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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

ルドンとその周辺 夢見る世紀末

えき美術館で岐阜県美術館所蔵作品を集めた「ルドンとその周辺 夢見る世紀末」展を見た。
黒のルドンと、ルドンのカラー作品と、「夢見る世紀末」として選ばれたモロー、クリンガーらの作品がある。
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近年、黒のルドンばかりを集めた展覧会が渋谷で開催されたが、わたしは黒のルドンがニガテで、結局見なかった。今回、黒のルドンが随分多く展示されていて、前に見に行かなかったことを後悔するようなことはなかったが、やはり見てよかった、と思った。

世紀末、わたしたちは20世紀末を乗り越えてきたが、その前代の19世紀末への憧れが胸に強く生きている。
フランスのアールヌーヴォーの作家たちも、英国のヴィクトリア朝の芸術家たちも、皆斉しく深く、心を揺さぶる作品を贈ってくれている。
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黒のルドンを見る。
そこには仄暗い光の差し込む時間があるがために、より深度の重い闇が生きていた。

エッチング作品が二点ある。
浅瀬(小さな騎馬兵のいる) 雲の出る谷の下に騎馬兵らが走っている。
解説に中世の騎士物語「ローランの歌」を想起させる、とある。中世の欧州に伝わる英雄伝説や騎士物語は酷く魅力的なものが多く、中学から高校の頃わたしもアーサー王、ベーオウルフ、ニーベルンゲン、またアイスランド・サガやレミンカイネンの物語に溺れていた。
確かにここにはそうした伝奇性の高いムードがある。
続く「恐怖」は翌年の作だが、前作と続いての物語としてみるならば、これはもうゴシック・ロマンと言ってもいいように思われる。
ハインリヒ・フュースリの絵にそうしたゴシック・ロマンを感じるのだが、この作品にも同じ感覚がある。

大きな樹 紙が赤茶けたものなのか、そこにそんな色を塗ったのかは知らないが、地の色に赤いセピアがいい。そしてそこに木がある。
続く「樹(樹のある風景の中の二人の人物)」は先の木を裏から見たかのような雰囲気がある。こちらの木は白っぽいのだが。二人の男女らしき姿が見える。

曲がりくねった樹 二本の木がある。枯れ木、太い幹。枝のうねりは激しいが、木自体は曲がりくねったわけでもない。

守護天使 バルトロメオ「死せるキリスト」の模写か、と解説にある。左にぐったりするキリスト、右に彼を介抱するかのような守護天使がいる。模写としても、人物の顔などはルドンのキャラそのものだった。

永遠を前にした男 巨大な雲を背景に、岩に手をかけて顔を上げる男がいる。四足歩行する原人、原初の男の姿。偉大な進化の第一歩目を進んだ男、そんなイメージがある。

いよいよ黒のルドンの世界が開く。
リトグラフの連作「夢のなかで」である。
扉絵から始まり、十枚の黒い夢がそこに曝されていた。
孵化、発芽、車輪、冥府、賭博師、地の精、猫かぶり、幻視、悲しき上昇、皿の上に・・・
タイトルを楽しむことから始める。
タイトルを含み、舌の上で転がしてから、黒い絵を視る。
白い部分があることでいよいよその絵の闇が深まる。
たとえば「皿の上に」あるリンゴの輪郭を見せる生首。と頭部も顔も白い。皿のある床?も白い。背後に広がる闇は上が重く下は薄いが、その曖昧な薄さが、闇の深さを高める役割を果たしている。
表情はなにか夢見るように見えるが、こんなところにその顔があること自体が薄ら寒くさせる。

目玉への執着を考える。解説を読まずとも、こんなにも多くの目玉があることが、画家の目玉への執着と偏愛とを気づかせる。
しかしその「目玉」の意味はわからない。
他者の言葉を読んでも、画家自身の意図を知ったとしても、わたしはやはりわからないままだろう。

目玉、という言葉から連想するもの・・・バタイユ「眼球譚」、辻村寿三郎のある種の人形、タタラ神、水晶、ゴヤ、ルドン・・・
やはりルドンは必ず現れる。

目玉だけでなく、生首のついた植物や蜘蛛なども多い。
「沼の花」「顕現」などは顔花である。そして「気球」は電球型の気球の中に顔がある。
「顔」だけの存在への執着はしばしば諸星大二郎の作品にも見受けられる。
そちらは輪郭線のない、美しくも謎めいた女の顔である。
得体の知れぬ肉の塊、鳥の腹部に、川の中に、輪郭を持たない顔がある。
ルドンの「顔」はいずれも見た目の美しさを持とうとしないものである。
にやける蜘蛛も宇宙空間に浮かぶ顔も、いずれも気持ちの悪い表情を曝している。
生理的なおぞましさを感じる顔である。

それについて思い出すのは、久世光彦の著書「怖い絵」である。
この上質な作品集は、久世光彦の幼少時からその当時の時間までの間に、彼をおびやかした「怖い絵」について語られたものである。
そしてその一篇「陰獣に追われ追われて」に「そいつ」と表記された、変質的な男の話があった。酷く気持ちの悪い、しかし異様な吸引力を持つ話だった。
気持ちの悪さに動悸を抑えながらページを繰ると、不意にルドンの描いた、不気味な男がぼんやりと佇んでいた。
死人の眼を持って佇む男、それをわたしも視てしまったのだった。

「夢のなかで」の三年後1882年に今度は、エドガー・アラン・ポー頌歌とも言うべき「エドガー・ポーに」が刊行される。
ポーの作品には闇の挿絵ともいうべきものがついていたが、ルドンはその小説または詩に沿う絵を描いたわけではなく、彼なりのオマージュをささげている。
タイトルから物語を想う。
「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」「憂愁の黒い太陽の前にレノアが現れる」「仮面は弔いの鐘を鳴らす」「水平線には確信の天使が。暗い空からさぐるようなまなざしが」「諸存在を導く息吹は球の中にもある」「狂気」・・・・・・・・

赤き死の仮面、ゴードン・ピムの物語、恐怖の振り子、そんな小説の一節が頭の中を横切ってゆく。
「・・・無限に向かう」は黒い海が描かれていた。アーサー・ゴードン・ピムの向かった海はきっとこんな海だったに違いない・・・ポーのアナグラムの名前を持つ青年は最後には「何か」に飲み込まれてしまうのだ。それをルドンは描いてしまったのではないだろうか・・・

光の横顔 チラシ右側の女の白い顔。高い鼻梁、伏せられた眼、意思的な唇、固い頤。
手を差し伸べても拒絶されるだろう。
彼女が何者かはわからない。何を想っているかもわからない。沈黙は決して破られないだろう。

連作「夜」もまたリトグラフ作品だった。
老年に 師匠のブレスダンは陋巷に死したようだが、その横顔を捉えている。
巫女たちは待っていた 宮殿の列柱の間に佇む女たち。真ん中の女は向かって左の女の肩にもたれている。不思議に嬉しそうな表情を見せている。ひそやかな悦びを味わうかのように。
そしてわたしはまた見てしまった。久世光彦の恐れた「そいつ」を。
堕天使はそのとき黒い翼を開いた 堕天すると、こんな死んだ眼を大きく見開くことになってしまうのか。こちらを見ればどうしよう、とわたしまで怯えさせられていた。

ルドンが眼や顔を植物に配したのは、その友人アルマン・クラヴォーの影響があったかららしい。彼は植物学者だったが、20世紀になる前に首吊り自殺を遂げていた。
ルドンは「夢想」という作品で友人を追悼している。

白い作品が現れた。
最初のほうに掛けられていた「樹」を思わせる木がそこにあった。

パルジファル、ブリュンヒルデ、ベアトリーチェといった神話や物語の人々が現れる。
パルジファルは真正面を向き、ブリュンヒルデはすっきりした横顔を見せている。
「シュラミの女」は旧約に現れる。「雅歌」の花嫁。「雅歌」といえばモローの美しい女を思い出す。ルドンの描く女は静かに眼を閉じていた。

油彩画が並び始める。
カインとアベル 縦長の空間に雲が湧き立ち、その下の地上では、赤布をまとった男が、地に倒れる男に向けて、棒を振り下ろそうとしていた。嫉妬と怒りだけでない、どこか妖しさを感じる関係性があった。暴力の中に欲情がまざっているような。

神秘的な対話 このヴァリエーションは他にも見ている。廃殿の中の二人の女。言葉は交わさずとも通じ合う対話、それがここに描かれているように思う。

眼を閉じて どのヴァージョンでも、必ず想うのは武満徹だった。彼が愛した「眼を閉じて」はどの顔だったか。武満が何故そこまで惹かれたかを、思う。

ギリシャ神話を題材にした絵が続く。
中でも「オルフェウスの死」はひどく美しい絵だった。竪琴にオルフェウスの生首がある。
しかしその生首は黒のルドンのそれとは違い、また同時代の画家たちが描いた、洗礼者にして犠牲者の生首でも、寡婦によって征伐された侵略者の生首とも違う、繊細で美しいものだった。
こちらを向く首は美しさは傷ましい限りだったが、生きていても楽しめないオルフェウスの心を思うと、ようやく開放されたのだ、という安堵があった。

翼のある横向きの胸像(スフィンクス) チラシ左の顔。少女のような顔だと思った。

ルドンの師匠ブレスダンの細密描写の作品が並んでいた。
死の喜劇、善きサマリア人、村の入り口、鹿のいる聖家族・・・いずれも偏執狂的な熱意で以って描かれ、刻まれたとしか思えない作品だった。隠し絵のような趣すらある。
しかし「渓流」は自然を描くばかりで、人も生物の姿も見当たらない。
良いのか、といえばよくない。どうしても誰かに会いたくなる、何かを見出したくなる。
不思議な苛立ちに噛まれる作品だった。

アンリ・ファンタン・ラトゥール アルプスの魔女 男がそれをみつける。大気と一体化した女を。・・・ラトゥールは油彩より、こうした版画作品のほうが魅力的なものが多い、と思っている。

ムンクのマドンナもヴァンパイアもさして恐れはしない。しかし「罪」に描かれた赤毛の半裸の女は怖い。眼を見開いている女。緑色の眼は赤毛にふさわしい魅力があるが、その眼がなにより怖い。やや棚落ちした肉体が露にそこにあることもまた。

ポール・セルジエ 急流のそばの幻影、または妖精たちのランデブー  木々の奥に七人の美女が行進している。服装もまちまちで、強い存在感がある。女たちはまっすぐにどこかへ向かっている。そして、木々をはさんだ手前には、ブルターニュの人々の姿がある。
白昼夢ではなく、彼らは美女たちをまっすぐに視ているのだ。

セルジエ 消え行く仏陀-オディロン・ルドンに捧ぐ 20年ほど後に描かれた絵は、水中に座す仏陀と、魚たちを描いている。明確な線を排除した絵。ひどく魅力的な一枚。
セルジエは仏陀に託して、ルドンを悼んでいるのだった。
高山辰雄「坐す人」を見て以来の、宗教的感銘が少しばかり、わたしの内側に興った。
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モロー 聖セバスティアヌと天使 この構図はメディアとイアソンを思わせる。
矢で射られたとはいえ、殆どその矢を残していない身体、血の筋がいよいよ彼の美を際立たせる。その美貌にただただときめいていた。

最後にマックス・クリンガー連作「手袋」についても。
マックス・クリンガーの連作「手袋」については丁寧な解説と画像のある記事を、とらさんが挙げられている
この記事があることを喜んでいる。わたしはわたしの解釈(妄想)でシリーズを眺めていたが、こうした指針があると、楽しみが倍増する。

手袋シリーズ
場所 ローラースケート場は紳士淑女の楽しむ空間だったのだ。まだ不穏な空気は生まれてはいない。
行為 手袋を拾ってしまうことで彼は現実の世界から別の空間に進んでしまう。描かれた人々の立ち位置の不安定さが既にその「始まり」の証である。少女アリスは兎が走ることに誘惑され、青年は<落ちている>あるいは<落とされた>手袋によって、歩を進めてしまう。
願望 細い木の前で嘆く姿がある。ドイツ的だと感じるのはこの一枚。
救助 手袋は荒波に飲み込まれそうになっている。力尽きたかのような手袋の姿。しかしそもそも手袋自体にはその中身の肉はないのだが。掬おう、あるいは救おうとする青年の手にも気づくことなく漂うばかりの手袋。
凱旋 真珠母貝のような座に手袋は座り、海馬を走らせる。「凱旋」と言うにふさわしい堂々たる力がそこにみなぎっている。
敬意 薔薇の波。それを見下ろすように高い燭台に在る手袋。
不安 青年は決して安らかな眠りを得られない。巨大な手袋と異形の影が青年の安眠を妨げる。あの優美にして冷淡な手袋は、青年の足下で、彼を呼ぶように指を上げている。
休息 手袋で出来たカーテンを背にした小卓に優雅な面持ちで手袋がいる。カーテンの裾から顔を出す怪獣は、それを凝視する。・・・機会をうかがいながら。
誘拐 夜。ついに目的を果たす怪物。手袋はその鋸歯状の口に咥えられて、屋外へ連れ去られる。虚しい手が割られた窓の内から伸びる。窓の外には薔薇が咲き誇っているが、その花ももう盛りを過ぎようとしている。
キューピッド 時間の推移を感じる光景がある。薔薇の下、ぐったりする手袋と、なんだか疲れているようなキューピッドがいる。青年はもうここまで追うことは出来なくなり、手袋ももう旅を続けることは出来なくなったらしい。白い終焉だった。

展覧会は11/13まで。年明けには三菱一号館へ巡回する。
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