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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

加藤久仁生 静かに温かい、ひとかけらの物語

加藤久仁生をわたしは知らなかった。
「つみきのいえ」と言われてもそれが2009年のオスカーを取ったアニメーション作品だとは、思わなかった。
水彩画風の温和な絵は確かに綺麗ではあるが、わたしをそそらなかったのだ。
しかし出かけてみると、結局長々とその世界に埋没してしまった。
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八王子夢美術館で開催されている加藤久仁生展は、たいへん静謐な空間の中にあった。
耳を通り、心に残る音楽が流れているのを感じる。
その音楽が映像のためのものだと知る。
「或る旅人の日記」のための音楽である。
この作品は様々な制約の下で製作され、今会場に流れるものは全体を2分ほどにまとめた作品だった。
物語の前提をわたしは知らず、その流れもわからない。
解説を読む。旅人トートフ・ロドルが架空の国トルタリアを旅し、そこで様々な事象を見、人に出会い、また旅を続ける・・・
幻想的な物語はわたしに諸星大二郎の描く、架空の星を旅し続ける名のわからない旅人の物語を思い起こさせた。
また麦焼酎「二階堂」のノスタルジックで美麗な映像作品も脳裏に蘇ってくる。
旅人とはなんと魅力的な存在なのだろうか。

この物語は連作だと知ったのは、少し時間が経ってからだった。
2分ほどにまとめられた映像は物語としての形を見せてはくれない。
近藤研二の音楽にはせつないような響きがある。ノスタルジイーと幻想と。
アコーディオンのような音色が優しい。
映像の背景が綺麗だと感じる。この背景だけをみていると、ボローニャの絵本市に現れそうだと思う。イタリアの優雅な絵本の世界、それに通じるものがある。

絵コンテがあった。今では珍しく手書きである。
制約があるからこその高品質、ということを感じる。
解説を読む。
「世界観を表現する重要なポイントとして加藤は全ての背景画を手描きする」。
そうか、あの背景画を綺麗だと感じたのは、そうした加藤の意識が伝わっていたからか。

背景画だけを展示するコーナーを見る。台形や二辺の長さが不均等な額縁の木枠には、麦穂が小さく刻まれているようだった。
ふと気づけば釣りをするおじいさんのフィギュアがちょこんと額の上に置かれていた。

「つみきのいえ」の上映が続いていた。
過去はセピア色で表現されるが、そこには温かな空気が満ちていた。若い夫婦で作る家。煉瓦を一つずつ積み重ねて建てられるつみきのいえ。
今、その家は水底に沈む。
アクアラングをつけたおじいさんが底へ底へと向かう。そこで過去の追想にふける。

綺麗な映像が続く。
台詞はないが登場人物の表情やちょっとしたため息に彼らの心情が表される。
町は全て水没し、水面に出る建物に人々が慎ましく暮らしている。ぽつんぽつんとのぞく家。
静かというより波音とカモメの鳴き声以外なんの音もない。会話のない世界。おじいさんのため息ばかりがもれる。誰とも会話もしないのか無言のままの生活。一人きりの明け暮れ。
ある朝、今住まう室内にも水が来ていた。
もうここにも住めない。おじいさんは再び屋上に「つみきのいえ」をこしらえてゆく。
物売りが小舟にいろんなものを持ってくる。販売の声もない。小舟は小さな水面の家の隙間を巡るように往く。全ては水の上で。
雨の日もおじいさんは煉瓦を積む。
そして水没した部屋から必要な家具を取り出してゆく。
生きている限り、ここで生活してゆくしかなく、そして生きている限りは、暮らせるようにする。
新しい部屋にかつての家族写真を真っ先に飾る。家族の肖像は決して捨てられない。

おじいさんは自らも小舟で部屋へ入るが、ふとしたミスで大事なパイプを水中に落としてしまう。
物売りの持ってきた新しいパイプのどれもが気に入らない。ふと見ると潜水服があった。
水中へ、過去へ、おじいさんは深く潜ってゆく。
パイプを見つけた後、一つずつ古い家へ向かう。
沖積される記憶。堆積する過去。
おじいさんの追想も新しい順から古い順へとゆく。
寝たきりになったおばあさんの介護。その前は娘夫婦とともに記念撮影した記憶があり、さらにその前には町がまだにぎやかで、娘も幼かった時代がある。
赤ん坊を中心にした幸せだった昔。
とうとう最下層に来る。水底。町の残骸ばかりが見える。
森があった頃、大きな木の周りを走る少年と少女、彼らがやがて青年と娘になり、そして夫婦になった。木には鳩もいた。飛んでゆく鳩、今は水面の上を飛ぶカモメしか見えないが。
楽しかった時代、ワインで乾杯していたことを思い出す。水底にグラスは残っていた。
一人で二人の乾杯をするおじいさん。笑っていた時代を思う。そして今は一人のまま。

見事な映像詩だった。ノスタルジーに胸を噛まれる。
そしてこの作品は絵本にも仕立てられていた。
絵本は映像よりも使われた色彩が多かった。
物語も少し違う。映像の中の物語の、そのいくつか下の層にいた頃の時代を描いていたのかもしれない。
まだ町は機能していた時代。
絵はがきサイズの原画と少し大きな原画と。
水彩の優しさが活きる絵。
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加藤は現在「MOE」で「あとがき」と題された連載を続けている。ノスタルジーと幻想とがその世界を構築する。
「湯どうふ」の話がせつなかった。
その物語とは違うが、ふと「湯とうふや 命の果ての 薄明かり」この句が胸によみがえった。
どこかしら悲惨なものも「物語」として通り過ぎてゆく。

アニメーションによる詩だと思った。
見る側は無口になってしまう世界。
饒舌ではいられない。
そしてそのことにわたしは微かな苛立ちを感じもする。
和やかな空気に包まれているが、その小さな世界から逃げ出したくなりもする。
逃げ出せない世界にいる「つみきのいえ」のおじいさんを思うからだろうか。

わたしはこの世界に埋没はできない。してはいけないし、もしここに居続ければ、いつか取り返しのつかない状況へ入り込みそうだった。
わたしと加藤久仁生の住む世界は異なる。
そのことを認識しつつ、遠くから加藤の世界を眺める。
小さな喜びと苛立ちが同時に生まれ、その棘に刺されながら、わたしは少しばかり目を伏せてその場を去っていった。
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