タイトルは歌舞伎「花上野誉碑」のパロディですが、1/21ホンマに大雪の中を這いずり回っておりました。
科学博物館を出た後、東博へ向かった。
わたしは国立博物館友の会に入会しているが、今日がその期限切れなのだ。入らずにいられるはずもない。
入ってびっくりしたのは、ベンチも噴水もないことである。
いや、あった。
ありはしたが、雪に埋もれて形が変わっていた。
ボテロの彫刻みたいだ、どう見ても。
東洋館へ行くのは諦めて、本館に入った。
12月にも書いたが、吉田博の『精華』が見たかったのだ。
・・・あった、相変わらずとても可愛い。
明治初期の裸婦はとても愛らしくて綺麗だ。
大正に入るとナマナマしくなる。それも悪くはないが、この吉田博の少女や黒田清輝の裸婦のよさはちょっと他にはない。
国宝室で長谷川等伯の松林図を見る。
以前見たときは寂れた気分になり、あまり良いとは感じなかったが、今日は何やら心に響くものがある。
いくら国宝とはいえ、見る側にそれを受け入れる気持ちがなければ美は輝きを失うものかもしれない。相対的な美と絶対的な美と。
今日は大雪で、本当に何も見えない。
この絵はそんな雪の中に立つ松なのだ。
『わたし』が風景のひとつになる。
松林をみる『わたし』ではなく、『松林』を前に佇むわたし。
わたしは初めてこの絵に惹かれた。
大窓からテラス越しに池を眺め、その向こうの転合庵を見る。
これもまた一枚の絵のようだ。
風景の中にわたしもいる。
今年は戌年ということで、犬の特集が組まれている。
その部屋はわんわんパラダイスだった。
子供の頃、応挙といえば幽霊画の大家だった。
大きくなるにつれ、わんこの神サマみたいな気分で眺めるようになった。家では猫を飼い(國芳みたいだな)絵では隣家のわんころを描く。
弟子も倅もうち揃ってわんこわんこ。これがまたたまらなく可愛い。
わたしは自分の絵葉書ファイルでわんこonlyを作成しているが、それには応挙とその一門・・・芦雪など、それから若冲、仙和尚らのわんこを飼うている。
子供の友だちはわんこ、お姉ちゃんの友だちはにゃんこと相場が決まっている日本画。
わんこの陶器がある。闘犬ならぬ陶犬。前漢時代のわんこ。こいつの兄弟は萬野美術館にいたが、今では相国寺に主換えしている。
餌はなくてもいいようだが、死蔵よりは外に出たほうがいいかもしれない。ただしくたびれるかも知れないな。
他にも帯がある。凄い縫い取りのある帯。そこにわんころが機嫌よく遊び戯れている。以前から便利堂で絵葉書化されているが、全容を見るのは初めてだ。可愛いなあ。
わんこは子供と妊婦さんの味方だから、色々身近な工芸品にも姿を変える。マリー・アントワッネトの宝石箱かボン・ボニエールかにも蒔絵のわんこがいた。
なんともいえず可愛い。
外に出ると、吹雪いていた。
これが和傘に長羽織に島田なら深水ゑがく美人画になるところだが、生憎なことに雪構え準備万端では絵にならない。
東京での雪は五年前のことを思い出させる。
わたしがついたのを最後に羽田が封鎖された。
その雪の中を例によって彷徨し、翌日やんだとはいえ足元の悪い中、銀座に出た。
築地の本願寺に向けてそこから手を合わせた。
その日、沢村宗十郎の葬儀が行なわれていたのだった。
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