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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡

東博で開催中の「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」展の内覧会に行った。
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既に大勢のお客さんが詰め掛けていた。
本館特別5室での開催である。
広くはない空間だが、その分だけの親密感が生じる場でもある。

音声ガイドをかりる。
井浦新さんのヴォイスにくすぐられながら、会場へ入る。
音楽と共に井浦さんの語りが届く。
左回りで始まる空間。

木造佛。全て飛騨の木から世に現れた佛たち。
佛が林立している―――そのようにわたしは思った。
わたしが見上げた先には丈の高い佛が並んでいた。
その背後には飛騨の山林を思わせるシルエットを写した薄い帳が何枚か吊られていた。
それを見たとき、ここの人いきれが草いきれに変ったのを感じた。
コケや羊歯が柔らかく蹠を包むあの感覚、それに似たものまでが感じられた。

円空は08年にこの東博の「対決 巨匠たちの日本美術」で木喰と「対決」しているのを見て以来の再会だが、正確な心持を言うと「初めまして」に近い感覚がある。
前回、わたしは円空佛からも木喰佛からも逃げ出したのだった。
今回も途中で逃げ出してもいいくらいの気持ちで望んだのだが、結果的に深い感銘を受けて、翌日にも出かけることになったのだ。
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一体一体についての些少な感想も執拗な賞賛も必要ない。
円空という一人の仏教者による木彫の佛たちは、個にして全、全にして個という見方も出来る。
いずれも表情豊かな佛たちは仲良く居並び、いかにも削りだされたままという様相をあらわにしている。
恐ろしい形相の佛であっても、どこかに親しみがある。
彼らの影が観客の頭上に差し掛かり、その中にいると円空の佛に護られた心持にもなる。

仏の影の下にいる安寧。そんなものを感じるのは初めてだった。
そしてその状況は会場の巧みな設定によるものだと知る。
照明、配置、巡る足取りもまた丁寧に計算され、どこにいても円空の佛を見ることになる。
そして同時に、円空の佛に囲まれた飛騨の国を体感する。

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ずらずらと居並ぶのは三十三観音立像。実際にはそれより数が少ない。円空にリクエストをたのむ村人たち。円空は飛騨の木を使い、せっせせっせと削り彫り続けたことだろう。
地元の人々に愛され大事にされた佛たちは、元の表情が更に柔和になっているに違いない。

明王像を見上げる。牙が口の端からのぞく。彫り痕も激しく、表情は厳しい。
左右の童子たちもそれぞれの個性をみせる。

巨大な像があった。
金剛力士立像である。牙をはやした口を開け、額一面に凄まじい皺が入る。
暴悪大笑面のような顔つきである。
横に回ると巨大な耳が見えた。うねりを見せる線彫りである。非常に強い力を感じた。
木の肌がいよいよその強さを高めるようだった。

この像は円空が立ち木に直に刃をふるったものらしい。
資料としてその様子を描いた図版が出ていた。
真正面から逃れ、その右横に佇む。照明による影がいよいよ佛を大きく見せ、サイドの渦巻きが強く目を打つ。

横歩きすると、稲荷三神・稲荷三尊像のガラスケースに行き当たる。こうやって眺めると抽象的な表現だと気づく。狐さんの細長い顔にちょいちょいと鑿が当てられ、軽く目鼻が作られる。人の顔の神様とケモノの顔の神様と。
親しみはむしろ細三角の稲荷神にある。nec073.jpg


両面宿儺坐像の前に立つ。肩にもう一つの顔がある。飛騨の国に現れた異形のなにかである。解説プレートによると、両面宿儺が出没する日本書紀を円空は読む機会がなく、聞きかじりで自身の想像力のままに拵えたようだった。
わたしはこの像を見て、肩に出来た人面疽が巨大化してしゃべるようになったという話を思い出した。その人面疽は他者ではなく、もう一つの人格でもある。
また舟越桂の彫像も少し経ってから思い出した。
しかしそれはあくまでもわたしの感じ方に過ぎない。
ここにある円空の像はデモーニッシュな力強さを顕現する異業者として、誰の思惑も省みずに永遠に時を刻むのだ。
しかしながらこの二つの顔はいやなものではない。
優しい顔立ちではないが、憎々しさのない顔である。
そして大きな手で斧を持つ。暴れる気配はない。
それはやはり宿儺が飛騨の地においては悪者ではない、ということからだろうか。

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迦楼羅(烏天狗)立像 顎というかくちばしの三角のトガリだけでなく、腹の辺りに鳥の羽根のような文様が浮き出ている。年輪だとわかるが、この像にふさわしいこしらえである。

狛犬がいる。平べったい顔の狛犬は千光寺にいるという。
木も摩滅しているようである。狛犬の歯が大きく鋸状なのもいい。そして霊的存在である印として渦巻き文様が生きている。

阿弥陀、薬師、釈迦の三尊がある。真ん中の薬師如来は大きな手を挙げて「やっ」とばかりに微笑んでいる。神仏にすがりたいとき、この佛の前に跪けば、明るく救われるような気がした。

歓喜天の小さな像がある。ガラスケースの背後には厨子の写真があり、そこから出てきた像だと知る。七年に一度だけのご開帳の秘仏だが、公開される年であってもこの歓喜天は世に出ないそうだ。
ゾウさんが抱き合うのが歓喜天の姿である。
そのために秘仏にされることが多い。
地元の人々が見たくとも見れないものを見させていただくのには、少し申し訳ないような気もする。
この小さな歓喜天はシンプルなゾウ形の造形だった。
ブランクーシの「接吻」を思い出した。隙間のない造形。
優しい表情で抱き合う小さな恋人たち。

最後に蛇体を思わせる胴体に深く彫り込まれた顔。宇賀神像である。
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そこからまた目を移すと、片手をあげる薬師如来がいる。前を向くと力士像の横顔が。
この空間のどこにいても円空佛の存在がある。そして拒絶されてはいない。
わたしはいい心持ちで会場を出た。
広くはない空間だが、それが円空佛とわれわれの間に親密感を生み出す力になっている。
これからここを訪れる人もその空気を味わえれば、と思う。春まで会期は続く。

なお、この図録は冒頭にモノクロ写真が入り、文章がきてからカラー図版になる、という体裁を採っているが、そのモノクロ写真の美しさに深く惹かれた。
それをご覧になることを勧めたいと、強く思っている。
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