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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

熊谷守一展

先月、はろるどさんと埼玉県立近代美術館へご一緒した。
熊谷守一展を見た。
ご一緒する方の感性が鋭いと、こちらも良い具合に引きずられて、たいへん楽しく作品に向き合える。

熊谷守一と言えば「モリカズ様式」と呼ばれる極めて独特の絵がすぐ浮かんでくる。
究極に簡略化されたラインと明るくハキハキした色調との調和。
忘れることが出来ないその姿。
展覧会は年代ごとと対象との5章に分かれている。
こちらは美術館が出したアートカルタ。絵柄は天地無用になっているから見るのにイチイチ首を傾けたり絵を横にしたりしないといけないが、重要な作品や好きな絵が多く載るのが嬉しい。
mir560.jpg クリックしてください。
(文中では以後カルタと称し、上段左から右に向かって12345、最上段から最下段にかけては一、二、三、四、五と表記します)


第1章 形をつかむ
美校時代には同級の天才・青木繁にも一目置かれていたそうで、ここに並ぶたとえば肖像画などはアカデミズムでありながらも、その当時の彼が望んでいたものが滲んでいるように思う。卒制の肖像画は全て藝大に収蔵されているから、これは上野で機会があれば見れる。この頃の作品は、蝋燭の明かりに照らし出されるような重暗い明度のものが多いが、どことなく中村不折を思い起こさせもする。いかにも<明治の油絵>という感覚なのである。だからこの頃の作品の作者が、後の明快な作風に転じるのが信じられないと言うか、別人のように思えた。

カルタ一の5『馬』この白馬は守一の愛馬で、見るからにおとなしそうな馬だった。
ところがその愛馬を兄に売られてしまい、彼は随分泣いたそうだ。
「コレ青よヨク聞けよ」だと塩原多助だが、そうではなくどうもドナドナ的な・・・。


第2章 色をとらえる
人生の転機もあり、画風の転換期の予兆が見られる時代に差し掛かった。
試行錯誤の時代というか、どことなく「あ、これこれ」なものが見受けられてくる。

カルタ二の5『風』 背景に虹のようなものが描かれている。薄い色調。まだまだ個性を打ち出すところまではいかない。

カルタ三の5『烏』 赤茶色な空、ゆるい丘陵、カラスたち。夕焼けに包まれているのだろうか。
この絵には素朴な愛らしさを感じる。

第3章 天与の色彩
「対象を輪郭線で区切る守一の手法を、
「守一様式」と呼ぶことがあります。この手法が定着したのは1939年前後からです。」
解説にそうある。
熊谷守一のパブリック・イメージの作品が現れてきた。
正直なことを言うと、「会えて嬉しい」作品たちが溢れてくる感じなのだ。
どれを見てもいい、と思うのは既に熊谷の魅力にハマッているからだろう。
120点も並んでいる。一つ一つ丁寧に見たが、全く飽きない。

カルタ一の4『松並木』 松の幹、道のくねり、緑のたわみ。なんとも言えず良い絵。下半分のスッキリさと中から上への混雑振りが却って「いかにも松並木」な感じがある。

カルタ二の1『宵月』 極端な単純さと言うものは、恒久的に生命を保つ。
これを見たとき、オランダのディック・ブルーナーを思い出した。
ミッフィーやお友達はみんな五色までの世界で生きている。
ブルーナーと熊谷と東西に分かれた双子のようなところがある。

カルタ二の3『雪』 こちらは白地に茶色い影の雪で、既に降り止んで残雪になったものに見える。会場ではその隣に同じタイトルの絵を置いている。こちらは水色の空に黒い影が描かれた雪だった。白色一つにしても、こんなにも鮮やかなのは、不思議なくらいだった。

カルタ三の1『櫻』 桜の花びらと小禽。この構図は福田平八郎的だと思う。福田のシンプルさもまた、大人になってから愛するようになったが、熊谷もそんな画家なのだった。

カルタ四の3『蝉』 一言「カワイイ??」黄色い幹にとまる茶色い蝉の可愛さは本当にすばらしい。自然を友として晩年を過ごした熊谷らしい作品だと思う。

カルタ三の2『夕月』 この絵を見て「坂本繁次郎みたい」と思ったのはわたしだけか。他にもそんな方がおられると思う。和風のお約束のような色調。

半券につかわれたのは『白猫』 毛の柔らかさは感じないが、猫らしさがとてもよく伝わる。
たいへん好きな作品。
mir561.jpg

『椿』 日本一小さな洋画。3.3x4cmの大きさの絵を入れる額は、無論日本一小さいものだった。私もこの絵はとてもよいと思う。

『揚羽蝶』何点もアゲハを描いたものが出ていたが、どれもこれも本当に愛らしく、そしてきれいだった。わたしは蝶が好きなので、すぐにヒイキするのだ。

カルタ四の5『ヤキバノカエリ』 子供さんを亡くされたつらさを描いたものは、以前に激しいタッチのものを見ている。これは娘さんの死後に描いたもの。
わたしは最初にこの絵を知ったのはいつだったか、絵とある詩とを同時に知った。
『呪詛の歌』 「地婆 鬼婆 牙 八重歯  行く先墓場 途中に焼き場」
・・・この詩と絵とが接合して離れになくなってしまった・・・

第4章 守一の日本画
簡素きわまる洋画は、一見したところそんな二時間もかかっていないようだが、実は魂をすり減らすくらい慎重に描かれていたそうだ。ところが日本画のほうはご機嫌さんなまま、人前でもなんでもスーイスイと描かれたと言う。そして揮毫したのを人にあげもしたようだ。

カルタ五の1『つばめ』 燕の飛行する姿を捉えている。羽の部位の墨のかすれがそれを教えてくれる。
余技の楽しさと言うものが日本画には見える。描き方は南画風にも見えた。
見るからに「明るい気分で」描いているのかよくわかる。


第5章 変幻自在の書
『人生無根蔕』 じんせい、ねもなくへたもなく・・・『サヨナラだけが人生だ』ですね。
書にはあまり関心がないのでどうなのかわからない。しかし味わい深いものを感じるのは確かだ。
堅苦しさのないところがよいのだろうか。
わたしは洋画家の書には優しい気持ちを向けることが多い。須田剋太、中川一政など・・・

見応えのある展覧会だった。充実したのを感じる。
『鯤』が出ないかなと期待したがなかったのが、惜しかったようなもする。
京都からは『獅子頭』も出馬していた。嬉しい気分である。

常々はろるどさんの展覧会の感想を読むと、作者の精神性とかその背景などにも言及されるので、わたしのようなエエ加減なのとは大違いだな、といつも思っていたが、なるほどはろるどさんの視線は鋭いと感心した。
取捨選択の方向性が異なることが、たいへん興味深かった。
また何かにご一緒したいと思う。

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