美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

坂東三津五郎 追悼

十代目坂東三津五郎が亡くなった。
59歳だった。
彼は1月23日が誕生日なので、59歳になって一カ月も経たないまま亡くなった。

わたしは彼の前名の坂東八十助の頃にファンになり、一時ちょっと離れたが、やはりどうしようもなくファンであることを自覚し、また見始めようとしていた。
それは丁度あの東京の歌舞伎座が新しくなる頃の話だったか。
もう、決してそれはかなわなくなった。

市井に住まう一ファンの、十代目坂東三津五郎への追悼をここに挙げる。

昭和の末頃、孝玉ブームがあった。それから猿之助のスーパー歌舞伎が来て、当時の若い観客が「歌舞伎って面白そう」と目を開かれた。
わたしもそうだった。わたしが子供の頃は歌舞伎も文楽も著しく没落していて、今の名優たちは殆どが兼業でTVなどで働いていた。
それが段々と明るい兆しが見え始め、二つの大きなムーブメントが来た後、満を持して中村勘九郎を牽引車に、当時の若手花形役者たちが暴れ出した。

わたしは中座と南座で芝居を見た。東京へ見に行くようになったのは昭和が終わってからだった。せまい中座で中村勘九郎(当時)が素晴らしい存在感を見せていた。
そのとき、ひときわイイ男の坂東八十助(当時)がいて、わたしのような素人にもドキドキするような素敵な踊りを見せてくれた。

勘九郎からは大阪人が愛する愛嬌があふれたおしていたが、八十助からはそこまでの愛嬌は出ていない。しかし決して大阪人の嫌う「ええかっこしぃ」なところはなく、さわやかで明るく、そしてどこか楽しい雰囲気が出ていた。
決して江戸だけのスマートさではない。
これはやはり祖父の八世三津五郎が京都で暮らしていたからかもしれない、と当時も今も思っている。
彼の従姉妹の女優・池上季実子にも同じような佳さが滲んでいる。
関西の人間はそういうものをかぎわけるものだ。
そしてその点に対し、温かな目を向け、理性よりも<情>の部分でファンになる。

勘九郎は母方の祖父・六代目菊五郎を崇拝していた。
「まだ足らぬ踊り踊りてあの世まで」という辞世の句を残した天才役者である。
芝居では初代吉右衛門と組んだのが素晴らしいと今の世にまで伝わるが、踊りに関しては七世三津五郎とのコンビが絶品だった、と聞いている。

これは昔の歌舞伎評論の本や、劇場で出会った多くのご老人たちから教わったことだった。
また八世三津五郎は「役者というより学者」と言われた人だが、この人が父の七世の言動をよく覚えていて、更に意味を理解し、それを多くの著書にも書いているので、後世のわたしなどにも様々な話が伝わっている。

その七世三津五郎は実子に恵まれず、八世三津五郎を養子に貰って鍛え上げた。八世も娘たちには恵まれたが跡取りの男児がなく、長女の婿を九世に見込んだ。その娘婿が初めて男児を守田家にもたらした。
存命していた七世三津五郎は大喜びし、自分の名の寿作の一文字をとり、ひ孫に「寿」の名を与えた。
その辺の逸話は八世の著作や他の人々の書物にも詳しいが、七十七年ぶりの男児誕生というのは、梨園の名家にとってはまことに喜ばしいことだったろう。きっと想像を絶するほどだろう。

そういえば名前と言えば、いつ見たのか思い出せないが、勘九郎と八十助の二人が何かの番組で機嫌よくしゃべっていたが、そのとき勘九郎が八十助に呼びかけたのが「シャッチャ」だった。
これはいかにもお江戸の人らしい気の短い呼び方で、「ヒサシちゃん」が「シサシチャン」になり、それがもっと短くなって「シャッチャ」になったのだろう。
見ていてまことに微笑ましかった。


八十助の曽祖父・勘九郎の祖父の代の踊りコンビの素晴らしさ、それを今の世の自分たちが再現しよう(あるいは乗り越えよう)とし、二人は本当に息の合う、よいコンビぶりを見せてくれた。

正直なことを書くと、わたしはあまり日本舞踊に関心がない。というてもクラシックバレエもニガテで、踊りでときめくのはモダンダンスから現代のコンテンポラリーくらいなのだ。
しかしそれでもわたしはこの二人の踊りは見た。見て、惹かれた。
特に狂言を基にした舞踊劇は面白かったし、あまり出ない演目の踊りなども珍しく眺めた。

中座で見たうち、八十助の踊りで非常に心に残っているのは「棒しばり」と「流星」である。
「流星」は1993年の七月の中座の昼の部で、流星の八十助がとてもかっこよかった。
あのやや大きめの綺麗な口元を見せて宙を飛び、さっ と去ってゆく。
本当にかっこよかった。
無論坂東流の家元になるべき人なので、当時から当然よかったが、こんな素人の踊り嫌いのわたしの胸に20年以上も残っているのだから、やはりめちゃめちゃ良かったのだと思う。

そうそう、その月の昼の部は「団子売」も出ていて、これに二人は共演していたのだ。
明るく笑って追い出されたことも忘れない。

90年代は毎月あちこちで歌舞伎を見ていたなあ。データを見るだけであの頃のドキドキ感が蘇ってくる。

ああ、そういえば92年の中座では「夏祭」が出て、あのとき勘九郎が團七、徳兵衛が八十助で、たいへんな評判をとっていたなあ。
本場であれだけ大うけし、観客皆が大喜びしたのを見て、勘九郎は「夏祭」の手ごたえを感じたと思う。
89年に歌舞伎座で公演した後、浪花の中座で成功し、以後の「夏祭」の人気の高さは知らぬものとてないほどだ。

この公演では「身替座禅」で八十助は奥方を演じ、孝夫さんの右京をキツーくお仕置きしようとしていた。上品な孝夫さんがとろーんとしなだれかかった時の悔しそうな奥方の顔。
面白かったなあ。

95年の11月の歌舞伎座で「蘭平物狂」がかかった。巳之助坊やの初舞台である。
本当の父子が父子役で共演する芝居で、わたしは舞台の上の人々の眼差しが見えるような席に座っていた。
八十助は刃物を見たら物狂いになる(詐病である)蘭平をさわやかに演じていた。
あの口元はやはり、機嫌よく笑うのにとてもいいなといつでも思う。
やがて敵方で正体を現す蘭平。彼は一子繁蔵(巳之助坊や)を探して夜の庭を秘かに動く。
「繁蔵、どこにおる・・・父はここぞ」
元よりさわやかな声が夜の庭に低く響く。
父、と書いたが発音は「てて」である。
芝居のフィクションの部分と現実のあわいがなくなるのを感じる一瞬だった。
深い情を感じたのである。

その月は北条秀司の「建礼門院」にも平知盛役で出ていて、妹徳子(雀右衛門)と親しく話すさわやかな兄を演じていた。

歌舞伎以外の舞台にも出ることが少なくなかった。
「山ほととぎす ほしいまま」の夫役がよかったという。わたしは見ていない。
だが想像する。

蜷川幸雄の「近松心中物語」にも出ていた。徳兵衛である。お初は樋口加奈子。
歌舞伎や文楽ですっかりよく知られるようになったお初徳兵衛。
蜷川演出の徳兵衛といえば平幹二郎が思い浮かぶ。
あの役をするのか、とわたしは心配になった。
平幹二郎の芸の力の大きさが迫ってくる。現代のすべての演劇人の中で最も素晴らしい芝居ができる人。
歌舞伎役者として精進しているが、八十助にはどうだろう…
どうしてもそんな不要なことを考えてしまう。

芝居が始まった。
徳兵衛がお初に言う「お前は遊女やない、わしの女房や」…
この場に来たとき、はっ となった。
徳兵衛がまだ青年だということを、わたしは初めて<知った>。
そう、八十助はそのような演技をしていた。
はきはきしたセリフ回しと力強い頷き。
これは青年の悲劇なのだという目でお初徳兵衛の芝居を見たのは初めてだった。

平幹二郎はこのセリフの時、緩急を使い分けていた。
そのときわたしはギリシャ悲劇を想っていた。
演者により、こんなにも大きく異なる芝居になるとは。
たいへんに興味深い現象を目の当たりにしたのだった。

歌舞伎以外ではTV出演に面白いものがあった。
これは三津五郎襲名後だったかどうかはっきりしないが、久世光彦の盆と正月のどちらかに放映される昭和のドラマ、それに出ていた。
小林薫と田中裕子の父娘、その娘と恋愛関係にある青年役である。
赤紙が来たのでもう戦場へ行かねばならない。そんな時に田中裕子と結婚する。
おんなを抱きしめて泣く顔と指に深い味わいがあった。

コメディータッチの二時間物にも出ていた。角野卓造と共演した湯の町コンサルタントだったか、あれは二話くらい放映されたと思う。
本人のお城好きが前面に出た機嫌のいいドラマで、別にサスペンスとかそこらは正直どうでもよかったが、いい温泉に浸かって、大好きなお城を見て、わいわいと進む話なので、ファンとしてはいい気散じになったのでは、と微笑ましく見ていた。

「ワーズワースの庭で」「ワーズワースの冒険」といった上質な番組の司会もしていた。
この番組は93年ころから数年間続いたが、大阪人のわたしの眼にはとても新鮮だった。
つまり、関西ではありえないタイプの番組だったからだ。
確か金曜か土曜の23時ころに放映されていたと思うが、素敵な番組だった。
八十助のさわやかさが、あの素敵な歯並びが今も眼に残る。

コマーシャルにも出ていた。
最初に見たのは「加美乃素」で、あの黒々とした髪を見ていると、なるほどなあと思いもした。
それから「ネスカフェ」の違いの分かる男。ダバダ~のBGMの流れる中で豊かにコーヒーを楽しみ、最後に確か梅王丸か何かの扮装で現れる。
カッコよかった。

このコマーシャルはいつの芝居でか、左団次によって劇中でパロられて、客席は大いにウケた。やはりこうしたクスグリは楽しい。八十助はそのとき照れて笑っていた。
あれが勘九郎なら更に一歩踏み込んだ返しをするところだが、そうしないところに八十助の個性があった。

お城の話、勘九郎との15歳の珍道中の話、ファンにとっては宝物のような話もいっぱい知ることがあった。それで一層ファンになったのだ。

1997年に大阪松竹座で「狐狸狐狸ばなし」があった。
勘九郎が元は上方の女形役者崩れのねちねちした男、八十助は破戒坊主で、勘九郎の女房の福助とデキているが、これまた別に女にのぼせているわけではなく、三人の虚々実々の駆け引きが面白い芝居だった。
このとき、福助に惚れられてちょっと煩わしいと思っていたのが一人になると、「ああ、俺はなんていい男だろう!」と言い放つのだが、その姿・声の良さ、本当にほれぼれした。
あれは松竹座の新築開場記念だった。
ほんと、カッコよかったなあ。

1993年の6月に新橋演舞場で上演されて以来長らくかかっていないのが、谷崎の原作による「お艶殺し」。
これも八十助と福助と言う息の合ったカップルの芝居だった。
最後は悲惨な殺しに発展するのだが、真面目な男が転落してゆく軌跡を八十助は見事に演じていた。悲哀が胸に迫るがそれゆえにこそ、魅力的なのだった。

大体この二人が悪縁の男女を演ずると、もうそれだけでわくわくした。
江戸の市井の片隅の男女だけでなく、時には身分の高い異国の人の役もしているが、そこでも悪縁・暗い結末を演じ、その鬱屈した美しさに惹かれた。

「楊貴妃」は97年12月に国立劇場で見た。
福助の楊貴妃が宦官だと知らずに八十助の高力士に惹かれ、そうと知った後の絶望と、更にそれゆえの誘惑と、それによる復讐をうける無惨な話だった。
ここでも八十助と福助の悪縁の男女の魅力に撃たれた。

語ることは無限にある。
しかしもうおくことにする。
最後に、目前に迫る東大寺の修二会、「春を呼ぶ」お水取りの縁起を描いた舞踊劇「達陀」についても書いておきたい。

2002年の南座の顔見世興行だった。
襲名して三津五郎となった彼は冒頭に現れる堂童子を演じた。
演じた、というのは正確ではない。
堂童子として現れた三津五郎は非常に美しい踊りをみせた。
あのとき、きらきらしたものが舞台から飛んできた。それは三津五郎の踊りから立ち上る香気のかけらだったのだ。
今もあの美しい姿は忘れられない。
ああ、また見たかった…

さようなら三津五郎。
巳之助さんや一門を見守っていてください。
本当にいい男だった…
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