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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

11ぴきのねこと馬場のぼるの世界

馬場のぼると言えばすぐに思い浮かぶのが、笑う猫の顔・驚いたカエルの顔・ほっとしたブタの顔、それからご本人をモデルにしたほかのマンガ家たちの絵。
猫の代表は「11ぴきのねこ」、カエルはもう数えきれないが、ここはひとつ「いまはむかしさかえるかえるのものがたり」に出てもらうことにしよう。
いまはむかし さかえるかえるのものがたりいまはむかし さかえるかえるのものがたり
(1987/01)
松岡 享子


ご本人の顔と言えばやっぱり親友・手塚治虫の「W3」の柔道の達人・馬場先生、それから「まんが道」などでちょこっと顔を見せ「オホ…」と笑う馬場のぼる。

本は絵本を中心にたくさんあって、決して消えない。
亡くなったなんて嘘みたいな人気ぶり。
今も新作を描いてるような気がする。

うらわ美術館で「11ぴきのねこと馬場のぼるの世界」展が開かれている。
馬場のぼるの展覧会は手塚治虫記念館で見て以来。
2003年の正月「馬場のぼるの世界 手塚治虫の大親友」これが楽しい展覧会だった。
あれからもう10年か。
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馬場のぼるの子供時代の絵を見る。
小学校の低学年で既に相当うまい。しかも後の馬場作品の芽がそこここにある。
金魚、桃太郎、動物の行軍、お月見などなど。
動物たちの顔つきがもう完全に「馬場のぼる」。
小5のお習字もうまい。そして写生した絵もリアリズムで巧い。
やはりこうした人は子供の頃からごく巧いらしい。

中学生の時のノートがまた面白い。きちんとまとめられているのだが、そこここに馬場キャラがいて、何かしら話しかけている。
宿題なのか趣味なのか「十二支合わせ」カードもかるた風に拵えていて、これがまた本当に巧い。
うまいうまい、と書いても「上手」という意味ではない。
もう本当にどこからどう見ても馬場のぼるの世界がきちんと成り立っていて、その法則が活きている、ということである。

昭和30年、「少年倶楽部」に馬場のぼるは「ぼくの生い立ち」というマンガを描いている。
これがやはりユーモアあふれるもので、ラストにはふっと笑ってしまう。
そして昭和49年5月号の「別冊少年ジャンプ」には「ウサギ汁大作戦」というスト―リーマンガが掲載されていて、展示は前半部分だけだったが、いかにも馬場のぼるの世界なのである。
のほほんとした馬場のぼる少年、その友人、先輩。ウサギ汁大作戦が成功したかどうかはわからないが、戦後の物のない時代の田舎の話で、そこに住むのほほんとした中学生のいかにもありえそうな話なのだ。
この時代の少年ジャンプは読んでいたが、別冊の方は読んでいない。まだ「硬派銀次郎」も「けっこう仮面」もなかったころだと思う。何が連載していたのだろう。
同年の九月号から「月刊少年ジャンプ」に変わったそうだが、ちょっと調べたら同時代には、ちばあきお「キャプテン」が連載されていた。
ああ、そうか、そういう頃か。馬場マンガが少年誌に掲載されていた理由も納得できる。

馬場のぼるは当初漫画家として出てきたようで、その時代のものはわたしは殆ど知らない。
うちの親は大人向けの雑誌でのほほんとした漫画を描いていたと言う。
ユーモアとペーソスはむしろ大人に好まれるのを感じる。
とはいえ、それはわたしが現代の少年マンガを思うからかもしれない。

昭和28年の「おもしろブック」掲載の「ポストくん」、翌年の「冒険漫画文庫」の「山から来た河童」、32年の「婦人生活」の「のらねこノンちゃん」「ブウタン」などなどの原画と掲載誌がある。
この時代の馬場のぼるのマンガはけっこう背景に描きこみの線が多い。
雑誌の片方のページに中村錦之介の義経の写真があり「ぼくらの錦ちゃん」とあるのが、いかにもその当時の時代感覚をあらわしている。
お子様時代劇のスーパースターだった中村錦之介(後の萬屋錦之介)なのである。

馬場のぼるは世代が世代だけに戦争を嫌がっていた。
「のらねこノンちゃん」にその気持ちがあふれている。
ところでマンガを見たり小説を読んだり戯曲を読んだりしていると、作者の嗜好がチラチラ見えてくることがある。
特に食べ物のシーンにそれが出てくることが多い。
杉浦茂、水木しげるなどはその傾向が特に顕著だが、岡本綺堂もウナギ好きなのが「半七捕物帳」でバレバレにばれている。

馬場のぼるは見たところ、どう考えてもジャガイモやコロッケが好きらしい。
「ノンちゃん」でもジャガイモがおいしそうに出てくるが、昭和37年の「ころっけらいおん」などはタイトルからしてコロッケである。
物のない時代に芋ばかり食べて芋嫌いになった人の話もよく聞くが、一方で好きになった人だっているだろう。
どうも馬場のぼるも杉浦茂もそのクチらしい。

ここには出ていないが、「がんばれ おおかみ」というおおかみ兄弟の奮闘する絵本があり、それはほかの動物たちと仲良く共生するために、肉食をやめてコロッケを主食にする狼の話なのである。
わたしは佐々木マキ「やっぱり おおかみ」のように、自分は自分、所詮妥協はできない、孤独でいることの自覚を持て、という意識が強いので、馬場のぼる作品のうちで正直なところ、唯一イヤな感じを持っていた。
しかし今回の展覧会でまた違う意識をもつようになった。
戦争を経験した作家だからこその、「がんばれ おおかみ」のコロッケなのだと思った。
本来は肉食であっても、平和な時代の中にあり、隣人らと仲良くするにはある種の我慢・辛抱も必要なのだ。隣人らと仲良くしようとする意識、それが馬場のぼるの持つ<平和>というものなのだと思う。
あくまでもわたしの勝手な解釈かも知れないが、どうもそう思えてならない。

「週刊漫画TIMES」昭和31年には「ろくさん天国」という4コマ漫画を連載している。
けっこう笑える。社会風刺などではなく日常ののほほんとしたマンガ。こういうのも好きだ。
また、女流文学者として名高い円地文子の文で「ルミ子の青空」という作品も出ている。
昭和30年代は当時流行作家だった人々も児童文学で活躍もしたのだ。

さて手塚治虫との交遊についてパネル展示がある。
「W3」「白いパイロット」「フィルムは生きている」などに馬場のぼるは出演している。
手塚マンガはスターシステムを採っているので、「馬場のぼる」というキャラもすっかり二次元の人として、そのアクターズの中にいるのだった。
そう言えば「W3」は主人公の少年の名をこれまた仲良しのSF作家・星新一から取っている。手塚のこうしたお遊びはとても好ましい。
手塚マンガにはほかにも水木しげるキャラが一瞬出たり、ロックが逃げるときオバQになってたりしたのを見ている。

馬場のぼるが絵本の世界へ位置を変えたのは大正解だったと思う。
主に「こぐま社」の仕事が多いと思うが、本当にどれを見ても古さがないのだ。
新しすぎることもない。常に今、という感じがある。

「きつね森の山男」 
きつね森の山男きつね森の山男
(1974/01)
馬場 のぼる


これがまた妙に笑える面白い、しかし一方でひそかに残酷なところのある作品なのだった。
殿様が大軍を出してキツネ狩りをし、狐の毛皮まみれになろうとする。異常に寒がりの殿様は狐の毛皮に過剰な期待を寄せているのだ。
狐たちも毛皮を取られては困るので(すなわち狐たちの虐殺である)、軍を作って対抗しようとし、そこに山男が巻き込まれるのだ。
山男は王様にあったかい食べ物(ふろふき大根)を勧め、それで殿様も狐の毛皮を不要とし、狐たちも平和に暮らせるようになる。
山男のぼーっとした風貌がいい。狐たちも切迫しているのだが、それでもどことなくトボケた顔で、なによりもまず虐殺命令実行者たる殿様がいちばんボーッとした顔なのである。
馬場のぼるのコワイところはこんなところかもしれない。

「五助じいさんのきつね」は現代を舞台にしたもので、一緒に暮らすちびの狐がだんだん人間の暮らしに近づくのを危惧した爺さんの計らいで、山里の狐の群れに渡される。
可愛い可愛いだけではやってゆけない、ということを教えてくれる話である。

「くまのまあすけ」はポプラ社刊。ここにも大根が出る。ああ、おいしそう~~
ちょっと間、荷車に乗せた大根を見ていてと頼まれたのに、その大根が池に落ちたので、まあすけが懸命に大根を洗う。頼んだ人は大根を洗ってくれたと解釈して、喜んでお礼をする。こういう話もいい。なにより大根がおいしそうである。

「アリババと40人の盗賊」 
アリババと40人の盗賊 (馬場のぼるの絵本)アリババと40人の盗賊 (馬場のぼるの絵本)
(1988/07)
馬場 のぼる


これは昭和末頃に刊行された絵本で、出てすぐにわたしも読んでいる。アラビアの町中の様子、アリババの家の雰囲気、何もかもイスラーム風でありながら、やっぱり馬場のぼるの絵なのである。
壺一つにしても馬場のぼる。とても楽しい。そして出てくるお姉さんのいろっぽさ。そのお姉さんが盗賊のひそむ壺に熱した油をそそいでいって煮殺す、といのもサラッと描いている。


「アラジンと魔法のランプ」もよかった。これはアラジンのお母さんが面白い。
いい絵本である。
アラジンと魔法のランプアラジンと魔法のランプ
(1994/07)
馬場 のぼる



いよいよ「11ぴきのねこ」の登場である。
超ロングセラーの連作もの。
ここで作者としての馬場のぼるのコメントがある。
このシリーズはいずれもラストに大きなオチがついているのだが、そこに馬場のぼるのユーモアと悲哀感と、そして冷徹な視線が活きているのを感じる。
ねこたちはいずれも明るく、そして小ずるい。しかし憎めない。
悲惨な状況に入り込むのも、自業自得なのだが、それでも読者は「あーっ11ぴきのねこがーーーっ」となる。
絵の可愛さに比べて存外に無残な話であることも少なくはない。
そうしたブラックユーモアを井上ひさしは劇作家としての視線で好み、作品を舞台化している。
馬場のぼるにしろ井上ひさしにしろ、とぼけたユーモアと共に胸を衝かれる無残さがチラチラしていることに改めて気づかされる。
それはまた手塚治虫にしても同様なのだった。

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「11ぴきのねこ」を始まりとして、「11ぴきのねことあほうどり」「11ぴきのねことぶた」「11ぴきのねこふくろのなか」「11ぴきのねこマラソン」「11ぴきのねことへんなねこ」。
わたしがリアルタイムに読んだのは「マラソン」だった。これは物語性はなく、絵巻物風に展開する、大モブシーンで構成された作品。
同時期かと思うが「ウォーリーをさがせ」が出ていたので、こうした試みも可能だったのではないか。
ラストはゴールして喜ぶねこたちの姿。
このラストは連作唯一の安穏な、そして嬉しいラストシーンなのだった。
いや、最初の「11ぴきのねこ」のラストもまぁ幸いか。
あのラストはヘミングウェイ「老人と海」を上回るスケールだった。

11ぴきのねこはとらねこ大将を頂点に、見分けのつかない10ぴきのねこが後をついて機嫌よく生きる設定なのだが、だいたいが悪計をねる。案外悪辣なこともしでかす。
ひどいときはもう目を覆わんばかり。
「あほうどり」との関わりも、コロッケ屋を開いたねこたちが、お客のあほうどりを食ってやろうとたくらみ、その住まいに飛んで行くのだが、そうそううまくゆくはずもない。
一匹に付き一羽ずつ食えると目算を立てるねこたち。
その期待するねこたちの前に次々と11羽いるあほうどりが出てくるシーンの面白さには、爆笑してしまう。
1羽ずつだんだん巨大化してゆき、とうとうラストの鳥に至っては、建物を壊して中に現れるのだ。
それは絵だけでなく文字も少しずつ巨大化して行くのだから、見てるだけで横隔膜が痛くなる。
ああ、おかしい。

「ぶた」とのかかわりもそう。悪いのはやっぱりねこたち。ぶたは最初から最後までただ善意のひととして描かれ、ねこたちがまるで天罰を受けるように大風に飛ばされるのにも、呆然と立ち尽くすばかりなのだ。

そしてそのねこたちの行動や考えについて、馬場のぼるの想いが書かれたものが展示されていた。
非常に冷徹な目があることに気づく。
ユーモアとペーソスと、そして冷徹な目。
その感性の鋭さを丸まっちい絵がくるんでゆく。

今回この展覧会で馬場のぼるの深さについて初めて知ったように思う。

そしてスケッチが展示されているのを見ると、やっぱりこちらも馬場のぼるの絵なのだ。
風景も対象物もみんな馬場のぼる絵。
リアルなねこスケッチもあるが、それでも馬場のぼるらしさが生きる。

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「11ぴきのねこどろんこ」がそこで現れた。
これが最後のシリーズなのだろうか。
まだまだ新作が続くような気がしてくる。

最後に遺作「ぶどう畑のアオさん」がある。
セルフカバーの作品である。
水彩画の絵は、たいへんきれいな色をみせていた。
青紫のぶどうをはじめ、いずれも繊細な色彩だった。

そしてここで知ったことだが、こぐま社はリトグラフで色彩を設計するので、原画の色はほんの少しの人しか知らないということだった。

いい展覧会をみせてもらい、とても幸せだった。
9/1まで。

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