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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

井上洋介図鑑展-漫画、タブロー、絵本- その2

続き。
ようやく井上洋介の絵本である。

わたしは井上洋介のナンセンス絵本がとても好きで、大人になってから色々と手に入れた。
先般姫路文学館で見た「くまのこウーフ」の原画もある。
神沢利子の童話に沿う、いやそれ以上に深く本質そのものに「なった」ウーフの姿がそこにある。
くまの子ウーフ (くまの子ウーフの童話集)くまの子ウーフ (くまの子ウーフの童話集)
(2001/09)
神沢 利子




わたしは井上洋介オリジナルのナンセンス絵本がとても好きだ。
最初に見た絵本は1975年発行の「ビックリ絵本」だった。これは2008年に再刊されているが、見開き2ページが一つ抜けている。
ビックリえほんビックリえほん
(2008/01/01)
井上 洋介


その絵本は妹が幼稚園から毎月貰う絵本の一冊だったが、ナンセンスという概念を初めて知ったのはここからではなかったか、と今にして思いもする。
わたしは妹より3歳上で、わたしがもらった絵本シリーズは物語性の高いものばかりで、それが今も絵画に文芸性を求めるわたしの嗜好の下地になっている。
しかし妹の貰っていた本はほかに福田繁の不思議な絵本、太田大八の言葉のない絵だけの絵本「かさ」などで、妹とわたしのセンスの違いは案外こんなところから生まれているような気がしないでもない。

井上洋介の絵本デビューは1960年の「おだんごぱん」である。
同時代のエログロさをここでは選ばず、素朴な中世欧州の版画を思わせる作風で物語を展開させる。農民版画のような太い線が不条理ではあるが楽しい世界を構成し、今見ていてもなんとなく面白い。

私見だが、子供が面白いと感じるものの一つに、他愛ない言葉遊びのウェイトが、かなり大きく占めるように思えてならない。
わたしには9歳の甥と4歳の従姉妹の子ども二人(共に男児)がいて、しばしば相手をするが、彼らが喜ぶのは決まって、ナンセンスで不条理で筋が通らなくてもわかりやすい言葉遊びなのだった。
彼ら自身のレトリックもたいへん面白いが、これが年が長けるにつれその面白味が消えてゆくのを惜しくも感じる。
井上のナンセンスさをいちばん喜ぶのはその意味では幼児と、そして少年時代をすっとばして、大人ではないだろうか。
論理的なことを言う・好む人間にはナンセンスな面白味は味わえまい。

1976年の絵本「ちょうつがいのえほん」の原画を見る。
ちょうつがいのえほんちょうつがいのえほん
(2008/07)
井上 洋介


何でもかんでも蝶番がついている。角を曲がる犬のやたらと長い胴にも蝶番があるからスイッと曲がれたり、仲良しカップルの椅子にも蝶番がついている。仲良しの時は椅子はハート形になり、喧嘩中の時は蝶番が折れてハートも半分になり、カップルも背中合わせになる。
これはいい椅子ではないか。

他に原画で出ているのは「ぐるぐるえほん」
ぐるぐるえほんぐるぐるえほん
(2008/10)
井上 洋介

目が@@になるだけでなく、雲も@@、地面も@@、パンも@@、海も@@…

それから「アナボコえほん
アナボコえほんアナボコえほん
(2008/12)
井上 洋介

」なんにでもアナボコがあいてるのでみんな落ちる落ちる…消えちゃった。
これは小松左京のホラー小説「穴」をカラッと明るくしたものかもしれない。
小松の「穴」には無限の観念と恐怖とがあったが、井上洋介はその恐怖を笑に変換している。

90年の「まがればまがりみち」
まがればまがりみち (こどものとも傑作集)まがればまがりみち (こどものとも傑作集)
(1999/09/30)
井上 洋介


は「子供の友」の一冊で出ていたのを図書館で読み、福音館から出版されたときに購入した。今見てもめちゃくちゃ面白い。

真ん丸い顔のキャラ達、むくむく肥えた女の子、わんこ、にゃんこ、毛虫も蛇もみんな妙に丸い。3頭身くらいのキャラ達はタブローのニクニクしい女たちと同じ肉付きではあるが、みんなどことなくニクめない。

電車をモチーフにした「ゴトンゴトン絵巻」がまた面白い。これはページの切れ目がない絵巻形式で、最初のページから最後のページまでずっと続く。そして裏面にもまたゴトンゴトンゴトンゴトン…ミニサイズの楽しい絵本だった。

絵も面白いし文がまた面白いのは「ヘンなえほん」だった。
・犬に吠えられ、犬に吠え返す人。「なんかヘンだ」
・わさびと醤油を支度して釣りをする人。「なんかヘンだ」
こうしたネタが延々と続く。面白い、とても。

95年の「しわしわしわ…」、2001年の「たわし」、2009年の「ぼく」。
みんなとても笑える。心地よいナンセンスさに読者も浮かれてしまう。

「あじのひらき」
あじのひらき (福音館の幼児絵本シリーズ)あじのひらき (福音館の幼児絵本シリーズ)
(2006/06/15)
井上 洋介

に至っては主人公があじのひらきなのである。

ぎゅうぎゅうどうぶうえん (とぴか)ぎゅうぎゅうどうぶうえん (とぴか)
(2010/09/15)
井上洋介


これや「いもしょって」なんてもぉ完全に意味不明で面白くて仕方ない。
近年になってもこんなにナンセンスな世界が描けるとは、どんな脳の構造なのだろう。
素晴らしい井上洋介の脳髄!

賞をもらった本もある。
ぼうし (こどもプレス)ぼうし (こどもプレス)
(2011/08/01)
井上 洋介


この「ぼうし」は、わに屋さんに行ってわにのぼうしを買い、おまけに「わにばさみ」をもらう。
ゴリラ屋さんに行ってごりらのぼうしを買い、おまけに…というパターンが延々と続く。
とらやさん、サイ屋さん、かぶとむし屋さん…揚句が「おじいさん屋」さんでおじいさんの帽子を買うておまけに白髯をもらっている。
よくわからないが「ダミー」もあり、その展示もあった。
子どもは繰り返す言葉遊びを特に喜ぶものだ。
わたしも甥っ子たちと遊ぶとき、大体でたらめな話を拵え、延々とパターンを繰り返す。

「馬の草子」が面白かった。
ある橋がかかる川があり、その橋を渡る人は中世の頃からずーっと誰もが皆<馬になる>のだ。橋を渡り終えると元に戻る。橋を行く間は馬になる。
ヒトだけではなく犬も通れば馬になる。変わらないのは馬くらい。
そしてラストがすごい。
「そうしていまでもずうっとここにあります。」
馬と橋とが描かれたずっと向こうに町があり、車が走っている。
…びっくりしたわ。
これが2012年の絵本作品。

2013年には「たぬきのせんべいさん」が刊行されている。

今度は商業イラストや舞台ポスターの展示がある。


寺山修司の「天井桟敷」の仕事がある。思えば彼らと同世代の人なのだ。
「怪談 青ひげ」ポスターなどが出ていた。やっぱりどこか気持ちが悪い。
しかし「時代」の空気が濃密に漂っているのは確かだ。
こうなると、その気持ち悪さは井上の個性をこえて、時代の産物かとも思ってしまう。
それとも井上たちの感じていた気持ち悪さが時代を染め上げていたのか。

水墨画に井上がハマッていた頃の仕事に、龍生華道会のための花の絵がある。
八重桜らしい。墨の痩肥になんとも不思議な艶めかしさがある。
植物であっても妙な官能性がある。

「ユリイカ」「奇想天外」「話の特集」といった本の表紙絵が並ぶ。エログロ味がやや濃い。
そして1970年頃からの「母の友」誌の表紙絵。ここにはまたあのむちむちに肥えた女がいる。ただしそれは幼女の姿をしているのだが。
井上はただの可愛い子供の絵なぞ絶対に描かない。ただしそこには冒頭で挙げたように悪意も邪気もからかいの念もない。
ただ不気味に肥え太った女がいる図なのである。
本は月刊誌なので月次行事が加わる。井上洋介はシーズン物+むちむちに肥え太った幼女を配する。そこには時に巨大な蝦蟇もいれば、無表情の猫もいる。なぞのおじさんの影も伸びている。決して安易な調和なぞは望むべくもない。

その仕事にこそ自分の文筆が合う、と馬場あき子が思ったのかどうかは知らないが、「発心往生論」の原画がある。
これも非常に気持ちが悪い。口を開けた女が延々と涎を垂らしている。
延々涎。延々にサンズイをつけると涎。うう気持ち悪い。
グロテスクで怖いが、そもそも馬場の作品そのものがわたしは怖い。
くさりとける、ただれる、おぼれる、まざりあう。
ああ、怖い。
女が体液の全てを出し続けている。そんな絵を描けるのは井上洋介だけなのだ。
そして馬場あき子の文章もまた、体液を吐きだし・流し・垂らし続けている。
きっぱりした文体であろうがなかろうが。

ふと、今は亡き松田修は井上洋介の仕事をどう見ていたのか知りたいと思った。
日本の異端者を執念深く愛し続けた松田修の目には、井上洋介の絵は地獄絵または當麻曼荼羅くらいにみえていたのではなかろうか。
彼の著作集に井上洋介の名前があるかどうかを知りたいと思った。

最後に挿絵のことについて書きたい。
ここに出ているのは「絵本水滸伝」の淡彩作品である。
わたしは大学の頃に水滸伝に熱中したが、最初に読んだのは井上洋介の挿絵の入った水滸伝である。
村上知行訳の72回本だった。梁山泊の好漢たちが胸に希望と大志を抱いて星を見上げるところで終わる話の方。みんないい表情で天を見ている。
その挿絵全体がまたよかった。
つまり水滸伝と言うのはグロテスクなシーンが少なくない。
人肉饅頭などよくあるパターンで、これはもう井上の絵で見てみると「なるほど蒸し上がるとこんな感じなのか」と妙な納得がゆき、その怪しい酒舗に入りたくなる。
後に駒田信二の120回本(平凡社の三巻本)を購入した時の嬉しさは格別だったが、ここに井上の挿絵があればと痛切に思ったものだ。
そしてどの本だったか、それとも井上の絵本水滸伝そのものか、最後の戦いで「花和尚魯知深」が円寂するときの絵が井上のものだった。
はっ と胸を衝かれる絵だった。暴れん坊の魯知深がいつの間にか思慮の深い和尚となり、偈をもらったあと、ハタと納得得心し、笑って自ら円寂する。
あのシーンは何度読んでも感動で胸がいっぱいになり、涙がにじむ。
そしてそのときわたしの脳裏には間違いなく井上洋介の絵がある。
井上洋介本人も水滸伝には深い思い入れがあるようで、多くの絵を描いている。それだけでなく「絵本水滸伝」を自ら刊行してくれるよう角川に持ち込んだそうだ。

展示の最後に美術館に隣接する図書館から井上関連の本が出ていた。
わたしは上野瞭と井上の組んだ「ちょんまげ手まり歌」を手に取る。
非常に懐かしく、そして怖い物語である。
もう随分前に読んでいた。
上野瞭は85年にNHK人形劇「ひげよ、さらば」で知り、そこから読み始めた作家だが、非常に冷厳な物語が多い。
「ひげよ、さらば」もそうだがこの「ちょんまげ」も非常に怖い話である。
その怖い話をさらに不気味に怖いものにしているのが井上の絵なのである。
微笑む人々の顔の裏に恐ろしい悪計がある。それがにじんでいるのが怖い。
それにしても「児童文学者」の範疇にあるとみなされる上野瞭、今江祥智、灰谷健次郎らの作品には、どうしてあんなにも深い絶望感と冷酷な状況とシニカルな笑いがあるのだろう。
しかしそれだけでない、生きるうえでの強さを持てというメッセージも確かに感じるのだが。

これからも井上にはいい仕事をしてほしいと願っている。
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