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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

テンプス・フーギット 大山崎山荘とヤマガミユキヒロの視点

大山崎山荘で開催されている「テンプス・フーギット」展に出かけた。
副題は「大山崎山荘とヤマガミユキヒロの視点」とある。
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展覧会の狙いは以下の通り。
「テンプス・フーギット(TEMPUS FUGIT)」とは、ラテン語で「時は飛ぶ」、「時は逃げる」といった意味で、時間が経過するはやさを表す格言です。古今東西の多くの美術家たちは、この過ぎ去っていく時間に対峙し瞬間を作品のうちにとどめようと挑んできました。
 印象派の巨匠クロード・モネは、時間とともにうつろいゆく風景を追いかけてカンヴァスにとどめ、さまざまな連作を手がけました。現代に目を転じると、細密に描いた風景のうえに、同じ場所で撮影した映像を重ねる作品で知られるヤマガミユキヒロは、ひとつのカンヴァス内に多くの瞬間を出現させています。
 本展では、現代美術作家のヤマガミユキヒロを迎え、当館所蔵品と作家の作品をとおして去りゆく時間について再考いたします。所蔵品よりモネ《睡蓮》連作などの油彩画、長い歳月を経て風化、退色し時の流れを感じさせる古陶磁、そして、ヤマガミの代表作から大山崎山荘内の移り変わりをとらえた最新作まで、時間をめぐる作品をご紹介いたします。」

わたしが出かけたのは内覧会で、それは初日の開館1時間前に行われた。

大山崎山荘はご存知のように大正から昭和初期に作られ、その後安藤忠雄の設計した「地中の宝石箱」共々1996年に美術館としてオープンした。
今回の展示はまず最初に地中の宝石箱から見ることを始めてほしいという。
言葉にはされていないが、行間にその意思がある。素直に展示の順を追うことにする。

地中の宝石箱は円形の打ちっぱなしである。いかにも安藤らしい構造だが、ヴィラ建築の本館の様式とはそぐわぬ姿を表に見せず、地中に埋もれることでその存在を示す。
わたしは決してここはいやではない。

モネの睡蓮を描いた作品が何点も並ぶ。よい距離感を持っての連続展示である。
「クロード・モネの追いかけた時間」というのが今回のここのタイトルになっている。

モネの睡蓮を描いた絵を見る度に思うことがある。
必ずしも完全な視界を持たずとも、画家は描きたいものを描く、ということだ。
絵というものは線の美・色の美・光の美を捉えるものが多いけれど、その三つが曖昧になることで境界を失くし、境界がなくなることで不思議に美しい融合を遂げる。その実例がここにある。
視界のはっきりしていた頃よりもジヴェルニーで自分の愛した庭と池とを描き続けた頃の方が、作品への好感度が大きくなっている。

三枚の「睡蓮」と一枚の「日本風太鼓橋」はジヴェルニーをモネの視界で捉えた作品である。それがここにこうして並ぶ様子を見ると、円形であることからもか、庭の再現が為されているかのようにも思われるのだ。
そして、そっけないコンクリート壁が睡蓮の池を分断し絶妙な距離を置いて<風景>が続くことで、よりその意識は強くなる。
半円を回ることでわたしたちはモネの睡蓮の池を窓の外から眺める心持になるのだった。

睡蓮以前に描かれた断崖を見る。
エトルタである。ここにあるのは「エトルタの朝」を描いたもの。よく見る側とは逆からの眺めである。だからゾウの鼻の向きも違う。それ自体が新鮮な味わいがある。

地中の宝石箱には睡蓮が咲くだけではない。
マルケの、いかにもマルケらしい色をした「アルゼの港」もあればヴラマンクの「花瓶の花」、ボナールの「開いた窓の静物」もある。
そしてそれぞれが<時間>を持っている。
その時間の流れは絵によって異なるのだが、確実な時間の流れがある。

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本館へ戻る。
「大山崎山荘の時間と古陶磁」とを眺める。
民藝との関わりの深いコレクションの名品たち。
李朝のやきものたち、明・清の生まれのもの。
五寸皿くらいの瀬戸がある。行燈の皿だった。
これは初めて見る面白いやきもの。用の美をめざしつつ、可愛らしい絵付けも施されている。かなりいいものを見た。
小鹿田焼の小物もいい。釉だれに深い味わいがある。
そしてこれら古陶磁器とは多少の距離を置いて、ルーシー・リーのやきものがあった。
白釉カップである。光を通す様子に見えたので「蛍か」と思ったがそうではなかった。外面のところどころに凹凸をつけそこに光が集まるように設えていた。

そのルーシー・リーの白釉カップをヤマガミユキヒロさんは映像にする。
光が当たり、やがて光が去ってゆくその時間を捉える。
あるがままの移ろいではない。
そこにヤマガミユキヒロさんの手が加わる。
だが、どこからか人工のものでどこまでがそうではないのかがわからない。
その曖昧なあわいに観客は魅せられている。
気づかぬまま、美が心のうちに入り込んでゆく。

窓の光Ⅰ(習作)というタイトルの映像がある。
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ヤマガミユキヒロさんは、この大山崎山荘の美しい窓を題材にした作品を作ったのである。
外の風の揺らぎと一日の時間の流れとを表現している。
暁闇から明け方へ、明け方から早朝、そして午前を過ぎて午後へ至る。
窓へ差し込む光の形も時間の推移によって変相する。
床を走るような光がある時間もあれば、やがて光が遠のく時間が来もする。
夕方から夜への推移は柱の灯りで示されもする。
灯りは明度を変えない。しかし外の光がそれを変えてゆく。
このときになり、ようやくヤマガミユキヒロさんの描いたものの存在をはっきりと感じる。
なんという美しいドローイングだろうか。
ただただ感嘆するばかりになり、やがて24時間の推移を呆然と、あるいは陶然として二度三度にわたって見つめるばかりになった。

失われる時をとどめたい、そんな想いを形にしようとすれば、このヤマガミユキヒロさんの映像がこの後も蘇るように思われる。

光がゆっくりと床を動く。そのさまはまるで水のようだった。
「さまよえる湖」と呼ばれたロプ・ノール湖をわたしは思った。
静かな闇の訪れ、また光が入り込む午前、ものの形が露わになり、床にその形を象る様子に目を瞠る。

建物は動かない。
動くのは光と風と時間なのだ。
いつまでもこの様子をみつめていたかった。
わたしが建物の一部になればそれは叶うかもしれない。


浴室に近い部屋へ移る。
ここではペルシアのやきものが多く並んでいる。
長く地中にあることで銀化したやきものも見えた。ところどころに不思議な玉虫色をみせているやきもの。
また、千年前のウサギの絵を描いた皿もあった。冬毛のウサギである。
可愛い。これをみて、東海大学がエジプトでみつけたウサギ柄の皿を思い出した。
ほかにもとてもユニークな顔のついた瓶、ラスター彩などがある。

ここでもヤマガミユキヒロさんの作品に遭遇できた。
「窓の光Ⅱ」である。縦型のこの作品は廊下の灯りをモチーフにしている。
不思議な時間の流れを見ることがかない、静かな幸せに満たされる。

少し離れた先に山の館がある。そこへ行くとヤマガミユキヒロさんの拵えた「鴨川リバースケープ」と「都市の印象」などを見ることが出来る。
人々のいる空間、その時間の流れ。
とても深い魅力があった。

最後に濱田やリーチのやきものを見る。
ここにも<時間の流れ>があった。
濱田庄司のやきものは、15秒と60年で作られている、とリーチの言った言葉が蘇ってくる。
60年の修行とたゆまぬ努力があってこそ、15秒で釉薬が掛けられ、完成を待つことになるのだ。

展覧会は6/28まで。
新緑の頃か紫陽花の頃に再訪したいと思っている。
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