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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

『死者の書』を見て

映画『死者の書』を見に行った。
多分、二度と挑戦する作家はでないのではないか。
折口信夫の小説を、小説の態を取った言葉と情念、いや〈執心〉とを、川本喜八郎はよくぞあそこまで映像化出来たものだと、ただただ感服した。映像作家・川本へのオマージュはいくら言葉を費そうと、完璧には綴れない。
とりあえず私が伝えることが可能な事柄だけでも書いてみたい。

まず、人形アニメーションの製作の根気強さなどから。
既にサイトなどでインタビューに答え、1テイク撮るのに何分、何時間かかると我々は聞かされている。これは全ての人形アニメーションの宿命ではある。
遠い話だが、サンリオがくるみ割り人形を撮影したメイキングを当時私は見ていて、アッケにとられたものだ。1秒のシーンのために費やすのが5時間だった。サンリオのいちご新聞に書かれた苦労話にも驚かされていた。
世の中には凄い仕事があるんだなあ、と子供の私はただただ感心し畏怖さえ覚えたものだった。それから長い時が経ち再びそれを目の辺りにするとは。

奈良時代だから服にはヒレがつきものだ。歩くと薄物だからなびく。その様を映像はとらえる。
あってもなくてもよいようなものだが、そこに職人のこだわりがある。

そして、画面転換は切れ切れになっているが、これは原典に忠実なためだ、というべきかもしれない。テイクを繋ぐために川本は映像作家として創作したかったろう。それは決して余計なものではないのだ。が、川本はそうはしなかった。それを排したことは川本自身の折口へのオマージュのあらわれではないか。だからこその断絶だと私は考えるのだ。しかしこの画面の断絶=繋ぎ方の手法はルーカス的でもあると言える。六年にわたってSTAR WARS三部作を自らの演出で作り上げたルーカスは、その演出法を〈映画界の狩野派〉と揶揄されていた。しかしそれがどうしたと私は言いたい。技法が古かろうとなんだろうとSWの輝きに傷はつかない。
それと同じだ。

郎女の魂呼ばいをする九人の白装束のものたち。
その背景の蒼さは、映像の深度を増す。
折口信夫の呪術的感性。それが顕著に現れているのがここと冒頭の滋賀津彦=大津皇子の魂の復活シーンである。
それを川本は静かに表現する。

ところどころにアニメーションが入る。これはロシアのユーリ・ノルシュテインによるものらしい。彼の『話の話』『霧の中のハリネズミ』を知る人には納得のゆく映像である。

語りは岸田今日子である。
この女優を措いて他にこの役は出来まいと信ずる。
彼女の語りは原文の朗読ではなく、原作どころか、折口信夫の魂まで呼び起こす力を秘めている。ある意味で一番恐ろしい。

ここでわたしは違う話を書く。
数年前、『死者の書』雑誌発表時の、つまり初稿を国書刊行会が出版した。
その書評を丸谷才一が書いている。
それによると、現行のものとは違い、南家の郎女自らが滋賀津彦を蘇らせようとする筋だったそうだ。
しかし折口は書き改めて、滋賀津彦が主人公のように見える体裁にした。
それがこの書を一層晦渋難解な作にしたと言う。

わたしは岸田今日子の声を聞いたとき、初稿のことを思った。
即ち、岸田今日子こそが南家の郎女であり、死から蘇らされる滋賀津彦こそ折口信夫なのである。わたしは深くそのことを想った。


以前から一つの映像が私の脳裏に潜んでいる。
執心ゆえに数十年後に蘇った死者・滋賀津彦が耳面刀自の血繋がりの郎女をおとなう。
郎女はほとほとと叩く音に戸を開く。そこに立つものは骨とも死体とも言い難い『何か』なのである。郎女の魂はそれに刻印を打たれる。

―――無論これはあくまでも、わたしの中のイメージに過ぎない。
原作では郎女は死者の足音 つた、つた、つた という音を聞いて目覚め、幻を見るのである。
郎女の目に映るものは死者ではなく、既に円満具足なほとけの相好を見せている。
金髪に見える髪は、日の光を吸うたためであろう。(日想観と深い関係がここにはある)

川本はそのシーンを言葉に出来ぬほど美しく、そして静かに作り上げている。
郎女に会いに来ながらも、その視線を拒むように・恐れるように大津皇子は顔を背け、逃げてゆく。しかし郎女の眼にはその姿はほとけと二重写しになっている。
これは、映像作家・人形作家川本喜八郎の力業である。
この情景の凄さは、見ないと到底理解できないし、伝わらぬだろう。
わたしが絶賛したいのはこのシーンなのである。



わたしは偏愛の傾向が強いので、上記のシーンにばかり拘るが、細部にもすばらしい演出が施されている。
例えば郎女の着物の移り変わりなどである。これはお人形の着せ替えだと思えば、とても楽しい。何しろ郎女は写経するとき、まるで昔の市役所の役人のように腕にカバーをかけるのである。こうした濃密な細部は微笑ましいし、嬉しくなる。

また、乳母が梓弓をとり、皆で「あっし、あっし、あっし」と足踏み、つまり反閇した。
これは『陰陽師』のコミックの方に詳しいが、大変な行為なのである。
しかしながら映像として見てみると、なんだかおもしろいのだ。

姫のことばかりを書いたが、大伴家持や仲麻呂つまり恵美押勝についても書きたいことがある。
家持は築土垣ツキヒヂガキの建築様式を羨ましく眺める。
映像で見て、初めて私にもこれがどのようなものか得心がいった。奈良にはまだそれに近いものがあるのだ。しかしあれはこの時代に流行りだした建築様式だったのか。

また、躑躅の時期を待ち望む声を聞き、これは大変にドメスチックだなあと感心した。
葛城山。この山は実は躑躅の一大名所なのである。
それを思うと、なんだか面白かった。

映画は70分で終了する。
開始する前に、この時代状況や二上山の説明を兼ねた良心的な作りの映像が流れる。
それを見るのも楽しかった。

この『死者の書』上映を記念して、渋谷の方で川本喜八郎作品上映大会が行われるそうだ。
いくつかのプログラムに分かれての上映会。
その中には見たい作品がいくつもある。

わたしは『いばら姫またはねむり姫』を愛している。
当時大阪には来ず、時を経て宝塚の手塚治虫記念館で偶然見ることが出来たのだった。
そのとき一度だけ。
私も執心が深い。
執心。一度見ただけの耳面刀自の面影を求め、その血を引く者を求めて、大津皇子は墓の中で五十年の歳月の後に蘇るのだ。
・・・不条理な追憶が胸を噛む。
だからこそ、見る機会のある人はこの映画を味わうべきだと、わたしは言葉にしたい。
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コメント
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2006/03/07(火) 17:46 | | #[ 編集]
「死者の書」の朗読、聴いて下さってありがとうございます。
川本喜八郎の映画は観てみたいものだな、と思っているうちに、関東地方での上映期間が気がついたら終わっていました。
郎女の人形が腕カバーって良いですね。人形の衣装としての小物の懲り様、想像するだけで素敵です。
その写経のシーンにちなんで、郎女が千部写し終わる「六」のおしまいの部分の朗読をTBさせていただきます。
2006/07/31(月) 00:09 | URL | peperoncino #vZbA1Su2[ 編集]
TB送れないみたいです。とても重くなっているので、今ちょうど時間帯が悪いのかな。
2006/07/31(月) 00:18 | URL | peperoncino #vZbA1Su2[ 編集]
昨日、映画、『死者の書』を観てきました。正しくは新開地までの電車の往復、折口信夫の『死者の書』を読みもって、つまり同時進行でした。
正直言って、私はどちらかというといままで、ドキュメンタリー・タッチのものとかノンフィクションの世界で遊んでいましたので、こういう文学の世界はどこかで'懐かしい’感じがあります。それくらいご無沙汰していましたから。
あの物語が、大津皇子を扱ったものとは知りませんでした。でも彼と中将姫を結びつける構想はやはり文学の世界ならですね。
私はこの辺りの歴史を知るに付け、斎宮となられた大伯の皇女が、気になって去年伊勢の斎宮跡まで行ってイメージを膨らませてきました。
2006/07/31(月) 11:43 | URL | red_pepper #-[ 編集]
☆peperoncinoさん こんにちは
すてきな朗読でした♪あの作品は女の人の声がふさわしいと思いました。
イメージが物語を走破する。そんな感じがありました。
人形はとても丁寧な作りで、川本喜八郎の意気込み・こだわりが感じられました。機会があればごらんになることをおすすめいたします。

★red_pepper さん こんにちは
新開地アートヴィレッジですね。大阪は来月七芸で上映です。
深い映像でしたね。同時進行。死者の書じたいが同時進行の物語でもあるわけですよね。滋賀津彦の復活と南家の郎女と。交わる点は夜の訪ない。
大伯の皇女は斎宮を解任された後、誰を頼りに暮らしたのでしょう・・・
2006/07/31(月) 12:32 | URL | 遊行 #-[ 編集]
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