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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

「染付 世界に花開く青のうつわ」展に溺れる

染付が好きだ。

これまでしばしばここで書いているので、のっけからこんなことを言うても不思議でもなんでもないと思う。
基本的に磁器が好きで多くの名品を見てきたし、その数十倍以上の駄品や珍品も見たり使ったりしている。
結果として、一流のものでなくとも日常に染付があると、楽しい心持になることを知った。

出光美術館の「染付」展には和のやきものだけでなく、中国の青花、イランの青いやきもの、本歌取りをしたオランダ、ドイツ、フランス…そういった先での模倣も含めての展示だった。
随分以前の出光美術館大阪での「回青 コバルトブルーの世界」展を思い出しもした。
美しい青のやきものをみることで、過去の記憶も蘇る。

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章ごとののタイトルも魅惑的だ。
Ⅰ. 青の揺籃―オリエントの青色世界
Ⅱ. 中国青花磁器の壮麗―景徳鎮官窯と民窯
Ⅲ. 温雅なる青―朝鮮とベトナムの青花
Ⅳ.伊万里と京焼―日本の愛した暮らしの青
Ⅴ.青に響く色彩―豆彩と鍋島
Ⅵ. 旅する染付―青のうつわの世界性

まずその青色の揺籃期へ向かおう。
回青はオリエントから現れたのだから。

紀元前から紀元後に入った頃に作られたマーブル柄の瓶や碗が並ぶ。
青をベースにグラデーションが螺旋を描いていた。そこに白が含まれていたり、見込みにだけ黒が集まっていたりと見ごたえのある不思議な色合いを見せていた。
東地中海地域の古代人は意図してこうした色柄のものを拵えていたのだ。

土の中に長く埋もれることで化学変化が起こり、意図せぬ美をまとうものもある。
エナメルだから、というわけでもなく玉虫色を見せる杯もある。
カメオ様式の、白に青をかぶせて削ったガラスの杯には尾の先がクルリと巻いた鳥が刻まれていた。
尊き青。
青緑のペンダントトップもある。

螢手の鉢がある。中国の様式化と思っていたが、イランにもあったのだ。
イランから始まったのか、同時発生なのかは知らない。

色絵騎馬人物文鉢  こう書くと硬い。「ミナイ手」と呼ばれる色絵。少年のような騎馬の人、馬は疾駆しているようだが、その後方には鳥も止まるという不思議な愛らしさがある。

文様の面白いものがいくつもあった。
女ではないスフィンクス、むしろ開明獣のようなもの、駱駝や象に乗る群像とその頭上に浮かぶ天使、正体不明な獣の背に上る表情のある太陽…
いずれも中世のイランで作られている。
ペルシャの世界観を映したものなのだろうか。

19世紀ペルシャのタイルで面白いものがあった。
多彩邸内遊楽図タイル 女たちが室内でそれぞれ奏楽したり寝そべったりくつろいだりしているが、全員が前髪を銀杏髪にしている。能面の喝食のようである。こういう髪型が流行っていたのだろうか。

星座文様、細密画のような人物画、色彩の美しい十字型タイルなどなど、華やかな青の世界が拡がっていた。

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中国青花磁器の壮麗
明代に回青が齎されたことにより、「青花」が作られるようになった。
景徳鎮窯の際立った青のやきものがこんなに並ぶのは将に壮麗だった。
そして合間合間に清代の翡翠や紫檀に宝石を嵌めた工芸品を置く。
メリハリが生まれて、いよいよ青花の壮麗さが胸に沁みる。

日本からの受注で作られた古染付の渋いもの、祥瑞の愛らしいもの、深い瑠璃色がまるで底のない森のようなものなどがある。
どういった愛され方をしてきたかを想像するのも楽しい。


朝鮮王朝は白磁を尊んだ。
高麗の青磁の美を捨て、白磁を愛した。
白磁の上に慎ましい青でやさしい草花を描いた。
ファンキーな龍も描いた。
目鼻の楽しい虎も描いた。
どこかパースがおかしいところが愛しくてならない。

ベトナム 安南の青花は白ではなく卵色だったり、青もにじみを見せたりする。
いつも思うのはやはりあの暑さがそうしてしまうのではないか、ということだった。
今ここにある安南の青花を見ながら、多分そうだと考えている。


伊万里と京焼が並ぶと華やかさが一入だった。
一昔前の大阪では肥前のやきものが夏の「せともの市」で多く売られていた。陶器神社界隈で。
それが七月の天神祭の頃。
翌月の盆の頃には京都の五条坂で京焼の市が立つ。
好きな人はどちらも回る。
案外関西には普段遣いの伊万里も有田もいいのが多い。

中国の豆彩の精緻な文様と鍋島焼の華麗な絵柄の比較と言うのも面白い。
わたしは圧倒的に鍋島焼が好きだが、ここで面白いものを見た。
青花紅彩龍文皿「大清乾隆年製」銘  だから真面目に創っているに違いないのだろうが…
中央の龍、カメラ目線でポーズをキメていた。 「叭!」とか言うてそうである。しかも妙に歯並びがいい。


最後に中国や日本の文様を手本にして自国で再現した欧州のやきものをみた。
これが解説にある通り「伝言ゲーム」の様相を呈していて、「お、おう…」とか「なんでそうなる」なものが大変多くて、面白くて仕方ない。
再現性の低さというか、解釈違いというか、こういうのいいなあ。

日本の染付観音(恐らく水月観音立像)とオランダの白磁藍彩観音像が並んでいるが、こういうものからマリア観音も作られていったのかもしれない。
芥川の「黒衣観音」を少しばかり思い出しもした。

セーブル、デルフト、マイセンといった名高い窯のやきものが妙に可愛くて楽しい。
いいものをみて和んだ。

この展覧会のツイートを挙げている。


ここに挙げた「色絵JAPAN CUTE」展の感想はこちら

いい展覧会なので多くの人が楽しめばいいと思う。
3/24まで。
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「世紀末ウィーンのグラフィック」を愉しむ その2

続き。
雑誌の美しさに驚嘆する。

II – 2 マルティン・ゲルラハ(編)/カール・オットー・チェ シュカ、ハインリヒ・レフラー、コロマ ン・モーザー、 グスタフ・クリムト、ベルトルト・レフラーほか(画) 『アレゴリー、新シリーズ、著名現代芸術家に よるオリジナルデザイン』 1900年頃
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II – 10 フェリツィアン・フォン・ミルバハ、ヨーゼフ・ ホフマン、コロマン・モーザー、アルフレート・ ロラー(編) 『ディ・フレッヒェ(平面)― 装飾画、ポスター、 書籍そして印刷物装丁のデザイン集 第Ⅰ巻』 [1903/04年]
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II - 40 ベルトルト・レフラー 死神将軍(装丁デザイン案) 1903年頃
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日本では日露戦争の直前か…

II – 25 ウルバン・ヤンケ ウィーン風景 1906年頃
可愛らしい。
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手彩色。こういう配色と言うか色の置き方は楽しい。

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壁面の淑女たち。
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III – 20 カール・クレネク 四季 1906年
嬉しくなる連作
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ステンドグラスの下絵もある。
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動物たちが愛らしい。
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版画の面白さがよく出ている。
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サロメもいた。
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建造物の魅力にもひかれる。
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突然こんなのも現れる。
III – 39 フランツ・フォン・バイロス ボンボニエール 1907年 官能的な作品群の一。
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そういえばマゾッホはこの国のヒトだったな…


IV – 35 フランツ・カイム(著)/カール・オットー・チェ シュカ(挿画) 『ニーベルンゲン』(『ゲルラハ青少年叢書 第22巻』) 1908年頃
横にすると小さくなるので縦で。
ただしこの絵がどのシーンを描くのかは不明。
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IV – 49 カール・ベッヒャー、エーノホ・ハインリヒ・キッ シュ(編)/ベルトルト・レフラー(装丁) 『第74回ドイツ自然科学者・医師会議記念 論文集、カールスバート、1902年』 1902年
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IV – 65 カール・オットー・チェシュカ 雪の白とバラの紅(童話のための挿画) 1905年頃
元はグリムの物語だったかな。
紅ばら・白ゆきの姉妹の話。悪い小人と出会う。
この姉妹は後にこの小人のせいで熊にされた王子を救うのだ。
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魅力的な作品があふれかえる展覧会だった。
2/24まで。ぜひ。

「世紀末ウィーンのグラフィック」を愉しむ その1

京都国立近代美術館で2/24まで開催の「世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて」展を愉しんだ。
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<愉しむ>と記したが、これはまさに「愉しむ」展覧会だった。
セセッションの魅力に耽溺し、その愉楽を味わった。

歴史的意義などについて論じるのは他の方がいる。
わたしなどよりよほど真っ当なことを記されるに違いない。
わたしは好き勝手に会場を逍遥し、好きな作品を見出し、それに見惚れた。
そして撮影可能と言うことで大いにパチパチと好きなものばかりを選んだ。
ただそれだけ。

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京都国立近代美術館お得意のロングチラシである。
この様式のチラシが採用される展覧会は大抵が酷く魅力的なものだった。

この展覧会のチケットの半券も素敵だった。



場内へ入ると三階への階段が封鎖されていた。
しかしそこには魅力的な設えがなされていた。



展示を見るにはエレベーターで上がることになる。
リストを貰った。
これがまたひどくいい。


そう、下絵を宗達が描き、その上に光悦の美しい文字が載るあれ。
こんな上等なリスト、他で見たことがない。
まさに優美。

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このうちからわたしは以下の作品を撮影した。
(この1に挙げる分である)

I – 20 『第13回オーストリア造形芸術家協会ウィー ン〈分離派〉展参加要項』 1902年
I – 23 オーストリア造形芸術家協会(編) 『ヴェル・サクルム:オーストリア造形芸術家 協会機関誌』[1900年~『ヴェル・サクルム: オーストリア造形芸術家協会報告書』]1898–1903[1904]年
I – 25 マキシミリアン・レンツ 春 1898年
I – 37 カール・モル 雪に埋もれたデプリンクの別荘(ホーエ・ヴァルテ) [『ヴェル・サクルム(』 第6年次、1903年、275 頁)のためのオリジナル版画] 1903年
I – 38 カール・モル ホーエ・ヴァルテの住宅(コロマン・モーザー邸) [『ヴェル・サクルム(』第 6年次、1903年、271 頁)のためのオリジナル版画] 1903年頃
I – 39 レオポルト・ブラウエンシュタイナー 葦 1903年頃
I – 40 ミレーヴァ・ロラー 女の隊列 1904年頃
I – 71 ヘルマン・バール、ペータ ー・アルテンベルク(序) 『グスタフ・クリムト作品集』 1918年
I – 76 エゴン・シーレ 少年像 1912年

こちらはリストもれにした。先日ツイッターに挙げたのはこの2点だった。



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I – 20 『第13回オーストリア造形芸術家協会ウィー ン〈分離派〉展参加要項』 1902年

雑誌が並ぶ。サイズの変更はあるが正方形である。
I – 23 オーストリア造形芸術家協会(編) 『ヴェル・サクルム:オーストリア造形芸術家 協会機関誌』[1900年~『ヴェル・サクルム: オーストリア造形芸術家協会報告書』]1898–1903[1904]年
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猫可愛い…

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本の中身など
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凝った造りである。


I – 25 マキシミリアン・レンツ 春 1898年
なんとなく違和感がある絵
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ときめくなあ。
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I – 37 カール・モル 雪に埋もれたデプリンクの別荘(ホーエ・ヴァルテ) [『ヴェル・サクルム(』 第6年次、1903年、275 頁)のためのオリジナル版画] 1903年

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I – 38 カール・モル ホーエ・ヴァルテの住宅(コロマン・モーザー邸) [『ヴェル・サクルム(』第 6年次、1903年、271 頁)のためのオリジナル版画] 1903年頃
どちらも素敵…


I – 40 ミレーヴァ・ロラー 女の隊列 1904年頃
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I – 71 ヘルマン・バール、ペータ ー・アルテンベルク(序) 『グスタフ・クリムト作品集』 1918年
これらはコロタイプ印刷。
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I – 76 エゴン・シーレ 少年像 1912年  睫毛が長い。
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続く。

「明治期における官立高等学校施設の群像図」展をふりかえる

毎日毎日終了した展覧会の感想ばかり挙げて申し訳ない。
申し訳ないのはここに来られる奇特な方々もだが、その展示を見せてくれたミュージアムなり文学館なりに特に申し訳ない。
わたしはいいよ、「記憶と記録のため」だから。
しかし宣伝一つできないのに、展覧会をただただ堪能する・貪るのもちょっと心苦しい。
まあだからこそ先にツイッターどーのこーの呟くわけですが。

というわけで今日は2/11終了済みの国立近現代建築資料館「明治期における官立高等学校施設の群像図」の感想です。
タイトル長いけど、このタイトルが一番真っ当なんですよ。
副題に「明治の青春」とか書かれたら恥ずかしくなる。
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実に四か月も開催していたのにすっかり行くの忘れていて、東大弥生門の門前の弥生美術館のカフェ・港やさんの二階で機嫌よくティータイムしてる時に、
「ご近所・湯島の近現代建築資料館でこの展覧会が今日までですよー」
と教えてくださったフォロワーさんがおられたわけです。
あわてますがな。
歩くのは早いからもうこれは直に行くのがいいやと東大に沿って湯島へ向かう。
そこまではよかったけど、この日は門が閉ざされていて、岩崎邸の方から入らないとあかんことになっているのに気づいたのは、ぐるっと一周してから。
まあぎりぎり時間があるからよいわな。

というわけで入り口で「先に見てから邸宅へ」というコースを採って、奥の資料館へ向かいました。
行ってから気づいたけど、資料館がオープンしてから5年らしい。
「ああ、オープンするな」と思ってからもう5年経ってるのか。
なんと入るの今回が初めてだなんてヒトに言えない。
なんちゅうことよ。

改めてここに展示されている建築図面や模型の精度の高さに感銘を受ける。
それぞれの学校により設計も施工も違うから、図面も画一化されているわけではない。
個性が見て取れるところが楽しい。

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各地の帝国大学やナンバースクール一覧。

これらを見るとこれまで自分が読んできた作品に生きる架空人物たちのイキイキした姿が思い浮かぶ。
九大なら「ドグラマグラ」正木と若林、札幌農学校は「シュマリ」ポン・ション、一高は「天の血脈」安積亮、三高は「黄土の奔流」紅真吾…
とても嬉しい。
明治の東京の地図もあり、丁度目の高さに市ヶ谷の陸軍士官学校がみえた。
先ほどに倣えば、思い出すのは鯉登音之進だな、ここは。

明治は煉瓦の時代なので煉瓦が多く使われた。
現在もレンガ建築がいくつも残るが、しかし大正になると関東大震災で煉瓦が壊れてしまった。
新技法も採りいれられたので建物も随分と変わった。
それぞれの時代の良さがあるので一概には言えないが、やはり明治の煉瓦建築には夢があるように思える。

今回知ったことだが、古河財閥からの寄付が多いのは原敬の活躍だということだった。
原は暗殺されてしまうが、この頃の政治家はやはりなかなか立派な人がいたものだ。
ところで能條淳一「昭和天皇物語」では原敬はかなりハンサムに描かれている。
爽やかな感じで素敵なのだが、もうすぐ多分退場するのだろうなあ…

内部撮影は禁止だが、二階ロフト部分からは可能だった。



ところでこうして見て行って、自分が行ったことのあるところもけっこうあるなと思った。
東京医学校本館  小石川植物園に移築。これは映画「外科室」でもロケに使われていた。
札幌農学校  北大には随分前に行ったが、当時はあまり何も考えていなかった。
東京帝国大学  どの時代の建物も素晴らしい。
京都帝国大学  憧れが募るばかりだ。
奈良女子大学  近年公開灯が増えてよく行くようになったが、可愛い建物が生きているのは嬉しい。
学習院  そろそろ久しぶりに展覧会に行きたい。
第四高等学校  金沢にも行かなくては。

ノスタルジックな展示ではないが、それでも見るだけでなにかしら胸が…鏡花風に言うと「きやきや」するような感じがある。
いい展覧会だったので行けて本当に良かった。

事務所ではこの展示の図録と他に以前開催された図録をいただいた。
とても立派な図録も展示もどちらも無料とは申し訳ないような気がする。

帰りは久しぶりに岩崎邸を堪能した。
ここも修復工事の最中に見学して以来だから何年振りだろうか。
またじっくりと楽しみたい。

「新年を祝う 吉祥の美術」@大和文華館

既に終了した展覧会だが、記憶と記録の為にも挙げる。
大和文華館「新年を祝う 吉祥の美術」展である。
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チラシ表にはこのようにゆるい可愛いのをもってきた。

ところでわたしがこの展覧会に行ったのは2/16つまり最終日の前日である。
いつ行ってもよいのにこんなに後になったのは多忙のせいだけではない。
大和文華苑の梅が見たかったからというのが最大の理由である。
庭園を彩る四季折々の花の内、梅園と三春の滝桜とがここの大スターであることは間違いがない。
今年はこんな感じだった。








そして展示でもこの梅が出ていた。
色絵梅文大壺
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大きな壺に梅が明るく咲き乱れている。

チラシ表のゆるいメンバーは
左 七老戯楽図 池大雅
中 雪中百寿図 与謝蕪村
右 高砂図 中村芳中
鼓をポンポン打つというより、だれたドーナツを持つような。
寿老人の背後に「寿」の字の異体字が百ほど。
ここの爺婆は掃除を一旦お休みで「飲ませてくれ」「あんた飲み過ぎです」というところ。
モコモコの松の樹からは子供がのぞいている。

珍しい富士山図を見た。
宋紫石 富嶽図 1776  けっこう周囲の山も描きこまれている。田子の浦というのはそれこそ万葉集の頃から富士と共に歌われているが、ここに描かれたのは「伊豆の田子の海岸の岩礁」とやら。
西伊豆の田子瀬浜海水浴場がその場所らしい。
調べると確かに岩礁らしきものが。
こちら

鉄斎の富士もある。戯れ歌が記されていた。
高いと自慢するな不尽の山 時に頭へはる風ぞ吹く
この「はる風」は頭を張るの意味。

正面版という版画の鷹図が二点。
正面版とは木版で拓本と同じ方法なので反転しないようだ。
この方法は珍しいそうだ。若冲の「乗輿舟」と同様の技法で、これに影響されたらしい。
この作品はそこに彩色を施していた。
彩色も言えばレトロな配色で面白く眺めた。
一は黒地に茶色い鷹が紅白の椿を見ようと身をよじるもの。
一は水色地に水色の流れ、鷹の止る木には紅白の花が。

梅と桜をモチーフとした工芸品も多く出ていた。
目貫、嵯峨棗、金具などなど。
織部梅文皿  これは地が白く、そこに緑はらせん状にくりくりと伸び、灰梅色の梅が咲く。

今年は亥年なので望月玉泉の猪図もある。
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毛並みとかリアルでこれはモノクロだが実物は目に金泥が。
ポーズとしてはももんじ屋の看板のようなものだが、なかなか力強い。

あんまり祝福とはいえないものもある。
15鬼神図巻 鎌倉前期  時々出てくる赤子の病気に関わる15の悪神の図である。
以下、名前を写したものとそこからコピペしたら簡易体が出てきたというのを並べる。
弥酬迦、弥迦王、塞陀、阿波悉摩羅、牟致迦、魔致迦、阎弥迦、迦弥尼、黎婆坻、富多那、曼多难提、舍究尼、揵吒波尼尼、佉曼荼、藍婆
牛、獅子、クマラの女、キツネ、猿、少年、馬、女、犬、猪、猫、烏、鳥、ミミズク、蛇のようなものたち。
これらに憑りつかれた赤子の様子も描かれている。
ヒヤキオーガンでは治らない祟り系のもの。

これらは別物だが、うまいこと三幅対にとりあわせている。
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おたふくの着物は辻が花風。

仙厓の16歳の太子図もある。地蔵風な風貌だが閉じた目が美しい。

鉄斎の朱鍾馗図もいい。これは高其佩の画風に倣ったものだとある。大きな団栗眼を見開き、手に鬼を掴む鍾馗。

上掲の閻魔図で狩野養信はおとなしそうな閻魔を描いたが、その他にもこんな閻魔を描いている。
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美女は浮世絵師の国貞。
狩野派と浮世絵師のコラボである。
いいものをみた。

獅子や龍と言ったモチーフのものも色々出ていた。
伸びる獅子の文鎮、丸餅型の墨には龍、十長生文の六角瓶…

磁州窯の白搔落ものがどれもこれもセピアがかった白で妙に色っぽかった。

次は三春の滝桜を愉しみに出かける。






「江戸の園芸熱」前期を楽しむ

たばこと塩の博物館の「江戸の園芸熱」展の前期は2/17で終了したが、よい作品が集まっていた。
江戸時代の人々が演芸熱に取りつかれていた、のは以前から知っていた。
この展覧会で集められた浮世絵の数々だけでなく、江戸市中だけでも今に続く朝顔市、酸漿市、菊人形、飛鳥山の花見などなど、どう考えても園芸熱の高い、植物大好き・盆栽大好き・庭園大好き…な江戸時代の人々の様子がみてとれるではないか。
結構なことである。

上方では山本平井、江戸では染井が植物の一大繁殖センターとして名をはせている。
染井村は今の駒込、山本は宝塚にあるが、実際今も山本と言えば植木と言う認識が生きている。

江戸時代には接ぎ木や交配もどんどんやっていって、菊や朝顔で多くの変化ものを生みだしていった。
丁度同じような時期に英国でも同様のことが起こっているので、こうした現象は本家も元祖もなく多発的に起こるものらしい。

ところで江戸から明治へと移り変わり政権が変わったとはいえ、庶民のくらしは江戸と地続きの部分が多かった。
廃れたものも少なくはないが、旧幕以前からのものを続けもした。
やがて明治から大正に変わり、大正から昭和戦前へと移り、その間に大きな変化がきたのはやはり他国との戦争が絡んでのことだが、戦後に大きな価値観の変容があり、平成を過ごし、その末期に来た今であっても、江戸時代と変わらないものがあった。
ペット愛と園芸熱である。

展覧会に行くと、普段見ないほどの大勢の人がたばこと塩の博物館に来ていて、みんな熱心に浮世絵を見ていた。
そしてコンセプトが園芸熱だということから、描かれた植物をいちいち「あれだこれだ」と鑑定・判定・推定し、思い思いに好きな植物を探したりしていた。
こういう姿を見ると、やっぱり園芸への関心が高い人種なのだと実感する。

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元の絵は国芳の「百種接分菊」 こちら
感心するね。
この絵はまあヴィジュアル優先としても、実際に菊展に行くと懸崖造りなどから始まって、すばらしい構成の菊をみる。
芝居の「菊畑」もそうだ。舞台は平安末期でも風俗は江戸時代なので、やっぱり人々は園芸熱に浮かされていたのだ。


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新板手遊瀬戸物箱庭尽 歌川貞房  盆栽で箱庭で、という二重の楽しさ満載ものではないか。
ええなーええなー。

植木鉢や盤は大体染付である。
幕末の浮世絵では食器も素敵な染付が多く描かれている。
そしてその現物もこのように展示されていた。

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わたしなどはやっぱり染付が好きなので、使う気で物を見てしまい、「これはいいなー」と思うものがいくつかあった。


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新板樹木づくし 貞房  これなどは植物と染付の見本もののようなもので、一つ一つ楽しく眺めた。
特に気に入ったのは最下の右から二つ目の紫陽花、上から三列目・左端から二つ目のサボテンとその右斜め下の椿。
いい喃。


役者絵には芝居のシーンから採ったもののほか、見立て絵もある。見立て絵はコスプレ絵でもある。
鼻高幸四郎の福寿草売り
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福寿草には染付ではなく今戸焼かな?いや、これはなんだろう。
そして彼の着物の柄は銀杏柄。


役者仲間の内、オバケの芝居で名高い三世菊五郎が本気の本気で園芸熱の高いひとだったそうだ。
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色々と工夫を凝らしていたそう。盆栽の藤には梅柄の染付。
因みにキモノはいわゆる「菊五郎格子」。


春宵梅の宴 三世豊国
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この絵なども実に多くの植物が描かれている。
真ん中の絵をピックアップする。
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白梅、山茶花、水仙。女たちの着物にも花柄があしらわれている。


皿屋敷のお菊さんもいた。
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盆栽の菊から現れるその名もお「菊」さん。朝顔もさいていれば、柳がそよぎもしている。
ひええとなっている男の着物の柄も花柄。

いいものをたくさん見た。
次は2/19から3/10まで後期。

少しも退屈と云うことを知らず ―鷗外、小倉に暮らす

森鷗外記念館はコレクション展も充実している。
今回は鷗外の小倉時代にスポットを当てている。
十年以前にわたしは小倉で鷗外の住んでいたところを見に行った。
もう随分前の話で当時はネットとも無縁だったのでこのブログにもその足跡を残してはいないと思う。

松本清張が直木賞を得たのは『或る『小倉日記』伝』だった。
『昭和史発掘』を世に贈るような作家だけに、綿密というより緻密な作業を経ての作品である。
その鷗外の『小倉日記』だけでなく手紙などの資料を集めて、鷗外が小倉でどのような思いを懐いて暮らしたかを見ることになった。
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サイトから引用する。
「東京で近衛師団軍医部長を務めていた森鴎外は、明治32(1899)年6月、小倉(現・福岡県北九州市)の第十二師団軍医部長として赴任を命ぜられます。
東京での鴎外は家族とともに暮らし、職務や文業に専念してきましたが、小倉では自ら家政をとる新たな生活が始まります。東京を離れて小倉にあることによって、軍医部等の動静や文学界を、距離を置いて眺めます。そのことが、自分と他者との関係を考える機会となりました。」


左遷と言っていいのかもしれないが、どちらにしろ鷗外は東京の近衛師団から小倉の第十二師団軍医部長になることについて衝撃を受けている。
しかしながらこの経験は決してかれの生涯の汚点にも負の要素にもならなかった。

「一方、鴎外は土地の人々と交流し、勉強会を行い、外国語の学習をはじめ、史跡を巡るなど、新たな学びの機会を得ました。明治33(1900)年12月、親友・賀古鶴所に宛てた手紙には「公私種々ノ事業ノ為メニ(中略)少シモ退屈ト云コトヲ知ラズ」と記されており、小倉での充実した日々がうかがえます。鴎外は、明治35(1902)年3月までの2年10ヶ月を小倉に暮らしました。」


この小倉時代についに大作「即興詩人」の翻訳が完成する。
そのことを決して忘れてはいけない。
以前このブログで鴎外翻訳の「即興詩人」について記したことがある。
当時の感想はこちら
文して恋しく懐かしき君に ―鴎外、『即興詩人』の10年―

安野光雅 アンデルセンと旅して

鷗外の雅な文語体による翻訳が明治の人を感動せしめ、21世紀の今も愛される作品となる力となったのだ。


話を戻し、小倉赴任前後の鷗外の写真資料などを見る。
明治32年は1899年つまり今から120年前の同じ干支周りである。
その年の6月、鷗外は小倉へ向かう。その前日の写真があった。
場所は自邸・観潮楼の茶室前。
…こういうのをみると大宰府に左遷される道すがら京阪のあちこちを拝みにゆく菅公を思い起こさせますな。

しかし行ってみるとそれはそれで存外鷗外にとってよい日々が始まる。
だからこそ「少しも退屈と云うことを知らず」と「秘密のない」親友・賀古さんに書き送れるのだ。

着いた当初はそれこそ手持ち無沙汰な心持というか試行錯誤なところもあったろうから、それで難解なサンスクリット語の勉強も始めていたようだ。(しかしその言語は身に着いたのだろうか…)
段々と日を追うにつれて文学者としての仕事もはかどるようになっていったようだ。

自分のオジの話になるが、まだ戒厳令下の頃の韓国に技術提携の為に都合6年ばかり単身赴任したオジは、向こうで韓国語のみならずフランス語とバイオリンとを学んだ。
しかし向こうで人間関係が円滑になるとそちらにも忙しくなり、たいへん充実した気持ちの良い日々を過ごしたそうだ。
比較しても仕方ないが、鷗外の小倉時代の心持の変化というものを少しばかり理解できるような気がしている。

鷗外は小倉でも少しばかり転居したようで、鍛治町、京町の旧居写真が出ていた。
後者は1952年の撮影で煉瓦塀の感じがよい。

家族思いの鷗外は長男・於莵の手記の添削をしたり、妹喜美子に手紙を送ったりしたが、それらが展示されていた。
こまめなヒトだといつも思う。

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20世紀になった。
1901年2月発行の「めさまし草」についに「即興詩人」最終話「流離」が掲載された。
長くかかった仕事だった。終了したのは同年1月15日。
アンデルセンの小説を翻訳した、というだけでなく、雅な文語体で再構築したことが素晴らしい。
百年後の今もあの古雅玲瓏たる文章が人を魅了する。

陸軍軍医たる森林太郎の職務の紹介もある。
第十二師団司令部の写真がある。現在は正門跡のみがあるそうだが、いい建物だった。
ああ、日露戦争にも行ったのだなあ…
そう、鷗外も日露戦争に従軍している。
帰国したのは1907年45歳の時だそう。
その頃はもう小倉から離れているが。

今、「ゴールデンカムイ」に夢中なわたしはあの作品から日露戦争に意識が向くようになった。
作中では主に第七師団の戦闘の様子が追想されている。それから第一師団が。
戦争に心を囚われ続けている人々が多く描かれていて、それを思うとつらいものがある。
「坂の上の雲」とはまた違うナマナマしい描写はマンガだからこその表現だ。
あの戦場の様子が今のわたしの中には入っている。
そこに鷗外もいたことを改めて思う。

後に陸軍軍医総監になるだけに鷗外も衛生問題にはよく目を向けている。
「公衆医事」という雑誌に当時の衛戍病院の様子についてかなりはっきりと記している。
1899.7 第十二師団巡検記事。
窓が一つしかないのはよくない。重症者の部屋と癲狂室を相対するのもいかがなものかと。
ということを記している。
とても真っ当なことを記している。つまりそれだけここの衛戍病院の質が低いわけだ。
いやそもそも衛戍病院で良質なところはあったのだろうか。
クリミア戦争のときのナイチンゲールの仕事のことを思い出す…
軍はやはりあかん…

この「公衆医事」にはまた興味深い記事も挙げている。
マドリードの公娼制度についての意見で、娼婦の病気の検査の際に遣り手がいろいろ悪辣な騙しをしようとすることなどが記されている。そして公娼になった女の生涯についても気の毒に思っているようだ。
人権への配慮というものがはしばしに生きている。

興味深いことが紹介されていた。
それは九州のしょうゆやみその甘さが鷗外の口に合わないことである。
かれは津和野の出で、東京で就職した。海外留学もした。
美味しいものについては手紙などにも記しているが、ニガテなものについても書いていた。
確かに九州のしょうゆやみそは甘い。
わたしなども九州のみそは甘すぎて無理だ。関西の白みそもニガテだが。
食生活はその土地の味に慣れる以外いい具合にはならないのだ。

こちらは八幡製鉄所図。官営の製鉄所である。
まさに「鉄は国家になり」の時代の製鉄所。
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やがて鷗外は小倉から東京へ戻った。
小倉で知り合った二人の友について紹介がある。
そのうちの一人は後に一高でドイツ語を教え、芥川や菊池寛らがその教え子だったそう。

最後に松本清張が鷗外「小倉日記」から小説を書いたことから、そのあたりの資料が展示されていた。
思えばこの人も太宰治、中島敦ともども今年生誕110年になるのだなあ…

文学館の良いところは資料や写真を展示し、自分で歩いてそれら資料をみることで立体的な視点が生まれることだ。
とても楽しい。

3/31まで。




「物語とうたにあそぶ」展を追想する。

既に終了したが中之島香雪美術館のコレクション展5「物語とうたにあそぶ」も面白い内容だった。
早くに見に行き早くに感想を挙げるべきだったが、最近の自分の環境ではなかなか難しく、今回もこうして終了してからの感想を挙げることになった。
外から見れば何もしないよりはましという程度のものだが、自分の記憶と記録のためのものなので、好き勝手にする。
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源氏物語絵が集まる。
若紫、紅葉賀などの人気のシーンが描かれた掛け軸もいい。季節の対になっているのでこの取り合わせが好きだ。

守住貫魚 花の宴  これなども通りすがりの出会いの面白さがあった。

他の美人も多い。
原在中 小督図  内外で協奏する。こうしたところが素敵だ。
鳥文斎栄之 夏姿美人図  さわやかな美しさがある。

やがて香雪美術館ほまれの岩佐又兵衛「堀江物語」が現れる。
随分前に大半を見たのが夢のようだ。
昨年は何とか生き延びた乳母が太郎と共に途方に暮れて泣きぬれているところを救われるシーンからだった。
今回の展示は戦の勝者・太郎の前に諸悪の根源たる原左衛門が引き出され、その罪を問われるところ。祖父なので処刑を減じるが、剃髪という侮辱刑を科し、郎党共々嗤うというシーン。恩には恩を仇には仇をきっちり返す又兵衛。
細部まで絢爛豪華な作画。
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びっくりするような絵巻が現れた。
これについてわたしは見てすぐにこうつぶやいている。
「まさかの既婚者太郎。妻が夢見悪いから漁に行くなを振り切って亀に遭遇、龍宮で乙姫と不倫の日々。 まじでびっくりした。」
そう、まさかの既婚者。今の今まで独身の浦島太郎しか見たことないわ。
しかも妻は夢でこうなることをある程度予見し、太郎の外出を止めようとしているのだ。
この太郎も説経節の小栗判官と同じで妻の夢見の悪さを問題にせず出かけてしまう。
去っていった夫を見て泣く妻。これが今生の別れとなる。
女の見る夢を徒や疎かにしてはならんである。
その結果として小栗は死に、太郎は享楽の日々を手に入れるのだが。

太郎は王様ガウンみたいなのを着て楽しく暮らす。乙姫は太郎を引き留めるためにありとあらゆる楽しみを覚えさせる。しかし太郎に郷愁の念が生まれる。ついに地上へ帰ることになる太郎。腰蓑つきの漁師スタイルで竜宮城を後にする。手はもちろん玉手箱。

玉手箱を警戒するというのも他に見たことがないが、その太郎もついには箱を開けて煙に巻かれることになる。
そしてここでは「寝覚ノ床」伝説と同じで、亀の姿の姫と鶴になった太郎との再会でめでたしめでたしとなるのだ。
妻はとっくに失意のうちに死んでいるのだが。

妻と姫とを行き来する男も昔話にはいる。
諏訪湖の御神渡りの伝承の主の甲賀三郎諏方だ。
死んだ妻が迎えてくれる浅茅が宿の話もある。
どちらにしても男が許される話なので、やっぱりここは「吉備津の釜占い」でゆこう。
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色紙の良いのも並び、書もさることながらその書の載る紙自体が綺麗だと思った。

最後に伊勢物語絵を少々。
けっこう表情がわかってくるね。
わたしは「昔男」くんを「マメ男」と読んでますが、本当にこまめでないと女にはモテんわな。
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2019.2月の東京ハイカイ録 その1

三連休の中二日で都内へ。
天気予報は大雪とか言うていたが、そんなに雪に苦しむこともない天気だった。
流通センターでのイベントに行ったあと定宿へ荷物を置いて、まずはたばこと塩の博物館。
…なのだがどこどう道を間違えたか紅葉橋に来てしまった。
ああー、ここへ来ると道を間違えた実感が湧くわー
それで妙見さんまで来た時点で行くのをやめる気になった。
ここは能勢の妙見さんなんだよなあ。


が、ここを通ったら霊験あらたかかして、ようようたどりつけた。

「江戸の園芸熱」をみる。
あれだ、平成の園芸熱に浮かれる人も多いのを実感したぞ。
いい絵がこれでもかと集められていたが、本当に江戸の人々は園芸好きだわ。
それが平成末期の人々にも受け継がれている。

上野へ。
最近は地下鉄なら9出口を使うのが合理的だなと。エスカレーターとパンダ橋な。
これの方があっちからの道より気楽。

顔真卿のあまりの人気に引いたよ。どうするねん。
アウト。
それで常設を楽しみましたわ。
これがえらくあれだ。


めでたいのう。

池袋で晩ご飯を食べ、宿で「オクニョ」見てからこの日は割と早めに就寝。
なんでもスマホの万歩計によると26001歩歩いたらしい。ご苦労様なわたし。

もう最終日。
早めに出たいがうまくは行かない。
予定通りなのでまあまあ。
いつものロッカーに荷物を放り込んで出歩くのだが、既にこの時点で肩がヤバイ。
大手町まで歩くのも手間がかかるよな。

千駄木。団子坂を上がり、森鴎外記念館。
小倉時代ばかり集めた展示。
ここで「即興詩人」翻訳が成し遂げられたのだそう。
安野さんの絵本を先月買えたので、それを読みながら鷗外を想うのも悪くない。

千駄木駅前の人気のうどん屋に入る。時間が早いからか空いてた。
茄子と豚のつけめんうどん。おいしかったが讃岐系らしくコシがありすぎた。

次は弥生美術館。
バロン吉元さんの画業60年記念展。
バチバチ撮影しまくり♪

今回は三階の華宵の美少年たちもパチパチ可能でした。
ありがとう。

それでバロン吉元展オリジナルのこれをいただこうと港やにいきまして。


これでくつろいでいるときにお知らせが入りまして、急遽予定変更して湯島の近現代建築資料館へ。
…近いので駅経由やなしに歩いて行ったが、祭日なので岩崎からしか入れないのを知らずぐーるぐる。

明治の学校建築の良いものを図版や模型などで大いに楽しみ、更に資料集までいただけましたがな。
ありがとうございます。

近所のドン・レミーでお菓子をいくつか買って新幹線へ。
ぐったりしてるのもいいが、下車後がえらいことに。
荷物が重すぎて肩がイカレましたがな。
あああ…
再来週の日帰りが怖いわ…

酒呑童子絵巻 鬼退治のものがたり その2

今回は全巻展示の住吉弘尚「酒呑童子絵巻」について。
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前日譚から物語が始まる。
住吉派らしい繊細な大和絵である。
なおパネル展示で各巻の冒頭の紹介がある。
数字は場面の番号。ないのは展示紹介されていない分。
またはわたしの写し損じ。

八岐大蛇の生贄となる奇稲田姫を救い、大蛇を退治する素戔嗚尊。
迫力ある絵が展開する。
記紀では大蛇の後始末は描かれていないが、ここでは八岐大蛇は伊吹明神になったとされる。
悪であるものを退治したのち、祟り封じ・鎮魂に祀るということはよくある。
伊吹山の天候の変化の激しさなどを考えてそうした出自を当てたのか。

伊吹山の描写。秋の景色。
この山は一晩でギネスに載るほどの積雪量を記録したり日本武尊を傷めつけもしたが、一方で大変に自然の美しい山として現代でも愛されている。

近江の郡司が40歳にして娘を授かり溺愛して育てる。
いつかは都の身分の高いところへと望みをかけている。
ここの家にはキジネコがいて女房にじゃれ付く様子が描かれている。可愛い。

娘の玉姫のもとへ通う男があるのを母親が気づく。
姫は大変な美人である。いい調度品が揃えられている。
春の琵琶湖の様子もいい。
通い婚が通例であったため、気づかぬ間に…ということも少なくなかったろう。

.通う男の後をつけさせるが、その男にあっけなく蹴落とされる武士たち。

2-1 姫は母親に身重になったことを話す。憤る郡司
2-2 父はいきなり瀕死状態となる。これは伊吹明神の祟りだと知れる。
2-3 子を産んだ姫はその子を実家に置いて一人喜々として伊吹山へ向かう。供揃えも大層。

ここからは絵。

4. 春の山。嫁入り行列が進む。
5. 子どものみ祖父母である郡司のもとへ。ところがこの子供は父の伊吹明神の前身が八岐大蛇であるせいでか、深酒する癖があり、更には大酒乱でもあった。暴れまくり使用人ちらにも怪我をさせる。
祖父の郡司はこの子供を最澄のおられる比叡山へ預けに行く。
柳が青々としている。
6. 最澄は対面した子どもの正体・将来に不安を感じる。「魔境に落ちる相」だと看破する。大師の目に狂いはない。
秋、少年はお山入。郡司は下山する。

3巻
1. 比叡山にすっかり慣れた童子はある日都での鬼踊りの為にと自分一人で三千個もの鬼面を制作することを請け負う。
しかも七日で拵えるという。

この辺りについて考えれば、童子には自信があったからの発言だとしても、通常ではありえない事業であることを彼はどこまで理解していたのだろう。これを成し遂げる自信があるのは即ち自分の身内にある「異形者の力」を気づかぬうちに恃んでいたのではなかろうか。

2.七日で成し遂げる童子。部屋中に新しい木屑が散らばり、そして様々な彩色を施された鬼面がずらーっ。
赤・青・緑の恐ろしげな面を見て、稚児仲間の一人が強く慄く。見に来た全員が驚き、感心する。

3.都での鬼踊りの様子を長く描く。
都の人々の見物する様子、お寺の大衆(だいしゅ)による鬼踊りは大変な評判である。
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御幣や笹を持ち、放下もし、ササラも鳴らし、花笠を持つものもいる。童子は松柄の扇を持って舞っている。緋袴がそれである。
「蓬莱の鬼たちが帝に宝物をささげる」と言う主題の鬼踊りを貴顕の人々が楽しむ。
あまりの上出来の首尾に帝より酒がふるまわれる。
禁酒を誓っていた童子だが、浮かれ気分のままに誓いを破りぐびりぐびり…
あまりの大酒のみの様子に周囲は驚く。太鼓型の酒樽2つが彼一人で飲み干される。

詞書から「夜叉羅刹」「大師」「郡司」「魔縁」「悪魔」の文字が見出される。
そう、童子は大酒したことで本性が現れてしまうのだ。

4.大酒による狂気が蘇り、枝を持って暴れまわる童子。頬を赤く染め眉を吊り上げ、楽しげに人々を害する。
稚児を殴りつけ、僧を追いかける。皆が飛んで逃げる。
比叡山三千の大衆(だいしゅ)が伝教大師最澄に訴える。傍らに三人の稚児がいる。

4巻
1. 遂に放逐される。大師、大衆らから罵られ、悄然と坂本へ下りる。

しかしながらこの判断は正しかったのだろうか。
「魔境に落ちる相を持つ」と看破した大師ともあろうものがそんな魔物を野に放って良いのか。
世に災いを送ることになるのをどう考えたのか。
お山大事というだけでの判断なのか、皆に押されてどうにもならなかったのか。
そのあたりのことが気になる。

2. 実家へ。郡司にこれまでのことを悄然と話す童子。今は酒も抜けてまともである。
郡司はついに彼の実父のことを話し、伊吹明神のもとへ向かうことを勧める。

3. 社殿で夢に伊吹明神を見る。眠る童子を見守る狛犬と獅子。静かに白い頬をした童子。明神は雲に乗る。
だが、山中での暮らしに慣れるうちにとうとう童子は自ら魔境に入る。父のもとを離れ、北西の岩屋に住んで悪さを始める。

4. 鬼へと至る行為が続く。人食い、肉食。都にもその悪評は流れ、大師は比叡山の面目を懸けて七日間の調伏を行う。
詞書で「酒呑童子」が「酒顛童子」となる。

5. 満願の日、大宮権現が稚児に乗り移る。酒顛童子はあちこちほ追われてゆく。
紅梅が咲く情景の中での放浪。

6. ようやく身を落ち着ける場所を見出す。都近くの千丈ヶ嶽である。そして百年がたち、伝教・弘法両大師の死後、遂に世に戻り暴れ始める童子。都の貴女たちを攫う。
もう大童の姿である。邸には大勢の美女たちが。泣く女たち。
御簾の向こうにいる姿がよく表現されている。

5巻
今の世には大師の力はないので武士の力で侍の力で鬼退治をと晴明の占いが出る。

頼光、保昌、四天王が熊野・住吉・八幡を詣でる。それぞれの社の特徴がよく出ている。
瀧・太鼓橋・山の中。熊野では女舞も奉納。

4. 八幡での霊夢により山伏の姿で少数精鋭で行けと託宣を受ける。
それであの六人で戦支度をする。座敷での用意。庭には桔梗と紅葉。

5.三神の化身から酒と兜を賜る。神変鬼毒酒と星兜である。
行者・老人・少年の姿を取る三神だが、誰が誰なのかはわからない。

6 山へ向かう一行。神の加護があり、山中の苦労もしのげる。

6巻
2. 川で血の付いた衣を泣き泣き洗濯する姫に遭遇する一行。いよいよ近いことを悟る。

3.鬼に会う。門前で止める鬼もいればご注進に走る鬼もいる。

4. 清潔な部屋へご案内。「どうぞ」と案内される。

5. 大きな童子がなかなかの美少年二人を左右に侍らせながら立ち現れる。
「40歳くらい」という設定である。一同は「羽黒山伏」だと名乗る。

山伏は近畿の山伏、羽黒山伏、九州の山伏が特に有名。
一行は正体を隠すためにあえて遠い羽黒山伏を名乗ったようだ。
羽黒山伏といえば本木洋子「蘇乱鬼と12の戦士」という児童文学がある。

6. 人肉料理を供する。これはイヤガラセ+見極めなのだが、山伏一行は平気で飲み食いする。
シラケる童子。傍らの凛々しい美少年二人もやや怖いめの表情をしている。
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清浄を意味するはずの餅もここに供せられている。


7巻
宴会。手下の鬼たちの鬼踊り。鬼たちからは梨、柿、栗、枇杷などが出される。おいしそう。
山伏ダンス。衣裳がとても細かく描写される。
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鬼たちへ例の神変鬼毒酒を飲ませる。喜んでがぶ飲みしては吐いたりぐったりしたり酔いつぶれたりする。
鬼たちは一度疑うのをやめると素直になるようで、この連中の悪略には一向に気付かない。

5. 山伏らのお相手にと残された二人の姫に正体を明かし、協力を求める一行。

6.戦支度。座敷に面した中庭には棕櫚の木がある。
姫たちは「こちらこちら」と案内する。
しかしその岩屋の鉄扉は開かない。そこへ再び出現する三神。門を開く。

神様だけでやっちまえば?と思いもするが、ヒトの力で為さねばならぬらしい。

遂に鬼退治。星兜のおかげで頼光も助かる。
他の鬼たちを殺戮虐殺し、首をもっこに乗せて都へ帰る一同。
姫たちも足が痛いと言わず山を下りてゆく。

鬼の通力による人工庭園の消失。鬼たちも逃げ延びたものはいるだろうが、もう表に出てはこれまい。
この首たちはどこへ遣られたろうか。

素晴らしく丁寧な描写の絵巻物でとてもよかった。


百椿図が展示されていたが、中に林羅山の漢詩がついた椿図があった。
八千歳際幾東風
誰使南華奪化工
春木花辺蝶為鬼
夢中酔■酒顛童

この■の字が「然」に見えるのだが、解説文では「殺」にあたるようなので、少し考えている。
もしかするとこれは「殺」の異字体かと今になって気づいた。
そして調べるとこういうのがあった
どうもそんな気がしてきている。
この字は水滸伝関連に使われていたように思うが、今ちょっと調べにくい。
もしかすると武者絵の中に使われていたのかも。

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いい展覧会を見れてよかった。
2/17まで。





酒呑童子絵巻 鬼退治のものがたり その1

根津美術館所有の三種の「酒呑童子絵巻」を見に行った。
副題は「鬼退治のものがたり」である。
いずれも伊吹山系の酒呑童子の物語。

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以前に逸翁美術館では大江山系の酒呑童子絵巻の展覧会があった。
「絵巻 大江山酒呑童子・芦引絵の世界」
当時の感想はこちら

なおこの展覧会ではサントリー美術館所蔵の伊吹山系の酒呑童子絵巻もあり、そちらは後に「お伽草子 この国は物語にあふれている」展でも再会できた。
当時の感想はこちら


酒呑童子の物語は非常に人気が高く、現代でも数々のマンガにもなっている。
永井豪「手天童子」は「酒呑童子」を基にした伝奇SFであり、村野守美「酒呑童子」は庶民の中から現れて権力と対抗して山に潜む男の物語であり、木原敏江「大江山花伝」は哀しい伝奇ものだった。
特に永井豪、木原敏江の場合「鬼の物語」を連綿と続ける中で、これらの作品はたいへん重要な存在になっている。
木原敏江「夢の碑」シリーズはこの先行作「大江山花伝」があればこそ生み出されたのだし、永井豪の描く鬼の物語の集大成はこの「手天童子」だと言っていい。
現代の人々を引き寄せる力が「酒呑童子」の物語にはある。

根津美術館の酒呑童子のうち住吉派の絵巻を以前に見ている。
2015年の「絵の音を聴く 雨と風、鳥のさえずり、人の声」展である。
当時の感想はこちら
ここでもわりに詳しく酒呑童子絵巻について記している。


さて今回その「酒呑童子」絵巻は三種出ていた。
それらについて延々と記したいと思う。
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酒呑童子絵巻 1巻 室町時代  
中巻。見た目はもう奈良絵本風なもので、素朴な良さがある。稚拙さが愛らしい。
宴席から始まる。まな板には手足が載る。血の酒。
二人の姫をその場に残して童子は退出。これは酒呑童子の気遣いで、まだ宴を楽しめるようにと二人の女をその場に残したのだ。
とはいえ四天王らは早速戦支度。酒呑童子の寝屋である岩屋へ向かう。他の鬼たちには毒酒を飲ませている。邪魔は入らないが、鉄の扉があかない。そこへ住吉・熊野・八幡の三神の力が加わり、扉は開く。
気持ちよく酔っぱらって正体を見せて眠る酒呑童子。
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この鬼の姿でグーグー寝る酒呑童子の顔が可愛い。
これはもう「まんが日本昔ばなし」に出てきそうな鬼である。枕元に武器を置いているが、使われることはない。
この鬼の寝顔では頼光と四天王たちの方が悪人面をしている。

これとは無縁だが、先般細見美術館で見た春画の中に、女体化した酒呑童子を頼光らが取り囲んで不埒を働こうとする絵を見たが、あれはいかんなあ。


酒呑童子絵巻 伝・狩野山楽 3巻 江戸時代17世紀 
上巻: 山へ向かう
中巻: 四季の庭の表現が素晴らしい。これは狩野派の様式美そのもの。
下巻: 首を取る。真上に跳ね上がる鬼の首。
考察すると、真上に跳ね上がるということは切り方は水平切りだったのか。
余程の剛力でないとなかなか首を水平切りにするのは難しいと思うが…

今回先に住吉派の描写を見たので、大和絵と狩野派の違いというものをはっきりと目の当たりにでき、そのことを知ることになってよかった。

庭園の様子を拡大してみた。
右側から始める。
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室内には琵琶などが置かれている。
ここには椿が咲いている。


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嘆く姫君たち。先ほどの琵琶も彼女らの心を慰めるためのものではないのだ。


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藤と萩が同時に咲く。季節が狂っているというより同時に存在する。これは鬼の通力によるものなのだ。


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秋の丘。鹿たちが戯れる。


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屋根には雪と紅葉した葉が見える。


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冬の景である。鴛鴦など冬の鳥が池で遊ぶ。


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その四季の庭の美しさに感嘆し、堪能する山伏姿の頼光一行。


長くなりすぎるので、住吉弘尚の絵巻は別記事で挙げる。

「終わりの向こうへ:廃墟の美術史」の想い出 

様々な理由があるが、終わってしまった展覧会の感想を挙げるのも好きだ。
完全な自己満足の世界だからかもしれない。

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1/31で終了した松濤美術館「終わりの向こうへ:廃墟の美術史」は評判が高く、早く行きたいと思いながらも結局のところ終了間際にしか行けなかった。
多くの人々が廃墟の美に感銘を受けていて、その日に図録が売り切れてしまったらしかった。

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数年前に廃墟を描く画家ユペール・ロメールの展覧会を見た。
ユベール・ロベール 時間の庭 
当時の感想はこちら

ピラネージの「牢獄」も同じ日に見ている。

実際の廃墟と架空の廃墟。どちらをより多く見ているか。
間違いなく後者の方が圧倒的に多い。
わたしは現実の廃墟に向かうことは少ない。
これまでに数えるほどしかない。
しかし空想の産物の廃墟には慣れ親しんでいる。
ディストピアに存在する廃墟、新都繁栄の陰に打ち捨てられた廃墟、豪奢な時代の中でこそ夢みられる廃墟…
退嬰的な美を感じさせるからか「廃墟」という言葉自体にも人の心を惹くものがある。

ここにもユベール・ロベールの廃墟の絵がある。
時代背景を考えれば当初は豪奢な時代での空想の楽しみだったが、半ばからは粛清の嵐の中での制作だったのだ。
何故そこまでして廃墟に拘るのかを考えるとこちらも深い淵に落ちてゆく気がする。

アシル=エトナ・ミシャロン 廃墟となった墓を見つめる羊飼い  こういう絵を見ると、この作者が20歳でこれを描き、25歳で夭折したのも納得してしまうのだ。
ローマ賞も貰え前途洋々とした青年の死。この墓は未来の彼のそれだったのかもしれない。

アンリ・ルソー 廃墟のある風景  町の中に突然こんな建物があるところがおどろおどろしいのだよ。しかも昼間に。
なんとなく「妖怪人間ベム」の世界観に近くないか。
この溶けたような建物の中で誰か異形のものがいて…

ピラネージ「ローマの古代遺跡」シリーズがある。
いつも思うのだが、かれは新築ですら廃墟に描けそう。神殿のドームも無残に砕けている。
異教の髪を祀る場だからというのでなく、本気で廃墟が好きだったのだろうなあ。
そして外へ出ることのできない空間も。

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彫像を集めに集めたような廃墟である。
中にヤヌスのようでいてそうでないものがあった。
人と猪とがくっついている。
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変身したのだろうか。

英国のコンスタブルもターナーも実はニガテというか関心がわかないのだが、しかしメゾチントで表現されたストーンヘンジは別だ。官能的なまで魅力的だ。近くからではなく程よい距離感からの眺め。

ピクチャレスクな眺めが好きだ。
だからジョン・セル・コットマンのエッチングはいい。
ターナーの友人だったそうだが、27歳で亡くなっている。
そのことからしても妙に惹かれる。

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浮世絵の絵師らの浮絵に時折現れる不思議な建物と空間。
西洋絵画を浮世絵で再現しようとするからへんなことになる。
だがそれもまた面白い。
彼らは別にこの展覧会の趣旨に沿うような世界観を以て作画したわけではないのだが、不思議なダメバランスを見せてくれるので、描いた時点で「廃墟」確定なのかもしれない。

面白いのは近代日本の画家たち。
小野竹喬はローマの廃墟を水彩素描したが、色合いがその当時、1920年代の彼の絵そのものになっていた。
この色彩感覚の妙な不調和が後に消えるのを知るだけに、何か楽しいような心持になる。

近年大きく取り上げられるようになった不染鉄。廃線を描いた絵が出ていた。
手前に民家の並び、奥に巨大な鉄くずと化した船の大きな姿。
わたしはこれを見ると原作の方の「風の谷のナウシカ」を思い出す。
かつては星へ飛んでいけた船の残骸。あれだ。
「ナウシカ」もまた「廃墟」を多く描いている。
腐海は人間の居住空間を廃墟とし、その上に広がり続ける。

今回初めて知ったことがある。
佐賀の殿様について明治初期に洋行した百武兼行。かれが日本人初の廃墟の美を描いた画家らしい。
1878年、バーナード城 この瓦礫がいい…

廃墟について少し考えたのだが、日本で廃墟と言うものが生まれ始めるのは明治からではないか。「荒城の月」などは廃城の産物だ。
戦国時代などは壊した後に新しいものを建てることもあり、残したままにはあまりしない。
遺跡と廃墟とはまた少し異なる。
そのことを考えるのも面白い。

山口薫、難波田龍起らのシュールな廃墟。
藤島武二のポンペイの廃墟も岡鹿之助の廃墟も、色彩が彼らの手わざそのままだったのが面白い。
矢橋六郎は知らない画家だが、1937年の廃墟は時代もあってか妙にモダンに見えた。

デルヴォー、マグリット、キリコの廃墟が集まる。
時間が止まった世界。
時間の廃墟。

日本の戦前のシュールレアリズムの作品群に廃墟は存在する。
これは時代背景と関係があるのだろうか。
そして戦後すぐには明るい空虚さが生まれる。
並ぶ作品群を眺めながら「私の青空」の歌がアタマの中を巡る。

最後に野又穫の作品を四点眺め、結局これが最も心に残った。
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交差点で待つ間に 2013

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犬は生きている。
道に犬がゆく。

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