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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

「美術にぶるっ」展・第2部「実験場1950s」/「日本の70年代」

東京国立近代美術館の「美術にぶるっ」展の第2部「実験場1950s」と、埼玉県立近代美術館の「日本の'70年代1968~1982」展を見終えて後の、ごく私的な感想または感慨を書く。

どちらかといえば鬱屈した内容である。

わたしは1970年代の小学校に通っていた。
教師は若いヒトだと戦後生まれもいたが、ほかは大抵の場合、戦前戦中の生まればかりである。戦前の教育を受けたものと、その反動を身に潜めたものとに二分していたように思う。
日教組の力の強い時代であった。
わたしの小学校最初の担任は面白い先生ではあったが、非常に活動家的なひとで、道徳の時間になると、自分らが支援する狭山事件の話を延々としていた。
挙句シュプレヒコールをする。全員で大声で唱和する。
そして先生は言う。
「先生は明日休んで最高裁の前に立ちます、皆さんニュースを見ましょう、先生がいるはずです、そしてみんなもTVの前で今のように声を挙げましょう!」
実際翌日先生は休み、別な先生の授業がある。
TVには確かに先生が映っていたと、何人かの目撃情報がある。
そのコーフンが冷めやらぬところへ帰還した先生が、また熱く語る。
そしてそれは色んな授業に入り込んでゆく。

1950年代の時点で日本が抱える問題を提起した展示物をみる。
見知らぬものはほぼなかった、と言っていい。
小学校の先生たちが語り続けていたものたちがある。
まず土門拳の原爆被害を受けた人々の写真で始まる展示だったが、それを「作品」として見ることはわたしには出来ない。あくまでもルポルタージュ写真としてでしか対せない。
重い記録である。
そしてそれは70年近い今になっても古びることはないのだ。

闘争を捉えた写真やそのポスター、またそこから生まれた「芸術作品」を見る。
作者の原点に事件への憤りがあるかどうかを思う。
当時はそれが動機となって作品として表現せずにはいられずとも、数十年後の今はこのことをどう捉えているのだろうか。
写し取られた人々、描かれたモデルの人々、作者も含め、どのような生を歩んだのか。
そのことを後世の(と言っていいのか、「他者」で在り続けていいのか)わたしたちはどう考えるべきなのか。

日本社会に起こった様々な出来事を(表現した作品たちを)眺め歩きながら、自分が生まれてもいない1950年代のことどもを思う。
延々と聞かされ続けた話、意味もわからず、是非も知らず、ただただ唱和し続けた言葉。
そして実生活の鬱屈を、1970年代の幼いわたしは感じ取っていたことを思い出す。

厭な日々だった。
実に厭な日々だった。
わたしはどんなことがあっても1970年代に戻りたくはない。
思い出すことも厭だ。
わたしの1970年代は周囲の大人たちの厭な話を聞かされる日々だったのだ。

1970年代のカルチャーと言うものは、前半と後半で大きく異なる、と埼玉近美のニュースペーパーにあった。
その実感は確かにある。
わたしは70年代の前半のカルチャーが本当にニガテだ。
ところが77年くらいから世間も変り、カルチャーもだいぶ健全に明るくなったように思う。
そして70年代の最後の年にわたしは小学校を卒業し、中学へ入った。
そのとき、確かにカルチャーは明るくいいものが多かった。

「不思議、大好き」は81年の西武のコピーだった。
ピラミッドとベドウィンの人々の行列。
「変なの」という親の否定的な感想を聞きながら、秘かにわたしは「素敵だ」と思っていた。あの鬱屈し、閉塞していた’70年代が本当に終わったのだと思った。

'78年頃か、実際にシルクロードのどこかにも一部ロケ敢行したドラマ「西遊記」が放映され、大人気になった。
ドラマの歌はゴダイゴが英語メインで歌い、OPが「MONKEY MAGIC」、EDが「ガンダーラ」だった。
翌年にはゴダイゴは「銀河鉄道999」の歌を歌い、ブームは絶頂に達した。
わたしもドキドキしながら聴いていたが、そのとき何を思ったかゴダイゴは、何枚目かのアルバムに「OUR DECADE '70年代僕らの時代」というタイトルをつけたのを出した。
ヒトの勝手だと思いながらもわたしは、「せっかく70年代が終わり、今から新しい80年代に入ろうと言うのに、ナゼそんな後ろ向きなことを」と舌打ちしたい気分になった。
それでもゴダイゴは売れ続けていたが、81年のポートピアのテーマ曲と、国際児童年のための歌を歌ったのを頂点に、少しずつ、しかし大きな変容を遂げ、ついには解散してしまった。
そのときわたしが思ったことは「せっかく明るい80年代になったのに、70年代なんかをひきずるからでは」だった。
そしてこの感慨は今も変らない。

生まれた時代を悪く言いたくはないが、わたしが生まれたのは八百屋お七の干支と同じ巡りの年で、日本にビートルズが来た年で、バレーの東洋の魔女に初黒星がついた年だった。
しかも生まれて次の日かその次くらいに、世界最低の(といっていいだろう)文革が始まってしまった。
うわーと言いたくなる年である。

しかし高校生になった80年代には、どういうわけかわたしは60年代~70年代カルチャーに惹かれてしまった。
理由はちょっと思い出せないが、特に唐十郎界隈に熱中してしまった。
もしかすると寺山修司の死が契機となったのかもしれない。
埼玉近美の壁面を彩るポスターを見ていると、あの当時のココロモチが蘇るが、しかしそれで懐かしさに胸を熱くさせると言うわけにはいかなかった。

数ヶ月前、松本竣介の展覧会に行った。
世田谷に来ることはわかっていたが、葉山で見たかったのだ。
松本は戦後しばらくして死んでいる。
まだ死ぬような年ではなかったのだが、死んでいる。
その彼の死を抽象的すぎる表現で「描いた」作品がある。
1948年、空前のベビーブームの年。生まれてくるものの数と、死者の数について考える。
絵とは無縁な話だが、このわからない絵を見ていると、そんなことを思う。

同じ松本でも映像作家・松本俊夫の作品が近美のあちこちで流れていた。
わたしは彼の「ドグラマグラ」に熱狂し、「薔薇の葬列」など'70年代の映像を'90年頃熱心に眺め続けていた。
しかし今、少しばかりの苛立ちを覚えながら、ここで流れる実験的な映像を見ている。

少しばかりホッとするものがあった。
「暮らしの手帖」である。
わたしはこうした雑誌はほとんど見ないが、それでもこの展示物の中では、ほぼ唯一楽しみ、くつろげる内容だった。
リンゴ箱で移動コンロの枠をこしらえるとか、今でいうユニットキッチンの紹介や、大根蒸しのレシピ等々分かりやすいやり方が書かれている。
戦後数年のうちにこんなにもいいものが出ていたのだ。


始まりも終わりもないまま連続し続けるものが嫌いだ。
いや、正しくはない。
一つの狭い空間での行動、それもほぼ同一画面設定の中で変奏曲を奏で続ける人間たち、というものがイヤだ。

河原温の「浴室」シリーズにはわたしの神経を逆撫でするものがある。見続けるのが耐えきれない。
出口がない空間での増殖と分裂そして消失。
それが30作近く続くのだ。
いらいらする。
ふと思い出したのが、いしいひさいちの四コマギャグマンガである。
シンイチくんシリーズとでも言うのか、地球を攻撃する怪獣の弱点を調べるために宇宙へ旅立つシンイチ君のパターン。それが何十回も続く。
最初は腹が立つほどだったが、だんだんと妙に面白くなってくる。「今度は何だ」という楽しみがわいてくる。
そこに至るまでの道は長かった。
・・・しかしこの連作にそんな楽しみをわたしは見出すことはできそうになかった。

マンガで思い出した。
埼玉近美では70年代を代表する劇画家たちの原画がいくつか展示されていた。
真崎守、上村一夫などか。
真崎の作品といえば「エデンの戦士」「キバの紋章」は持っているが、「はみだし野郎の伝説」は読んでいない。
「風漂花」は買わなかったことを惜しく思っている。
原画を見ていると、白と黒の対比が非常に鮮やかだと感じる。

そして上村一夫の原画は「同棲時代」と雑誌表紙絵と「修羅雪姫」があった。
非常に魅力的な原画である。
以前に川崎市民ミュージアムで上村一夫原画展を見たから、あれ以来のことか。
流麗で深い魅力がある。
上村作品は今も「修羅雪姫」「凍鶴」晩年の「菊坂ホテル」を中心に愛読している。

わたしは'75年から家で取っていたビッグコミック、ビッグコミックオリジナルを読み続けている。
そのとき上村の「凍鶴」いてづる、を熱心に読んでいた。
自分と同世代の小さな女の子・鶴が、戦前の赤坂芸者の仕込みっ子として生きる姿に人生の哀歓を見出していたのかもしれない。
やがて鶴は一本立ちになり、いい旦那にも恵まれるが、時代はだんだんと悪くなってゆく。
二十歳過ぎの頃、その「凍鶴」の単行本が出たので喜んで買ったが、私が覚えているエピソードが一話分欠落していた。子供の頃読んだ記憶に間違いはないが、収録されなかった理由も理解できた。
無惨な話だったからだ。

そういえば同時代のビッグコミックには、吉原の始末屋稼業を描いた石森章太郎(当時)「さんだらぼっち」、あるホステスの悲運の人生を描いた長谷川法世「ガラスの門」、バロン吉元の、戦前を生きるストリッパーの復讐譚「鷹子」などがあった。
手塚治虫の「シュマリ」も終盤にさしかかっていたのを読み、「MW」は完全にリアルタイムに読んでいた。
そしてさいとうたかを「ゴルゴ13」は今も元気に働いている。

73年か、「神田川」という歌が流行った。75年だったかもしれないが、どちらにしろ私は歌はいい歌だと思いつつ、当時からあの貧乏臭さが本当にいやでいやで仕方なかった。
(75年は森田公一「青春時代」か)
わたしは「同棲」が大嫌いだったのだ。
ちびだったわたしが不思議でならなかったのは、結婚したらある程度は暮らしにゆとりも出来るのに、同棲ではナイナイ尽くしで、傷つけあうばかりのくせに、離れようともしない、それが不思議で仕方なかった。
そんな男女を見ていると、いつもいつも吐きそうになった。また、実際に小さなアパートにそんなのがごろごろいて、「この二人に将来てあるのか」と子供心に思ったものだった。
そして草刈正雄・関根恵子主演で「神田川」の映画が製作され、それを見て本当にそのうらぶれた暮らしが泣きたくなるほど厭だった。
まだ同棲前の男の本棚には「二十歳のエチュード」や「青春の墓標」があった。
'48年生まれのオジの本棚にもあるのを、当時のわたしは思いだし、いよいよナマナマしい悪寒に襲われた。
やがて、そんなアパートが整理されて建て売り住宅になり、町の姿が変わり、なんとなく健全な様子になった。

つまり70年代とはわたしにとって、貧乏臭い、全く厭な厭な時代だったのだ。
よかったのは、少女マンガと少年マンガの'70年代の名品をリアルタイムに読んでいたことだけだ。(なのにそれらは展覧会には全く取り上げられていない)

'70年代初期のポスターのピンクや黄緑の色の取り合わせを見ても、ちっともポップともかっこいいとも思わない。コピーの文字を見てもエロをこえてグロなのだし、そんな厭な記憶しかないものをもう一度目の前に出されても、本当につらい。

これまで数多くの展覧会の感想を書いてきたが、興味のないもの・関心を持ちたくないものについては一切書かずにきた。
しかし今、こうしてぐたぐだとクダを巻くように書いている。いや、アゲツラっている。
そうさせるのは何か。
やはりそれは戦後の訳の分からない日本人のエネルギーそのものが、この二つの展覧会にみなぎっているからだった。
それにわたしは負け、書かずにいようと思っていたあからさまなキモチを書き綴っているのだ。
わたしは一生を韜晦してすごそうと思っているのに、こんなにもあらわに書いてしまってる・・・
これでは韜晦どころか倒壊である。

実際に通過し、また厭になるほど聞かされ・見させられたものを数十年ぶりに目の当たりにすると、やはり激しい鬱屈がくる。
ほかの方々がどのような感想をもたれようと、わたしは同調できない。
思えばわたしは本当に自分を取り巻く世界の悪意に負け続けてきた。
わたしは決して楽しく生きてはいなかったのだ。
その呪縛がほどけたのは'90年代からだった。
コンプレックスが消えたのも92年からだった。
なんという長い歳月をかけてここまできたことか。
そして、なんというこの20年の豊饒か。

しかし、この二つの展覧会は、浮かれて生きるわたしを脅迫してきた。
決して決して忘れてはならない歴史があることを。
どちらの展覧会にもわたしは震え上がり、今も激しい鬱屈に噛まれ続けている。
そして、その感触を忘れるために、わたしはまた狂気のように街をハイカイし続けるだろう、休むことも自分に許さずに。

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