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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

雪岱挿絵で読む『山海評判記』展

泉鏡花記念館の企画展が見たくて金沢へ飛んだ。
「雪岱挿絵で読む『山海評判記』」展である。
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金沢がもっと大阪に近いとか、首都圏にあるとかいうのなら、企画展ごとに必ず訪れたい所なのだが、なかなかそうはいかない。
どうしても行きたい、という企画展でない限り本当に向かうことはしにくいのだ。
だから今回久しぶりに金沢に出向いたのも、この企画展を見るためだけなのだから、どんなにわたしが期待しているかが分かってもらえると思う。

小村雪岱の挿絵は当時の挿絵界において、極めて特異な様相を見せていると言っていい。
「昭和の春信」とも謳われたが、春信にはない妖気とでも言うべきものが漂いもする。
無論その気配を隠した作品も少なくはない。
彼の代表作の一つ「おせん」「突っかけ侍」などにはその色合いは薄い。
「突っかけ侍」に現れる怪異な犬ですら、テリアの大型犬にしか見えず、間違っても「バスカヴィル家の魔犬」にはならない。
妖艶な男装の娘が現れても、幼馴染の役者との秘められた恋に打ち込む「おせん」の行水シーンであっても、魔も妖気も漂うことはない。

しかし、もう一つの代表作たる「お傳地獄」などは、現在見ることの出来るどの絵を見ても、ざわざわぞわぞわと心が騒ぐ。
白と黒で構成された世界に出口はなく、描かれた人々はその枠の中で、血を見ぬ無残絵を自ら演じているかのように描かれる。
思えば非常に気味の悪い世界ではあるが、そこに囚われると最早二度と離れられないようになる。

鏡花の作品世界を思うとき、その単行本の美麗さを思いだすことも多い。そこに雪岱が深く関わっていることを決して忘れることはない。
紡ぎだされた文章の綾、形作られた世界の美貌と醜さ。
鏡花の作品世界の特異さは深く、読者を選ぶ偏狭さで支えられている。
作者に選ばれた、と錯覚した読者たちは自ら鏡花の信徒として生きる。
そして鏡花の世界を封じた本を求める。
そこへ雪岱は<淡白な濃密さ>とも言える装いを施してゆく。

雪岱と鏡花のつながりの深さは、鏡花を愛する人には周知のことで、今さらここで書く必要もない。
雪岱の随筆「日本橋檜物町」には雪岱から見た鏡花像や数々の逸話が綴られ、何度読み返しても飽きることもない。

鏡花も深く雪岱を信頼した。
その鏡花の文章に雪岱が挿絵をつけた。
それが『山海評判記』である。
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『山海評判記』は鏡花の長編の中でも特に不思議な作品で、幻想と現実の入れ替わりが激しい。そしてその現実部分がまた不思議な展開をみせるのだ。
いや、あくまでも現実が続き、そこに幻想が螺旋状に絡み続けている、というべきか。
正直、一読しても意味がわからなかった。それで避けてしまった。
しかしここに雪岱の挿絵があることで、物語への理解が進み、その世界への執着が生まれ始めてゆくのを感じた。

チラシをみる。
鏡花x柳田x雪岱の世にも稀なるコラボ作品 見参!
このコピーからして既に妙としか言いようのない味わいがある。
その隣には女の生首が置かれた風景画と「合歓の葉かげ(八)」の部分収録がある。
この女の生首は作り物であることが、後の台詞などでわかる。
そして猫の絵の掛け軸に床の間にはカエルの置物がある。
井戸のぞきする三人の女もいるが、よくよく見ればその風俗は三人三様である。
時計回りに、巫女・昭和四年当時の洋装のモダンガール・高島田の振袖娘という、全く接点のなさそうな三人である。

物語は和倉温泉の「鴻仙館」なる旅館に始まる。
鳥瞰図風に描かれたのは、昭和60年頃まで営業していたという和歌崎館という旅館をモデルにした「鴻仙館」。海に接しており、小舟も出ている。
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ガラスケースには昭和初期までの和歌崎館の絵葉書などもあり、絵が実景に基づくことを知る。

小説家・矢野誓は宿で按摩にかかりながらタヌキの仕返し譚「長太居るか」の話から、その歌を追想する。
宿の廊下。洗面所には盥がある。アルマイトか琺瑯かはわからない。
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矢野は廊下から聞こえる不思議な声「長太居るか」にふと答えてしまう。
女の妖しい笑い声が響く。
「七年さきの夫の仇」
魔を呼んでしまったかもしれない矢野。
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東京の芝で紙芝居をする総髪の男の後姿がある。能登出身で矢野とは旧知の安場嘉伝次による紙芝居である。
それを踊りの師匠である、美しいお李枝が見るのだが、内容は奇怪なものだった。
井戸を覗き込む三人の女の首が鳥に変じ、続いて井戸へ落ち込もうとする三羽の雀を青年が救うが、その三羽は生贄のため、それを投じた三人の女が命を落とすと警告される、そんな物語だった。
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落ちてゆく雀たち。ぼとぼとと落ちてゆく。
こちらは木の井戸である。nec274-5.jpg


雪岱は随筆の中で、昭和四年当時自分は紙芝居と言うものを知らなかったと書いている。
そこで鏡花と二人で東京の街を紙芝居屋を探し回ったらしい。

元に戻り、和倉をハドソンという車で走る矢野たちがいるが、運転手・相良は「合歓の木と白楊樹(ポプラ)との間に衣桁のようなものがあって、そこに婦の生首をみた」と言い、車を後退させる。
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しかしこれは前述の通り拵え物である。東北のオシラサマ信仰のご神体をこのようにここで奉じているらしい。
矢野は友人の民俗学者・邦村柳郷から聞いたオシラサマ信仰について自説を交えて解説する。元は能登の白山の姫神が東北へ伝播し、それがこちらへ戻って威徳を示したのではないかと。

鏡花はここで友人・柳田國男を出演させる。

生首女の横顔と水面から顔を出す魚類たち。
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ガラスケースに連載当時の時事新報が出ていた。
飛行船のツェッペリン号の飛行のニュースが掲載されていた。
雪岱のこの物語の挿絵原画は現存せず、この新聞に掲載されているものしか残っていないらしい。
記事の下にはエビスビールの広告がある。

物語のどの辺りか、三枚の続き絵がある。それらは少しずつ距離を置いて展示されていた。
いずれもオシラサマの飛行シーンである。彼方から此方へ近づくオシラサマ。
とうとう書斎の上に降り立った。

またオバケ顔のオシラサマが中空に現れるや、大勢の人がたくさんの団扇を上げて差し招く。

お李枝は仲良しの矢野のおじさん(!)を追って和倉へ行くが、その同じ車両には例の嘉伝次も秘かに乗っていた。
彼はナゾの宗教団体に属するらしく、紙芝居にあるとおり、かつて矢野が雀を助けたことを非難する手紙を矢野に送っている。

ハドソンにまたも危機が迫る。暴風雨に襲われ動けなくなる。
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そのときひとりの女が現れ、車中に乗り込むと水のトンネルからハドソンは脱出可能となる。女はさっさと去る。

矢野は旅館でお李枝に再会すると、三人の女の井戸覗き・三羽の雀を救った顛末・「長太居るか」の怪異などを話す。
そして床の間に掛かっていた黒猫の軸物の話に移る。
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この絵を描いたのはどうやら矢野の同学・姫沼綾羽らしい。彼女はその美貌と才知から「クレオパトラ」の異名を奉られていた。
その彼女の話を書き連ねる。nec275-1.jpg


さて宿をハドソンで発った矢野とお李枝だが、途中富山の工場から逃げてきたという女工を同乗させるが、峠越えの最中に23人もの馬士の襲撃を受ける。
人の姿から馬頭人身になった馬士らに追い詰められる。かなり凄まじい挿絵がそこにある。
電柱なども立つ昭和四年なのに、このような異形のものたちが溢れかえっているのだ。

ついに自害しようとする二人だが、突然先ほどの女工が巫女装束になるや、馬士と馬たちとをピシピシと打ち倒してゆく。
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危機を逃れた矢野は姫沼綾羽の身内かと問いかけると、巫女は「お師匠さんはあらためて またお目にかかります」と答える。

そして誰も居ない真夜中の鴻仙館の矢野のいた座敷では、あの「長太居るか」の歌が響く。


挿絵をたよりに、今度こそこの物語の深みに溺れこみたいと、思っている。
またハドソンの動きの描写などを見ていると、車でありながら意思を持って動いているようにも見え、その辺りは石川淳「狂風記」の『銀色のカー』に共通すると思いもする。
この物語は一度も単行本にならなかったそうだが、今だからこそ却って本に出来るようにも思う。無論そこに雪岱の挿絵をつけなければ何にもならない。

絵は前述の通り原画を失ったが、こうして「時事新報」の当時の新聞が残っていることで、なんとか雪岱の挿絵も後世に伝わった。
展示はパネルでの拡大ものだったが、充分に満足した。
本当にきてよかった。

展示はほかに「化鳥」の絵本、「春昼」のジオラマ、また「高野聖」の朗読などがある。
そして今回は特に雪岱による装丁本、橋口五葉のそれなども展示されていた。
4/14まで。ああ、「山海評判記」が単行本になれば・・・
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コメント
芦屋で浮世絵展やってるよー
2013/05/03(金) 23:04 | URL | #-[ 編集]
承認待ちコメント
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2019/07/21(日) 07:07 | | #[ 編集]
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