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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

明治の洋画家

尼崎市初代市長で洋画家の櫻井忠剛展を見た。尼崎藩の藩主の子で姉が勝海舟の長男に嫁した関係から、川村清雄に洋画を習った。今年目黒で川村の回顧展をしたが、フランスでアカデミックな教育を受けたにも関わらず、明治の世が未だ本格的な洋画を受け入れられないことを悟ったのか、川村は大変日本的な洋画を描いた。油絵師ということだ。その弟子なのである。
以前から川村の弟子・伊藤快彦は知っていた。京都の近代美術館で何度か目にしている。弁慶が三井寺の鐘を力任せに引きずる絵だとか、護良親王が長持ちに隠れようとする絵とか。―つまりその頃の日本人の誰もがよく知る物語を洋画で表現していたのである。
櫻井はその相弟子で、板に直に油彩画を描いた。杉の木目を利用したようなバラの活けられた花瓶や、能のお道具の絵を多く描いた。尼崎は義経の時代既に知られた町でもあり、近松門左衛門などを生み出した土地柄だけに、旧家も多い。
櫻井の絵の所蔵は、そうした旧家によるものが多く、あとは星野画廊の所有と尼崎市がによる。
バラの絵はピンク色の使い方が大変によかった。一体バラが日本の風土にいつから根付いたのか、私は生憎それを知らない。しかし明治中期には既にバラを描く洋画家がこうして存在するのだ。
バラはその少し前時代のフランス・アカデミックな様相を呈している。同時代すでに後期印象派がフランスに育っているというのに、こうした前近代な絵を描く状況が、当時の日本だったのかもしれない。しかし夭折した青木繁と言う例もあるので、これはなんとも言えないのかも知れない。
櫻井の絵は温厚で、不穏なところは一つもない。その当時の日本家屋に似合う油絵なのだ。洋間はなくとも、これらの絵はまるで扁額か絵馬のように飾られていたのではないか。
私はバラより白椿と白梅に惹かれたが。

師匠の川村が創案した漆塗板絵を櫻井も踏襲した。
その大方はお能の絵である。漆はその性質上、長持ちする。そこに油絵の具で描かれたのは能面と謡い本などである。
正直、これが凄まじかった。どう凄まじいかは、見たものでないと感じられないのではないか。
能面が生きている。いや、生存していると言うのではなく、死体のようなナマナマしさがあるのだ。ただし本人は別にグロテスクな趣味・嗜好で描いたわけではないだろう。しかし見る者はこれらの能道具の絵の一群にある種の気味悪さを感じるのは間違いないだろう。
小面と尉などが枕に寝かされている。開いた口、顔に当る影。重ねられた謡本。なにか情死したようなおとことおんな、そんな感じがするのだ。私一人の感性ではないだろう、きっと・・・

師匠の川村や浅井忠や伊藤の絵も出展されている。浅井のは京都市立美術館や近代美術館で今もよく展示される絵が並び、川村は勝海舟の肖像画などだ。川村も伊藤も能面や演目を題材にした絵を残している。前述したが、伊藤は弁慶や太平記を描くだけでなく、ここでも熊野や道成寺を描いている。物語を描く対象に選ぶところに伊藤のロマンチストな感性を見たが、伊藤は気の毒に回顧展がないので、詳しくは知らない。しかし技法は別として、イギリスのラファエロ前派と同じ世界ではないか。
熊野は童女を共に母の元へ帰ろうとしている。能面ではなく、平安時代の女の姿を描く。その裏面には花の絵がある。
山内愚僊という画家は初めて知った。大阪市立近代美術館準備室に所蔵されている『朝妻船』と赤松麟作『孔雀』が並ぶが、朝妻船に乗るのは烏帽子をかぶる女で、池か沼には睡蓮が咲いている。孔雀は表装も面白かった。こちらも鳥なのである。更紗かもしれない。
共に油絵であることを強く感じる。

絵のほかに尼崎や櫻井の資料が並ぶ。
大阪から西へ向かったときの最初の主要都市であるだけに、尼崎には昔から様々な産業がある。櫻井は旧藩主の息子だけに、市長となって長い間、尼崎に尽くしたようだ。立派だと思う。元の殿様は時代が変わっても領民のために善政を敷いたようだ。
尼崎から大阪市内の一部と北摂の一部の地図が何枚か出ている。
明治、大正と見るうちに興味深い発見などもあり、時間をかけて眺めた。尼崎はこういう点、自分たちの都市に懸命だと思う。文化的だと感じる。
櫻井忠剛のスナップ写真も見たが、なかなか好青年で、二十歳前後の写真はちょっと清潔な色気に溢れていて、好感度が高い。また、宴会で女物の着物を着た櫻井もきれいだと思った。
やはり殿様なのである。
よい展覧会だった。

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