FC2ブログ

美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

ヴィルヘルム・ハンマースホイ

ヴィルヘルム・ハンマースホイという画家をこれまで知ることはなかった。
西洋美術館で彼の回顧展があると言うので、出かけた。
「静かなる詩情」と副題がついている。
チラシを見れば背を向けた女性の静かな姿がある。
うなじが綺麗だと思った。
時折こうした静かな絵の世界に出会うことがある。
たとえばそれはフェルメールやカリエールといった画家の作品なのだが。
そこにハンマースホイも続くのだろうか。
mir897.jpg
ハンマースホイという名前はどの国に帰するのだろうか。帰属する国家はデンマークだと聞いた。
するとこの姓はこの国には他に活きているのだろうか。名のヴィルヘルムはドイツ語圏から北欧に活きているが。
・・・そんなことを思いながら会場に入る。
モノトーン。
デンマークはそんなにも日当たりのわるい国なのか。

「音のない世界に包まれているかのような」・・・その静寂な感覚が心に安寧を齎す場合と、そうでないときがあった。
眺める内にハンマースホイが偏執的なまでに、室内に拘っていることに否応なく気づかされる。
外のつながりは微かな光だけ。
しかもその光というのは、黒の中の光ではなく、白の中の光なのだ。
白い光は忽ちのうちに壁の白さに飲み込まれる。

空間がある。室内空間。
空間はしかし、四角いものではなく、連続性の感じられない途切れ方をしている。
眺めるわたしはどの位置に立てばよいのだろう。

イミール・ハノーワという人の言葉がプレートにある。
「ハンマースホイは広大な灰色の空を持つ大胆な風景画に、また、いにしえの美しい建造物の大きな灰色の塊に、自分の魂とメランコリーを最後に吹き込んだ」
1907年の言葉。
その年、ハンマースホイは『クレスチャンスボー宮殿の眺め』という作品を描いている。
しばしば現れる宮殿は、しかし描く位置がずれることで、微妙な変化を見せる。
1890年代に描かれた宮殿、1907年、1909年・・・緑青が吹いたような美しい緑色のドームが見え隠れしたり、玄関ホールが出現する。
体温のない風景画。雪に埋もれようと秋の豊饒な輝きに照らし出されようとも。

曇天。陰鬱とまでは言わないが明るい日ではないことが、心持を静かにさせる。
それは静謐な心持と言うのではなく、抑制されての沈静なのだ。
くすんだ白磁のような背景。救いのない白。
だんだんわたしも重く沈む。

旧アジア商会。彼の長く住んだ家の向かいにある建物。後にそこへ彼は移る。少しばかり異国風なところが見える建物。
窓の向うの建物。

かつては倉庫、現在は美術館となった『リネゴーオンの大ホール』1909年。
天井の漆喰装飾も優雅なままだし、傷んでいるわけでもないのに、なんとなく廃墟のような空虚さがある。
絵には圧倒的に温度が足りないのだった。

意外なことに画家は南欧に旅をしている。
アンデルセンの故郷オーデンセ美術館に所蔵されているローマの聖堂の絵。
柱列が美しい白い絵。アーカンサスとイオニアと。
古代羅馬の聖堂だと言われれば古代羅馬だろうし、その当時の丁抹だと言われればそうか、と頷くだろう。

即興詩人もローマに出かけ、カタコンベで道に迷った。
「君よ知るや南の国」可憐な少女の歌声が画家の耳に通ったのか。
ローマを描いたものはこの一作だけだと言うが、画家は三度もローマに出かけたのだ。
一体ローマに何をしに行ったのか、何を求めてローマに出向いたのか。
ローマは画家の精神に何の変容も与えなかったようだが。
ただ、他の絵には見られない金色が、目に残る。

自宅の室内に固執しただけに、グリッド窓からの静かな日差しが美しい。
日の光が白いことを初めて知ったような気持ちで眺める。
人のいる室内。
しかし温度は変わらず低い。まるで画家と言う<人>も存在せず、ここに住まう幽霊が見る風景のようでもある。
若い女が三人いてもそれは変わることはない。彼女たちは視線を交わすこともなく、互いを意識する風でもない。
人間関係としては相互につながりがあると言うのに。

ハンマースホイの絵には子供は存在しないのかもしれない。
子供と言う生命体の発するエネルギーを彼は欲さなかったのだろう。

死都ブリュージュ。その作者ローデンバックと同時代人であるハンマースホイ。
クノップフが描いたその都市風景をなんとなく思い出し、比較してしまう。
しかし二人の画家の絵には共通するものは、ない。

コインコレクターという作品があった。この絵にもう少し彩色が加われば、フェルメールの世界に入るかもしれない。

中庭の眺め、として描かれた絵を見て関東大震災の後に建てられた同潤会の共同住宅を思い出した。
もう殆ど失われた建造物。人の存在はなくとも、生きているのを感じた。

しかしながら彼の描く妻イーダの変容の激しさには眼を覆いたくなる。
花に水をやらなかったのは、男の罪だ。そしてそれを曝して描くのは、画家の業なのか。
使われた緑色。西洋絵画で人体に緑色が使われるのは、死体の描写だ。
生きながら葬られたような妻。

イーダは後姿を描かれる。無理な姿勢での作品もある。微笑むものは一枚だけ。
静かではあっても、安寧ではないような世界。
イーダを見ていると、まるで似ていないのに、ハンス・べルメールの写真作品を思い出した。
妻ウニカを肉パーツとして緊縛している写真。
なんとなく、どちらも哀しい。

自宅を多く描いたと言うが、眺めるうちにここは共同住宅の一室ではなく、解放病棟ではないかと疑念が湧いてきた。生活臭がどこにもない室内。不可思議な構造の描写。

CGでこの室内が再現されていた。把握できない空間構造。再現はあくまでも推測に過ぎない。
本当にこの室内は存在していたのだろうか。

展覧会を見ながら、いくつかの映画を思い出していた。
バスティアンとバスティエンヌ 湖畔にて、ワン・フルムーン・・・
どちらも室内よりは戸外の情景が多かったのだが。

魅了されたのか、忌避したのか、自分でも判別がつかないまま会場を出た。
ハンマースホイ展は12/7まで続いている。秋から冬に相応しい展覧会かもしれない。


関連記事
スポンサーサイト



最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

フリーエリア