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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

竹内栖鳳 近代日本画の巨人 その1

東京国立近代美術館で10/14まで開催されている「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」の前後期を楽しんだ。
この展覧会は次は本場の京都市美術館に巡回が続く。
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わたしは一足お先に東京で見たが、京都でもみたいと思っている。
京都市美術館では併設展として、栖鳳の下絵を特集した展示がある。
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竹内栖鳳は横山大観と並んで戦前の「近代」日本画をリードした画家である。大観は「朦朧派」と揶揄と非難を受けたが、栖鳳はヌエ派と揶揄された。ヌエとはキメラの怪獣である。様々な技法を複合・融合し取り入れた栖鳳への揶揄と非難は、旧式な世界しか知らぬ者たちの「ヘンネシ」であった。
「ヘンネシ」を標準語に直すことは難しいが、その感覚は「ヘンネシ」としか言いようがない。

さて、その「ヘンネシ」をはねのけて栖鳳は素晴らしい日本画家になり、とうとう誰も悪くは言わなくなった。
それくらいの仕事をしたのである。
今、京都の近代日本画の誰それを思うと、必ずそこに栖鳳の影響を見出す。
作品に影が残るのではなく、先生としての栖鳳その人の薫陶が見えるのである。
それは直弟子だけでなく孫弟子にまで及んでいるように思う。
一個人の画家としても偉いだけでなく、先生としての栖鳳の偉さというものは、ぬきんでている。

まず「栖鳳」以前の若き「棲鳳」時代の絵を見よう。
第一章 画家としての出発 1882-1891

芙蓉 1882年 18歳の絵とは思えぬうまさがある。

龍神渡御の図 1887年 京都の神泉苑所蔵である。結婚の年にここへ奉納したそうだ。魚族という異形のものたちが続く。蛙もまたその一行に続く。ヒト型の姫もいる。
同時代の山本芳翠「浦島図」はヒト型で水中を泳ぐ一行だったが、どこか相通じるものを感じた。

保津川 1890年 いかにも古い。明治以前の続きの絵である。幕末の四條派の絵に近い。

池塘浪静 明治20年代 やはりこの時代はまだ修行時代である。ただ、鯉の跳ね方がいい、とも思う。一匹だけ跳ねているが、あとは静かに泳ぐ。静けさを破る一匹に、何かの期待を寄せたくなる。

この時代は模写も多くしている。写生も大事だが模写も大事にした「栖鳳」らしさがある。
鳥獣人物戯画、相阿弥、芸阿弥、雪舟の絵の模写などがある。

中でも芸阿弥の「唐瓜と胡蝶図」を見ていると、栖鳳のパトロンの一人で、光村原色の創業者・光村利藻のエピソードを思い出す。
光村は栖鳳を可愛がり、たくさんの絵を注文した。
ある年、かぼちゃ畑の上をテンが走り抜けるという絵を栖鳳が描いたという話がある。
その絵のことを思うと、この「唐瓜と胡蝶図」などが後年の制作に役立ったのだろうと思ったりするのだ。

写生帖も虫類(アゲハ・バッタ・トンボ)、鳥類(丸い目の可愛いミミズク・文鳥)、縮図(渡辺崋山の今宮神事の模写、猿の大暴れ図)などバラエティに富んでいる。
中でもミミズクの真後ろからの写生がまた可愛くてならない。耳の飛び出したハンバーガーのようなのだった。

第二章 京都から世界へ 1892-1908
ヨーロッパ旅行が「棲鳳」を「栖鳳」へと変容させた。

富士川大勝 1894年 平家物語から材を得ている。みんな大慌て、鼓を持つ女などもひっくり返っている。弁当の鮭もこぼれている。描写が細かい。

百騒一睡 1895年 左のスズメどものやかましいこと!!みんなひっ捕まえて伏見に売るぞ!!(←伏見の「寝ざめ家」はスズメの焼き鳥で有名)一方右は静かにわんこが寝ている。応挙風のわんこで、こちらにいるスズメ四羽も静かである。
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わんこたち。nec628-1.jpg

平安神宮・円山公園 1897年 ロングで捉えた風景。春霞。円山公園の桜はまだ咲かず。

観花 1897年 骸骨が立ち舞いする姿。先人応挙同様、現世での華やぎのむなしさを描くのか、暁斎のしゃれっ気が主なのか。
この絵を最初に見たのは新聞でだった。たぶん90年代初頭の話。

松虎 1897年 二匹の虎がいるところ、カササギもいる。この取り合わせは朝鮮の吉祥画のようだ。

雪中噪雀図 1900年 雪の上で楽しそうな六羽の雀。それぞれの個性が違うのが楽しい。
芦雪以来の可愛くて楽しい雀たち。nec619.jpg


いよいよ獅子の登場である。
チラシは東京も京都も猫と獅子とをクローズアップしていた。
ネコライオンである。nec626.jpg

その中興の祖は岩合光昭さんである。
ネコライオン。猫は小さなライオンだ、ライオンは大きな猫だ。
この言葉が世間に浸透し、ネコライオンの元祖が竹内栖鳳だとも認識された。

20世紀に入ってからネコライオンが多く描かれた。江戸時代の唐獅子ではない、アフリカ原産のライオンである。これはひとえに熱心な写生の賜物である。
栖鳳は鼻先と鬣の立派なライオンを描いた。リアルなライオンを描いた最初の日本人である。
リアルなライオンに触発されたのはまず栖鳳だったが、続いたのは画家ではなく、六代目菊五郎だった。
六代目はハーゲンベック・サーカスのライオンの芸達者な様子を見て、勇壮な「鏡獅子」を踊れるようになったのだ。関係ないが、その菊五郎のライオンを見て、ジャン・コクトーは「美女と野獣」の野獣にライオンの風貌を与えたそうだ。

金屏風に描かれた勇壮なライオン。どれを見てもかっこいい一方で、猫の親玉だということを思わせる可愛さも確かにあった。

象図 1904年 これは金屏風に墨絵で描いたもので、少し前に堂本印象美術館の図録の表紙にもなっている。

京都市恩賜動物園への写生が始まったのもこの頃だったか。
うそを描かず、真実を通り越した地点で描く。

川ウ、ウサギ、猿、狐にタヌキ、牛・・・観察眼がリアル+親愛感あふれる形で絵になる。

雨霽 1907年 左では固まってわいわい騒ぐ川ウたちがいるが、右の一羽は飛び立っていった。その姿を見てわたしは宮沢賢治「春と修羅」の一節を思い出した。
「黒々とエーテルを吸へば」そんな鳥だった。

1.美術染色の仕事
栖鳳は高島屋に勤務していた。先般開催・巡回された「美術と暮らしの高島屋」にもあったように、わりとまじめに勤務していたそうである。1889年の出勤簿を見ると「竹内棲鳳」「辻華香」(都路華香のことか)らの出欠がとられていた。

栖鳳は高島屋とも非常に深い関係がある。着物のデザインもしている。
団扇の原案、緞帳の原案、そして万国博への出店に伴い、原画を描き、それが綴れ織になるものもあった。
「雪月花」の一として、栖鳳は「ベニスの月」を描き、それは高い技術で織られて、今では大英博物館に納められている。

長くなるので1はここまで。

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