ムットーニの実演があるとなれば、多少の犠牲を払ってでも見に行きたい。
八王子夢美術館の実演の時間に間に合い、大勢の観客の隙間に入り込んで、その口上を聞く。
独特の声、不思議な抑揚。
ムットーニの幻術に入り込んでゆく快さを感じる。

ムットーニを造物主として生み出された世界。
それはこの世に共生してはいるが、全く別個の世界である。
この世に活きる別な世界。そしてそれは時折こうしたカタチで我々の前に供される。
供される、と書いたが実際には「饗される」というべき、歓びがそこにある。
「グロリア マリアが来たりて」
タイトルを語るムットーニの声。荘厳な音楽と光、そして微笑む口元と目尻の下がる大きな目の女がそこに現れる。
たとえばこのタイトルが全く違うものであっても、我々はムットーニの口上を聞き、そして目の前の動きに酔い、歓声を挙げ続けるだろう。
どこか不気味さを漂わせた町(または室内)、不可能な恋愛、帰ることの出来ない道、そこで繰り広げられる不可思議な夢・・・
それらがムットーニによって差し出された供物だとすれば、我々はその供物を気づかぬままに(あるいは十分に意識して)貪り、その結果として道をなくしてしまうのだった。
口上がなくとも、自動人形たちが動き出す時間がある。
時間。時間は人間の意識の中ではどのように捉えられているのだろうか。
1分は60秒、1時間は60分、または3600秒で構成させている。
分割すればこんな形も生まれる。15分が四つ、20分が三つ、25分が二つと余り10分。
自動人形たちは、その定められた時間の流れとは異なる速度の時間を生きている。
時計形タイマーを胎内に仕込まれたからくり箱たち。
開かれる世界、閉ざされる世界。
箱の中にはそれぞれの生があり、時には死がある。死を前提とした生、というべきか。
誰か他者の生み出した作品世界を種として生まれた物語が、まったく異なる様相を見せることがある。
ムットーニという土壌が種を溶解し、再構築し、新たな遺伝子をまとわせて、外界へ吐き出すのだ。
宮沢和史の詩も、漱石の悪夢も、村上春樹の小説も、すべて遠く離れた地に着地し、ムットーニの遺伝子を受けた花を開かせる。
仕掛けのないジオラマが展示されていた。
鶴見ジオラマ。昭和40年代頃なのか、そんな匂いがする。
ここには物語はない。表立った事件もない。しかし「何もない」とは言えない。
この町の一軒一軒の家の奥にこそ、物語がある。
ただそれをムットーニは隠しているだけなのだった。
一人でみつめる装置が設えてあった。
2009年、今年作られた新作たち。不思議な気持ちで一つ一つをのぞいた。
・・・・・・わたしはいつ、この展覧会の会場の外に出たのだろう。
記憶がはっきりしない。どうやって出たのか。
八王子での実演は7/5で終わっている。
しかしわたしは思うのだ。
わたしの心の半分はムットーニのあの新作の箱の中に封じられているのだろうと。
今度またどこかでムットーニの実演があれば、必ず出かけなくてはならない。
わたしの心の半分を取り戻すためにも・・・・・