美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

生誕110年記念 三岸節子 私は燃えつづける

三岸節子は日本人の女性の洋画家のうちで、いちばん好きな作家だ。
いや、日本人のというのはいらない。
全ての女性洋画家の、というべきだった。
三岸節子の力強い作品、その画業、その生涯。
常に見習うべき先達として、強い憧れと深い尊敬の念を懐いている。
イメージ (56)

最初に三岸節子を知ったのは随分子供の頃で、実は梅原猛「湖の伝説 画家・三橋節子の愛と死」を知った時だった。まだ小学校に入ったばかりのわたしには名前だけでは二人の区別がつかなかった。
が、すぐに教えられて「三橋節子は亡くなった人、三岸節子はフランスにいる人」という明確な認識を持つようになった。
ここで一つへんな話をすると、当時は山口百恵のドラマが多く作られていて、わたしは夢中で見ていたが、必ず謎めいた美女・岸恵子が「パリのおば様」として登場していた。
実際岸恵子はパリに在住する人なので、わたしにとっては非常に遠い華やかな地に住まう、素敵なおば様という意識が生まれた。
そこへ「フランスに住む画家」として三岸節子がわたしのアタマに加わったのである。

三岸の絵を実際に観たのは1994年の名古屋・ヒマラヤ美術館でのことだった。
それ以前には絵葉書などを手に入れていたが、なかなか実物を見る機会に恵まれなかった。
その頃すでに今東光「春泥尼抄」を愛読していたわたしは、作中に現れる三岸の「パリーの壁」というデッサンが見たいものだと思っていた。
その絵はないが、ヒマラヤ美術館の壁面いっぱいに飾られていた三岸節子の力強い絵に、強い打撃を喰らったようになった。
だからその後の数年、ヒマラヤケーキ店の二階にある美術館に行くのが名古屋ツアーの楽しみの一つになっていた。
そのヒマラヤ美術館がなくなり、三岸節子の美術館が尾西市に出来て、という時代の流れがあるが、三岸節子の絵を見る度に名古屋のヒマラヤ美術館を思い、パリのひとを思い、三岸の力強い絵が思い浮かぶ、というシステムがわたしの中に出来上がっている。

ブログを始めるようになってから三岸節子の大きな展覧会を見るのは三度目になる。
2005年 「生誕百年 三岸節子」展
2010年「没後十年記念 心の旅路 満開の桜のもとに

どちらも素晴らしい展覧会だった。
今回もまたいい絵が並んでいる。一宮市三岸節子記念美術館の所蔵品が中心である。

イメージ (57)

二十歳の自画像が来ている。三岸好太郎が追いかけた美少女の、数年後のきついまなざしの自画像である。既にこの時から彼女の強い意志を感じる。

花・果実 1932 力強い、とても力強いりんご。こんなの噛んだら歯が折れる。

月夜の縞馬 1936 これはどこかほのぼのしていていいな。

好太郎の死により節子は「生きることが出来た」わけだが、現実問題として子供は小さい・バタバタと忙しいということで、外へ出て画題を探しに行ける状況ではなかった。
それで彼女は室内画・静物画に励んだが、その頃の作品の多くは後のものとは違い、どこかモダンな感じがある。

このことを思う時、小出楢重の室内画・静物画を想う。
彼は体調不良から外での写生を諦めて室内に目を向け、日本の『スタイルの良くない』裸婦たちや花や果物を描いた。
それで小出は独自の世界を切り開いたのだった。

三岸節子はその時期が来るまでは室内にいた。
雌伏していた、と本人は思っていたかもしれない。
戦前まで彼女は「コドモノクニ」の仕事もしている。
シマウマを見る子供たちを描いたものがいい。
本の装幀も少なくない。
「チャタレイ夫人の恋人」がある。これは1935年刊行の本だから戦後の裁判事件の前のものか。
とはいえ、どこまで翻訳できていたのだろう。いや、そもそもまだこの時期は完全版ではなかったのだ。だからまだ刊行できたのか。

40代になって以降の彼女の力強さは尋常ではない。
室内を描いていた頃はどこかヴュイヤールを思わせるところがあったが、そこから出てくるともぉあっという間にモンスターのように力強くなった。

花をよく描いていたが、何もかもが強い。強靭、というべきか。そしてその前では安易な気持ちでいられない。こちらも本当にエエ加減な気持ちで対してはいられなくなる。
見るこちらも目が爛々と輝いてくるし、なんだか血が沸騰してくる。
今、こうして思い出しているだけで気合が満ちてくる。
充填されるこの気合はなんだろう。
三岸節子の力業にこちらが煽られてきたのか。

わたしが見に行ったのは夜だった。
お客さんは少なかった。おとなしそうな老婦人が相客だったが、見ているうちにだんだんお互いになんだか親和力とでもいうのかそんなのが湧き出してきて、ともに最後までがんばろう!という気持ちになってきた。
二人とも妙にエネルギッシュ・アブラギッシュになり、いちいち力強くうなずきながら、ぐっと拳を握りしめて見ているのだ。
もしここで新しい婦人客が来たならば、最初はギョッとしたかもしれないが、見る見るうちに同化してきたかもしれない。
三岸節子にはそんな効果がある。

フランスに行ってから三岸節子は埴輪の佳さを知ったそうだ。
埴輪を描いたのは日本画の速水御舟、山口蓬春、三岸節子くらいだと思う。
盾を持った武士 いい名前だ。古の埴輪をモデルにしている。
その素描もいい。可愛い。

太陽を描いた絵もいい。何がどういいのかと訊かれたら「見て」と言いたい。
他人の言葉なんかあてにならない。三岸節子の絵の良さは見ないとだめだ、本当にはわからない。
理屈をグダグダ言うて何の役に立つ。
三岸節子の絵を見て感動すればそれでいいのだ。

山吹色をぐばーっと塗りたくられた太陽、かっこいいなあ!
素描では太陽の顔に髭がついている。遊び心なのか、そうではなく太陽王へのリスペクトなのか。
だからその素描にはタイトルがついていて「太陽讃」である。

三岸節子はサクラクレパスの良さをよく知っていた。
フランスにいる間もしばしば通販を頼んでいたそうだ。
先般、サクラクレパス所蔵のクレパス画展でも三岸節子の花を見たところだ。
その時の感想はこちら
うらわ美術館でも見ている。
こちら

南フランスの温かなところを三岸節子も愛した。
ルノワール、シャイム・スーティンが描いた場所。
力強い塗が構図を吹き飛ばすようで、何を描いているのかわからない絵もある。
一直線に強く塗りきられた畠、空、丘、本当はもっと細かかったかもしれないが、完成した絵からはそんな些細なことはどうでもいいのだ、という強い意志が見えてくるようだった。
かといって大雑把なのでも粗暴なのでもない。力強く活きているからこうなった。ただそれだけだ。
だから抽象画とはちがい、ものの概要ははっきりとわかる。

1974年、パリで初めての個展を開催したそうだ。これが大ヒットしたとか。
そうなると今東光の小説は1950年代初頭のものだから、その20年も前からわたしたちは三岸節子の絵に血を沸き立たせてきたのだ。

三岸節子の絵に癒される人は少ないように思う。
しかし彼女の絵を見て勇気づけられ、力づけられる人は多いだろう。
優しい慰めの言葉などはないが、「しっかりしろ!」とどやされ、その背中を見て「よしっ!」となる人がいる。
ありがとう、三岸さん!
そう心の中で叫ぶ。

展覧会ではリストを貰う。そこにメモを書く。大概簡素なメモか、やたらと細かいことを書くかのどちらかになる。
ただ、三岸節子の場合は違う。
やたらと感嘆符!が多い。それとーーーも多い。
例えば以下のようである。
「ラコラオーラの城 1989 84歳 油彩/キャンバス」 赤っ!(何やら妙なメモ画をつける)赤!赤!
これでまた彼女の力強い赤が思い浮かんでくるのだ。
実物の城を知らないが、もしかすると現物を見るとがっかりする可能性がある。
三岸節子の目と手を通したラコラオーラの城、それがアタマに刻まれている。
だから実物も赤くなくては困る。

クレパス画の「モンマルトルの階段」は場所を大体知っているし自分も上り下りしているが、三岸節子の絵になると、「灰色!」となり「上るぞ!」と書いている。

装幀本をみる。
舟橋聖一「夜のリボン」、武田泰淳「風媒花」などがある。
作品の中身と表紙とはまた別物だというのは洋画家の場合によく思うことだ。
今、泰淳の「風媒花」は講談社文芸文庫から出ていたが、あれはシリーズものなのでさらりとした表紙だった。
三岸節子の表紙のままだと登場人物たちのめちゃくちゃさが更に際立つような感じがある。
それはそれで面白かったろう…
久しぶりに泰淳の小説が読みたくなってきた。
「森と湖のまつり」「富士」は出しやすいところにあるが後のは面倒な場所にある…

最後の大作「さいたさいたさくらがさいた」もあった。98年、93歳の力業である。
桜の大きく胸を張ったような木がうわーっと躍る。それで風を呼んで花がいっぱいにふくらむ。
本当にいい絵を最後まで描き続けたのだ。 

「私は燃えつづける」とは彼女の言葉から採られた副題だ。
一時も休むことなく彼女は燃えつづけ、最後まで赤々と燃えつづけていた。
亡くなって15年以上経つが、灰になってもこうして観るものをも燃やしてくれる。
素晴らしい!

吉祥寺では12/27まで。
まだ関東の人は間に合う。
次は一宮市、そして春には香雪美術館に来る。
また会いに行きたいと思っている。
関連記事
スポンサーサイト
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

フリーエリア