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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

速水御舟 私見

速水御舟私見

大仰なタイトルだが、わたしなりの御舟芸術論のアプローチを試みたい。

小学五年生時の美術教科書に、近代日本画の代表として御舟の『炎舞』が掲載されていた。
それを見たときの異常な衝撃は、今も忘れない。
燃え上がる炎に次々と飛び込む蝶や蛾たち。

わたしは蝶が好きな子供で、近辺に大きな公園やガーデンや放蝶館があるのも幸い、好きなだけ蝶と戯れることを許されていた。
その大好きな蝶たちが炎に我から身を躍らせてゆく・・・

燃え尽きる情景ではなかったが、容易にそれは想像された。
虫の性質として灯や火に飛び込むことはわかっていた。
しかしそれでもその絵は衝撃的だった。

その衝撃は、私の意識の底にひそむ湖に沈められた。
子供がこの絵に対峙することは許されない、と本能的に忌避したのかもしれない。
以後長らく『炎舞』とは縁が切れていた。

’89.11は私にとって記念すべき月である。
それまで家族や友人と訪れていた東京に単身訪れ、五日ばかり滞在したのである。
その間何をしていたのか。
ひたすら美術館・博物館巡りを続けていたのである。
わたしには記録魔とも言うべき面もあり、日記だけでなくデータとして記録することも好きである。
だからこの11月初旬にはどういう巡り方をしたのかも、二十年近い後の今でもたやすく類推できる。

先日ブリヂストンの項で山種美術館のことを少しばかり書いたが、このときにわたしは山種美術館へ行き、そこで速水御舟と再会したのだ。
丁度その頃山種では速水御舟回顧展を開催していた。
当時、美術館は茅場町にあり、モダニズムの粋の中、絵画は見事な飾られ方をされていた。
『名樹散椿』をメインにした展覧会ではあるが、わたしの意識はやはり『炎舞』に引き寄せられることになった。
壁にかけられた『炎舞』は、黒塗りの式台にその姿を反映させていた。
わたしは絵そのものを見ず、黒い式台に浮かび上がる炎と蝶たちを見ていた。わたしの視線が動くたび、炎が揺れ、蝶が舞った。

どれくらいそうしていたか、わたしはやっと本当の絵に目を移した。
影から実体へ。
炎は煙を伴うナマナマしさをわたしの前に曝け出していた。
二次元のフィクションでありながら、わたしは口元を覆っていた。
蝶が死んでゆくのを実感として感じたのだった。



四年後山種でまた速水御舟展が開催された。
二ヶ月で展示換えを行なうというので、連続して通った。
そのとき『炎舞』は他の絵と共に普通の壁にかけられていた。
しかしわたしの目はそれを見ず、四年前の情景を『見て』いた。

このとき、黒猫と白兎の絵をみている。
にゃあとした黒猫。
黒猫といえば菱田春草の『黒き猫』か夢二の『黒船』の女の抱く猫だ。この頃、明治から大正にかけて黒猫は病を払うという俗信が広まっていたそうだ。
御舟の『黒ちゃん』はにゃーと鳴いて病を蹴散らしそうだが、彼はやはり夭折した。
夭折が病から来るものか事故によるものかは問題ではない。
御舟の絵には、夭折する者にしか描けない何かがあった。

それを深く感じたのは、’99.6月の横浜そごうでの里帰り展だ。
これは首藤さんという立派な方が敗戦直後の邦人を救う為、集めに集めた日本美術のコレクションをソ連に売り払ったというイワクつきの作品展だった。
コレクションは幸い散逸せず、現在ではロシアの某美術館に収められているようだが、そこでわたしは福田平八郎の紅白梅と小禽の三幅対と、御舟の花々に惹かれた。
福田の絵は、今日の彼の最大パブリックイメージのシンプル造形ではなく、野間記念館に多く残る色紙に表れるような、ほのぼのした花鳥画であり、見ていて心が豊かになるものだった。
一方、御舟。
「あ、死ぬな」
正直な感想がこれだ。
描かれた花は赤く可愛らしいのに。

不吉なものを感じたわけではない。
しかしなにかしら伝わるものがある。
それがこれだ。
「あ、死ぬな」

『生き急ぎの記』といえば藤本義一から見た映画監督・川島雄三のハナシだが、御舟に接していた誰かはそんなハナシを書かなかったのだろうか。御舟のパトロン吉田は彼の作品に危うさを感じていたのではないか。
画家の死とその風景については、例えば宇野浩二が小出楢重を書いた『枯れ木のある風景』などを読むことが出来る。
遺族から抗議を受けたとしても、作家は自分の目で見た物語を紡ぐ。

御舟にそれはないのか。
同時代人にとって速水御舟とはなんだったのか。

それへの答えはみつからなかった。
しかしわたしは武智鐵二の回想にその一端を見たと思う。

まだ京大生だった頃の武智はある日、御舟の花の絵を見かける。
因業そうなじいさんの店で、日に曝されている。
武智財閥の御曹司といえど一二の三でカネは出ない。
武智はこの頃京大の学生委員長だったそうだ。(だから滝川事件についても彼の回想は激しい)
彼は当時は一般的ではなかった月賦でその絵を需める。
すれっからしの客に飽きていたじいさん(彼自身がまずその元締めだ)は若い大学生に絵を持って帰れと告げる。
「あんたは学生で嘘はつかんやろ」
そう言って。

武智がその絵を買わずにいられなかった理由は、単にその絵が名品だからというだけではなく、今のうちに買わねば作者がこの世からいなくなるという切迫感に襲われたからだそうだ。
御舟の最盛期の最中に、武智はそんな衝動に駆られているのだ。

それが答えではないか。
同時代人武智の切迫感。
美の探求者武智鐵二を奔らせたのは、御舟の作品に漂うある種の危うさに感づいたからなのだ。

わたしは無論、御舟の死後何十年も後の人間で、彼を知ったときにはその評価は定まっていた。
彼の展覧会は間を置いて何度も行なわれる。
仮令回顧展などではなくとも、日本画名品展などには必ず借り出される。

御舟の絵の魅力、それは危うい均衡に立つものだ―――それは私いちにんの意識だろうか。
円満具足から遠く離れた、何かの極限に立つ絵。
それが御舟の美の本質だと私は思う。

しかしながらこの場で私が試みた論は、既に誰かの頭から零れ出ているのかもしれない。それであろうとも、わたしもまた言いたいのだ。
わたし自身が炎に飛び込む蝶になるために。
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コメント
こんにちは、お邪魔します。
素晴らしい“御舟体験”をお持ちのようで、うらやましいです。

『炎舞』は、残念ながらまだ観る機会がありません。ぼくは怠慢なので、東京まで絵を観にいったことがないのです。
『名樹散椿』と、滋賀の美術館が所蔵している『洛北修学院村』ぐらいが、ぼくの対面した御舟の代表作といえるものです。御舟については、まだまだ未知の存在だといわざるを得ません。

このような生かじりの知識ではありますが、作風をくるくると変えつつ40歳で逝ったこの画家の存在は、ぼくにとってますます魅力的な、そして謎めいた存在に思えてくるようです。

御舟のことを考えるとき、ぼくの心をよぎるのは“孤高”という言葉です。
彼は院展の同人として、多くの先輩や同胞たちに囲まれていたのかもしれませんが、仲間うちの馴れ合いとは無縁な、ある孤立した厳しさを、彼の絵から感じるような気がするのです。


前の記事の「民藝」の展覧会は、ぼくも行きました。いずれ書きたいと思っていますが、まだ考えがまとまりません。もう少し先のことになりそうです。
2006/02/03(金) 04:21 | URL | テツ #-[ 編集]
こんにちは、ありがとうございます。

確かに御舟には『孤高』と言う言葉が合いますね。
描いた絵のタイプは違うし、目指したものも違うでしょうが、村上華岳と同じく他の追随を不可能にしてしまったような匂いがします。

十数年前、高島屋で夭折の洋画家たち展という展覧会があり、その謳い文句が『才能はあった。情熱もあった。時間だけがなかった』というものでしたが、御舟にはそれは合わないなと思いました。

七十になっても八十になってもああいう絵を描けたか、という問題はあるにしろ、御舟はあの時点で完成されてしまっていたようにも思います。

菱田春草にはもう少し時間をあげたかった、と思うのですが、御舟には時間のあげようがない。
そんな気がします。
2006/02/03(金) 23:10 | URL | 遊行 #-[ 編集]
蛾は炎には飛び込んで身を焼いていましたか?
私は、蛾は炎の上昇気流に乗って狂おしく舞い踊っているのだと思っていました。虫の生態から言って、決して炎の熱には近寄らない、という先入観の所為かもしれませんが。(地方に行くと誘蛾灯に焼かれていく虫たちを見ますが、これは青色蛍光灯の前に高圧電流が・・・嗚呼)

ですから、「死」よりも寧ろ「艶かしい生」を感じて戦慄したのです。

同じ絵を見ても、その人、また見た時によって、様々に姿を変える・・・例え「絵」として完成していたとしても終わってはいない。それこそ其の絵が生き続けている証拠かもしれません。
2006/02/16(木) 18:26 | URL | 山桜 #-[ 編集]
『孤高』という言葉にどうしても拘ってしまう。
高校生という多感な頃の憧れが “加藤文太郎”というアルピニストだったからかもしれない。
当時、新田次郎著『孤高の人』をザックに入れて、一人で山を登っていた。たった一人で誰もいない山中で夜の孤独と闘いながらこの本を読んだ。それほどこの本の主人公に憧れていた。しかし、結婚を機に危険な山行を諦めた。今となっては懐かしい思い出である。
私も教科書で見た『炎舞』の記憶が鮮明に残っている。でも今日は雪山が見たい。
2006/02/16(木) 21:43 | URL | 酒徒善人 #-[ 編集]
山桜さん、わたしの持つイメージでは、本来は火に飛び込む蛾は『不死蝶』なのですよ。死と再生。
焼ける・焦げる・散る・生まれる・這う・飛ぶ・・・・・・

御舟は夭折したけれど、死の観念に踊らされてはいなかったと思います。
しかし、見るものの眼には何かしら『・・・あぶないな』大丈夫か、というのがつきまとうように思います。極限を歩きすぎたのではないか、というのがわたしの考えです。
極限にまで行けば『次』がない。しかし『次』が無いような絵を描き続けることは良いことなのか、悪いことなのか。
・・・そうしたところでわたしの思考は行き止るのです。
結論は出ませんね、まだまだ・・・
2006/02/16(木) 22:16 | URL | 遊行 #-[ 編集]
『孤高の人』も最後の登山以外は下山しました。
あの最後の登山については、わたしは相手の・・・名前を忘れました、がなんとなくにくたらしく思います。
多分、主人公の愛妻に肩入れしすぎたからでしょうが。

何年か前スイスのユングフラウだったか、新田次郎の碑を見ました。
彼の最後の作がモラエスだったこともなにかしら、暗示的に感じます。
2006/02/16(木) 22:23 | URL | 遊行 #-[ 編集]
『炎舞』。なるほどいろいろな見方があるようです。本物をこんどきちんとみたくなりました。

2006/03/04(土) 22:36 | URL | ak96 #-[ 編集]
是非見ていただきたいと思います。
人類が残すべき日本画の一つだと思うのです。

切手もなかなか良く出来ていました。
いつ思い出してもときめく作品です。
2006/03/05(日) 21:35 | URL | 遊行七恵 #-[ 編集]
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