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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

日本オブジェ

うらわ美術館の「日本オブジェ」のわけのわからない迫力にヤラレた。
まずこれをみてほしい。nec069.jpg

「日本オブジェ」・・・なんなんだ、この力強さ。わけのわからない押しがある。
美術館はホテルの三階という位置であるにも関わらず、ホテルの壁面に「日本オブジェ」のポスターが連続して貼られている。どーーんっときましたがな。
リストがないのでええかげんなカンチガイ・記憶違いも出てくるかもしれないが、とにかくこの迫力に引きながら見て回った、そのときの感想を少しばかり挙げたい。

オブジェは高校から大学の頃、案外好きだった。
その頃は今とは違い、その当時「前衛」と名指されていたものが好きだった。
‘50~‘60年代のカルチャーに好きなものがあったのだ。
今から考えると全くうそとしか思えないような話である。
先般、東近美の「'50年代」、埼玉近美「'70年代」の展覧会の感想でナマナマしい告白をしたばかりだが、丁度今から30年前の1983年当時は、こうしたオブジェ類に惹かれるところがあったのだ。

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瀧口修造の詩作を見つつ、デュシャンの仕事を追う。
瀧口の魅力には蕩けてしまうが、やはりデュシャンとは距離を置く。
村山知義のMAVO時代の写真がパネル展示されている。
思えば去年の村山知義の回顧展は非常によかった。
瀧口修造も村山知義も、今後も企画展があれば出向きたいと思っている。

柳瀬正夢のコラージュ作品がある。柳瀬の描いたマンガの全貌をいつか見たいと思いつつ、いまだそんな状況にはならない。

チラシ左上端は山本嘉吉の「忘れられんとしつつある重大なある出来事」と題されたオブジェで、1925年に現物が作られて、ここにあるのは'91年の再現物。
ところが作者山本はこの「忘れられんとしつつある重大なある出来事」のキモになる部分を忘れきってしまったそうだ。
タイトルと相反するではないかと思ったが、よく考えると、このタイトルがそのことをある意味暗示しているのかもしれなかった。

中山岩太の写真、瑛九の絵、植田正治の写真、これらは比較的よく見てはいるが、自分が正しく理解しているかは別問題だった。

八木一夫の彫刻が出た。京都での回顧展でもわたしは逃げ出したことを思い出す。
やっぱり理解できないし、この作品の重要性も全くわからないままなのだ。

小原豊雲のいけばな写真がたくさん出ていた。御影に小原の記念館があり、秋に開館するのでしばしば見学に行く。彼の集めたアフリカ・オセアニアの仮面、南米の刺繍・テラコッタなどを見るのだ。
ここにある写真でも彼が蒐集したカヌーに花を絡ませたものなどがある。
岡本太郎のサメがガーッと歯をむき出してる絵を背景にいけばなをしたものもある。
勅使河原蒼風とのコラボ作品が一枚出ていた。
その蒼風が拵えたナゾのオブジェ「汽関車」も展示されているが、今のわたしではやっぱり意味不明な物体(=オブジェ)にしか見えない。
蒼風もミロの絵を三次元化したオブジェに花を生けている。

その蒼風の息子・勅使河原宏の映画「他人の顔」に使われた重要なオブジェが出ていた。三木富雄の鉛色の人体パーツのコーナーである。指パーツ、甲パーツにダ・ヴィンチの人体図までご丁寧に転写されている。
この映画は上映会があったので見ればよかったのだが、どうもその頃から安部公房も仲代達矢もニガテになっていたのでも見なかった。
そして三木の鉛色の耳がある。
実はわたしは男性の耳に対して色々と注文がある。ニガテな耳・いやな耳・好きな耳などなど。それは内緒だが、ここにある「耳」はなかなかいい形をしていると思った。

社会に出る頃から段々とオブジェに関心がなくなってしまった。
生産性重視に変わってきたからかもしれない。
それとも単に、自分の部屋が収拾つかない状態になってきていたからかもしれない。

向井良吉の椅子を見て困る。座れないから椅子ともいえない。座れないもの=役立たずというキモチが湧いて来る。「なにが勝利者の椅子じゃー」という気持ちになってくる。
いや、座りにくいからこそのたいとるなのか、と思い至るのはもう見てから数十時間後のことである。

赤瀬川原平の千円札事件がキタ。事件の経緯や当時の新聞記事などが壁面いっぱいの展示になっていた。たいへん興味深かった。面白すぎる。
絵がうまくゆかないやけくそで拵えたら、50年後の今になってもこうして語られ続けることになったのだ。なんとなくそれはそれでかっこいい。
ただ当時の世評は「はぁ?」だったようだが・・・

詩を見る。
新國誠一というひとの詩の表現法は良かった。自分が知る現代の詩人の手法とも共通する広がりを感じる。楽しいので、それをメモるのも面白かった。
向井周太郎という詩人も近い表現を採っている。こちらもいい。
言葉自体が紙の表面から浮き出してゆくようである。

そういえばわたしはタイポもオブジェのように感じるのだった。
それで思い出したが、手塚治虫の'70年代初頭の「きりひと賛歌」でもタイポで魅せる表現があった。彼も積極的にアートを採り入れていたのだ。

結局この展覧会でいちばん気に入ったのは「詩」だった。
そして今のわたしはもうオブジェから遠く離れていることも実感した。
こうした発見と自覚がまた興味深くもある。
オブジェを見ることを通して、わたしはわたしの意識を確かめる。
1/20まで。
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