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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

立原正秋没後30年

1980年に立原正秋が逝ってから30年が過ぎる。

先の「やきものへの偏愛」の記事で立原正秋こそがわたしの師の一人であると書いたが、いちばん最初に立原正秋を知ったのはTVドラマからだった。

‘76年に昼ドラで「冬の旅」が放映されていた。
低学年の小学生はその時間帯にはほぼ帰宅できた。
我が家でTVドラマを見ることは殆どせず、わたしは当時住んでいた家の隣で、そこのおばさんと一緒に熱心に見ていたのだ。
美少年俳優だった佐藤佑介が行助を演じ、憎たらしい義兄を池田秀一が演じていた。
他者の罪をかぶって少年院へ行く一人の少年の心模様と魂の成長と、そして周囲との関係を描いた名作だった。
原作は’68-69年にかけて読売新聞で連載されていたそうだ。
冬の旅 (新潮文庫)冬の旅 (新潮文庫)
(1973/05)
立原 正秋


わたしが原作を読んだのは中学の頃だった。
ドラマと違い、主人公の少年には義兄への深い悪意があった。
むろん悪いのは義兄であり、義兄がことを起こさなければ少年が院へ行くこともなかったのだが、少年は兄の罪をかぶって自ら少年院へ行くことで、義兄に対し、強い立場を持ち、彼に深い劣等感を刻み込んだのだ。
その辺りの心理は中学生のわたしには衝撃的だった。
そして何よりそのラストシーンで、少年の不慮の死が語られていたことにもショックがあった。
「冬の旅人」であった少年は春の訪れを鳥たちに託していた。
春がまだ来ないことに少年は気をもみつつ暮らしていたが、死んでゆく意識の中で鳥たちの羽ばたきを聴き、ある種の安寧と幸福を覚える。

このラストシーンは、今日に至るまで深い感動をわたしに遣し続けている。
そこからわたしは立原正秋を読み始め、彼の随筆や小説から朝鮮のやきものへの憧れが育まれたのだった。
ほかにもラストシーンでは立原の初期の「薪能」「剣ケ崎」が素晴らしいと思う。

中学生程度でよくも読んでいたと思うが、その頃のわたしはとにかく立原正秋に溺れていたのだ。
「鎌倉夫人」ではライオンを連れて散歩する女が描かれているが(確認してないのでちょっとこのタイトルかどうかわからない)、それがずっと意識に残り、いまだに小町通を歩くたびにそんな女とライオンが出てくるのではないか、と変な期待を懐いている。
わたしにとって鎌倉文士=立原正秋なのだった。
大仏次郎、久米正雄ではなく、立原。

ところが’80年8月12日、立原正秋が食道がんで世を去ってしまった。
まだ54歳の若さだった。新聞の訃報記事には着流しで鎌倉の浜辺を歩く写真が挙げられていた。

そうこうするうち「恋人たち」というドラマが始まった。
これは立原の「はましぎ」「恋人たち」のドラマ化だったが、出演者たちの個性が際立ち、たいへん面白く見ていた。
その作家の作品がドラマ化の頃に作家が世を去るのはシバレン以来だと思ったりしながら。
(柴田錬三郎原作の「真田十勇士」が放映中に彼は世を去ったのだ)

こういう言い方は失礼かもしれないが、渡辺淳一は立原が新作を発表できなくなったことで浮上してきたのではないか、とわたしは勝手ながら思っている。

思い出したことだが、同じ鎌倉に住む同世代人・澁澤龍彦はその随筆の中で、立原正秋とは街中で顔を合わせても互いに知らぬ顔をしたというようなことを書いていた。
照れからくるソッポだったのだろう。

没後三十年を経ても立原正秋の人気は続き、今日でも本は容易に手に入る。
書かれている物語の時代背景などに多少わからないところなどもあるが、いつ読んでもやはり面白い。
8月12日、立原正秋のいなくなった日に彼の作品を追想することで、わたしは静かな歓びにふるえている。
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