美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **自宅でログイン出来ないので、現在「遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う」で感想を挙げています。

東欧アニメをめぐる旅 ポーランド・チェコ・クロアチア

神奈川近代美術館の葉山館で「東欧アニメをめぐる旅 ポーランド・チェコ・クロアチア」を見に行った。
 
日本のアニメのレベルの高さは快いが、東欧のそれはまた違った面白味がある。
わたしはすぐにチェコのトルンカやカレル・ゼマンの諸作品を思い出すが、かれら以外にもいい作家がいるのは当然で、そのあたりの事情も知りたくて出かけた。
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アニメーション展である以上「動画を見る」という行為が必須となる。
12カ所のモニターから映像が流れていて、随意に見ることになる。
長編はなく、いずれも短編作品ばかりである。
これは無論そうしたプログラムなので、特定の日時に長編ものの上演もあるそうだ。

始まりはクロアチアからだった。
クロアチアは大昔にはユーゴスラヴィアという国家に含まれていた。
そのことを踏まえて作品を眺める。
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非常につらかった。
作品は近年のものをのぞくと大方がユーゴ時代の製作で、非常にシニカルで実験性の高いものが多い。
こうした作品を日本製アニメーションで見ることはまずない。
それだけに心構えをしっかりしていないと、押しつぶされそうになる。

非常にこちらの神経を苛む作品が多く、怖いものばかりだった。
セリフのないドラマは総じて怖いものだ。
わたしは怪談の怖さは心地よいが、生きている人間の不条理な怖さ、戦争の脅威には弱い。
平和ボケした日本に活きていることを感謝したくなる作品ばかりだった。
耐え切れず、とうとう逃げ出してしまった。
とはいえ、見たものの感想について多少あげておく。

トン・トン 1972年 ネデリコ・ドラギッチ  音に悩まされて病んでゆく男を描いている。シンプルな描線だけにその絶望が実はかなり生々しくこちらに来る。

猫 1971年 ズラトコ・ボウレク  サイケな画風と表現がまず苦手なところへ怖い展開である。これはイタリアとの合作らしいが、息苦しくなった。
猫好きの青年に女神が猫を娘に化身させて恋人として与えるが、猫は残忍さを露わにし、青年は夜ごと日ごと殺人を繰り返すようになる。
この展開は少しばかり安吾「桜の森の満開の下」や綺堂「一本足の女」を思い起こさせた。
こんなことになろうとは女神も予想外だったか、娘を猫に戻すと青年も鎮まる。
とはいえ安寧はない。

アルバム 1983年 クレシミル・ズィモニッチ  一人の少女の妄想と言うか…戦う気持ちはいい。自分を守ろうとするキモチ。不条理さにあらがえ。
しかしやはりラストがちょっと意味不明だった。

蝶々 1988年 クレシミル・ズィモニッチ  だいぶ近年ではあるが、思えばこの時期のクロアチアの政治状況は怖いものなのだ。これは映像は流れなかったが、資料が出ていた。

1962年の「ブーメラン」は今回の展示のための調査で資料が大量に発見されたそうだ。
もう52年も前になるのか。長いガラスケース展示を延々と見てゆくと、ますます鬱屈する。
そうだ、1962年とは第二次大戦終了からわずか17年目の年なのだ。
しかもこの「ユーゴスラヴィア」ではチトー大統領がいたとはいえ、誰もがニコニコできる状況ではなかった。

言葉がわかる・わからない、そんなことよりも画面と音声から届く激しい不条理さに苦しむ。他国人であるわたしがそれなのだから、自国民に対して作家たちは自作を差し出すことで何を得、何を気づかせ、何を失ったのか。
そんなことを考えてしまうしかなかった。

わたしもあなたを愛しています 1991年 ヨシュコ・マルシッチ  1分というショートフィルムにブラックジョークが詰め込まれている。
これは英語である。しかし言葉はほぼなんの力も持ちえない。だが、言葉があるからこそ成立する作品である。
初老の夫が妻に「愛している」と言おうとするたびに、凄まじい破壊が起こる。
60秒の内55秒それが続く。やっと言ったときに、妻がごく静かに「Me too」と返すが、そこに至るまでに続いた破壊の凄まじさは到底喜劇という枠では括れない。
スラップスティックが成立するのはゆとりがあるからだと思った。
この作品もアメリカや日本で製作されると全く違った形になるが、このシャープさや不条理さは失われるだろう。

反復することへの強迫感が生まれてくる。
非常につらい状況でその場を去った。

次はポーランドである。
ポーランドもロシアの女帝エカテリーナの時代に引き裂かれて以降、今に至るまでのんびりした時代を送ったことがない国ではなかろうか。
この国にはアンジェイ・ワイダがいた。そのことを思いながら映像を見る。
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アダージョ・カンタービレ 1990年 タマラ・ソルビャン  壮麗な音楽と映像だった。
しかしストーリー展開というものはない。それを求めるべき作品でもない。
鬱屈した魂に喝が入ったような気がする。

ピーターと狼 2006 スーシー・テンプルトン  長編の一部のみの上映。これは全篇を見たいと思った。映像も音楽も演出もとても壮大である。

タンゴ 1980 スビグニェフ・リプチンスキ  実験的過ぎてわたしには理解が出来なかった。

ダニー・ボーイ 2010 マレク・スクロベッキ  近年の作である。不条理さがある一方、不思議に美しい幻想性と暴力と愛とが同居している。
首のない人々。青年だけは首がある。彼は首のない恋人と一緒に生きるためについに自らの首を斬る。血が身体から流れる。しかし死ぬことはなく、彼は首なしとなって、恋人と仲良く歩く。これが何を示唆するのか何の暗喩なのかはわたしにはわからない。
ただ、この作品にはある種の抒情性があった。
わたしはやはりそこのところに惹かれるのだった。


チェコの映像を見る。
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フィリックス・ザ・キャットの新たな冒険 1927年 カレル・ドダル  あのフェリックスである。現在は「フィリックス」表記だが、1919年誕生のアメリカの黒猫。
アニメーション先進国のチェコはこの時代に制作している。
ここでようやく緊張が緩和された。

いたずらうさぎ 1944年 ホルスト・フォン・メーレンドルフ  可愛い。絵柄も行動も。しかしこれはドイツ名の監督だからポーランドがドイツに飲み込まれていた時代のだと思うと、これはこれでまた怖いものがある。

トルンカの「手」が少しだけでて、本編は別な日に上映されていたようだ。
今はもうないのだが、かつて京都文化博物館の地下では世界中のアニメーションを観ることのできるライブラリーがあった。
わたしはそこでトルンカ「飲み過ぎた一杯」などを見ている。

ところで今回「スプリンガルト バネ男」という作品がトルンカにあるのを知ってびっくりした。
どうしてもこのタイトルだと藤田の「スプリンガルト」思い出すが、よくよく考えたら藤田作品には「からくりサーカス」だけでなく短編にもカラクリや人形が出てくるし、チェコが舞台の一つとしても描かれているしで、不思議はないか。
そうか、そうだったのかという感じ。
トルンカの作品名は「バネ男とSS」。ナチスからプラハを守る英雄としてのバネ男。
そう言えば「電脳頭脳ばあさん」もトルンカだが、チェコと人形とロボットということを考えると、ときめくなあ。

カレル・ゼマンも「ホンジークとマジェンカ」が出ていてうれしかったが、個人的には「クラバート」が見たかったな…と思ったり。
この辺りになると気持ちもだいぶ明るくなる。
参考のためにクラバート


ホンジークとマジェンカ 1980 こちらはラスト近く、龍に化けた魔王から逃げるホンジーク。魔の破滅を目の当たりにするところ。数分間だけだが、流れているだけでも嬉しい。

あとはヤン・シュヴァイクマイエルの映像などが流れていた。
とはいえ総じて考えさせられる作品が多く、単純に映像作品として楽しめるものはやはりチェコのものだけだったかもしれない。
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1/12まで。
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