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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

物黒無 モノクローム

正木美術館は北摂住まいのわたしにとって遠い地にある。
駅からも離れているし、その駅に行くのもも遠い。
それでも行きたくなる魅力がある。
「物黒無」
ああ、モノクロームの当て字かとすぐにわかったが、しかし何をどのように展示しているかは、字面だけではわからない。
わたしは何も考えることなく出かけた。行けば分かるだろうと思いつつ。

駅からの長い道を歩きながら考えた。
写真家の杉本博司とのコラボレーションだということはわかったが、何をどうしたのだろう。杉本が正木コレクションを撮影したのだろうか。
随分以前、まだ大阪に萬野美術館があった頃、その萬野の山荘で篠山紀信が「萬野美術」として、山荘の人工的な自然の中でコレクションを撮影した。
あれは衝撃的な<事件>だったが、杉本もその道を往くのだろうか。

入ってすぐにリストをもらい、一覧をみる。
夢記断簡、大燈国師墨蹟、カリフォルニア・コンドル、大燈国師墨蹟…
夢記は明恵上人、墨蹟はタイトル通り、そしてカナ文字は「杉本博司作」とある。
始めの四点だけで既に鎌倉と現代とが混ざり合っている。
タイトルは「物黒無」である。モノクロを連想させ、なおかつ何かしら「無」をも想起させる中身なのだろうか。
リストをもらってからガラス越しに展示品を見るまでの短い間に、色々なことを考える。

無と言えば、とわたしはまだ考える。
石川淳「至福千年」には「む」という字が何度か不思議な顕れ方をした。隠れキリシタン2派の暗躍の最中にまず「夢」としての「む」、次いで霧が立ち込めて「霧」としての「む」、そして最後に聖セバスチャンの殉教のように矢で射ぬかれて死ぬ虚無僧に顕れる「無」としての「む」。
妄想はいくらでも湧き出してくる。

夢記断簡をみる。
「ある少女が成親から行儀を習う」という内容である。その(藤原)成親は後白河院と男色関係にあった。この時代のそうした関係はごく普通だったという意味のことを、杉本は書く。
わたしはそれを読んで五味文彦「院政期社会の研究」を思い起こす。成親は悪左府・藤原頼長とも関係があった。いちばん始めの展示からこんな風にわたしを喜ばせてくれる。

杉本の撮ったカリフォルニア・コンドルがあった。
左右に大燈国師墨蹟がある。つまり三幅対という形である。
そして解説によると、このカリフォルニア・コンドルは活きているものの写真ではなく、剥製になってからのもので、展示物を撮影したそうだ。
ジオラマ・シリーズの一。これはコンドル三尊と言うらしい。
「どんな虚像でも一度写真に撮ってしまえば、実像になるのだ」
杉本の言葉である。
それはわたしも深く共感する。ジオラマは確かに撮影すると実景化する。特撮映像を思えばたやすく理解できる。だからこそミ逆に、ニチュアやドールハウスの写真集にはなにかしら小さな落胆があるのだ。

杉本はこの情景を「瀟湘八景図を背景に」重ね見ているそうだ。
だから当然ながら瀟湘八景図巻が現れる。
雪村の水墨画が。

展示は更に加速する。
元代の王冕の墨梅図の前に、鎌倉時代の根来塗の黒瓶子が対で設置される。これもまた絵を本尊にしての配置なのだ。手を合わせると、梅花の花びらが舞い散るかもしれない。

そしてなぜかいきなり解体新書が現れる。初版本らしい。小田原文化財団からの借り出し。
脳髄の項と妊娠の項とが出ている。
「夫脳髄者其形梢圓而軟盈在頭蓋之内…」
他に足の解剖図があり、「進撃の巨人」を思い出した。

禅の祖師図がある。
五祖弘忍図と六祖慧能図。それぞれ鎌倉時代の絵だが、絵師の名はない。賛はそれぞれ清拙正澄と無学祖元。
個性が際立つ二人。その二人に挟まれる、というよりその二人を従えて、杉本の華厳滝図がある。
モノクロの水墨画をそのままにしたような滝は、しかし着地時点では現実風景が出てしまう。この二人を配置しての華厳の滝は、日本の風景から離れて、どこか遠い非現実の地の絵になってしまった。

舞楽図屏風下絵がある。これも小田原からの借り出し。素描と白描と。森川如春庵旧蔵品。

梵字文殊図 一目見るとも何かチリチリチリ…している。長い髪の文殊であるが、このアウトラインは全て梵字で構成されているそうだ。
可愛らしい文殊ではある。

叭叭鳥図が二枚並ぶ。どちらも室町時代。雪村のは2羽、等春のは1羽。
室町の水墨画を代表する鳥である。
そしてこの鳥は、カリフォルニア・コンドルでもある。平成の杉本の撮った彼らは、室町の叭叭鳥なのだ。

白地鉄絵蝶文鉢 磁州窯。北宋から金代 以前から好きな鉢。黒い蝶が連帯を組んで縦並びに飛び続ける。どこまでも飛ぶ。丸い胴の周囲を永遠に。

須田悦弘のスミレと雑草がある。雑草は時折ここの埴輪の花かんむりにもなる。
スミレは単品展示だが、雑草は中国の戦国時代の陶製舞人像と共にある。
鳥もいて、腕を挙げる舞人と共にいきいきしている。

須田の白椿は古信楽の蹲り花入に活けられていて、やはりこの取り合わせがいちばん綺麗だと思う。

最後に
杉本の撮った松林図をみる。対幅である。横に広がる松林。昏い松林。遠いようで近く、近いようでも決してたどりつけない距離の先にある。
不思議な時間帯に撮られた風景。どこにあるのかもわからない。
物黒無、その言葉を深く実感する風景だった。

2/2、節分の前日まで。
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