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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

生誕80年 大阪が生んだ開高健

開高健、あまりに魅力的すぎる、作家。
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開高健の生誕80年と彼の出た大阪市立大学創立130年とを記念して、なんばパークスホールで開高健の展覧会が開かれている。
「生誕80年 大阪が生んだ開高健」展。
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以前にも大丸京都店で彼の展覧会が開かれたことがある。
(2004年「開高健フィッシュオン!」)
没後20年をすぎた今も人気の高い小説家だが、そのときも今も、リアルタイム時からのファン、没後からのファン、男女の区別なく、大勢のお客さんが来ていた。
それが文学館での展覧会でなく、デパート展だというところに、開高健の人気の深さ・高さを実感する。
今回も商業施設での展覧会だが、決して安易なものではない。
たとえば資料類は茅ヶ崎の開高健記念館などから提供されている。
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開高健はよく知られているようにサントリーで働き、今も残るコピーをたくさん作った。
短い言葉の連なりが、心に残る文章になる。
だから本格的に小説家として稼働してからの開高健のちょっとした一文は、どれもが消えることのない煌めきをみせている。

展示の最初に開高の生家の模型が現れる。
若かった開高が住んだ家は、つい先頃老朽化のために取り壊されたが、その直前に開高とつきあいのあった人々が集まって、なにやら楽しい会合があったそうだ。
また取り壊される建物の記憶をとどめるために、建物の木を使ってウクレレを拵えるヒトがいて、その実物も展示されている。
模型自体は畳も本物を使い、欄間も建具もよく出来ていた。
開高家は東住吉の北田辺の方にあったそうだが、阿倍野から南によく見受けられた昭和初期の民家だった。和風モダンと言うべきか。
その新築を四軒購入して家作にしていたようだ。
同時代の北摂の民家とはまた全く違う造形。
そのことを思いながら観るのも楽しい。

芥川賞をとった「裸の王様」やネズミがあふれかえる「パニック」、大阪の砲兵工廠の鉄くず拾い(アパッチ)を描いた「日本三文オペラ」などなど、初期の傑作の草稿などがある。
パニック・裸の王様 (新潮文庫)パニック・裸の王様 (新潮文庫)
(1960/06)
開高 健


晩年まで変わることのない、丸まっちぃ・可愛い・読みやすい文字が並ぶ原稿用紙。
こんな愛らしい文字が鋭い刃を呑んだ文章にもなり、アブラギッシュなエッセー、情熱と虚無とを同居させたルポルタージュを形作るのか。
開高の短い言葉のうち、途轍もなく好きなものが一つ。
「旅は成就した。円は閉じた」
この言葉を常に心の底に横たわらせて、わたしは生きている。

開高健のルポルタージュ文学の展示を見ていると、その「精神の運動」の軌跡というものが見えてくるような気がする。
東京に移り住んでそこで活躍していても、背骨が大阪という都市空間とつながっている。
もっと言えばミナミの血が血管を流れ、脳髄へ回っている。
その状況で東京を「視て」いる。
比較都市論ではなく、あくまでも「開高健の眼が視た東京の各所」についてのルポ、それがあのわかりやすく、そして深い知性に満ちた文章で綴られている。
言葉に出して開高の文章を読んでみると、いよいよ面白さが味わえる。
しかしながら標準語で書かれたそれらの文章は、本当のところ<どこまで理解されているか>を、今回改めて考えさせられてしまった。
くどいようだが、開高健は大阪のミナミの生まれ育ちである。
微妙な言い回しに(あるいは彼自身の視線に)他圏の者が完全な理解を得ているかどうか。
同じ大阪の血を持ちながらも、ほぼ「隣国」と言っていいキタのわたしなどでは、やはり真底からわかっている、とは言えないところがある。
(こちらの読解力の低さを措いたとしても)
文章の流れを見ながら、そんなことを考えた。

ベトナムで九死に一生を得た話がある。ちゃんと証拠がある。
その実物とは、開高の被っていたヘルメットである。
銃弾が貫通し、一周して元の入口から出た、という奇蹟のヘルメット。
開高の人生観・文学観が変化を見せることになったというベトナムの旅。
わたしはその時代のことは知らないし、聞いてもたぶん理解が薄いが、それでも出来る限り同時代人のルポや随筆を読んだりしてきた。
たとえば俳優の殿山泰司のベトナムルポなどである。
殿山泰司は徳間書店から派遣されてベトナムへ行き、開高健は朝日新聞系で向かった。
開高健はそこから「ベトナム戦記」と「輝ける闇」を書き、殿山泰司は日記を書いた。

三部作のうち2にあたる「夏の闇」は新潮社書き下ろし純文学シリーズの一だが、総じて新潮社のこの書き下ろしシリーズは重く、そして豊穣な世界がその裡に鎖されている。
開かねば、その芳醇な味わいは決してわからない。
夏の闇 (新潮文庫)夏の闇 (新潮文庫)
(1983/05)
開高 健


初版本の装丁を眺めながら、皮膚の一枚下を這い回るざわめきを感じていた。

開高健の魅力は多岐に渡る。
広く深い世界。
たいへんわかりやすい文章でその世界が構築されている。
晦渋で難解な言い回しはせず、しかしながら重厚さも軽快さも同じレベルで活きる文。
それは小説やコピーや随筆だけでなく、ちょっとした一言からも伺える。

たとえば学校の同窓会の誘いに対する返事。
ハガキが並ぶのを見るうち、つい笑ってしまった。
大方は同窓会の欠席の返事である。
「近況」について、「大作家」あるときは「自宅営業」、また「生きた。禿げた」などなど。

仕事について奥さんへ出すメモも読みやすい文字である。
そのメモがいかにも’60?’70年代的なものなので、そのことにもウケた。
メメント・モリ、と上部に書かれているのはいいとして、下部には延々とカップルたちの最中のイラストが続いている。その間がメモ欄なのである。
色んなタイイの色んな描写、こんなメモ帳を使っているところが楽しい。

それで思い出した。
丸谷才一のエッセーには、和田誠えがく丸まっちぃ可愛い開高健の似顔絵と共に、彼の楽しいエピソードがいくつも描かれている。
それはちょっとここでは書けないネタなのだが、本当に笑って苦しいくらいだった。

さて開高健と言えば「釣り」だと言う人もある。
実際、開高健の著書でわたしが最初に触れたのは「オーパ!」だった。
学校の図書室で大判の「オーパ!」が並んでいて、たいへん貸出率が高かった。
オーパ! (集英社文庫 122-A)オーパ! (集英社文庫 122-A)
(1981/03/20)
開高 健


亡くなった直後に追悼番組があったが、そのときもアマゾンかカナダかで釣りをする開高健が映し出されていた。
「キタキタキタキターッ来たでーっ」とマイクなしでも大概よく聞こえる声がした。
丸谷才一の言うところの「文壇三大大音声」の一人だけに、フツーに音を拾っていては、マイクも壊れるかもしれない。
釣具がいっぱい並んでいたが、釣りをしないわたしにはただただビックリするような面白さがあった。
また今回初めて知ったことがある。雑誌「釣りサンデー」も開高健がゆかりのヒトだったのだ。わたしの会社では、今の社長に交代する以前は、「釣りサンデー」を定期購入していたので、釣りをせぬわたしも読んでいたのだ。

それにしても、なんて魅力的なんだろう、この人は。

明るいキモチで見て回るうちに、いきなり激しく撃たれる状況に入り込んだ。
開高健の言葉がわたしを殴ったのだ。
小説家である以上、言葉に出来ない・筆舌に尽くし難い、なんてことは書いてはいけない、必ず何らかの言葉に置き換えねばならない・・・そう言った意味の言葉がそこにあった。

ハリセンでシバかれたと同じ衝撃が頭頂部に走った。
その通りだった。必ず何らかの言葉に置き換え、形容を顕かにしなくてはならない。
開高健の言葉へののめり込みようを決して笑うことは出来ない。
わたしとても、言葉を尽くし、レトリックを駆使し、感じたこと・思うことを、きちんと書かねばならないのだ。才能のあるなしは問題ではないのだ。
書け。書くだけが心の活きる道だ ・・・・・・・・・
改めて強い気持ちを持つことを、背中をドヤサレタようにきいた。

場内では二カ所から開高健の声が聞こえる。
出身学校での講演会、またなにかの会での開高のトーク。
文壇三大大音声と謳われた(!)開高健の声の大きさ・朗らかさ、話の面白さ、絶妙な間合い、大阪人の特性が満ち満ちた「シャベリ」の愉快さ。
いつまでも聞き続けていたい、そう思わせる魅力がそこにあった。

茅ヶ崎には開高健記念館がある。行きたいと思いながらいつもたどりつけなかった。
今度はそこへ向かうための旅をしたいと思う。
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なんばパークスホールでの展覧会は2/20まで。
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