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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

大いなる遺産 美の伝統 古陶器篇+近代工芸 篇

大いなる遺産 美の伝統 古陶器篇+近代工芸 篇


わたしは陶器より磁器が好きである。特に11?13世紀の高麗青磁、最盛期の鍋島焼、油滴あるいは曜変天目に深い愛を覚える。

地元大阪には東洋陶磁美術館というありがたい美術館がある。
コレクションの根幹は安宅コレクションであり、数年前には李コレクションも加わり、いよよ充実のときを迎えている。
36の出品のうち7点が東洋陶磁美術館に納められている名品である。

松岡、サントリー、MOA、戸栗、東博、出光、静嘉堂など錚々たる美術館からの出品だが、これらがこの展覧会にあると言うことは、往時、この東京美術倶楽部の手を経ていたということである。当然のことながら、改めて考えるとその意味は深い。

古九谷の鳳凰文大皿を見ていると、中華料理を思い出した。野菜や肉で作り上げる鳳凰を象った料理である。それが盛られた大皿のように見えた。
これは軽侮の念からの言葉ではない。わたしは中華料理が大好きだ。気軽なものから、予約をしないとムリなメニューまで、何でも好きだ。その大好きな中華料理を思い出させてくれたのだ。この皿を嫌いになれるはずがない。


鍋島の橘図大皿は少し色が浅い。元からそうなのか褪色したのか。わたしは鍋島焼に深い愛着がある。特に桜や椿の柄にときめいている。
その意味では少し淋しく思う。が、橘といえばタジマモリを思い出す。常世の国からトキジクノカグノコノミを持ち帰ったが・・・飛鳥では、五月一日ごろをタジマモリの日として寺を訪れた者に橘の実をくだされたが、今もまだその習慣があるかどうか。
しかしこの橘は花である。
橘や 細い幹でも 十五代
橘屋・十五世市村羽左衛門が襲名したときの俳句。

古伊万里の五艘の船は、エキゾチックだ。鎖国政策のためにこんな遠くへ行く船は持てなくなった。絵柄はなんとなく川上澄生と武井武雄を思い出させてくれる。彼らがいにしえのエキゾチシズムを求めたのか、この図柄が時代を超えているのか。

おお、わたしの極限の好みがある。
『青磁筍形水注』と『青磁象嵌梅竹蒲柳水禽文梅瓶』。
12世紀の高麗青磁のよいものを見ると、後が続かなくなるのだ。困るくらい、好き。
なんとすばらしい色合いだろう。水注の細い頸に集まる釉薬の美しさ・・・!そして柳の下にいる鷺。ああ、もう本当にきれいだ。
これらを見た後は、申し訳ないが南宋の青磁が(砧青磁と呼ばれるような)どうしても石鹸箱に見えてしまうのだ。いや待て、そんな贅沢なもの、見たことないが。
ときめくのはわたしの勝手だが、南宋陶磁に失礼してはいかん。

というわけで、国宝の玳玻盞天目茶碗にお出ましを願おう。
これは現在相国寺の承天閣美術館に入ったが、以前は萬野美術館にあり、わたしなどはしばしば機嫌よく会いに行った。数年前『萬野美術』と称して篠山紀信がこれらの美術品を萬野の山荘で自然の中においてコラボレートさせた写真を撮影している。
あれはすばらしい展覧会で、萬野で見てからわざわざ東京でも見たくらいだった。
そのときもこの茶碗は優雅な顔で現れていた。
とにかくこうした奇蹟のような天目茶碗に惹かれている。それについてはいずれ稿をあげようと思う。

もう一つだけ、青磁で気に入った作品名をあげよう。
出光所蔵の『象嵌柳唐子文浄瓶』。小さい鷺がわんわんいて、唐子が空に浮かんでいるみたいに見える。可愛いなあ。やっぱり12世紀の高麗青磁は最高だ。
静嘉堂の葡萄文もいいが、これは柄よりも地の貫入の美しさを言いたい。

北宋の白磁または白地掻落が並んでいる。
この時代は水滸伝(あるいは金瓶梅)の時代でもある。つまりの文化の爛熟と一つの時代の終焉とが同時に味わえた時代でもある。

陰刻の花はまるで白粉彫りのように思われる。白い膚に刻まれる白い筋は、回復不能な傷であり、他方この上なくうつくしいものでもある。いつか浮かび上がるかも知れぬ気がする。
わたしにこうした妄想を齎す力が、白磁刻にはある。
頸に欠落があろうがそれは瑕瑾にすらならない。

掻落は以前は好まなかったが、最近は可愛くて仕方ない。特に鳥と魚。鳥と魚のモチーフは、実はアジア一帯に死と生のメタファとして意識の底に沈められている。
しかしそんなことはどうでもよく、可愛いと思う方が優先される。いいなあいいなあ。

吐魯瓶。可愛い形をしている。二つほど出ているが、安定した形で、そのくせ頸が不安だ。
これはトロビンと発音すべきなのか、瓶の代わりに番をつければトルファンになる。
梅瓶にしろ吐魯瓶にしろ、言葉の由来を知らぬまま、形を見て覚えている。
ちゃんと調査し、そこから納得しなければならない。

金の時代は漢民族以外の支配なのだが、この時代のことは駒田信二の小説を読んで知ったこと以外、何も知らない。
ただ、陶磁器がそれまでと変わり澱青釉などをかけたものが多く残っているのを思うと、時代の好みと言うものを考えさせられる。
新たな釉薬が開発されたという事情もあるのだろうが。
混ざり合う紫と水色の艶かしさは眼を愉しませてくれる。

黒釉銹斑文碗をみて、わたしはSTAR WARSのワープシーンを思い出した。
見るか、星々の砕ける様を というわけではなくに、ワープして星たちの光跡が尾を引くような。それがここに映されている。

おや、東洋陶磁にある童子童女の水滴が来ている。お里帰りか。
「おはよう、ここで会うて思ってなかったよ。帰りし、お姉さんと一緒に帰るか」
「おはよう、まだここにいるから。また来てね」
「また行くわ、今ジブンらの代わりに狛犬さんが展示されてるわ。気ぃつけてね」
「ありがとう、また中之島で」
小さく手を振ってわたしは去って行った。


最後に近代工芸について書き起こしたい。
少し前、豊蔵と唐九郎の展覧会があり、わたしは豊蔵が好みだと思った。豊蔵の静かさがわたしに合うと思った。
しかし今回の黄瀬戸はあまり好みではなく、むしろ唐九郎の志野茶碗『唐獅子』の方が心に適った。こういうことも、ある。

波山は出光で素晴らしい作品を色々みせてもらった。映画もあった。伝記も読んで感動した。
『延年文』これは桃である。そうだ、桃はとてもめでたいのだ。

実は弥弌が理屈抜きで最愛である。
近代から現代の陶工では弥弌と快示が心の底から好きなのだ。どれがどうとかこれだからこう、とか言葉も要らないくらいに。
だから展示されているだけで嬉しくなる。

陶芸から離れる。

松田権六の蒔絵箱が好きだ。雀が可愛い。頭をなでてやりたいくらいだ。私の生まれる前、雀たちはこの蒔絵の中でちゅんちゅんさえずっていたのか。いとしい奴ら。どういうわけか工芸品に現れる動物たちはみんなとても可愛い。好きだなあ。

インコというよりオウムな鳥が可愛いと思ったら、こちらにはウソがいた。・・・リアルなきつい顔だなあ。リアルなのは鳥よりサザエか。
以前も見ていたが、光太郎のサザエはリアルだと思う。
しかしこれらは実物と作品とを知るからこその発言かもしれない。

佐藤玄々『麝香猫』わたしはそんな猫を見たことがないし、実在するのかも知らない。何かの異称なのか、架空なのか、それすらしらない。いい香のするイキモノなのだろう。名前が麝香だ。それにしてもこの顔、手塚治虫のキャラみたいだ。なんとなくそのことが親しみやすくさせる。


大いなる遺産 美の伝統

この展覧会は快挙だと思う。
見応えのある、凄い展覧会だった。二時間をわたしは充実して過ごせた。
これはイベントと言うべきだろうか。
そう言うのなら、これは大イベントだった。
夏になるとホテルオークラが行うイベントも凄いが、これもそのように恒例化して欲しいものだと思った。
会場を出ると入館待ちの行列が出来ていた。

どうか、皆さんも楽しんでください。

ひとけの少ない日曜の新橋をわたしは歩いた。

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コメント
こんばんは。
TBありがとうございました。

東洋陶磁美術館は大阪へ行った際に
以前立寄って大変感銘を受けました。
とっても静かで見応えのある美術館ですね。
まとまって焼き物を鑑賞できる美術館が
あるというのは幸せなことです。

曜変天目は今回出ていませんでしたが
玳玻盞天目が観られたのは一番の幸運でした。
しっかり目に焼き付けてきました。
また何処かへ「流れて」行ってしまわないうちに。
2006/02/27(月) 21:42 | URL | Tak #8iCOsRG2[ 編集]
こんばんは。

中之島は昔から住友家がメセナというのですか、お金を出してくれて図書館やあの美術館なんかを造ってきてくれたのです。
大阪には文化を好む資質が欠落しているのですが、東洋陶磁だけは別みたいです。

曜変天目は他にも白鶴などにも収蔵されていますが、あそこもとても静かでよいところです。
2006/02/27(月) 22:44 | URL | 遊行 #-[ 編集]
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