美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ ―『遠野物語』から『海上の道』まで

神奈川近代文学館へ「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ ―『遠野物語』から『海上の道』まで」展を見に行った。
日本民俗学の父たる柳田の展覧会、それが開催されるのは喜ばしいことだが、何故このカナブンで?と思いつつ、どこであろうと良い内容なら嬉しいことだとも思っている。
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折口信夫、南方熊楠、宮本常一、谷川健一に至る人々の上梓した著書は内容も魅力的だが、まずそのタイトルが素晴らしいと思う。
民俗学に関わる人々の独特の言語感覚、それに惹かれることから著作を手にするのだ。

だが、そこにあるものは恐怖であり、歓喜であり、遠い地方の風習と近い地方の慣習であり、逃れようのないなにかである。
無論それだけではないが、時折民俗学関係の本を読みながら「日本人であること」にある種の気持ち悪さと諦念とを感じもする。
とはいえ外国人になりたいわけではなく、たとえばわたしなどはどうやっても阪急宝塚沿線の北摂の住人でしかなく、思想の流れもそこからしか発生していない。
ただ、代々この地に住まう常民であるので、同じ地に住まいはしても新しい人とは違い、その意味では妙に不思議な旧い話や過去の栄光にまつわる話を多く知っている。

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展覧会は柳田の学問からではなく人間・柳田國男の紹介から始まっている。
柳田は姫路から延びる播但線の福崎に生まれた。
「私の家は日本一小さな家だ」というだけに本当に小さい家で、そこから松岡5兄弟という本当に賢い兄弟が誕生した、というのはもう、凄いとしか言いようのない話だと思う。
同じように優れた家系というのでは、緒方洪庵のご子孫は現在も父祖の地で緒方病院を開業されているが、ここも子子孫孫に至るまで頭脳明晰な家系で、世界の遺伝学のたとえ話にも出ているくらいだ。
湯川・貝塚兄弟もそうである。しかもこちらは松岡兄弟同様、科学系と文学系とに優れている。
優秀な人材の中で、突然変異的な人も多くいるが、やはり遺伝的に優れた家系というものを考えずにはいられない。

ここでは松岡5兄弟のそれぞれの事跡も紹介されていた。
中で13歳ばかりの頃の映丘の何気ない絵が途轍もなく巧い。
こんな子供の頃から巧かったのだ。後年の新興大和絵の旗手となるのも当然だった。

彼の兄弟の展覧会のチラシを紹介する。イメージ (15)

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子供の頃の柳田(彼は東京で婿入りして柳田の人となったのである)には神秘体験があり、それが紹介されていた。
その事件のアウトラインをなぞると少年の好奇心と不思議な出来事、としてファンタジーとして成立するが、それが人生の道に影響したというのは、やはり彼が特異な人だったという証左にもなるのではないか。

神社の秘められた「珠」をそぉっと見る少年。そして真昼であるにも関わらず青空に数十の星を見てしまう。

少年時代の柳田は前述の神秘体験のほかにも神隠しにあったりもしている。
よくもまあそんな子供が本当に明治の官僚になれたものだ。
いや、それだからこそ、か。

こうした人間は泉鏡花の作中人物に多い。
彼らはそのまま魔の領域・神秘の領域に囚われることも多いが、そこから夢も幻想も持たない軍人になると、通常生活を送れるようになる、という道が用意されていた。
柳田は軍人ではないが官僚として国に仕え、それで魔界にゆかずに済んだ。
ただ、面白いことに成人した柳田が鏡花と交流が深く、彼の小説「山海評判記」にもモデルとして家族ともども出演している。
神秘家にならず学問の道を切り開いたのはやはり良かったと思う。

話は少し戻り、少年時代の柳田は兄のところで暮らし、そこである衝撃的なものを見る。
徳満寺という寺にかかる絵馬である。その絵馬には口減らしのために母親に殺される赤子の絵が描かれていたのだ。
口をふさいで殺す母の影には角が出ている。顔をそむけつつ、手はためらいがない。
子供の<気>が地蔵を呼ぶ。それを見つついかんともしがたく泣く地蔵は、画面から消えている。
どうにもならない地方の農家の現実がそこにあった。

展示は進む。
柳田の交友関係が示される。
生涯にわたって親交を持った田山花袋、伊良子岬でみつけた「やしの実」での島崎藤村、
少年時代には兄のツテで森鴎外とも会い、文学上では小山内薫と会を立ち上げもしている。
その他枚挙にいとまがない。
民俗学関係では南方熊楠と文通を始めたのが36歳、40歳で折口信夫と会い、そして宮本常一の道をも開く。
まことに日本民俗学の父と言える人である。

次に「遠野物語」の世界が大々的に展示される。
佐々木喜善という協力者に出会えたことでこんなにも恐ろしく、また深い物語が世に露わにされたのだ。
「願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」とは序文にある言葉である。
この一文だけで十分に、平地人たる津ノ国の住人は慄く。
物凄いハッタリだとは言わない。読めば本当にゾゾゾになるのだから。

デンデラ野(蓮台野の訛りだともいう)、ダンノハナ(共同墓地)、ハカアガリ、ハカダチ…これらの単語を目にするのも耳にするのも恐ろしい。とても怖い。

資料展示の中で当時の新聞があり、読まずにいればよいものを因果な性質でわたしは字を追ってしまった。
見える眼を持つ、ということは知らずにいればよいものを、知ってしまうという不幸を抱え込むことでもある。
忘れられそうにない話を読み、そのことにもわたしは慄く。

遠野から離れようと振り向けば、オシラサマの展示があった。
写真で見ることはあっても目の当たりにするのは初めてである。
「山海評判記」では柳田は大正に作られた新しいオシラサマを成城の家に連れ帰ったところ、令嬢がピアノを弾くのを覗いたり、令嬢がフランスへ行くのにオシラサマを<誘う>と、「参ろうよ」とハキハキ答えられる、という挿話がある。
雪岱の挿絵によるオシラサマは紙のように見え、自在に宙を飛んでいた。

ところで柳田の成城・砧村の邸宅は「喜談書屋」と名付けられ、現在飯田市美術館に移築・公開されている。

柳田は国連にも出席し、そこで言語の壁にもぶつかる。それで彼はエスペラント語を推進したりする。現在エスペラント語自体を知らない世代の方が多数だと思うが、当時は世界共通言語にする、という夢があったのだ。
ザメンホフがエスペラント語を作ろうとした背景の挿話などはむかしは小学校の国語の授業で学んだが、今はその話も失われているだろう。
英語が結局は公用語になってしまっている。
コワイのはそのうち北京官話または広東語が…

欧州から家族に宛てた手紙が展示されている。愛らしい絵葉書には「おとうさん」から子供らへの愛情がこぼれている。
そしてこれを見て、若い頃の柳田が文学者を志していたことを想う。
「文学界」1897年1月号には柳田の「夢かたり」が掲載されている。ただし変名である。悲恋の話。そしてその号にはロセッティ「レディ・リリス」のモノクロ口絵がついていた。

再び民俗学の展示。
マヨヒガ(迷い家)の紹介がある。山中の立派な一軒家に入り込んだものがそこで什器の一つなどを持ち帰ると、ずっとその碗からコメが出るとか、持ち帰らなかった者の家にわざわざ山から什器が届くといった話である。
わたしはこれらの伝説を松谷みよ子や二反長半らの集めた「昔話」や「日本の伝説」、「まんが日本昔ばなし」で読んだり見たりして育ち、そこから民俗学への関心が育ったと思う。
(ただし文化人類学への関心は諸星大二郎「マッドメン」と、同時期に行った「みんぱく」から生まれ育った)

「怖いもの見たさ」とでもいうような意識がより民俗学へ向かわせたように気がするのは、柳田の紹介する各地の伝説に潜む恐ろしさに反応するからだ。
たとえばここで紹介されている「言葉」を挙げる。

石見、伊予、豊前では死ぬということを「ヒロシマへワタカヒニユク」と表現するそうだ。
広島へ綿買いにゆく
このような文字が思い浮かぶ。本当の所はどうなのか知らない。
しかしこの字面しか浮かばない。
どういったところからこのような言葉が生まれるのか。また、どうしてその三か国だけがそのような表現を…
これらのことを考えると冷静ではいられない。ある種の寒気がそくそくと身に滲みる。


言葉を大切にするだけに柳田は昭和29-30年に小学生から中学生の国語や社会の教科書の執筆をしている。
「日本の社会」「新しいこくご」。
どのような内容なのかとても気になる。
実はわたしは折口信夫は読むが、柳田の文が案外読みにくいのでちょっと敬遠しているのだった。

高校の時、一年後輩の同じ図書委員の少年が柳田を熱心に読んでいた。
わたしは谷川健一にシビレていた時期で、柳田もいつか読もうと思いつつ、やはりそれからも長く谷川に熱狂し、大学で折口にのめり、熊楠に走ったが、なかなか柳田にたどりつかないままなのだった。


最後に柳田の遺愛の品々などが出ていた。
中で目を惹いたのが美術館の会員証。
五島美術館、科学博物館、東博の「優待券」である。
当時は「友の会」ではなく「優待券」という名で会員証を発行していたのだろうか。
興味がある。

多くのことを改めて考えさせられる展覧会だった。
11/23まで。
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