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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

川喜多半泥子物語 その芸術的生涯

既に終了したが記したい。

あべのハルカスで「川喜多半泥子物語 その芸術的生涯」を見た。
半泥子は伊勢の豪商の跡取りであり、近代の実業家であり、陶芸家である。
津にある石水博物館は川喜多家あればこその存在だし、今回はその石水と同じ三重のパラミタ・ミュージアムからも様々な作品がきている。
イメージ (56)

川喜多家は江戸時代から続く木綿問屋で、江戸の日本橋にも支店を開いていた。
広重の「東都大伝馬町繁栄之図」にも川喜多家の暖簾が描かれていた。菱形に川の字である。
今までこの絵を見ていたが、別に背後の大店にまであまり関心を向けなかったが、あれはリアルな暖簾並びだったのだ。そのことにもびっくりした。
でっちとわんころのいる絵。

川喜多家は豪商なので文化的にも多くのつきあいがある。
光悦からの書状なども見受けられる。

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諸家寄合書 五節句  文化期の文人墨客らがなんだかんだと書いている。蜀山人、京傳、馬琴、歌麿ら錚々たるメンバーである。俊満もいる。いいなあ、この時代感。

付き合いは更にこんなところにも。
鳩杖(有栖川宮より拝領) 1754(宝暦4)年頃  長さ109cm。鳩杖といえば板谷波山が鳩を拵えてたのが有名だが、これはその先達。老人に鳩同様誤嚥なんかなしで長生きしてね、という気持ちのこもった杖を贈る風習があった。
宮様からそれを貰うているのだ。
他に「白樺派」の実篤のご先祖に当たる武者小路実陰から和歌懐紙も貰っている。当代随一の歌人からの色紙である。
また同じ伊勢の本居宣長の賛がある色紙も持っている。
近代になっても「北海道」の松浦武四郎から蝦夷地の事を書かれた手紙が届いてたりする。
今の実業家ではありえない文化の高さがそこにあったのだ。

伊勢には萬古焼がある。
それが廃れたとき復古させたのが大伯父にあたる竹川竹斎。その縁で古萬古のいいのを持っている。また竹斎は勝海舟とも縁があるので海舟から貰ったものが巡って川喜田家にも入る。
文化の伝播がこうしてなされるのだ。

半泥子はそんな名家の跡取りながらも生後すぐに両親との縁が切れ、祖母政子に育てられている。この政子というお祖母さんはなかなか立派な人で、孫を甘やかさず、立派な人に育てようとしたようだ。「遺訓」を読むとそれがわかるし、明治32年に祖母から貰ったその遺訓を半世紀後に孫の半泥子が自分の孫たちに「政子遺訓写」として書き与えていることからも知れる。

とはいえ決して質実剛健なばかりではなく、明治の豪商の跡取りとして使える金は使って、機嫌よく当時最先端のカルチャーに夢中になっている。
写真である。
ガラス乾板が残っていて、それらがプリントアウトされていた。
運動会、田畑の様子、ヨット、にゃんこたち、なぜかキューピーさんなどなど。
福原信三ら往時の「大正期の都市散策者」の仲間入りしていそうな勢いである。
明治末から大正初期の写真愛好家は、財閥の跡取りくらいな金の使い方が出来ないと好きに写真を撮るのは不可能である。
半泥子の写真は鴻池家に伝わる写真などに一脈通じるものがあった。

半泥子は絵も巧かった。
これは前に目黒区美術館あたりでみたか、ジャワ旅行記の絵を見ている。
今回もそれらが出ていた。単に巧いだけでなくユーモアがあって、楽しいのだ。
昭和初期のジャワは既に日本軍が進出していたので「南方」の一つになっていたか、往来に気負いはなさそうだった。
キラキラした旅行図はシンガポールから出航した様子を、紫色に染めた夕暮れの海と青碧の海で表現する。
ブンガワン、バタヴィアなどなど。
ヨーロッパでもヴェニスの絵がいい。

石水美術館所蔵の絵も出ていた。
藤島武二 桜の美人 お女中がどういうわけか青緑の顔色で花見する絵である。好きな絵だが顔色がいつも気にかかる。

武二ではほかに「女の顔」としてリボンを結んだ少女の絵があった。これは半泥子の妻をモデルにしたものかもしれないそうだ。
他にマティス、ボナールの絵がある。
このあたりに半泥子のモダンさ・ハイカラさを感じる。

マティス 黄色い肘掛の椅子の女 1920 白シュミーズの女、白カーテン、白灰色の風景。
ああ、時代のカッコよさを感じるなあ。

また半泥子は禅に傾倒したそうで、そのあたりは茶の湯の手製品と共に紹介されていた。

さていよいよ半泥子のやきものに目を向ける。

イメージ (58)

芝居絵皿 1925 四点それぞれに大日鬘の男などが描かれている。大正末期の芝居の華やかさをしのばせる絵皿である。
この時代は娯楽も少ないからみんな芝居に熱中した。
日本画家も洋画家も芝居絵を楽しんで描いていた。清方、牛島憲之、金山平三などなど。
半泥子がそれを絵皿にしても何の不思議もない。
楽しかったのだろうなあ。うらやましい。

伊賀焼がかなり多い。面白い形が多いのも当たり前だが特性。
名前が面白いのも多い。「慾袋」とか。
古伊賀焼水指「鬼の首」おお、なかなかそんな感じがする。

半泥子は千歳山荘というところに窯を開いていた。
それは小山富士夫の設計によるもの。そしそて窯は社員たちからのプレゼントだそうだ。
それを描いた屏風もある。
二代真清水蔵六 千歳山荘初窯火入図屏風 紙本墨画淡彩 1933(昭和8)年 2曲1隻 
雇い主へのごますりだけでなく、やはり愛情があったのだと思う。

灰釉茶碗 銘「菊の香」 千歳山窯 1942(昭和17)年 口べりの白釉流れがジンジャーシロップの固まったように見える。
妙に美味しそうである。

井戸手茶碗 銘「渚」 千歳山窯 1942(昭和17)年頃 これはまた窯変があって綺麗な水色が出ていた。こういうのはなにかしら嬉しくなる。

半泥子は乾山の研究も怠らない。
ここに乾山のやきものがある。
色絵草花文鉋目皿 京都・鳴滝窯 百合、ツツジ、牡丹などが描かれた可愛い絵皿。

乾山鳴滝窯発掘の陶片 元禄― 正徳年間 破片にも可愛いものが多い。オバケみたいなのもある。

チラシにも大きくクローズアップされているが、これは半泥子の代表作ではないか。
粉引茶碗 銘「雪の曙」 千歳山窯  とても綺麗な薄桃色が発色していて、見ていてうっとりする。

お仲間の作品も紹介されていた。
荒川豊蔵 水指 銘「からひね」 1976(昭和51)年 これは三輪休雪の白釉を遣ったものらしい。力強い白が出ていた。

三輪休和 風月 やさしい色が出ていた。

初代 小西平内 赤楽茶碗 銘「めでたい」 太閤窯 1950(昭和25)年頃  おお、なんとこれは甲子園ホテルでした樂焼なのだそうだ。仲良くなって記念に貰ったそうだ。

三輪壽雪 萩焼 作品(鬼萩割高台茶碗)三輪窯 1998(平成10)年  清水卯三の田舎饅頭のようなのを思い出す。

ところで最後の方のやきものの展示コーナーではハルカスのカーテンが開かれて自然光が入っていた。とても明るくいい感じでサウス大阪の風景が広がっている。
 
戦後になり窯を変えている。
またその頃のさらさらした絵がいい。俳画ではないがどこかとぼけた味わいがある。

紙雛図 紙本墨画淡彩 1959(昭和34)年  要するに仲良しさんだということを改めて知る。いちゃいちゃするお雛様とお内裏様。顔つきがその当時の若者ぽいのもご愛嬌。そう、太陽族ね。

晩年からはさらにザリザリざらざらな境地へ向かった。
わたしは磁器は好きだが陶器はニガテなので「ヒーッ」なのが色々。

割高台茶碗 銘「浮寝鳥」 廣永窯 1949(昭和24)年 ヒーーーッ 全然関係ないが、この名を聴くと「紅孔雀」の浮寝丸さま(東千代之介)を思い出すのだ。しかしこちらはザリザリざらざら。

志野茶碗 銘「赤不動」 廣永窯 1949(昭和24)年  乾燥中にひび割れたから稲藁に巻いて焼いたところ、紅かかったそうだ。それで「赤不動」。

志野茶碗 銘「あつ氷」 廣永窯 白で大きめの貫入がジャリジャリと入る。それで厚氷なのだろう。

赤楽大茶碗 銘「閑く恋慕」 廣永窯 昭和20年代  かくれんぼ、と読む。顔を半分隠すほどの大きさだという意味で。

半泥子は洒脱な人でネーミングも楽しい。
「大夢出門」とかいて「タイム・イズ・マネー」と読ませもする。

高麗手茶碗 銘「雅茶子」 廣永窯 昭和20年代 こちらはゾウのガチャ子からのネーミング。

狛犬 廣永窯 1947(昭和22)年  一対の狛犬。可愛く踏ん張るのがいい。阿吽なのだが、吽はもともと口を閉じるから別にいいが、阿までが口を閉ざしている。これは焼いてる最中、棚がアタマに落ちてきて閉口してしまったらしい。「うーん、うーん」の様子なのだった。

とても面白い展覧会だけにやはり記せてよかったと思う。
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