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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

高山辰雄遺作展

高山辰雄の遺作展後期に出かけた。
「人間の風景」と題されている。
去年追悼記事を書いてから、もう一年も経っていたのかと秘かに驚いた。
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練馬区立美術館。ここではこれまで『金鈴社の五人』『秦テルヲ』展などを見てきている。
都下の区立美術館は複合施設である場合が多く、ここもそうだが、それだからか和やかな雰囲気がある。
楽しそうなざわめきが眼下の公園にある。
しかしそれは窓ガラス一枚隔てたこちらにまでは響かない。
館内には整えられた静けさがある。
高山辰雄の絵にはそうした和やかさと静けさ――静謐さがある。

最初に高山辰雄の作品を見たのは山種美術館でのことだった。
『坐す人』 修行者らしき男が銀色とも灰色ともつかぬ中に端座する姿。
それを見たときに一種異様な衝撃を受けた。
修行者の持つ禁欲性と、願いへの渇仰、それらが強い力となってこちらに押し寄せようとしつつ、抑えられた色彩によって封じ込められている。
正直なことを言えば、この時初めて「現代日本画」を認識したのだった。

ところがその後はこんな強い力を感じる絵には会わなくなった。
そしてそれから以後、山種でこの『坐す人』に出会ったことがない。
わたしのタイミングが悪いのか、それとも『坐す人』はいよいよ深く修行に入ったのか。

ニガテさと引き寄せられるものとを同時に感じながら、高山辰雄の作品に出会う機会が多くなっていった。
当時彼は現役の画家だったのだ。

’93.6月、わたしには年のうち何日か個人的に忌避する日があり、その日は大抵日常から離脱する。(それは今も変わらない)
その日わたしは麹町を歩いていた。小川美術館で高山辰雄の新作『聖家族』展を見るために。
そのときの感銘をここで再現することは不可能だが、高山辰雄が大切な存在になったことは確かだった。

そして’01年『日月星辰』シリーズ。辰雄の辰は辰年の辰ではなく星辰の辰なのだと知らしめるような個展。大丸の広い壁一面に広がる作品群。
静かな感動がそこにはあった。

遺作展では初期の頃からその最晩年に至るまでの作品が並んでいた。
前後期に分かれているため、久しぶりの再会を望んだ『砂丘』はなかった。
健康的な少女のいる風景に会えないのは残念だったが、『日盛り』という叙情性豊かな作品に出会えた。
ずっと遠くに工場が見え、水運びをする人の姿がある・・・
70年前の日本のどこかの景色。

『明るい日』 緑の中に寝転ぶ少女がいる。白いワンピースを着た少女はあまりに長くそこにいるためにか、緑に侵食され始めている。
葉緑素。白に浸みだす緑。不思議な感覚がある作品。

『春光』 洋犬がいる。これはボルゾイのような犬。伏せの姿勢を取る犬。
しかし待機しているのではなく、実はだらけているのかもしれない。
同じような洋犬でも橋本関雪の犬はキリッとしている。こちらはダラ?。

‘73年の第一回目『日月星辰』展で発表された『朝』『夕』を眺める。
哲学的思索を絵の中で表現した作品。
スフィンクスの謎解きもゴーギャンの画題も実は等しいものだ。
朝・・・人間はどこから来てどこへ行くのか。
夕・・・人間の休み。
金泥の水路、濃い金の日、輪廻する時の、その一瞬を切り取ったような朝。
金地にピンクのドレスを着た女、灰水色の木々、対する少女と女のいる夕。
画家が何を伝えたかったかは、本当にはわたしにはわからないが、それでも何かしら静かな納得があった。

‘80年代以降、院体画の花鳥画を思わせる作品が現れ始める。
印象深い花の絵。牡丹のけぶるような美しさ。
籠に、銅器に、阿蘭陀壷に、ガラス器に。
それぞれ違うものに活けた牡丹の美を味わう。
20年前の美品たち。
同じ花を描いていても、まるで違う国々の花を描いたように見えた。

やがてここにも『聖家族』が現れる。
この聖家族は固有名詞としての聖家族ではなく、普遍的な言葉の意味を持つ聖家族なのだった。
父がいて母がいて子供がいる。優しく暖かな空気。
ここには以前から高山辰雄が描き続けていた幼児の『食べる』姿も内含されている。
独特の風貌・・・閉ざされた唇、寄り目、優しい微笑。
その微笑は万人に向けられたものではなく、自身の内側からあふれ出たものなのだ。
自然な満足からの優しい微笑、愛する者と対した時の微笑。

わたしは『聖家族』という言葉を聞くと第一に思い出すのは幼児キリストと母マリアではなく、堀辰雄『聖家族』と高山辰雄『聖家族』なのだ。

『トラックトレイラー』 トラックの前に佇む男と幼女。二人は父と娘なのだろう。輪郭だけ描かれたおもちゃのようなトラック。霧の中から現れたかのような。
頭の中を優しい音楽か流れてゆくような作品。

満開の薔薇、あるいは満開の牡丹。それを活けたそばにいる小禽。
その構図を好んで描いたようだが、ここにはそれは並べられなかった。

やがて絶筆へ至る前の自画像がそこにある。
杖をつく手だけがはっきり見えているが、顔は曖昧に消えている。
高山辰雄その人が自分の絵画世界に溶け込んで行く暗示なのかもしれない。

坐す人の姿はなくとも、深い満足を覚える展覧会だった。


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コメント
こんばんは~(^^)
高山さんが旅立たれてからもう一年ですか・・・早いですね。。
少し前にも、「新日曜美術館」で特集されていましたよね♪
神宮美術館に行ったらいつでも高山さんの作品に会える・・・なんて思ってるので、なかなか絵を見る機会をつかめていません。(^^ゞ
やっぱり東京はいいですね~。美術館が多くて・・・
ふっと思い立った画家の展覧会が、すぐそばで開催されている、というようなシチュエーションがたくさん作れそうな気がします。

初めに載せていただいている絵も「聖家族」というのでしょうか?
私はやっぱり聖母子像とかぶらせて見てしまいます。
あと、ピカソの描く家族像にも通じるものを感じます。
2008/10/28(火) 23:20 | URL | tanuki #s.Y3apRk[ 編集]
☆tanukiさん こんにちは
冒頭の絵は『森』というタイトルなのですが、これもやはり『聖家族』だと思います。
優しい雰囲気とそしてどこかおごそかな何かを感じますよね。
ピカソの若い頃の家族像にもこれらと共通する優しさを感じました。
なにかしら静かな心持になるのは、その優しい静けさのせいかと思ったりします。
2008/10/29(水) 09:07 | URL | 遊行七恵 #-[ 編集]
こんばんは。TBをありがとうございました。
失礼なたとえかもしれませんが、高山さんとは長いおつきあいなのですね。衝撃的な出会いから、距離を置かれての恋愛の関係(?)まで、一人の画家と向かいあうその道程を興味深く拝見させていただきました。(私もいつか高山に惚れることを願って…。)

記事にしませんでしたが、聖家族も温かみのある良品でしたね。にじみ出る慈愛を感じました。
2008/10/30(木) 22:06 | URL | はろるど #-[ 編集]
☆はろるどさん こんばんは
そうなんです、長い間に蒸留されてゆくような恋愛感情が、そこにあったと思います。
騒ぐほど好き、居たたまれなくなるほど熱烈に好き、と言うのではなく・・・じぃっ と好き。
そんな感じなのです。
2008/10/30(木) 22:23 | URL | 遊行七恵 #-[ 編集]
こんばんは
高山辰雄さん、わたしはもっぱら『日月星辰』だったので、聖家族のシリーズになってついていけなくて、長いこと敬遠してました。でも、やっと今回向き合えて、何故逃げていたのかと、後悔しきりでした。
2008/10/31(金) 21:48 | URL | すぴか #-[ 編集]
☆すぴかさん こんばんは
わたしは『聖家族』で目が開かれたようです。
こうした作風は孤高だと感じますが、決して淋しくはないですね。
画家はなくなられましたが
作品はこれからも輝き続けます。
機会があればまた出会えますから、楽しみたい、と思います。
2008/10/31(金) 23:17 | URL | 遊行七恵 #-[ 編集]
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