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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

近藤ようこさんの「五色の舟」を読む

近藤ようこさんの新刊「五色の舟」を読んだ。
津原泰水という方の小説をベースにした作品だと聞いた。
わたしは近年、現代の小説を殆ど読まなくなっているので、この小説家のことを知らなかった。
小説がどのような形でヴィジュアル化されるのか、といった興味がないのはそのためである。
一方で、近藤ようこさんの作品のファンとして、原作のあるものをどのような形で作品化するのか、といった関心はあった。
近年同郷の坂口安吾の作品を次々に自身の世界に置き換え、息を飲む傑作に仕立てあげている。
「夜長姫と耳男」「桜の森の満開の下」「戦争と一人の女」。
これらは小説を原作に持ちながらも、見事に近藤ようこ作品として活きている。

思えばその昔、説経節「をぐり」を原本に忠実に拵え、「しんとく丸」を独自の美意識で様々に描いた。
それらはいずれも脳髄の芯を震わせる喜びを読者に与えてくれた。
今回もまた、30年を超える作家稼業の中で培われたチカラワザ、それを目の当たりにすることになるだろう、という予感がある。

五色の舟 (ビームコミックス)五色の舟 (ビームコミックス)
(2014/04/23)
近藤 ようこ



以下はその感想である。
ページを開くと、薄い水彩絵の具で描かれた静かな波と小舟とが見えた。
多色の滲みが不思議な融和を見せ、波の上の舟を揺らしていた。
誰かの言葉がそこに響く。帰る先のことを想う言葉である。 
「こちらの世界のかりそめの自分が死んだら また心はあそこへ戻っていく」

この物語が、誰かにとっての過去のうつくしく、せつない記憶の集まりなのだと知らされる。
もう既に愛していた世界から遠く離れた先にいる、誰かの。
言葉は続く。
「色とりどりの襤褸をまとった あの美しい舟の上に」
そこには舟の他にシルエットで描かれた美しい青年の横顔と、不思議な形を見せる身体とがあった。
この物語を語る誰かの姿がそこにあるのだ。

名を持たない幼子は押入れの葛篭の中にいる。
彼の世界は闇に閉ざされている。他の人の言葉があるが、その言葉の意味を知るのはもう少し後になる。

やがて葛篭は河原の草原に捨てられる。夜の闇の中、かれは初めて葛篭の中から外へ出る。
開いた口からは可愛い歯並びが見え、その見上げた目には星のきらめきが映る。
ひどく可愛い顔のこどもである。
かれは初めて外気を吸う。そして夜の闇の明るさを知る。
名を持たない幼子が本当の生を受けたのは、このときだった。

闇の中から新しい生を受けたとき、星を見ただけではなかった。
かれは振り向いて舟の影を見た。
闇の中に在って、大きな存在感を感じさせる舟をかれは見た。

朝になり、舟から現れた、見るからに元気そうな、身長も体重も小さな枠の中に凝縮された少年がかれを見いだす。
お父さん、と呼ばれた人が少年におぶわれて現れ、かれを見て「これは特別な子だ」と喜びの声を挙げる。

発された声と言葉が二重奏を<見せる>が、実際にはお父さんと小さな身体の少年だけの声がしている。
舟においでと招かれた手と言葉に導かれて、幼いかれは新しい生を歩み始める。

名を持たないかれにお父さんが名前をくれた。
「和郎」である。
いい名だと和郎は思う。嬉しくうなずいている。

既にいた少年は「昭助」と呼ばれ、奥にいた髪の長い、上半身の傾いた少女は「桜」と呼ばれることを知る。
ここで和郎の身体がさらされる。肩の付け根に指が伸びている。腕はない。
実際にわたしもこのかたちの人を見ている。小学校に入った年、五年生か六年生にその人がいて、冬も半袖シャツを着ていた。
友人と共に階段を下りていく姿が目に残っている。
和郎は自分と他者との違いを認識していなかったことを明かす。
過去の物語であるために、このような言葉でそのことが綴られる。

押入れの狭い中にいたとはいえ、和郎は食事を箸でとることを躾けられている。ただし発達した足の指での食事である。
その熟練の様子を見て、お父さんも昭助も喜ぶ。
ここで初めて彼らが見世物の一座で、その身体と芸とで身過ぎ世過ぎする人々だと読者は知らされる。
松田修「異形者の力」を想う。また篠田正浩「河原者ノススメ」を想う。
そして、この異形の人々は家族なのである。

安住の暮らしを得た和郎に心話で桜が語りかける。二人は言葉を持たないが心で会話できる。和郎はそこで桜にも何らかの秘密があることを知る。
しかしそれはまだ読者には知らされない。


五人家族がある。
誰も血のつながりはないが、心の深いところに優しい結びつきがある。
お父さん、昭助にいさん、桜、和郎、清子さん、と呼ばれる異形の人々で構成された家族である。
いちばん最後に来たのは大人の女の清子さんである。
一見したところは特に異形者ということもないのだが、かのじょにも大きな不都合がある。
そしてこの一座に家族性を感じ、その一家に加わりたいと言う。
他の四人も清子さんを受け入れ、かれらは「家族」となる。

和郎は清子さんが過去を捨てる様子をみる。
清子さんは白い指で黙っててねとする。
「ないしょ」
清子さんはしずかに笑みを見せている。
しかしその心のうちにあるせつなさと淋しさを、近藤ようこさんの選び抜かれた線が表現する。
眉の様子と口元と。ふっ となまなましい感覚が伝わる。


この一家はある目的を持って、その年の夏の昼日中の町を行く。
いつから始まって、今が何年目なのかはわからない戦時中のある夏の日。
西日本のどこかの町をゆく。
ふと見れば、立派な建物がそびえたつ。
それはチェコ人の建築家が建てた商工勧業館だった。
かつては明るい照明に彩られ輝いていたそうで、清子さんはその時の美しさをうっとりしながら口にする。

日傘を差したお父さんと清子さんの乗るリヤカーを引くのは昭助兄さんで、ここで小さな身体の昭助兄さんがたいへんな力持ちだということを知る。桜は体を傾けたまま歩くが、少しばかり着物の胸元がはだけて蛇のウロコ文様がのぞく。
清子さんは和郎の汗を拭き、桜の胸元を直す。
タダで商売品を見せてはいけない、という哲学がお父さんにはある。
そのときの顔はたいへん毅然としている。
読み進めるとわかることだが、このお父さんはカネに関する話の中で、唯の一度も卑しさを見せない。常に毅然としている。お父さんの金銭哲学の確固たる強靭さを知る。

話を戻す。
この一行を止める者がいる。巡査である。戦前戦中の巡査の偉ぶり方は憎いくらいだが、別に巡査はこの話に影響をもたらさない。
ただ一行を止めた。戦時中になんでそんなチャラけた恰好で歩くのかという疑問があるわけだが、そこでしたたかなお父さんは自身の不具を示し、清子さんも裾をめくる。
この裾をめくる行為というものは言えば一番巡査を黙らせる力にもなる。
しかし巡査は訊く。そこでお父さんは岩国に呼んでくれるお客さんがいるという。
和郎はお父さんはうそをついた、と心で語る。
かれらは岩国まで「くだん」を買いに行こうとしているのだった。

くだんとは何か。
牛から生まれる人の顔を持った牛すなわち「件」である。
予言が出来るという。過去のことも未来のことも本当のことしか言わないという。
お父さんはそれを他に先駆けて買い、見世物の興行に使いたいと思っている。
くだんは生きていても死んでからも金になるだろうという目論見がある。

わたしは小学生の時「くだん」を見ている。
無論それは生きているものでも、標本でもない。
絵と言葉である。
最初に見たのは山岸凉子「妖精王」に現れる妖怪としてのくだん、次に小松左京の「くだんのはは」である。これは後に石森章太郎(当時)がコミック化して、非常に恐ろしかったことを覚えている。
水木しげるの作中にも出たかもしれないが、そのあたりは思いだせない。
ただ、小川未明「牛女」を読んだときのヴィジュアルイメージは、間違いなく「くだん」であった。

くだんを買いに行く一家は結局その日の内には岩国にたどり着けない。
「おれとお父さんだけなら」と昭助兄さんは言うが、お父さんはそれはだめだという。
家族みんなで行かなければならぬのだいう。

彼らが家族になった経由が語られる。
それは野宿の和やかな夕餉の時に行われる。
ねだるのは最初に家族になった昭助兄さんである。
「何度でも聞きたい」と昭助兄さんはドキドキした顔を見せる。

旅の一座の花形だった雪之助がダッソになり、彼のいちばんの贔屓たる犬飼医師により、足を切断される。
幕末から明治初期に実在した澤村田之助を思わせる設定である。
実際に犬飼医師は雪之助にそのことを勧めるが、雪之助は泣いて拒む。
田之助は義足をつけて舞台に出たが、雪之助はそれではだめだと思う。
しかし手術は挙行され、雪之助の片足は失われる。

やつれた雪之助は竹の杖を突きながら、身投げしようと不自由な足で河原に向かう。
死に場所を求めての彷徨である。
だが足は思うままにはならない。
杖が折れ、義足は糸がほどけ、もつれた足に上体がバランスを崩し、倒れた先で顔を切る。
もう本当に役者はやれない。絶望が加速化したとき、目前に死なされた赤ん坊があった。
顔を紙で覆われた、異常に重い男児である。
「この子は特別な子だ」
雪之助はこどもを温める。そこに自身の生死をかけている。
やがて赤ん坊は生き返る。
歓喜が雪之助に生まれる。かれは生きてゆこうと思う。

数年後には犬飼医師の手で雪之助は両足を膝下から切断されている。
淋しさと諦念とが雪之助の顔を明るくしている。
昭助と名付けられた子供は身長は低いままだがいかにも元気そうである。
無邪気な目をして、犬飼医師に話しかけられて嬉しそうである。

お父さんが桜の噂を聞きつけたのは、見世物の興行の最中だった。お父さんと昭助兄さんとだけでは小屋掛けも出来ず隙間の野天でアキナイをしていた。
「怪力一寸法師」という演目である。
ここでは昭助兄さんは片手で米俵を持ち上げてみせる。
ほかにやることはフェリーニ「道」のザンパノと同じく、身体に鎖を巻き付けたのをブチッッと切ったりというのもある。

この一帯のにぎわいを見て思い出すのは、静嘉堂文庫所蔵の四条河原遊楽図屏風。
かつての近藤作品「雨は降るとも」「月は東に昴は西に」にもそのにぎわいが参考とされていたと思うが、このにぎわいは中世・近世のものではなく、半世紀以前の風景だった。
こうした描写にこそわくわくする種子が隠されているのだ。

やがて桜ともう一人の桜がついにお父さんたちの前に現れる。結合双生児である。
現実にはベトちゃんドクちゃんがいるが、コミックではわたなべまさこ「百塔」、萩尾望都「半神」、手塚治虫「ブラックジャック」などに現れる。
桜の場合、下半身を二人が共有していた。
そして向かって左側の娘が死んでしまい、もう一人も苦しんでいた。
今、「桜」と呼んだが、彼女がその名をもらうのは手術で切り離してもらい単身になり、お父さんの看護を受け始めたときである。
生き延びた桜は身体を傾けたままである。
もう一人の死んだ桜は下半身を包帯にくるまれ、弔われる。
そのコマをみたとき、わたしは胸を衝かれた。
小村雪岱の「お伝地獄」の、夜の川に太股が浮かぶ絵。あれに匹敵するコマだと思った。

桜は細い身体に蛇女のウロコを描いてもらい、蛙を飲み込んで吐き出すという、人間ポンプの芸も見せる。
ここで面白いのは桜には本当は違う芸をさせるつもりだったということである。
しかし聾唖に近い(と見なされている)桜はその芸が出来なかった。
教えにくいというお父さんに昭助は「お父さんは優しいからな」と応じる。

この家族は優しいお父さんを頂点に成り立っている。
みんなが互いを思い合う。
そのことはほかのシーンでもたびたび表される。
たとえば、くだんによって死期を教わればどうかという話が出たとき、お父さんは言う。
「私に自分の寿命が分かればお前たちに遺すべきものをどのくらいの間に準備すればいいかも分かるじゃないか」
その言葉はやはり家長のものであり、そして愛情が深いこともわかる。
昭助兄さん、清子さん、和郎、桜は幸せな気持ちになる。

戦時中の食べ物のなさについては、前作「戦争と一人の女」でも興味深い描写がされている。
思えば同じ時代なのである。
同時代にそれぞれ別などこかで、欲望にいらだつ女と、時代の隙間を縫って生きる家族とがいる。

その食べ物の少ない時代に、この一家には出演依頼が来ては食べ物が供えられる。
武田泰淳「富士」にも戦時中の食糧事情の悪い時期に大量に食べ物が下賜される話がある。
あの描写を読んで笑ってしまったが、ここではさすがにあんな量は来ない。

一家は呼ばれた先で興行をする。
異様に魅力的なシーンが描かれる。
力技を見せる昭助兄さんを基にみんなが寄り集まって柱になる。
フリーハンドで描かれた線で構成された影。
まるで一頭のゾウのようにもみえる。

そして「別料金を払った客には 僕と桜のまぐわいを見せた」。
今では桜の肌のウロコは描きものではなく彫り物になっている。
手のない少年と身体の軸の歪む少女との性交。
「お父さんは最初 昭助兄さんに抱かせようとしたが兄さんの一物が大きすぎて 僕の仕事になった」
あくまでも行為は見世物の一環に過ぎないのである。
だからこそ、お父さんは桜の身体が壊れないように配慮する。

一方で、「お父さんはいつか桜か僕か それとも両方に似た子が生まれるのを望んでいる」「それなら一生食べるに困らないから」
お父さんの根底には家族思いの優しさとともに、興行師としての冷徹な目も具わっている。
お父さんの冷徹な目は見世物小屋の客たちの意識をもはっきりと見通す。
お父さんの静かな表情には何の感慨も浮かばない。


やがてくだんのいる場所にきたが既に軍が手を回していた。そして何故かそこに犬飼医師までがいる。
諦めさせられ彼らは帰るしかない。
しかしそこにはくだんがいるのは間違いなかった。
和郎は我知らずくだんと目が合っている。
お父さんと清子さんの会話の中で、和郎は自分がのっぴきならない状況に入っていることを悟る。
それは夜毎の夢としても表される。

その和郎の夢の描写を読む間、わたしは息苦しさを感じた。空気が足りない気がしたのだ。
夢は海の上が舞台である。だからかもしれない。夢の中の海の水がわたしの肺に入った、そんな気がしている。


数日後の夜更け、犬飼医師が現れお父さんを連れて出る。
夜毎の夢の中で新たな舟にお父さんが乗り込み、また清子さんが乗り込み、昭助兄さんが乗り込んでは、消えてゆく。もう戻らない人々。
しかし舟のうちに戻ると家族は揃っている。いつものように和やかな家族が。
だが和郎は去っていった家族を思い、涙を流している。
その記憶があるだけに和郎は走らずにはいられない。
肩からの小さな指が露わになる。
人々の視線にさらされても和郎は走り続ける。
「どこか誇らしい思いが胸に満ち始めた」
「特別な子供が特別なお父さんのために走っているからだ」
この二つのコマで描かれた和郎の表情のうつくしさにハッ となる。

近藤ようこさんの作中での「走る少年」の美しさは格別のものだ。
「蝉丸」のラストシーン、名を持たない少年は自身の名を持ち、歓喜に震えながら走り続ける。
わたしは「走る少年」の美しさを彼女の作品から知ったことを思い出す。

やがて走る少年の足は止まり、昭助兄さんの力を借りて室内をのぞき、犬飼医師とお父さんの会話を聞き、二人がくちづけあうのを目の当たりにする。
和郎はもう走らず、とぼとぼと歩いて帰る。
そこにまたいやな話が続き、和郎は鬱屈する。

くだんの眼を見たことで夢に苦しめられるのは和郎だけではなく桜も同じだった。ふたりは自分たちの見る夢をほかの家族に伝えようと苦心する。
足の指で絵を描く和郎と、しゃべる訓練をする桜。
しかしその苦労は報われない。
桜がしゃべれることをみんなは喜ぶが、とうとう二人の見た夢の話は伝わらない。

やがてくだんと会う日がくる。
家族みんなで犬飼医師と共に出かけるが、そのとき和郎は停留する自分たちの家である舟から
「呼びかけられたような感覚があった」
土手を上りながら和郎は舟を見る。五色の舟がそこにあった。
和郎は土手の上から舟を見下ろすときの満たされた気持ちを思い出す。
やさしく、せつないような眼を向けながら和郎は静かに立ち尽くす。

一家はとうとう くだん とまみえる。
不透明なガラスのような色の眼をしたくだん。
非常に理知的な様子である。
静かにくだんは彼らに話しかける。
くだんの話す言葉は彼らには理解しづらい。
読者であるわたしもまた、理解出来ていない。

しかしここでくだんが未来の人により作られた「装置」であると知り、ふと「ドラえもん」を思い出した。
だが、何故この世界にこのくだんが来たのかはわからないままだった。

やがて物語に転回がくる。
くだんの予言が成就する。犬飼医師は既に「別な舟」に乗り込んで、違う世界にいる。ここにいるのはもう影に過ぎないのだ。
それを知ったときの雪之助の安堵の表情。
思えば近藤作品においては美少年は多くとも、美青年・美中年というものは存在していなかった。
女形だったとはいえ長らく「お父さん」であり続けた雪之助は初めての美青年であり美中年なのだった。

くだんの最後の仕事が行われる。
この世界では和郎と桜とが都市を破滅させる爆弾で亡くなると予言される。
二人をこの世界から逃がすことをお父さんは選択する。行く先については清子さんが叫ぶ。
「和郎が学校に行けるところ!」
お父さんも続ける。
「ふたりが長く幸せに生きられる世界だ」
深い愛情が家族の間には生きている。
その言葉を聞いた桜がさらに続ける。
「みんなも!ほかのみんなも幸せに!」
くだんが始動する。

この後の物語の展開は、和郎と桜の送られた「みんなも幸せ」な世界での話となる。
そこでは爆弾も落とされず、日本は静かな無条件降伏をし、GHQの総司令官は手足を失った姿で日本に降り立った。

十年後の物語が始まる。
産業奨励館は美麗な姿を今も堂々と見せている。
その後の家族の行く末が語られる。
「みんなも幸せ」なこの世界では、清子さんは女優となり大人気、昭助兄さんはプロレスラーとしてこれまた大人気、お父さんは女形としてカムバックし、三度も大きな舞台に立った。
彼らは総司令官が目指した代替臓器・代替四肢の技術発展により、意のままになる義肢・義足を手に入れたのだった。
日本における機械鎧(オートメイル)である。

お父さんの綺麗な舞台姿に感銘を受ける家族たち。
人気女優となった清子さんは見世物小屋にいたことを恥じず、家族の思い出を語る。

そして背骨を直してもらった桜と義手をもらった和郎とは清子さんの支援で聾学校へ行き、近所の人と挨拶もできるほどになる。
彼らはしばしば散歩にでかけ、かつての自分たちの暮らした舟があった場所を見下ろす。
「最も幸福で最もせつない時間」を共有する二人。

和郎は静かな美青年になっている。桜は髪を切り、その時代らしい若い女になっている。
家の中では二人は昔の儘である。
桜はウロコの彫り物を隠さず、和郎は義手をとって、足指での絵画制作に励む。
絵はお父さんの綺麗だった舞台姿(おそらくは鷺娘)のである。
完成までもう少しである。

かつて暮らした世界のことを二人は話す。あちらの世界ではふたりは死者である。
しかしふたりはあの元の世界へ帰ることを想っている。
ここにいる「幸せな」ふたりはかりそめの姿なのだという想い。
和郎のせつないまなざし、桜のけぶるような視線。
その先にあるものは、五人家族が仲良く暮らしたあの五色の舟なのだ。
そしてその舟からはかつての家族がこちらを、見上げている。

このラストシーンの前後の姿を、わたしは表紙絵に見た。
ラストシーンでは五人家族は土手の上を見ているが、表紙では同じ位置で舟の進む先を見ている。
どちらか後か先かはわからない。
しかしこの表紙絵とラストシーンとのつながりは間違いないものだ。

ラストシーンを見てから表紙絵を見てわたしは声にならない声を上げる。
深いせつなさが、どうしようもなさが胸に満ちてくる。
こんなに素晴らしい作品が活きる世界にいて、本当によかったと思う一方で、もしかするとわたしは、今の和郎と桜のいる世界においてはこの作品を知らないままなのではないか、とも思うのだった。
それだけはいやだと思った。
決して手放せない作品を手に入れた喜びの陰には、そんなせつなさがある。

名品をありがとう、とわたしは心の中で感謝した。
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