美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

「横尾忠則 幻花幻想幻画譚」をみる

瀬戸内寂聴の新聞連載小説は74年の毎日新聞「まどう」しか知らない。
あれは「新八犬伝」が終了した頃に始まった。
挿絵を辻村ジュサブロー(当時)が担当し、般若心経一文字に人間(あるいは人体)が絡む、という構図で続いた。
文字数と同じ回の挿絵である。
物語に直接関係ないと言えばないが、しかし深いところで挿絵と物語は通じている。
「まどう」が魔の道のまどう、或いは戸惑うのまどうである以上、この選択の他に絵はないのだ。
実際、小説はある女の書簡(もしくはモノローグ)から始まる。
そこでは辻村ジュサブローに向けて「新八犬伝」に流れる官能性について女が熱く執拗に語りかける。
(原作者・馬琴が務めて官能性を排除しようとしたにも関わらず、八犬伝は非常に官能的な小説である)
わたしは子供心に「…絵だけは欲しいが読むのは控えた方がいい」と思った。
それで毎日ちょきちょきと新聞を切っていた。

前置きが長くなったが、今回横尾忠則による「幻花」の挿絵展が王子公園の横尾忠則現代美術館で開催されている。
タイトルは「横尾忠則 幻花幻想幻画譚」展である。
「幻花」は「まどう」と同時期の新聞連載小説だったようで、こちらはわたしの読まない新聞なので連載を知らなかった。
だから今回の展示で初めて挿絵があり、それが横尾忠則の仕事だったことを知った。

イメージ (73)

わたしが「幻花」を知ったのは77年にドラマ化されていたからだ。
今回調べてドラマが77年の製作だと初めて知った。
当時、たまたま最終回一回前に予告編だけを見た。
それで新聞の番組紹介を見て「ああ、瀬戸内晴美か」と思い、時代物でありながら実は現代ものだということもその時知った。
知ったが、しかしそれで読むというわけにはいかなかった。
なにしろ子供心に「コレハヤバイ」と思っていた作家だし、母の友人が母に貸していた「彼女の夫たち」をチラチラ読んでいたので、やっぱり小学生は読んではいけないと思い、今日に至るまで話の概要を知らないままできた。

「幻花」は室町時代が舞台となっている。
今回展示の紹介で概要を知り、更に下巻だけだが美術館四階の図書コーナーで読んだので、大体は話が分かってきた。
今から思えば当時室町時代を舞台にしたドラマは少なかったのではあるまいか。
今もほぼ見当たらない。
物語の背景となるのは応仁の乱であり、足利義政とお今の方、日野富子の愛憎関係に、一休禅師としん女、そして主人公である河原者の千草、その夫の又四郎、二人を育てた祖父の庭師で義政に恩顧を受ける善阿弥らが物語を展開する。
捨て子の河原者・千草は富子と瓜二つの容貌を持ち、義政の母・日野重子により御所へあげられ、そこで磨き上げられる。
更にカルタ占いの業を身に着けさせられ間者としてお今の方のもとへやられるが、そのお今の方に可愛がられて、彼女のために命がけで働くことになる。

将軍義政の将軍としてのダメさ加減と、造園への執着などについてはドナルド・キーンさんのわかりやすい解説がある。
こちら

イメージ (74)

ところでこの物語には実は大きなカラクリというか仕掛けがある。
なにしろ最初に作者本人と思しき婦人が現れ、それが友人の摩耶夫人(凄い呼称である)から「こんなものがある」と示されたのが前述の譚なのである。
だからか挿絵自体も突然僧形となった寂聴の似顔絵が宇宙を背景に出現したりもする。

展覧会ではフラッシュは禁止だが撮影は許されていた。
横尾のペン画・墨絵の魅力、わたしのあまりうまくもない写真だが、伝わればいいなと思う。








鼓である。これでおしんさん(森女)を想う。留守文様ということになるか。








タイトルの絵が翌日には少しばかり変化している。
横尾はこのように連続させることで変化を楽しませる工夫をしていた。


拡大化された義政とお今の方。
後にお今の方は追われ、更に日野家の刺客に命を狙われるが、そのときに壮絶な腹切りによる自死を行う。
そしてその後、義政はお今の方への愛情と悔恨とで苦しむ。











本の装丁


新聞連載の様子


可愛いもの
獅子





唐獅子


ウサギとカエル


ここで一遍上人が。


縁起絵巻からか




小説の最後は当時の作者らしい展開となる。
作者はこの読み物が実は千草や又四郎による回想録などではなく、摩耶夫人の創作だと気づく。
小説家より一枚上手の摩耶夫人。二人の電話がイヤらしい。
摩耶夫人は若い男を足元に這わせながら、その白い足で男を弄りながら電話をしている。
そしてそれを小説家は目に見えるようだと思いながら会話する。
この時きっと作者もまたやはりいやらしい顔で笑っているのだろう。

やっぱり当時読まないままでいてよかった。
これは悪意もイヤラシサも黙って笑いながら味わえる年頃になってからでないと、読んではいけない世界だ。
むしろ横尾忠則の挿絵のシャープさが救いになるくらいだった、と今のわたしは黙って笑いながら思っている。
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