美は多くとどまり、往時の豪奢な様子を思わせた。
だからこそあの木村コレクションのひとつなのだろう。
金属製品の劣化は不思議な面白さを見せることが多い。
これは鉄に金銀を象嵌しているが、銀製鍍金も施されているので錆などはない。

金属製品の変容は「経年劣化」の一言では表現できないと思う。
たとえば釜である。
釜は底が朽ちると新しく一回り小さな底に付け替える。
その処置を受けて復活し、愛らしい「尾垂」となる。可愛くてならない。
そうはせず腐食したまま置いたとする。
すると赤黒く朽ち始める。その壊れが目を惹く。
釜がゆっくり滅びてゆく姿を見るとき、九相図をみるような無常感と、ある種のときめきとを覚える。
それだけではない。
青銅が本来の色を失い、緑青に全身を覆われたとき、新たな美を獲得する。
輝きを捨てたことで静謐な美が生ずる。

カナモノは死なない。
業火により死と再生とを見せもする。

1. 花開く高麗の文化
大方広仏華厳経 10/24迄に行けば徳川美術館所蔵の巻4を見れたが、あいにく行けなかった。
今回は大和文華館所蔵のなじみの35と36である。
イメージ (1444)
紺紙金泥着色。
二年前、白に金の物凄く綺麗なものをみた。同時に褐紙金字の橡色のもみた。
高麗仏画-香りたつ装飾美
当時の感想はこちら

しかし普通に見てきたのはここの紺紙に金の絵の華厳経の見返し絵なのだ。
丁度十年前にわたしはこう書いている。
「各帖31.0×11.0の連なり。表紙絵は仏楽土。釈迦だけ肉身を彩色されている。多くの仏たちは金の線描。文字は肉太で雄渾ながら、まとまっている。なかなか迫力があった。前田家旧蔵というが、なんとなく納得する。」
宋元と高麗 東洋古典美の誕生 2
当時の感想はこちら

今回は描かれた絵の意味を追った。
…何故か水に流される人。冶金シーンもあるそう。これらは教わらないとわからないままだった。
イメージ (1438)
そうか、冶金か。びっくりした。
なるほど、今回の展覧会が金属工芸メインなのとリンクするな。

この章ではほかに青磁象嵌の可愛い器、数年前に大和文華館に仲間入りした菊唐草文小箱などがあった。
12080101.jpg 小さくて可愛い。

2.信仰の美―舎利容器の系譜
統一新羅の金堂舎利容器一式がある。
鍛造である。中には鍍金されたものもある。塔がずらりと並ぶ文様のものもある。

塔型の舎利容器だけでなく、どうもミニチュアの家に見えるものもあった。明器とは違うがこうしたミニチュア風な形のものはどういった考えで選ばれたのだろう。

金銅八角舎利容器 1323 元と関係が深かったころの容器だとある。年号の刻みが「至治三年」1323銘。そこからわかること。

イメージ (1442)

3.信仰の美―高麗の荘厳具
鍛造、鍍金、鋳造といった金属工芸の技術オンパレード。たのしい。

高麗は観音信仰の国だった。それは前述の「高麗仏画」展でも示されている。
だから金属工芸も観音にゆかりの品々が少なくない。

銀製鍍金観音菩薩・毘沙門天像小仏龕 東京国立博物館
イメージ (1445)
二人仲良く並んでこの中にいる。実はサイズはとても小さい。5.6x4.3x0.85というミニサイズ。それでこの濃やかな表現。
東アジアの精密さにはいつも感心する。ガワは銀製、鍛造、中は鍍金。

観音と毘沙門のコンビは人気だったのか、他にもいくつかあった。どういう信仰の流れの中でのことなのだろう。

五鈷鈴が二点。銅製と金銅製。どちらも鈴の部分に四天王図がある。
観音のみならず四天王もとても好かれたらしいな…

水月観音図 大和文華館  ここのは善財童子がとくに愛らしい。

水月観音とゆかりの浄瓶が並ぶ。
銅製銀象嵌柳水禽文浄瓶 zen638.jpg

zen638-1.jpg

線描がとても素晴らしい。

仙盞形水瓶  注ぎ口に蓋がついている物。…潔癖症の泉鏡花もこれなら喜んだかもしれないなあ。。。

志貴形水瓶  そう、信貴山にこの形のがあったことからの命名。文化遺産オンラインの説明ではこうある。
「頸部が鼓を立てたような形を呈し、胴部はふっくらとした円筒形で、底に低い高台を設けた水瓶。長い注ぎ口と把手を有し、蓋には獅子形の鈕を据えている。」

よいものが次々と現れるので、続きは次回。

華麗なるササン王朝―正倉院宝物の源流―

天理参考館で「華麗なるササン王朝―正倉院宝物の源流―」をみた。
丁度正倉院展に合わせての展示で、これはなんとしても見に行かねばと朝も早くから天理を目指してくてくてくてく…
がんばって出かけた甲斐があり、よい展示を見ることが出来た。
イメージ (1432)

ササン朝の硬貨をみる。日本のそれとは違うカンカンコンコン打つお金である。
打刻方式。基本的に当時の王様や英雄などが刻まれている。
全然関係ないが、青池保子「エロイカより愛をこめて」の守銭奴ジェイムズ君をメインキャラに据えた中世が舞台の番外編では、王位を簒奪したジェイムズ君は夜ごとコキンコキンと打刻し続けていた。
極端なたとえだが、ああいう形で古代や中世の打刻貨幣は作られていたのだ。

ガラス製品が並ぶ。
長く土中にあったガラスは化学変化を起こし、銀化し、不思議な様相を見せる。
あるものは玉虫色に輝き、あるものは石のようになる。
意図せぬ変化は思いがけない美をみせる。
その変容したガラスが並ぶ様子をみて、ガラスの終焉のようだと思った。
最期に近づくほど逆に美の純度が増す。

切子ガラスランプ 1 4~5世紀  杯のように見える。ナトロンガラスというそうだ。カッティングはササン朝だがどうやらローマのものらしい。

円形切子ガラス碗がずらりと並ぶ。カッティングが同じなので正倉院のガラス椀ととても良く似ている。
しかし正倉院のガラスは現代でもガラス性を保っている。
これは早いうちから「伝世品」として正倉院に収められ、土とは無縁でいたからだそう。
土に入ることで珪酸や鉄分などが華麗な(あるいは退嬰的な)変化をもたらすが、千年以上作られた当時の姿のままでいる正倉院のガラス碗は、やはり唯一無二の宝なのだ。

「海中道の正倉院」と称えられる沖ノ島にもガラス碗があったようで、その破片が今は残るそう。
沖ノ島の宝は本来は一切外部に出してはいけないそうだが…

浮出円形切子ガラス碗 この筒状の浮出しを見ると、どうしても仁徳天皇陵の石棺模型を思い出す。明治六年に調査で入った際のスケッチが堺市博物館にあり、それを基にして模型が作られている。なにかしら不思議な合致というか、あまり考え続けたくないようなうすら寒い恐怖を感じる。

イメージ (1435)

青銅器も案外多い。
紀元前の古代中国の青銅器に親しみを懐いているのでササン朝の青銅器はそれらの遥か後輩だと思い、可愛く思う。

紀元後数百年たった頃に作られた工芸品は華麗なものが目に付く。武器も儀礼用のものなのか実際の戦闘用のものなのかわたしには区別がつかないが、金製の武具を見るとやっぱり「黄金聖闘士」をちらりと思い出す。

指輪も耳飾りなどは華麗で、印章付きの指輪も豪奢。
そうそう、わたしが「印章付き指輪」を知ったのはエリザベス一世治世下のイングランドを舞台にした山本鈴美香「七つの黄金郷」からだった。新法王に無理を言って「黄金の聖書」と呼ばれる指輪を賜る話があり、それからかな。

ササン朝の歴史についても解説があった。
色々と苦労をしたようで、最後の王に至っては亡命し、可哀想がられてシルクロードのどこかの司令になったが、結局殺されたそうだ。
それでこれは「世界史の窓」からの引用だが、そもそもササン朝ペルシアとは何かというと、こういう説明がある。
「古代のイランにおいて、紀元後226年、パルティアに替わって登場した王朝。パルティアが遊牧イラン人主体であったのに対し、ササン朝は農耕イラン人であるペルシア人が建国した。」

そのパルティアについてもこの展覧会で少しばかり紹介がある。
パルティアン・ショットの図様である。そしてこれは法隆寺や正倉院に残る「獅子狩文」の図様でもある。

ここにあるのは二点。
鍍金帝王狩猟文銀皿 7~8世紀
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実はこの図様はササン朝が滅びてから人気になった柄だそう。
「今終わったものが一番新しい」という名言を吐いた人もいるが、なんとなく納得である。
ちょっとこの人の顎が長すぎて高畑勲監督の「かぐや姫の物語」の帝を思い出した。

鉛製胡瓶 唐  飛ぶ鳥に狙いをつける騎馬の男装女子図。いかにも唐らしい。

いい感じの器も多く、白鶴美術館にあるのと同形のものがいくつかあった。
それにしてもこの文様は何を意味しているのだろうか。
イメージ (1434)

他には唐三彩がある。
やはりこの華やかな国際交流の時代の遺宝は今なお煌めきを失わない。
いいものをみせてもらった。
11/26まで。

第70回 正倉院展にときめく

毎秋恒例の楽しみ「正倉院展」に今年も参りましたわー。
もう本当に今年も楽しかった。
特に今年は螺鈿キラキラが多くて、目の中にキラキラが飛び込んできて、こちらの目もキラキラになりましたわー☆
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この玳瑁螺鈿八角箱のきらきらにまずやられます。
もう本当に綺麗で綺麗で。
そしてじっくり眺めて気づいたのは、鳥も数種いて、それぞれ違う様子を見せているということ。
イメージ (1430)
ここで少なくとも3種の鳥がいることがわかるね。みんなそれぞれ違う。
花が本当に綺麗。
唐でこの表現が生まれ、日本にきたのが、今では本国にはほぼないというのもすごい話。
日本に「正倉院」があってよかった。

イメージ (1423)

海獣葡萄鏡のきらきらしい銀色鏡もあった。動物たちの姿も葡萄も丁寧に作りこまれている。緑青も全然ない。

リストはいつも丁寧でありがたい。こんな感じです。
古人鳥夾纈屛風( こじんとりきょうけちのびょうぶ) 板締め染めの屛風 1扇 縦149.2 横56.7 本地縦141.0 横50.3
呼び名とその読み方、どんなものか、サイズ と4項目に更にどの倉のか前回出品はいつかまである。
わかりやすくて助かる。
それでこの屏風、大きい葉っぱをばっさばっさと描いている。なかなかかっこいい。
その屏風の袋も出ていて、一つは立体的に展示、一つは開いて展示。手描き花柄のシンプルな麻袋。

白布に至っては12mもある。使い道未定の布。

山水図  松らしき木々がちょろちょろ…

イメージ (1425)

可愛い靴もある。2足。
繡線鞋 ぬいのせんがい 刺繡かざりのくつ 1両 長27.5 幅7.6 踵高3.4
繡線鞋 ぬいのせんがい 刺繡かざりのくつ 1両 長27.6 幅8.2 踵高3.3
どちらも爪先の上の部分にリボン飾りがあり、意外に現代的な構造。
可愛かった。欲しいくらい。

そしてこちら。
平螺鈿背八角鏡 へいらでんはいのはっかくきょう 2008年以来。
わたし個人は最初に見たのは学生の時で、それこそ最初にみた正倉院展だった。
ガラスに張り付いたなあ。
イメージ (1431)
素晴らしい…今回も混んだ中だがとてもじっくり眺めれた。

何種か鉢があり形は深鉢でシンプル。重ねるように少しずつサイズが違うのもあった。
シマシマの磁鉢、黒い漆鉢、銀鉢などなど。

沈香木画箱 じんこうもくがのはこ 献物箱 1合 縦12.0 横33.0 高8.9  これは木象嵌でとてもよかった。
一枚一枚に鳥の絵が入ってたりして。

犀の角の如意もある。
イメージ (1424)
その先端。とてもよく出来ている。

面白かったのは銀の匙。
ばらのもあるが、一括りにされたサラのがあった。実用的なんだなあ。
あとは貝殻を匙にしたのもあった。

お琴もある。伽耶琴とはまた違うらしい。
新羅琴という。サイズ全長154.2 幅上方で30.6 羊耳型幅37.0
イメージ (1426)
立派な琴だった。

琴は他にも桐のがあり、類例のないものだとか。

燈心切の専用はさみもある。
先端が実は半筒になっていた。
白銅剪子 はくどうのせんし 灯明の芯切りばさみ 1挺 長22.6 重183.6
昔の人はこれを使って燈心を切ってたのだ。
瞿佑の「剪燈新話」せんとうしんわ もこれかな。

陶磁器の鼓の大きさにもビックリ。三彩。意外だった。

巻物の軸ばかり集めたものもよかった。ガラス、木製、水晶…文様入りもある。

巻きスカート。色もよく残っている。
錦紫綾紅臈纈絁間縫裳 にしきむらさきあやべにろうけちあしぎぬのまぬいのも 女性用の裳 1腰 現存丈86 腰部幅81
イメージ (1427)
可愛いわ。

彩絵仏像幡 さいえのぶつぞうばん 仏像を描いた幡 1条 全長237 最大幅42.5
これは美仏ばかりでとても綺麗だった。

今回は本当に綺麗なものばかりでしたわ。
ああ、まだキラキラが残っている。
目から心へキラキラがきたわ。
また来年も行こう。

鳥瞰図 空から見る大正 昭和の旅

石神井公園ふるさと文化館で開催中の「鳥瞰図 空から見る大正 昭和の旅」展に行った。
ここの企画展・特別展はいつもとても面白い。
今回は鳥瞰図なので「吉田初三郎作品が見たいな」くらいの気持ちで現地へ向かったのだが、やはりというか、その期待よりはるかに面白い展示を見ることになった。
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工房を率いていたから多くの作品を生み出すことも可能だった初三郎。
全国津々浦々という言葉が誇張でもなんでもなく、実際に訪ねているのもすごい。
「大正の広重」と称えられたのも頷かれる。
違うのは広重の頃になかった乗り物が出来て、日本のみならず東アジアを舞台にできるようになったことか。
初三郎の旅の成果は全て作品に結実する。

「昭和の広重」と謳われた川瀬巴水も多くの旅をし、名品を多く世に贈った。
実際に旅をすることで風景が心に入り込むことは多くの人にもある。
しかしそれを咀嚼し、形に出来る人はそう多くはない。
安藤広重、吉田初三郎、川瀬巴水の三人の描く風景には抒情性が活き、見るものに旅への憧れを懐かせる。
表現はちがっても共通するものがあるので、広重を元祖に「大正の」「昭和の」とそんな風に呼ばれたように思われる。
それは広重の風景がそれほどに人々に愛された証拠であり、初三郎の絵が世に知れ渡った証拠であり、巴水の絵が郷愁を誘う力を持つ証拠であるのだ。

初三郎の絵には楽しさがある。
一カ所だけを描いた絵ではなく、広域図である。
これはむしろ広重にはないもので、中世の寺社参詣図・近世の洛中洛外図こそがその祖だと言えるだろう。
初三郎の新案を練りこんだ鳥瞰図は世の多くの人に受け入れられ、愛された。
皇太子だった昭和天皇が初三郎の鳥観図を開いて「これはいい」と喜んだことも、その人気に拍車をかけた。
その町の詳細を頭に入れつつ、大胆なデフォルメを施し、緯度・経度も少しずらして、とても楽しい町の図・地図を拵える。
彼の作品が愛されたからこそ、現代の旅行ガイドの図面の様式が成立したのだ。

展示は様々な地域を描いた作品が並ぶだけでなく、小さな区域を描いたものも多い。
つまり「沿線案内図」である。
これがまたとても楽しい。楽しいのも当然で、「出かけよう」というキモチを起こさせるために拵えられた作品なのだ。
それを見て「行きたくない」では困るのだ。
だから多少の誇張は当然で、なおかつ遊び心をくすぐるものでなくてはいけない。

実際、観客であるわたしやほかの人々は鳥観図を見ながら「あー、ここはこうだったのか」「あっここ知ってる」などと独り言ちることが多い。
現実の風景や地図を踏まえつつ、目の前にある鳥観図の虚構にも惹かれ、そのあわいを楽しみもするのだ。

西武電鉄の沿線図などはわたしには遠いものでしかなく、どこまでがリアルでどこからが誇張かもわからないが、ただただ楽しく眺める。

初三郎の工房から独立した弟子たちの作品も並び、ご当地の沿線案内図もある。
そうしたところがいかにも石神井公園ふるさと文化館らしくていい。

小さい展示かもしれないが、ここはいつでも楽しい展覧会を見せてくれる。
なお常設室にも少しばかり関連資料があった。

藤澤で見た鳥瞰図の記事はこちら。
「空から見る相模と日本 鳥瞰図の系譜」 @藤澤浮世絵館 その1

この二つの展覧会を見て、改めて吉田初三郎の仕事の多さ・旅の広範囲さに感心した。
鳥瞰図、なんて楽しいのだろう…

11/4まで。
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