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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

齋藤茂吉生誕130年記念 茂吉再生

神奈川近代文学館の「齋藤茂吉生誕130年記念 茂吉再生」展初日に出かけた。
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わたしは子どもの頃親から「齋藤茂吉は日本一の歌人だ」と教わったので、長らくそういうものだと思い込んできた。
またオジから茂吉の次男・北杜夫の作品の面白さについて延々と聞かされてもきた。
オジはTVドラマ化された「楡家の人々」に特に夢中だったが。
だから北杜夫の小説も早くから読んできたし、むろん茂吉の歌集も読んできた。
今も茂吉の短歌をいくつか暗誦できるが、その本当の味わいと言うものを、実際何処までわかっているか定かではない。
ただ、茂吉の歌からは「実感」というものを強く感じる。
そしてそこに静かな得心がある。

とはいえ「赤光」「あらたま」の衝撃というものがいかほどだったかは、当然知ることはない。この二つの歌集によって、大正時代の多くの若者、就中、文学に関わっていた人々の受けた衝撃の大きさと言うものは、殆ど今日では想像を絶する巨大さだったらしい。
今回、その「衝撃を受けた」人々の言葉が挙げられていた。
芥川龍之介、萩原朔太郎、北原白秋、佐藤春夫である。
それぞれの文章そのものがまた、名文だった。

芥川が「赤光」で受けた衝撃の大きさは、この一文のほかにも晩年の小説にも出ていたりする。また佐藤春夫に至っては茂吉オマージュとして言いようのない歌集を編んでいる。
その「赤光」のための挿絵は木下杢太郎だが、西域の仏像頭部を描いたものが、艶かしかった。
また、第二歌集「あらたま」は森鴎外「青年」の一節から取った言葉だというが、みずみずしさを感じるよりむしろ、壮年の重々しさ・胸のうちの暗い闇、そんなものを感じる作品が多い。
字面を眺めていても、平板な言葉遣いでありながらも、不気味さが光っている。

少年時代の茂吉の絵の巧さに感心した。十歳くらいで小遣い稼ぎに凧絵のために武者絵を描いているが、これがそんなちびっこの絵とは到底思えない。巧すぎる。
それは彼の養父・齋藤紀一の父に指導を受けての絵らしいが、それにしても巧い。

才能のある少年を自邸にひきとり養育した齋藤紀一とその家族の写真を見る。
なんとなく一筋縄でいかないような面々に見えるのは、わたしが既に息子たちの書いた評伝を読んでいるからだろうか。

齋藤家は当初浅草に医院を開いていたが、それで茂吉少年は浅草への深い憧れと愛着を持つようになったらしい。
本当の最晩年、家族と共に浅草観音を詣でる写真が後に出てくるが、それは人生の始まりと終わりの地への愛着を感じさせる、せつない風景だった。

さて齋藤家はついに荘厳な青山脳病院を設立する。
この建物は上ノ山温泉にある茂吉記念館に模型があり、以前に「いいなぁ」と眺めていた。
ところで齋藤家に男子が生まれたことで茂吉の立場が「跡取りの養子」から「女婿」に変わるが、結局この病院経営を担うのは茂吉だった。
その責務の大きさ重さに茂吉は大変苦労し、歌作も苦労していたようだ。

茂吉の手紙の面白さは北杜夫の作品から知っていたが、今回直筆手紙を見て、思わず笑ってしまった。
義弟に当たる齋藤西洋に受験勉強の心構えを書いてよこしているのだが、非常に読みやすい字で延々と(執拗に)書き綴っている。
二高を受験するよう勧めているのだが『「一高でないと幅が利かなくてよ」とお前の姉たちは言うだろうか、まことに女と小人は養いがたしと言う、先人の言葉は正しい』
というようなことを書いている。
こういうところに茂吉の「おもしろさ・おかしさ」を感じる。

また小宮豊隆との「セミ論争」の直筆文もあった。あれは実地調査までしたというから、その執念は深い。
折口信夫と同じくらいの執念の深さが活きているように思う。
そして食べ物への終着の深さもまた・・・
(なにしろ昭和三年はうなぎを68回も食べている!)

五歳の長男・茂太のえがく「ウチ」は壮麗な青山脳病院図だった。
確かにこれは城だった。ただしその城の個室には外からかける鍵の部屋が多かったのだが。
青山脳病院の失火による大惨事は当時の新聞記事の複写を見ても、本当に悲惨なものだった。当時は個人情報保護などないからズバズバ書くし写すが、気の毒に患者たちがたくさん犠牲になったそうだ。
そしてそれを機に紀一は気力が衰えてしまい、茂吉が一人で立ち働かなくてはならなくなった。
その頃の茂吉はといえば海外留学中だった。送った本も全て灰燼に帰したのだ。
(エジプトでの記念撮影には薬師寺主計もいる)

更に茂吉を痛めつけたのは家庭不和である。奥さんの輝子さんは晩年には多くの女性ファンを持つようになったが、若かったあの時代は、輝子さんの行状を面白おかしく、悪く報道した。
しかも文学仲間がお花で挙げられてしまっている。里見弴夫妻も妾宅で云々とある。
一人だけ無傷な大仏次郎が、困ったようなコメントを挙げているのが面白い。

やがて戦争である。
もぉ踏んだりけったりもいいところだが、茂吉はやっぱりがんばっている。
そしてその頃の茂吉については、北杜夫や齋藤茂太さんがかなりあからさまに書いている。
非常に面白く読んだが、一方でわたしの偶像だった「日本第一の歌人・齋藤茂吉」像が崩れていったのは、息子たちの優れた評伝のせいだと思う。

大石田での茂吉の後姿を捉えた写真などはせつなかった。
大石田といえば金山平三の絵が思い浮かぶが、モノクロの写真からでもその自然の美しさが伝わってくる。
茂吉は郷里で癒されたのだろう。

そして最晩年、茂吉の貰った文化勲章などを見る。そのときの茂吉はもう一人では歩けなかったようで、輝子と茂太の介添えで皇居へ参内している。
よぼよぼの茂吉が妻と二人の息子と共に浅草寺参拝のシーンが残されているが、ようやく安寧な心持になったのかどうかはわたしにはわからない。
ただ、いい顔をしていると思うばかりだった。

この展覧会は6/10まで。なお秋には世田谷文学館で「茂吉と『楡家の人々』」展が開催される。
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