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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

絵画の庭 ゼロ年代日本の地平から

国立国際美術館が今の地に移転して5周年と言うことで、記念展「絵画の庭 ゼロ年代日本の地平から」が今日から始まった。
チラシは奈良美智「the little judge」2001年の作。ワカメちゃんカットの女の子が暗い水の中に立ちながら、小さな灯りのような筆を前方に差し伸べている図。
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28人の現代作家の近作・新作が集められている。200点ほどがB3とB2フロアで展開している。わたしは現代作家に殆ど関心がないので名を見ても、作品を見ても、知らないだらけだった。

今日は初日と言うことで午後2時から講堂で「作者と語る」第一回目が開かれるそうで、整理券が配られていた。
講演会もトークもニガテなので行かない。行ってレポを挙げれたら、関東のブロガーの皆さんへ、関西に住むものからのプレゼントになったろうが、申し訳ないがアウト。
この感想文にしても、現代アートシロートの私が勝手に書くのでアテにはならないだろう。
では書かなくてもいい、というくらいのものだが、それでも心に残ることがいくつかあるので、やっぱり書くことにした。
シロートのザレゴトとして、外れたことを書いててもムシしてやってください。

展覧会のサイトにこんな一文があった。
「本展でご紹介する作家の多くは、新しさを一義的に追求することなく、目に見える世界を素朴に再現するものでもなく、個人的で日常的な視点から、描くことそれ自体を肯定し、時代の閉塞感さえも軽やかにあるいはアイロニカルに捉える自在さを具えています。また、完成作としてのタブローばかりではなく、ドローイングの瑞々しい表現を積極的に駆使し、挿絵や絵本、マンガなどこれまで周縁的なものとして排除してきた大衆文化の養分をも吸収した斬新な作品群も数多く見られます。」
・・・それならある程度わたしもわかるかもしれない・・・
しかし最初からひるんだ。
28人の作家には順番がふられていて、そのトップバッターからわたしは引いていた。
次のヒトには恐怖さえ感じた。「神聖喜劇」を思い出して、息苦しくなった。その大画面が耐え切れず、次の間へ向かった。

3番は奈良美智だった。正直言うとやっぱりニガテなのだが、それでもこの人の作品を拒むことはない。なぜニガテかと言うと、自分が子供のときのナマナマしさが蘇るからだ。
(つまりそれだけ彼の作品のつよさに押し切られているわけだ)
After the acid rain ここに描かれた少女は甘い目つきと口元を見せていた。眼には紫の光があった。それを視るうちに妙な妄想が湧き出してきた。
マンガ家やまだないとの描くセーコー図が浮かんできていた。やまだないとは独特の線描ではっきりとセーキを描く。なんでそんなものがアタマの中に思い浮かぶのかよくわからないが、この女の子の絵を見るうちにどうしても蘇ってくる。
もしかするとこの女の子の紫色の眼は、やまだないとのその図を見ているのかもしれない。 
女の子の視界から離れると、やまだないとの絵もアタマから消えた・・・

5は村瀬恭子という作家だった。薄いような色調で植物などを描いている。呼吸しているのかしていないのかわからない植物。しかしその葉陰に隠れてしまいたい思いが、ある。
次の花澤武夫の絵もそうだった。妙に居心地がいい。遠目に観る「ゴールドベルク」はまるで琳派のようだと思った。もしくは昭和初期の京都画壇の誰かが描いたような。近くによってみつめると、静かに見えた絵には動きがあった。
熱帯植物園を描いた絵にも動きがある。見えないくらい小さく描かれた動物やハッキリした動物たちがこちらを見ていた。
「地、風、火の要素」 今日見た中でいちばん綺麗な作品だと思う。

それにしても色んな作風の人がいるのだと改めて思い知った。
中には、二重の線で描く人もいて、それを見ると三半規管がちょっと揺らいでしまった。船酔いの気分になり、あわてて去った。
たぶん、3DのTVも私には不要だと思う。
しかしつらいことがある。監視する人々の存在である。
逃げ去ることを非難されているような気がしてならない。
これはどこの美術館でもわたしが勝手に感じることなのだが、現代芸術や抽象絵画のコーナーに来ると、わたしは殆ど逃げるように進む。するとその場にいる監視員から無言の非難を受けている気がして仕方ない。
なぜあなたは見ないのか。―――
逃げたいのを抑えて丁寧に見て歩かねばならないような義務感が生じてきて、それでわたしはいよいよ苦しくなる。
あくまでもそれらはわたしの妄想に過ぎないのだろうが、本当に苦しい。

小林孝亘のもとへ来た。とても好きな「forest」があった。この絵の前に立つとなんとなく癒される気がする。実物の絵もいいが、印刷されたものもいいと感じる。
むしろ複製の方が好きかも知れない。何故かはわからないが。
眠る女の人の絵がある。わたしはこんなにも安らかには眠れていない。そのことを考える。
そしてこの女の人の眠りを考える。

小沢さかえという作家の作品を見ていると、様々な物語を思い出す。
「世界の秘密は蜜の味」「世界は夢になり、夢は世界になる」
タイトルと絵の関係性を思いながら絵を見ても、それでも既存の物語を思う。
男の子と女の子が並んで座る姿は、「雪の女王」の国から逃げてきたカイとゲルダのそれだと思う。無力なカイを求めて、世界の果ての氷の宮殿まで追ったゲルダ。
「よっぱらい」にしても、よっぱらって倒れているのはロバで、それを介抱するのは猿(なのだと思うが)、やはり物語が生きているに違いなかった。

草間彌生の絵だけを見るのは今回が初めてだった。女の顔なのか、植物の蔓の曲線なのかわからないまま、そこにある絵を見る。
「花の園を行く」「花は心の中で咲いた」「恋の原で思う」「夕焼けの空」「南瓜」・・・
植物な、おんなたち。黄色い地に黒い描線が這い回り、赤い実と青い実がついている。
服地にしたら楽しいような気がしてきた。たぶん、心楽しく街を歩けるだろう。

なんとなくノスタルジィを感じた作品群があった。牧嶋武史という作家の絵には、少年とイヌらしき生物が描かれている。この人の個展を見たい、と思った。

しばらくしてまたわたしが恐怖を感じる作品が現われた。大画面に指ばかりが描かれている。しかもその指の爪は妙な形に一部が尖っていたりする。シンプルな太い線。スキンヘッドの子供。その子供が怖いのだ。漱石「夢十夜」の第三夜に現われる子供のような気がしてならない。

次に会田誠が現われた。スク水の美少女たちがいーーーーっぱいいる滝の情景。ところどころにセーラー服の美少女たちもいる。この日は泳げない理由がある少女たち。
水に浸かれば何かが滲むだろう。泳いでいる少女たちからも何かが滲んでいるだろう。
背を向けた途端、「ジューサーミキサー」が出た。
あ゛あ゛あ゛。

O JUNのところへ来たら、ご年配のご婦人に連れの同年輩の男性が、作品の見所の解説をしていた。ご婦人は言う。「ごめんなさい、わたし、帰りたくなってきました。こわいものをたくさん見すぎたような・・・」「大丈夫ですよ、ほら」
二人の前には「四股(性的人々)」と「沿岸図」が広がっていた。
わたしは一人で来ていてよかったのかもしれない。

タカノ綾という作家が何歳なのかは知らないが、なぜ「昭和35年」なのだろうか。作品とタイトルのことを考えすぎる私がだめなのか。
しかしこの人の作品は動いている状態で見たいと思った。
つまり絵画ではなく、マンガで見てみたい。どんなストーリーが生まれるかはわからないが、絵としてみるよりはそっちのほうで楽しみたい。
その欲望が募り続けている。

実際のところ、わたしがどこまで理解しているかはハナハダ疑問だが、それでも今日「見た」のは確かなのだ。明日からどうなるかはわからないが、それでも無関心でいることはなくなるように思う。
展覧会は4/4まで。
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コメント
No title
七先生、驚きました。足を運ばれたのには何か理由が?
立派に感想書かれていらっしゃいますよ。
厭なもの、苦手なものは無理されずすっとばしてしまえば良いです。

小林孝亘さんの目をつぶっているのは「small death」シリーズでしょう。
私が現代アートを見るきっかけになったのはこのシリーズを
見た時からなのです。
記事をアップして下さってありがとうございます!
2010/01/17(日) 00:25 | URL | meme #z8Ev11P6[ 編集]
☆memeさん こんにちは
行った理由は、ついったーでpandaさんが嘆いてらしたので「これはやはり地元民として皆さんに少しでもお伝えしなくては」という妙な義侠心?に駆られたのと、この日は大阪市内のミュージアムあちこち回る予定があり、足の都合で真っ先にここへ向いたのと、朝日友の会で入場無料だった、という三つの柱があったのですよ。

>「small death」シリーズでしょう
生きてる限り安らかな眠りとは縁がない、という実感が湧いてきましたよ。たしか誰かの著書の表紙絵にもなってましたよね?
2010/01/17(日) 11:18 | URL | 遊行七恵 #-[ 編集]
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