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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

寺山修司展のなかで

世田谷文学館で寺山修司の展覧会が開かれている。
わたしは寺山が亡くなった時のことを覚えている。
彼の「晩年」を、その時代をリアルタイムに感じた、最後の世代かと思う。

亡くなった時、追悼文の一つに「酒も飲まないのに肝臓や腎臓が傷むとは悲惨だ」というのがあり、まだ高校生のわたしは「確かにそれは気の毒だ」と思った。
今回の展覧会で寺山がまだ随分若い頃にネフローゼを患ったことを知り、なにやら腑に落ちるものがあった。
しかし寺山はその安静の最中にも自身の才能を燃やし続けていたのだ。
そのことをこの展覧会で知り、わたしは初めて寺山修司に少しばかり歩み寄ろうという気になった。

わたしが生まれた頃、寺山は自身の劇団「天井桟敷」を率いて大活躍していた。
短歌だけでなく流行歌の歌詞もよく作った。
今も口の端に上る「あしたのジョー」「時には母のない子のように」「夜が明けたら」などなど実に多くの歌がある。
可愛らしい歌ではサンリオの人形アニメーション「くるみわり人形」の歌も寺山の作詞だった。
あの映画は叔母に連れられて行ったのだが、今に至るまで楽しい・嬉しい・綺麗な・そしてはらはらし、安堵する作品として記憶に生きている。

小学生の私が寺山を知ったのはその「くるみ割り人形」からだが、同時期にマンガ家・竹宮恵子との交遊も有名で、それを雑誌グラビアで見て、「ああこの人がか」と知ったのだった。
教科書には短歌が掲載されていたが、それは授業では学ばず、妹の教科書で見た記憶がある。

あれはいつの年か忘れたが、寺山がのぞき事件で逮捕されたことがある。
結局それはチカン行為としてののぞきではなかったらしいが、「なんでまたそんなことを」と子供だった私は新聞を読みながら苦笑していた。
寺山をいやらしいと思えず、苦笑してしまったのは、多分その頃すでに寺山のマスコミが作る「わるい」人物像を多少は知っていたからかもしれない。
そして、寺山修司ともあろうヒトがわざわざのぞくか?いつでも見ようと思えば見れる立場のくせに、と多少冷たい眼でその状況を見ていた。
(のちにその行動が、取材のためにアパートの敷地内に入って通報されたことからだと知ったが、当時のニュースは一律に「のぞき」と報道した)

あるとき、天井桟敷のメンバーを取材する番組があった。真っ白に塗りたくり妙な衣装を着けた人がお尻を打たれ続けていた。そしてインタビューに対し「気持ちいいですよ」と答える。
子供心にも、いや子供だからこそ「…このひとヘンやな。洗脳されてるのか」と思ったりした。

結局のところ、わたしが自発的に見た寺山の仕事というのはせいぜいが歌だけなのだ。
あとはこうしたネガティヴな話ばかりである。
そして何よりもわたしから「寺山修司」を遠ざけたのは、彼の作品のタイトルだった。

わたしは好きな言葉が多い一方、忌避すべき単語も多く抱えている。
寺山の芝居や作品の多くにその忌避すべきワードが散見どころか多発しており、それでいよいよ厭になった。
しかもその短歌にもまたわたしの避けたい言葉の連なりがある。
これはどういうことか。
歌詞にはときめいても、彼の短歌や短い言葉の連なりに激しい拒絶感を持ち続けたまま今日に至っている。

映画もまたわたしは避けてきた。
本来ならわたしが偏愛すべき世界に近いのに、微妙なずれがあり、そのためにその領域に踏み込まぬよう踏み込まぬよう、注意してきた。
「書を捨てよ、町へ出よう」も「草迷宮」も「さらば箱舟」もわたしは身をのけぞらせて避けてきた。
ただ「上海異人娼館」だけは見ておきたかったが。


短歌に対してもわたしはのがれ続けている。
文学館のホールから椅子が全て取り払われ、上から幡のようなものが薄闇の天井から降りている。数も少なくはない。
近寄るとその幡に巻き取られてしまいそうである。はえ取り紙のような粘着力がある。
行くな、と理性の声がするが近づく。幡に文字があるのを読んでしまう。
寺山修司の短歌がある。あの湿り気を帯びた、なにかの匂いのするような文字の連なりがある。
わたしは逃げるしかない。
その匂いは妙な湿り気を帯びていて、懐かしいような気持ち悪いような、言葉にしたくない感覚までも呼び起こすのだ。
オンナノヒトダケノニオイ…あれが短歌の字面から立ち上ってくるような。

しかもあざといようなしつらえがある。大正琴と朗詠の二重奏が静かに鼓膜を打つ。
これもまたなんとなくあのいやらしさを感じるのだ。
そしてわたしはやっぱり逃げ出していた。

わたしは寺山修司の世界から遠く離れて生きていこうとしていた。


展示室に中井英夫の書斎が再現されていた。
寺山修司と中井との交流の深さを感じさせる書簡も展示されている。
寺山の字はとても丁寧で読みやすい。
一つ一つを読みながら、寺山修司の心の流れを知る。
わたしは中学の終わり・高校生になるまでの空白期間に、中井英夫の世界を知り、そこに溺れた。
最初に読んだ『幻想博物館』の挿絵が建石修志で、ここにも彼の作品が二点飾られていた。
それを見ただけでもわたしはときめいている。

中井英夫との交友、寺山が19才で山田太一と出会い親しくなったことなどは非常に興味を感じる話だった。
まだ若い寺山の感性にもときめいた。
これは初めてのことだ。
何度も書いたように避けがちな相手なのに、この若い頃までの感性には素直に惹かれたのだ。
それだけに闘病中の寺山の中井への手紙はせつない。
兄貴、と中井への呼びかけにもせつなさが満ち満ちてくる。
このことだけでもかなりの転換がわたしの内側で起こっている。
とはいえ依然として彼の芝居も映画も短歌も避けているのだが。

去年、渋谷のギャラリーで寺山の写真展を見た。
これは以前からかなり関心があったので、見ることが叶って嬉しかった。
その写真はアラーキーに学んだと会場の解説にある。
私はそんなことも初めて知ったのだ。

ファンだとは言えないわたしがこれ以上何を書くことがあるだろう。
「これからファンになる」とはやはり到底言えない。
しかし見に来てよかったとは言える。

展覧会のタイトルは「帰ってきた寺山修司」だった。
彼の言葉の一部を副題にしている。
「百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる」
そしてその後にこんな言葉がつく。
「寺山修司のことを、われわれはまだ百分の一しか知らない」
この言葉でゆけば、不熱心なわたしはその百分の一の半分以下くらいを知ったことになる。
3/31まで。

常設室では山本健吉を中心にした資料が展示されていた。
わたしは高校の頃から山本の評論を読むようになり、今もその名前を見たり彼の書いた文章の引用を見たりするだけで、なんとなく嬉しくなる。
また、西脇順三郎の展示もあった。わたしのいちばん愛する詩「天氣」がある。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日

この文字の並びを見ただけで、自分の内側に光があふれてくるのを感じる。
寺山の世界でかき乱された心が自分の好ましい方向へ向いだすのを知る。
やはり世田谷文学館へ来てよかったと思った。
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