美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

近藤ようこ「死者の書」をよむ。

少し前の話になる。
近藤ようこさんと上野のカフェで話をした。
まだその頃は「死者の書」に着手される前だった。
ファンであるが故にむちゃな夢を求めるわたしは、近藤さんに「死者の書はあなた以外描けないでしょうし、描いたのが見たい」と言う意味のことを言った。
もう描くプランがその頃立ってたのかどうかは知らない。
表面上は静かな面持ちの近藤さんがにやりとされているのを見た気がする。

それからまた少し時間が経ち、やはり上野で今度はご自分から「死者の書」を連載するという話をされた。
その時、わたしの脳裏には南家の郎女の口から「あなたふと なも あみだほとけ」と洩れる様子が将に近藤ようこの絵で浮かんだ。
更に最後の郎女の涙も浮かんできた。
しかし、どうしても冒頭の様子が浮かんでこない。
わたしはそのことを言った。
これは半分は素直な気持ちを口にし、あとの半分はどのような冒頭にされるのか、という期待にせっつかれての言葉だった。
近藤さんはますます静かに笑われる。
非常に不敵な笑顔である。
もし、耳男に殺されないまま夜長姫が長生きしていたら、こんな笑顔を浮かべていたのではないか、と思われるような笑いだった。

やがて連載が始まり、わたしはウェブ上で第一話をみた。
あ、と思った。
そしてすぐに納得した。
なるほど、こう来たか。
死者の眼ざめを予感させながらも、活きる郎女の姿が描かれていた。
館の奥深くに封ぜられていた姫が自らの足で歩いている。そのことだけでも実は恐ろしいことなのである。
第一話の始まり、物語の冒頭をこのような形にすることで、「死者の書」は多くの人に伝わる物語になった、と思った。

小説の始まり、第一章はまるごと死者のもの思いで終始している。
小説としては非常に面白いが、マンガとして表現するにはどうだろうと思っていた。
先に視覚化したのは川本喜八郎だった。
映像化されたその作品は素晴らしく、本文を語る岸田今日子の魅力もあって、非常に深い作品となっている。
わたしはあの映画を見て深い感動を覚え、そのことを文章にしてこのブログにあげている。
それは川本喜八郎のスタッフの目に留まり、映画の公式サイトに、わたしのブログが今も紹介されている。

小説と映画とマンガとでは表現方法が異なる。
今こうして近藤ようこの描く「死者の書」が世に出たことで「死者の書」の新たな表現方法が生まれたと思う。

近藤ようこ「死者の書」に戻る。
イメージ (8)

墓所で滋賀津彦が蘇ったとはいえ、彼の肉は既に朽ちている。白い骨ばかりで構成された彼の躰。それすらもつながりはよくない。
骨がカラカラと鳴くこともない。
しかし、死者の眼ざめから先、風貌が徐々に整いだす。
意識が戻ることで記憶が呼び戻され、彼の叫びが墓所に響き、その声を姫の魂呼ばいにきた白衣の人々が耳にして、恐れおののき、四方へ逃げ散る。

死んだ者が蘇る。新たな心持を持つことはなく、生前最後の執心が心の全てを覆う。
「耳面刀自」への執心だけで活きる死者。
「した した した 」
岩から垂れる水の音が死者の眼ざめを促したのか。
しかしその音が静かに響くとき、同時に履もなく歩む南家の郎女の白い足がのぞく。
ここでこの物語が生者である南家の郎女のものとなる。

姫は藤原南家の長女である。
父は横佩の大臣と呼ばれる南家の長男・豊成だが、政争に敗れ、筑紫にゆかねばならぬことになったのを拒んで、難波でもってその執務についていた。
今の世では南家の次男・仲麻呂が羽ばたいていたが、そのような政治的背景をこの郎女は一切聞かされていない。
(後にわかることだが、彼女自身は一切の政治的状況から、終始無縁のままになる)
彼女の大叔母に当たる皇后・安宿媛のように生きることは彼女の道にはなかった。
いずれは神の嫁にという腹積もりが周囲にあり、この南家の郎女は旧い物語を乳母たちから聞くことだけが日課であり、「才」=智慧を得ることはそこからは出来なかった。

ここで近藤ようこの旧作を思う。

初期の短編に「夢見童子」があり、それは折口の「死者の書」とほぼ同時代の設定だと思う。ここでも高貴な姫は館の一隅に押し込められ、智慧づくことを周囲に恐れられた。
この姫はそんな状況を厭い、自らの足で外に出て、夢見童子との出会いで初めて智慧を得るが、同時に心を閉ざしてしまう。
また、「水鏡綺譚」での鏡子は元は鏡を抱いて生まれてきた、並びなき智慧の娘として世にあったが、その鏡を失くし、何もわからぬまま智慧の光を喪って放浪する。
修行者たるワタル少年との旅の間にも彼女は智慧を取り戻すことは出来ず、別れて元の地位に戻ると共に智慧そのものを取り戻す。
こうした先行作品を思えば、やはり藤原南家の郎女を描くのは近藤ようこその人を措いて他にないと言える。

知識と智慧とは違う。
近藤ようこの作品世界に入り込んでいると、智慧の大事さ・尊さを想うことがしばしばある。それが今回の「死者の書」では今後どのように展開してゆくかも楽しみの一つとなっている。

称讃浄土教を写経する南家の郎女。季節の移ろいにも気を留めず懸命に続けるうちに、春の彼岸となった。
そのときに彼女は二上山を眺め、そこに尊き幻を視るのである。
二上山の沈む夕日の先に見た俤は円満具足な美しいひとだった。
実に優しく美しい相好をみせている。それを眺める姫の頬は紅潮する。
春の彼岸の中日。
日想観をこらす人々は平安時代の文献にその姿がみえるが、この天平時代にはまだ行事とはなっていなかったはずだ。
しかし原初的な心持からその日を尊ぶこともあったろう。

作中恐ろしいシーンがある。
死者たる滋賀津彦の蠢き、叫び、憤り、その描写である。
黒いコマの中に輪郭線のない白い顔が浮かび上がり、「このおれは誰なのだ」と声を挙げる、その一連の情景の恐ろしさは深い。

「おれは活きた」
原作でも印象的な台詞だが、ここで死者の両眼が見開かれてその言葉が吐かれると、やはり恐怖そのものになる。

また高貴な姫君であろうと寺の結界を犯した罪を購わねばならない、そのために送り込まれた北の庵には、孔雀明王像がある。古く朽ちた庵には手入れの行き届かぬ古い仏像があるものだ。それにさしかかる影は闇と同化している。

これらの情景はやはりひどく印象的なものだった。

一方で、明るい情景もある。
心に鬱屈を抱えていようとも、大伴家持が現れると画面は白が増え、どこか華やかで軽やかな心持ちになる。
特に家持の中で唐の長安の大道に立ち止まり、春風に吹かれる己の姿を妄想するシーンはいい。
ここで彼は歌人らしく「少年行」を想うているのだ。

「死者の書」上巻の後書きで、近藤さんは自作を「死者の書・鑑賞の手引き」であると書いている。
折口の初心者たちへ贈るための本であり、そこから原作を読んで、自分に対し「解釈が間違っている」というような指摘を受けることこそが本望だと書いている。
何十度となく読み返していても本当のところを理解していないわたしなども、映画と今回のマンガで本当に「死者の書」の解読ができるような気がしている。
そして今は下巻を楽しみに待っている。
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