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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

日本画家・畠中光享の眼  インド・仏教美術の流伝

北大路の大谷大学博物館へ出かけた。
日本画家・畠中光享が蒐集したインドとその周辺の仏教美術の展覧会が開催されている。
「日本画家・畠中光享の眼  インド・仏教美術の流伝」
tou259-1.jpg
畠中光享は大谷大の出で、在学中から絵を描くようになったそうだが、わたしは画家の作品と言えば、陳舜臣の新聞連載小説「天球は翔ける」の挿絵を見たのが最初だった。
天球は翔ける〈上〉天球は翔ける〈上〉
(2000/04)
陳 舜臣

天球は翔ける〈下〉天球は翔ける〈下〉
(2000/04)
陳 舜臣



琉球育ちの天球の活躍を描いた小説はなかなか面白く、挿絵は清楚で、毎朝楽しく眺めていた。
そこから画家の名を覚え、気をつけていると、インド美人を描いたタブローなどを眼にするようになった。
現代インドではなく、近代までのインドを描いている。

今回も博物館の前面にやや大きめの作品が展示されていた。
二人の女性がいる風景。インドの優しい、穏やかな時間の中で。

展示されているものは画家が好んで集めた仏像や絵ばかりなので、万遍なくということではなく、偏ってはいる。しかしそれこそが画家の美意識を証明することでもある。
畠中光享という一人の日本画家の眼と心が選んだ優れた作品群を、観る。
そのこと自体に愉楽がある。

ギリシャ風な風貌を持ち、朱色が顔面に強く残る女性像がある。髪はなだらかなウェーブを見せ、両目には焦点がある。
こうした像を見ると、文明の十字路と言う言葉を実感として感じる。

チラシに選ばれている仏頭はどういうわけか、反転されている。
実物と対峙してそのことに気づいた。
何故そんなことが起こったのかは知らない。
物理的なミスなのか、確信犯的な行為なのか。
どちらでもいい、というわけにはいかない。
しかしどちらもまた美麗であることは確かだ。
こちらは反転した画像。tou259.jpg


チベットの阿弥陀の仏画を見る。華やかな彩色の仏画。去年チベットの少数信仰のボン教という宗教のタンカを民博で観た。仏教とは違う信仰ながら、どちらも華やかな彩色だと思った。チベットの彩色の華やかさは何に基づくものか。
18世紀の阿弥陀浄土変相図。救いを求める腕が何本も何本も伸びている。

インドで仏教が完全に衰退したのは13世紀だった。
そして仏陀への信仰の深さがインド人に仏像を造らせなかった要因だと知った。
だからインドの仏像に期限があることを知ったのだ。
ずっと以前から不思議に思っていたことが、この展覧会でやっと解けた。
解けた糸はどこへ絡まるか。
仏像の足首に巻かれる気配があった。

北インドの12世紀の絵入り貝葉経があった。一文字も読めない文字の羅列と、腕が六本ある女の仏像が描かれている。女の顔は怖かった。
この時代でもまだ貝葉経が活きていたのだ。

tou260.jpg
偶像崇拝を憎む回教徒による破壊が行われたが、ようよう生き延びた仏像たちには、独特の美がある。
額に「第三の眼」を持つシヴァ神像も破損しているが、みにくさなどまるでない。
しかしこの画像も実は反転されているのだが。(右端図)

砂岩製の仏像が多い。風土のことを考える。その土地の、どの素材で像が生まれるかを考える。
石像ではなく砂岩であることが、その像をいよいよ神秘的に見せる。

欄循を見る。砂岩で出来た飾り柱。三宝が描かれているが、インド風なので三宝と言われても実感がない。日本にたどり着いた頃には全く異なる形に変わっている。
こちらかオリジンだとしても、なにかしら別なものを見るようで、面白い。
むしろその紋章はブルボン家のそれのようにも見える。

インドには仏教と並行した時代、むしろそれ以前からジャイナ教という宗教もあったが、その教祖の像が二点ばかり出ていた。砂岩。性器まで刻まれている像。インドの像と言うよりメソポタミアの壁画のようなイメージがある。
一点、子供らと手を繋ぐ像もあった。仲良しのイメージなのかそうでないのかはわからないが、何かの意図がないとこうは作られない。

クメール佛が現われる。
観音立像。何の飾りもない、肉体だけの像。
随分前にロックフェラー・コレクションのクメール佛たちを見て、その静謐な美貌にときめいたものだが、ここにある仏像もまた、ひどく静かな佇まいを見せている。
少し前にハンマースホイの作品世界に触れ、強い衝撃を受けた。
その静謐な世界に打たれたのだ。
いま、クメール佛を目の当たりにして、この静謐さもまたハンマースホイのそれと同じものだと思った。いや、そうではない。
この静けさは茶を喫した後の静けさと似ているのだった。
なんという美しい静けさだろうか。
その静けさにいつまでも包まれていたいと思った。

不意にネパールの仏像がそこに出現した。
出現した、としか言いようがない。ガラスの向こうに展示されているが、それはいきなりその場に出現したかのように、唐突感がある。
木造佛である。インドラだと説明がある。雷帝インドラ。不意の出現はそれを示唆しているかのようだった。

ディーパンカーラ その名称を聞いても読んでもよくわからない。燃灯佛とある。なんのことか。しかしたいへんに綺麗な仏像である。ブロンズ製、17世紀のネパールの仏像。
宝冠にトルコ石らしきものが嵌められている。

ヒンドゥーの神々の像を見る。いずれもクネクネしたポーズの、肉の圧力が強い像である。
宝飾も肉の上を滑って、艶かしい。
特に気に入ったのはトルソとでも言うべき胸像。胸から腹まで残った像は実に豊かな胸を見せていた。丸々した胸の上に這う宝飾はまるで生きているかのようだった。

そして少し先にクメール佛の首のない像があった。
こちらも女神像である。静かな肉体がそこにある。

この二つの像を長く見比べた。不思議なほど楽しい時間だった。

最後にチベットの小仏画が集められていたが、その中に「墓場の神」としてオレンジ色で描かれた二体のガイコツがあった。水木しげる的ではなく、メキシコのスカルぽいガイコツである。なんとなく陽気なココロモチになった。

展覧会は8/8まで。
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