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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

歴史を彩った人々展から

歴史画。

考えれば写真のない時代は絵と文のみがその歴史を伝える手段だったのだ。
もっと昔に遡れば口伝となり、稗田阿礼が暗誦した物語・伝承が太安万侶の手によって編纂されて古事記となったのだ。
正史である日本書紀ですら、勝者の側に立った視点で描かれている以上、完全に信じてはならぬものではある。
しかし、各地の風土記や稗史、土地に残る伝承などが(完全ではないが)傍証として生き続け、そこから民族共有の記憶として『事件』や『人物』の姿が浮かび上がってもくる。

中世において、ある事件を語る語り部として、それを身過ぎ世過ぎの手段として暮らす芸能者がいた。
例えば安居院アグイの唱伝は平家物語を語り、湘南辺りに住む者たちは曾我物語を語り、陸奥には後三年の役を語る者が居た。

物語は伝播し、変容してゆく。
語る者がその地で没すれば、例えばそれが『大磯の虎』の墓となり、弁慶の墓所となり、安寿姫の果ての地ともなる。
死ぬ者だけではなく不死の者の伝承が生まれることもある。
義経を裏切って逃げ出した常陸坊海尊。彼は罪科を負うた不死の人として東北にその伝承を残している。
罪障消滅のため、世の人の悪業を代わってその身に受けて、死ぬ事無く永遠にさすらう。誰も彼の死地を知らない。

八百比丘尼もまた不死の人となった。
人魚の肉を食べ、不死となり、各地を彷徨うて白椿を植え植えして行った。

実在性が疑われる存在であればあるほど、物語・伝説は広がり、興味深く・味わい深いものとなる。
しかし彼らを描いた作品を『歴史画』とは言わない。


日本の歴史は記紀の記述を措いても、決して短いものではない。
世界四大文明ほどの長さはなくとも、千年以前に文化の爛熟期を迎えているのだ。

王仁博士により漢字が将来され、また律令が制定され、『正史』を記録する一方、稗史が人の口の端にのぼり、記憶に残り始める。

江戸時代、識字率が高まるにつれ、正史・稗史取り混ぜた物語を人々は好むようになった。
それらは絵としても描かれ、嗜好に合致し、政治体制が変わった明治時代になっても浮世絵などにその血脈は残された。いや、それどころか高尚趣味として活歴物と言う演目が生まれ、リアリズム史劇を目指すようになり、あまり面白くない芝居が演じられるようになったのだ。

明治時代は正史を『大切』にした。稗史を切り捨てて正史を選び、それを描くことを奨励もした。
明治初期の油絵師たちは南北朝時代の事跡を『正しく』描き、平安末期・鎌倉初期の事跡を『真面目』に描いた。

初期の洋画家たちは油絵師として活躍したが、次代の画家は留学し帰国後、『歴史画』から遠く離れた地に居を置いた。

日本画家は事情が違った。
大和絵の伝統は損なわれず、戦後の葛藤の時代を迎えるまで、ゆるやかな『成長』あるいは進化を見せていった。



山種美術館で歴史上の人物画の展覧会が行なわれていた。
そろそろ終了するだろうか。
上に述べたように、誰もリアルタイムに歴史上の人物を見てはいないので、その当時残された文献・稗史・似せ絵などを基にして、パブリックイメージを損なわず描いたり、有職故実に沿いながらも自在に描き、あるいは恣意にイメージしたものを絵にしていた。

描かれる人物は人気の高い『キャラ』たちである。
日本武尊・義経・信長・秀吉・家康。
彼らの名が副題に上げられている。
先の二人は民俗学で言う『貴種流離譚』の悲劇のキャラであり、後の三人はいまだにTVや小説で求められるキャラたちである。
これらの作品は見応えのあるものが多く、見る側にも十二分以上の満足を与えていた。

日本武尊は日本書紀の表記で、古事記では倭建である。
彼を絵にした作品は明治二十六年の橋本雅邦のものが出ていた。
三年ほど前、明治神宮宝物館で『ヤマトタケルを描いた近代美術』なる展覧会に出向いたことがある。
絵画から彫刻までさまざまなヤマトタケル像があり、大変面白かった。
この展覧会では一つに留まらず、様々な歴史的事件の名場面やキャラたちを展示している。
これまでそうした意味での『歴史画』展を、見てきた 順に列挙してみようかと思ったが、あまりに多いので諦めた。
(浮世絵一つにしても軽く十を越すのだ。今は無き目黒雅叙園などでもあったし。
近代のことで言えば聖徳記念館が明治大帝の事績などを絵画にしたものを展示しているし、同じように野間記念館もそんな絵巻を持っている。昔の日本人は歴史画が好きだったのだし、政策もまたそのように仕向けたのだろう)


ここには冷泉為恭が二点出ている。昨年末奈良の大和文華館で大回顧展があった。そのときのことを思い出すような、良い絵である。

靭彦や青邨は歴史画の大家でもあるから、多くの作品が並んでいる。
出てはいないが、わたしは東近美所蔵の靭彦『夢殿』が好きで仕方ない。
きれいなお顔の聖徳太子。
その彼の若き頃を描いた守屋多々志『若き聖徳太子』には深く眼を奪われる。
二十年前の作品である。きれいな少年。なんとも言えず、うつくしい肢体。
厩戸皇子である。―――こう書くとわかるヒトにはわかる話になるが、山岸涼子の傑作『日出処の天子』を想起させてくれるのだ。守屋の作品が世に出たとき、既に『日出処の天子』は完結していた。
守屋多々志。なんと『守屋』が厩戸皇子を描いたというのは面白くて仕方がない。
(注・蘇我氏と物部氏との戦いにおいて、物部氏の長「守屋」は蘇我氏に敗れている。厩戸皇子は無論、蘇我氏側である)

同じ守屋の作品『葛の葉』も出ていた。
これは歴史画と言うよりロマンチックな系統なのである。
「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」
芝居や説経節などでもよく知られた、狐が化身した葛の葉の哀しい物語である。
市女笠をかぶった肌も露わな女が手に稲穂を持って叢の中にいる。稲穂は稲荷の、つまり狐のメタファである。女は安倍保名の妻として子を産んだが、実は異類であった。
子を残し、夫を残して信太の森へ帰ってゆく。
何もこれは本当の狐である必要はないのだ。「来つ寝」=きつねでありさえすれば。

守屋多々志の作品にはラファエロ前派に通じるようなロマンティシズムがある。今回は出ていないが、イザナギ・イザナミの絵にも深いロマンがあった。

森田曠平にもその血は流れている。
『出雲阿国』が展示されているが、森田は物語を多く絵画化してきたひとだ。
古径の道成寺は静かであるが、森田のそれは、血が騒ぐような絵である。
人物の眼の鋭さと、背景の金箔・銀箔の使いようがその独自世界を支えている。
彼は死の直前、新聞連載小説の挿絵を描いていたが、病に倒れてからはお弟子にそれを委ねた。
小説は小池一夫による金時と鬼女の物語である。森田の筆は物語を綺羅に飾っていた。

現代画家ばかりでなく、近代画家の作品の良さにも言及しなくてはならない。
松岡映丘は復興大和絵の旗手であり、すばらしい歴史画を残している。
ここでは『山科の宿』が展示されている。松岡の絵を見ると、その背景、つまり物語や歴史的事実などを知りたくなる。そうした気持ちにさせてくれる絵を多く残した。
他の画家にはないようなことである。

菊池契月の上品さもまた、すばらしい。『八幡太郎』の肖像がある。なんとも柔らかである。
菊池の『敦盛』は特筆すべき美しい少年の肖像画であるが、総じて男性の絵は優美である。
武士を描いても雅さが目を打ち、梅花馥郁たる風情を漂わせる。
一方、彼の歴史ものの女性はいつも誰かの『おもいもの』であり、そうでなくとも静かな官能性を持つ。
先程の松岡の場合だと、描かれた背後を想わせる作品であるのに対し、菊池は前後を断ち切り、瞬間の肖像・一瞬の情景を描き出す。
どちらもすばらしく、どちらもうつくしい。

前述の青邨ら院展の三羽烏について多少書き進めたい。
古径、靭彦、青邨のうち一番わたしが男性的な絵だと感じるのは青邨である。
また健全とでも言うか、あやうさのない絵である。
古径の静謐な官能性、靭彦の仄かに香しい艶とは無縁なように見える。
だから大勢の裸婦がいる温泉図や、李王家の人々の観画図をみても、名画ではあるが、「ああ、ご婦人方がいるなあ」と思うだけなのである。男性の肖像でもそれは変わらない。そして花の絵や猫の絵でもとても健やかなのである。
だから、ここに展示されている松陰にせよ信長にせよ頽れたものはまったく見受けられない。
ただ、『大物浦』など一連の(芝居で言えば)「船弁慶」ものでは幽鬼たちの姿や荒波などにときめくものを感じる。名前に青を戴くほどだからか、青邨の青色の使い方は実に素晴らしい。
・・・そう書いた途端、青邨の「赤色」のすばらしさを言いたくなってきた。
これは東近美にあったか、貴人が丹塗りの棺に納められている。その丹塗りの美しさ。
棺と貴人の絵では、龍子の『夢』と双璧を成す名品なのだ。
太い線の中に塗られた鮮らかな色彩。曖昧な色のない設計。すばらしい。
尤も、山幸彦の話や現代版鳥獣戯画のような白描にはユーモアが漂い、それもとても楽しい。
早稲田の会津八一記念館にある天正のローマ少年使節の絵の色彩の豊かさ。本当に素晴らしい。

ローマ使節といえば、今回守屋の支倉常長が展示されていた。
市松模様の床、列柱、遠くに見えるサンタンジェロ、ローマの町並み、そしてポインターだかセッターだかの斑犬と、愛玩犬。
彼の視線は町を見下ろすのか、それとも遍く信仰に感じ入っての浮遊の眼なのか、遠き故郷を思うのか。

ここで不意にわたしは「紅孔雀」を思い出した。ラジオドラマや映画のそれではなく、わたしは人形劇の「紅孔雀」を見ていて、数年後、上映会などで映画を見たクチである。
あれも天正使節の男が修道士から紅孔雀の鍵をもらったことで始まる物語だった。


歴史画とは、さまざまな連想を見る側に生まれさせる作用があるようだ。
わたしは十二分に満足して、山種美術館を出た。
英国大使館の横を通り半蔵門へ向かう。
半蔵門。服部半蔵。いや、これは槍の半蔵の方かそれとも・・・

そんなことを思いながらわたしは次の場所へ向かうのだった。
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コメント
遊行さんの記事に登場した歴史上の人物の半数が、私の住む地にイワレのある方々。
自宅から見える山は大化の改新の際、中大兄皇子と中臣鎌足が相談をした山。
義経も吉野からその山を越えたのかもしれない。
日本武尊も聖徳太子も近所を歩いていたのかも・・・。
額田王は三輪山を詠んだ。
梅の次は桜。
また吉野へ行きたくなってきた。
2006/03/01(水) 23:41 | URL | 酒徒善人 #-[ 編集]
談山神社には子供の頃紅葉狩りに行きましたよ。
笛とか買うてもらったりしましてね。
吉野の宿坊に泊まりました。

去年か、奈良博で談山神社名宝展みまして、御破裂というのに仰天しました。いや、爆笑してしまった。母が言うには大昔から有名らしいですが、私はやっぱり笑えたなあ。

今年は梅がダメで、週末北野天満宮に見に行くけれど咲いてるかどうかが・・・
2006/03/02(木) 09:22 | URL | 遊行 #-[ 編集]
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