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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

「花・はな・HANA」展 再訪 / 安野光雅の描く「御所の花」展

逸翁美術館の「花 はな HANA」展を再訪した。
前回と違うのは蕪村の白梅図のかわりに抱一の水仙図が現れたこと。
とはいえ二週間ぶりに見に行くと、また新しい発見もあって、とても豊かな気持ちになった。
既に一度感想を挙げているのだが、昨日再訪してまた新たな感興を懐いたので、そのことについて少し書きたい。
逸翁美術館「花・はな・HANA」展。
前期と違うのは呉春の「白梅図」屏風がしまわれ、代わりに抱一「水仙図屏風」が現れていることだった。

早春とはなんと黄緑色が似合う季節だろう。
展覧会のリストも黄緑で、本当に春めいてきたのを実感する。

椿、梅、水仙、藤、紫陽花、百合、桔梗、菊などなど。
ああ、花の空間にいることの歓び。
途轍もなく心地よい。

抱一の水仙図屏風は銀屏風に水仙が乱れ咲く情景を描いたものだった。
風景ではなく情景。
現実の景色をどこかで見たとしても、それをそのまま絵にはせず、心の中で一つステップしてから描いたような絵。
出光美術館が近年、琳派展を開催した際、宗達、光琳、乾山の金、抱一、其一らの銀をわたしたちに見せてくれた。
銀の魅力をそこで知って、わたしたちは銀を愛した。

この水仙はその銀屏風を背景に咲いている。金屏風では得られない魅力がそこにある。
金屏風は水仙と言う可憐な花にはあまりに豪奢すぎはしまいか。
日本人の感性にはどちらをも愛するところがある。
そう、金を尊ぶ気持ちと共に、銀を愛しく思う気持ちと。
この水仙は静かに愛されるべき花だった。
花の香りまでが活きている。それはやはり銀屏風ゆえの良さからくるものではないか。
金屏風だと花の香りは奪い取られてしまう。

左隻の水仙たちは風に弄られたか、何本かの群が打ち倒れている。
豪奢な金屏風では許されぬような構図である。銀では倒壊する花もまた綺麗に見えた。
豪奢な頽廃を金に感じるからかもしれないが。

この水仙について学芸員の方がワーズワースの「水仙」の詩との深い心のつながりを感じ取られたようで、パネル説明があった。
この花は白く、ワーズワースの見た水仙は黄色い。
長い詩なのでここには写さず、詩のあるところへご案内したいと思う。

なお、呉春の白梅図はパネル展示されていたが、黒灰色の壁面に静かに咲くように見えた。

この後は再訪して感じたことを書く。同じことを書いているかもしれず、また違うことを書いているかもしれないが、確認していない。

櫻鳩図 大谷尊由 枝垂れ桜の下につつましく鳩のカップルがいる。雨が降るともこのままでいたいのかもしれない。

万古焼 蘭絵鉢 深い深い緑の中に静かに飛ぶ蘭の花少々。うつわの釉薬でこんなにも深い緑は日本のやきものでは殆ど見なかった。
わたしはこの緑は海外のもので見るか、もしくは染織でしか見てはいない。

絵替蓋向付 乾山 のんびりした鼠色の釉薬の上に白い不透明な釉薬が乗る。豊かなうつわ。その白の豊かさに惹かれる。白は時により、松枝を覆う雪にも、佳い香りを辺りに放つ白梅にも、仲間を待つ鷺にもなる。
化る、と書くべきかもしれない。乾山はそのように白を使うていた。
わたしは不透明な白の豊かさに惹かれた。

北宋の伝・趙昌の「蓮池鴛鴦図」を見ると、どこからか水音が聴こえるようだった。
ちゃぷん という水音。人の耳に聞こえぬはずの水音が、絵になったことで露わになった。その瞬間。

法花は唐三彩を始祖に持つという話を聞いたことがある。濃い色彩で彩られたやきもの。
今ここにある蓮華文の水指は本当に可愛い。イッチン。やきものだとはわかっているが、指の腹・掌が味わう感触は、ベルベットのそれに違いなかった。

立葵双蝶図 清朝の終盤の頃の絵。絵師の名前は伝わらない。薄紅色の花一つ。そこから少し距離を置いた空間で、青黒い蝶が二匹、ゆっくりと舞うていた。

唐物青貝香合 前回もこの椿の魅力に侵されて、随分と時間を奪われた。
まともに見据えると、ひっそりと青白く咲いているくせに、こちらが少し身を引いて斜めぐらいから眺めると、紅色に耀く。近寄ると鎮まる。
なんという官能的な椿だろう。わたしはまたしても翻弄されてしまった。

藍地花文壺及び皿 パキスタン 紺青と浅葱色の鬩ぎあう空間に白い花が咲いていた。

白釉多彩草花文水注 トルコ 青いチューリップが咲いていた。チューリップの原種はモスリムの人々の住まう地だった。スリムにくねるチューリップ。
板谷波山のチューリップも原初の形をとることが少なくなかったことを思い出す。

ジョルナイ工房への憧れについては延々と語りそうになるのでやめる。
ここにあるのは菊花文鉢として、満遍なくキャラメル色の菊花が咲いた肌である。
オレンジ色の地にキャラメル色の菊花。隙間を許さず、菊で埋もれる肌。

ドイツのフッチェンロイター社の色絵金彩花文紅茶碗。これが本当に千花文様で、花で窒息してしまいそうになる。あふれる千花。わたしは少しばかりの隙間が欲しい。そして黒地にこそ、千花を咲かせたいと思った。

展示室では四枚の幡のようなものが釣られていた。
紅梅・青花の梅・金泥の梅鉢・千花である。
それを見ただけでも心に花がひろがる。

いい展覧会だった。
なお、前回の感想はこちら



安野光雅さんの画業は深く広く豊かだ。
わたしは幼稚園のときに毎月もらう本で「あんのみつまさ」さんを知った。
「おおきなものがすきなおうさま」である。
その後も小学校の音楽の教科書の挿絵に安野光雅さんのお名前がしばしば見え、小学生のわたしにとっての好きな画家は、安野光雅さんと、佐藤さとるさんの童話の挿絵を担当していた村上勉さんに極まった。

安野光雅さんの作品は子供から大人まで、日本から世界へと愛好家を広げている。
だまし絵もあれば言葉遊びの本もあり、旅した先を描いた「旅の本」、平家物語を物語化した絵本も忘れがたい魅力がある。

安野光雅さんのファンはその絵を見るだけで心豊かになる。
年中無休でイライラ忙しくするわたしなどでも、安野光雅さんの絵を見るとたいへんに和む。時には笑う。時には深く想う。

今回の展覧会は「御所の花」である。
関西人のわたしは京都御所(正しくは京都御苑のというべき)の植物を思い、近衛桜ももうすぐやなとあの枝垂櫻の麗容を思い出したり、梅や萩を見に行った時のことを楽しく追想したりした。
が、今回の展覧会は京都御所ではなかった。
天皇皇后陛下のお住まいの御所の庭園、その地に咲く草花を描いていたのだった。

こんな説明がある。
「天皇・皇后両陛下の御所や宮中三殿のある皇居内の吹上御苑は、 武蔵野の自然がそのまま残り自然愛好家には魅力つきない地区。
文化功労者の安野光雅画伯は、なかなか参観しにくいこの森に1年4か月かけて通い、 四季おりおりの植物画130枚を完成した。
春のカタクリやツクシ、夏のアザミやオミナエシ、 秋のキキョウやヒガンバナ、冬のサンシュユやロウバイなど、 都会では見られなくなった四季おりおりの草木の姿がやさしい色彩であざやかに描かれている。」

東京で開催された折には見ることが出来ず、今こうして三月末までなんばの高島屋で安野光雅さんの描かれた「御所の花」を楽しませてもらった。
イメージ (29)

イメージ (30)

130枚。
御所の四季の草花を描いた絵の内、芒、白梅など少しの種を除いて、ほぼ単独の絵ばかりである。芒は秋と冬に顔を見せていた。梅は春と冬と。
安野光雅さんの描きたい心をくすぐる草花たちはそんなにもたくさんあったのだ。

展示は春から始まる。
わたしは植物に詳しくないので絵を見てタイトルを見て「ああ、ああ」とうなずくばかりだった。絵はいずれも優しい筆致の水彩画である。
以前にNHKの絵画教室番組で、安野光雅さんは森を描くときは緑だけではなく薄い黒を使うように、とTVを通じて指導されていた。
絵を描くことのないわたしだが、そのことだけは覚えている。
緑に緑を重ねるだけでなく、黒を使うことでいよいよ緑は増すのだ。
しかし今回はそうしたテクニックは見受けられなかった。
黒を使うのは遠景だった。今回の草花は近景作品ばかりである。
間近で写生したものに淡彩を施す。
そんな風な安野光雅さんの後姿を想像する。

繊細な花の絵。輪郭線はなく、付け立のような感じで描いているものが多い。

豪奢な花ではなく、つつましく咲いた優しい草花。
それが御所にあることを知ったのも喜びだった。
植物学者として名高い昭和天皇は、あるとき皇室番組で「シダ」と「コケ」が取り違えられて放映されたのを、侍従長を通じて訂正を求められたそうだ。
わたしはシダに個人名をつけて可愛がるので、とてもその逸話に喜んだ。
(シダオ・シダキチ・シダスケ・シダル・シダエ・シダミ…)

それにしても春の花のなんという種類の多さよ。
わたしが知る数があまりに少ないというのもあるが、本当に日本の里山と言うものは豊かなのだった。
もう失われつつある里山の草花。それを御所で見るのだ。

絵を依頼したのは天皇・皇后陛下お二人らしい。
武蔵野の里山を大事に守ってこられたのを知る。
そのお心根の優しさを、安野光雅さんの絵を通じて感じる。

わたしは自分の好きな花に遭うと喜ぶ。
知らない花を見ると興味深く眺める。
ニガテな花というものもある。
しかし安野光雅さんの手によるそれらは、決していやなものではなかった。

豪奢な花や洋花はなく、可憐な、そして古くから日本に自生する草花が描かれている。
唯一華やかな装いを見せるのは、薔薇の「プリンセス・ミチコ」だったか。
しかしこれも艶麗豪華というのではなく、抑制のきいた慎ましさを見せる、可愛らしい花だった。

五月頃の水辺に咲く花といえば、花菖蒲・カキツバタ・あやめである。
英語ではみんな一括してアイリスだったか。
わたしはどうも英語の感性と同じで、花菖蒲もカキツバタもあやめも区別がついていない。
不勉強なのがこのあたりに出てくる。
安野光雅さんはその三種を描き分ける。
近いところに並ぶから、ようやくわたしにも「これとそれとあれは違うのか」と気づく。
可愛いなあ。
それにしても何故、光琳の昔から描かれるのは花菖蒲なのだろう。
「菖蒲」に「尚武」と「勝負」とを掛けているから、それだけなのだろうか。
そういえばあやめは「黒白」とも書いたはず。
「いずれあやめかカキツバタ」という言葉もある。
そうそう、カキツバタも「杜若」「燕子花」と書くことがある。

そんなことを考えるのも、ゆったりした気分で絵を見ているからだった。

多くの花の内、わたしはことに「椿」が好きだ。それから紫陽花も。
基本的に木花が好きなのだ。
草花にも目を向けたいが、わたしは背が高く、なかなかしゃがんで花を見る、ということをしない。木の花だと見上げたり、同じ視線で見ることが出来るので好きなのかもしれない。
草花を愛でるにはある種の忍耐が必要ではないだろうか。
その忍耐はつらいものではなく、心のゆとり・心の広さがあってこその忍耐で、その動きが忍耐を生み出すのだ。

安野光雅さんはじぃっ とあの目で描く対象になる草花をみつめ、視神経から送られた電波が脳に到着した後に末端神経に情報が送られ、指が花を描くのをも、じぃっ と見守られているのではないか。
眼と指の鋭さは優しさに包まれている。そんな気がする。

四季は緩やかに移り、いつしか多くの植物には眠りの季節となる冬が来る。
しかし冬の最中であっても、小さな草花たちは小さく身をかがめながらも活きている。
安野光雅さんの目はそれを見出す。

花の名前と、その外観とが合致しないわたしだが、この作品群を見ていて、いくつかは覚えることが出来たように思う。
3/30まで、なんば高島屋。
 
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