美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

八瀬童子 天皇と里人

2007年に京都市歴史資料館で「八瀬と八瀬童子」展が開催され、多くの資料や映像を見せてもらった。
そのときの感想はこちら

あれから6年経って、今度は京都文化博物館で「八瀬童子 天皇と里人」展が開催されている。
資料は以前に見たものとほぼ同じではあるが、更に研究も進んだようで、その辺りを楽しみにしている。

最初に八瀬童子会が大事に保管し続けてきた歴代天皇の綸旨が現れた。
これだけの数がずらりと並ぶのはまさに壮観で、一枚一枚丁寧に眺めていった。
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まず後醍醐天皇綸旨案がある。いずれも建武三年(1336)のもの。
次に後土御門天皇綸旨・明応元年(1492)、後柏原天皇綸旨・永正六年(1509)、後陽成天皇綸旨・慶長八年(1603)、後水尾天皇綸旨・寛永元年(1624)・・・と続き、江戸時代も八瀬童子の権利は保障され続けた。
明暦二年(1656)の後西天皇綸旨まではいずれも複数枚あり、それは天台宗座主に宛てたものでもある。そちらはいずれも丁重な文面だということだが、そこまでは私程度では読み取れない。
尚ここまではいずれも行書体で書かれている。

また、後光明天皇綸旨・寛永21年(1644)のみ出だしが「山城国」から始まるが、後はみな「八瀬童子等」である。
「年貢以下公事課役一向所被免除也」という一文がどの綸旨にもある。
後土御門天皇の綸旨にだけ「栗柿課役」とあるのが妙に面白い。

江戸時代も後期になり、仁孝天皇綸旨・文化14年(1817)になると非常にわかりやすい平明な書体になる。
孝明天皇綸旨と並び、たいへんわかりやすい書体なので、こればかりはわたしでも読める。
ちょっと写してみる。なおそれでもわからない文字があるのは確かではある。
「八瀬童子等自往古 課役一向取被免除也 存其△弥守先蹤可 致商賣者依 天氣執達如件」
「弥」が「彌」ではなく現行の「弥」だったのも印象に残る。
△は上カンムリに円の真ん中がない字なので、筆者の癖か略字か。

そしてこの特権は明治天皇の綸旨にも続く。慶応四年(1868)、ぎりぎり明治になる前の3/24のこと。

八瀬童子は近衛家と関係が深いそうだが、その辺りの説明は展示品からはわからない。
ただ近衛家の牡丹紋付の小長持ちや文箱があることからも察せられる。
説明によると、京都所司代下知状を拝領する際には、必ず近衛家からこの文箱を拝借したそうだ。
なお綸旨はいずれも灰色の用紙で、それは「宿紙」と呼ばれる再生紙ということで、それが故実になったそうだ。
紙漉きの技術が長く伝わっていたことを思う。

八瀬童子の歴史年表があった。
1092年、八瀬童子刀彌乙犬丸が、青蓮院に杣夫役免除申請をしたとある。
比叡山はお隣だが、青蓮院とも関係があったのか。

山林伐採のために隣接する大原の土地を通る権利を求めた書状がある。
応永22年(1415)の書面が残る。
また高野とも境界論争があり、それは特に寛文年間に大きくなったようだ。
境界線を描いた地図もある。いまだと衛星写真も出るところだろうが、この頃は手書きである。△と□とを足した民家がいくつか散見された。

織田信長の朱印状がある。永禄11年(1569)。比叡山焼き討ちをしても八瀬童子にはその立場を守ってやるというのである。
次に秀吉の治世下で京都所司代・前田玄以の書状もある。「当庄惣中」という宛名であるが、中身はやはり前例同様の保護について。彼らの暮らしを守る、と言う意味の書状もある。

正徳六年の「八瀬記」という読み聞かせ用の書状があり、これが総ルビで、わたしもなんとか読めるもの。みなに読ませるためわかりやすくしている。
しかし宝永年間には比叡山の勝手な言い分に怒った村人たちが江戸幕府に訴状を出している。そしてその翌年には八瀬童子の人々の言い分が通るようになっている。

天保15年(1844)には高野村井堰普請取替帳があり、それが高野隧道と呼ばれるものらしいが、今もあるのかどうか。
友人で高野に住まう洛外女さんにきいてみるつもり。
ところで「高野」はタカノである。コウヤは和歌山の高野山。
フルカラーの李之井堰絵図、櫻井之井堰絵図がなかなかリアルなもので面白い。
スモモにサクラ井か。風情があるなあ。

パネル展示で念仏堂の写真があった。およそ20年前に取り壊されたらしいが、八瀬の人々の信仰の深さを感じる。
そして四体の仏像がここに来ていた。
平安中期から鎌倉初期の木造。

十一面観音立像 ややふっくらめで、しかも両腕の実に長い造形なのが印象的。
天部形立像 目のぐりっとした元気な顔。桧製の寄せ木造り。
毘沙門天立像 顔の剥落は激しいが立派な姿。シンプルな装飾。
薬師如来立像 琥珀色のガラスの眼球がひかる。

いずれも古びた良さがあり、村人たちの素朴な信仰の対象だということを改めて感じさせてくれる。

地元の神仏関係は他にもある。仏像版画やお経の版木など。今は使われていないが、とあるが、今はまた別な形での頒布があるのだろう。

明治になり、輿丁として仕えるようになる。
明治五年から昭和12年までの村の記録があるが、そこに「淑子内親王桂宮御崩去」とあるから、そのときにも出たのだろう。
そしてチラシにもなった「明治天皇大喪奉舁参観図写真」があった。
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解説によると、そばに佇む男性は宮内省の役人だとある。
大正元年九月九日。

七年前にも見た宮内庁からのお知らせプリントもあったが、今回は人も多いのでじっくり眺めることはできなかったが、たしか誤字があるはず。
そんなことを思いながら目を転じると、八瀬童子のそのときの装束が展示されていた。
大正天皇大喪装束と昭和天皇大礼装束と。
こうした古式ゆかしい装束を見るだけでもときめきが高まる。

最後のコーナーに入る前に八瀬に伝わる赦免地踊りの映像を見る。
13~14歳の少年が神使として女装して燈籠のかぶりものを頭に載せる。綺麗に化粧した少年たち、その晴れ着は「燈籠着」トロギと言うそうだ。
そしてその年に30歳になった青年たちを「十人頭」として燈籠をもって行く役目にあてる。
以前に見たのとは違う映像だが、暗闇の中にゆらめく灯りの妖しい美しさにときめく。

赦免地踊りの秋元神社の境内を特殊な撮影法で撮ったようで、素晴らしい四季のパノラマが広がっていた。
そしてその景色の中に映像で見た燈籠とその衣装、また少女たちによる赦免地踊りの装束も並んでいた。
燈籠には繊細な赤の切り絵がついている。それだけでなく一番上には芝居の書き割りのような、または立版古のような紙細工も取り付けられていて、それを見るのがまた面白いのだった。
切り絵では鯉や虎が特によかった。

こうした企画展があることがとても嬉しい。
いい内容だった。1/14まで。
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コメント
No title
事前に猪瀬直樹の『天皇の影法師』という散漫な本を寝転んで読んではいましたが、同じ京都だと余裕かましていて、今日になって慌てて行ってみました(^ ^;

対象となるコミュニティーが現存しているという厳しい制約もあるせいか、時代時代の細部ばかりが素っ気なく羅列されているだけで、全体として「八瀬童子」とはなにかを正確に理解するためのよすがが全くないなあという印象でした。しかも、あの盆踊りみたいなのは明治期の政府との免税措置復活交渉の延長線上に村長が秋元神社とともに村おこし的につくったものらしいので、むしろ誤った神話が上書きされかねませんね。
(歴史の細部という点では、下の階の総合展示にあった「忠臣蔵と細川家」展にあった、討ち入り後にしたためた大石内蔵助の書簡に、私はドキドキしました。)

でも、チラシになっていた「明治天皇大喪奉舁参観図写真」のガラスのネガを見ることができたのは嬉しかったです。輿の先頭中央の人物は岩松友次郎町長、右端の人物は宮内省南條茂雄氏と書き込まれてありましたね。この写真、かなり好きです(笑)この頃の八瀬の人々の想いがすべてこの写真に籠っているかのようです。
また、ビデオの「燈籠着」の唇に紅を差した少年をみて、稚児という慣習を思い出して、これは生々しかったですねえ...
2013/01/14(月) 20:11 | URL | とんぼ #uaIRrcRw[ 編集]
No title
あ、それと、吉田山山頂近くのカフェ「茂庵」をつくった人は、八瀬出身で大阪で運送業をやって財を成した人だったと覚えています。いろんなところに歴史の断片が転がっているものだなあ..
2013/01/14(月) 20:19 | URL | とんぼ #uaIRrcRw[ 編集]
☆とんぼさん こんにちは

> でも、チラシになっていた「明治天皇大喪奉舁参観図写真」のガラスのネガを見ることができたのは嬉しかったです。輿の先頭中央の人物は岩松友次郎町長、右端の人物は宮内省南條茂雄氏と書き込まれてありましたね。

わたしもこの写真が好きで、チラシにこれを選んだヒトはセンスいいなあと思いました。

多くの祭りに<現れる>装わされた少年、わたしは非常に好きで、このVTRにもドキドキしております。
2013/01/15(火) 12:34 | URL | 遊行 七恵 #-[ 編集]
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