美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

日本のふるさと 大丹後展 /「木賊山」/文博界隈の歴史と文化

出遅れどころか最終日寸前にしか行けなかったのが「日本のふるさと 大丹後」展だった。
ちょっと勘違いしたのでこうして行き遅れてしまった。
京都文化博物館で1/17に終了。
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丹後と言えば縮緬とカニ。いやむしろカニ。蟹。かに。
さてそうは言ってもカニは冬にしか食べられない。
展覧会を観よう。

1.交流

丹後には弥生時代の遺跡も多く残り、今回見ただけでも青の管玉などがたくさんあった。
京大と東大の総合博物館がそれぞれいくつかずつ出していた。
どちらも可愛い。
中には昔の電電公社のマークを思わせるような形の腕輪なども出ていた。黒い石で出来ていたから削り出したのかもしれないが、十数個あるそれらは形を変えることがなかったので、一斉に作られたものかもしれない。

与謝野町からは小さい犬の埴輪が来ていた。本当に小さい手のひらサイズで、これはもう作った古代人が自分の楽しみ・哀しみのために愛犬を象ったように思えてならなかった。

続日本紀、日本紀略、扶桑略紀、日本三代実録などの書物も出ている。いずれも江戸時代の版本である。丹後に関する話のところをピックアップしている。
幕末の印刷物は書体もわかりやすいのでけっこうよく読めたりする。
契丹が渤海国を滅ぼして東丹国を興したとか、ウルルン島あたりの漂流とかそんなことが書いてあるようだ。
ネットなどでちょっと調べるとすぐそのあたりのことがいくつか出てくるようになったが、実際のことがわかるまでには千年がかかってもいる。
史書と遺跡と第三者の証言というのは同時に揃わないといけない。

1837年に奉納されたミニチュア(というてもかなり大きい)和船がある。溝谷神社という神社に収められているものだ。
この神社は今の竹野にあり、新羅明神を祀っている。朝鮮との位置関係(物理的な距離感と対人的な感覚と政治的な関係)を想うと、ここにその神が奉じられているのが非常に興味深い。

実際、幕末の朝鮮人漂着関係文書も出ている。こういうのをみると「夜半に怪しい船をご覧になった方は」一報するようにという看板を思い出す。
日本海沿岸では漂着というのはナマナマしいリアルさを持っていたろう。
出雲神話のアメノヒボコの話にしても根は同じなのだ。

大正になりこの界隈に鉄道が敷設され、その時刻表なども出ていた。
そういえばわたしが丹後に行くとき、大阪からは車でばかりだった気がする。
というより、現状を考えるとやはり丹後へは車が便利なのだった。電車は微妙にずれている気がする。

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2.伝説

丹後半島には非常にたくさんの有名な伝説が残る。
まず誰もが知る「うらしま」である。
これも本来は「浦の島子」という青年が誘われて常世の国に行くという話から始まるのだが、海上他界=竜宮となり、「うらしまたろう」として亀を助ける話に変わった。
どちらにしろその浦島がいた(!)のは与謝という設定である。
丹後風土記に原型があり、雄略天皇の頃に出かけた人だというから本当に昔々の話になる。
西暦で言えば478年だと注釈もついてくる。
そして300有余年後に戻ってきたというから、もう世は天平か。いや、平安に近い頃か。

明治になってから海外向けに刊行された「ちりめん本」などが数種出ていた。
1886年の英訳では「The Fisher Boy Urashima」、1897年には「Ourashima」になる。
大正から戦前、戦後のこくご教科書に載る浦島を見比べもする。

大江山の鬼退治もこちらの話になる。与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山なので、必ずしも一つの嶺・一つの谷の山を言うわけではない。
しかしそうなると洛中からここまで来た源の頼光一同、たいへんな労力だったことがよくわかる。

聖徳太子の異母弟にあたる麻呂子親王の説話もこの地に残っている。
彼もまた鬼退治に勤しんだというから、やはり異人伝説ということを考える。
縁起絵巻も似た感じ。
等楽寺縁起では白犬が現れる。

「さんせう太夫」も決して忘れてはいけない。1722年の版本では丁度母と姉弟が船で隔てられるシーンが出ていた。泣き別れの母子である。
姉弟はその後丹後に売られ、母は佐渡に売られる。弟は姉の犠牲と観音の守護により天王寺に逃れ、やがて梅津院の庇護を受ける。
復讐が果たされるのは都に於いてだが、丹後での悲惨な暮らしは延々と物語を貫く。

他に観世流の謡本が数冊並んでいた。いずれも丹後とゆかりのある演目。
丹後物狂、大江山、天橋立、浦島…
丹後には他に羽衣伝説、徐福伝説もある。
松本清張「Dの複合」の紹介もあった。これも今の京丹後市が舞台なのだそうだ。

ところでこの京都文化博物館が管理する「京の百景図」などのシリーズ画で丹後を描いたものを思い出すと、やはり経ケ岬の様子が浮かんでくる。近年では2013年に八幡市松花堂美術館でも見ている。
その時の感想はこちら
やっぱりどうしても「新八犬伝」の犬阪毛野とさもしい浪人・網干左母次郎の対話が思い浮かぶのだった。

3.霊地

木造扁額が2面。いずれも籠神社所蔵。天橋立の方の神社で、ここと成相寺とを行くコースが結構あるように思う。
さてその扁額のうち一つは小野道風、一つは藤原佐理の書らしい。
「正一位 籠之大明神」。

不動明王二童子画像もある。アウトラインを全て梵字で描いている。マメなことです。

4.生産

これが問題である。
冒頭に挙げたようにカニは冬になると多大な需要があるが、それは第一次産業である。
丹後ではかつては第二次産業が盛んだった。
つまり丹後縮緬などがそれにあたる。

戦時中までは和装がメインだったこともあり、更に軍需産業とも縁があったのでその頃はよかったかもしれないが、零落は隠しようがない。
なんとか西陣共々がんばってほしいと思うのだが…

婚礼衣装があった。黒縮緬地御所車花扇模様振袖 とても優雅な着物である。

ここで解説文の解釈が出来なくなった。
「昭和五年、兄と妹が婚礼を挙げたが」…あらら。
「妹は京の名家に嫁いだが」ああ、そうね。
一瞬わたしは西陣が舞台の「兄妹心中」を思い出してしまったではないか。

最後に現代の見事な作品が出た。螺鈿織打掛である。2005年。布地が箇所箇所によりキラキラしていた。

いいものがたくさんあったのに惜しいことをした。
もっと宣伝してくれたらよかったのに。
見ることが出来て、それだけでもよしとするしかないか。
京都文化博物館で他に見たものについても記したい。
祇園祭の装飾ものシリーズは1/24まで「木賊山(とくさやま)の名宝」である。
謡曲「木賊」をモチーフにした山である。
父子の再会がメインテーマだが、「木賊にウサギ」の意匠が金具に使われたり、木賊に波兎文の鍍金した金物まである。
他にイギリス製の絨毯が水引になっていたり、ゴブラン織りのものもあった。
こういうのを見るとやはり夏が恋しくなる。

次に<博学社連携のとりくみ>としての「文博界隈の歴史と文化」展を見た。
三条界隈の模型がある。現代の模型。
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それから古写真の絵葉書。昭和初期の四条大橋のにはレストラン菊水もあり、とても親しい気持ちになる。
あと古地図。1831年。天保の頃。
そういえばこの京都文化博物館のある三条高倉はスーパー歌舞伎「オグリ」では主人公・藤原正清の実家がある場所として、子供らの怖いわらべ歌に唄われている。
梅原猛の原作脚本では二条高倉だったが。

名所案内も。
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西陣にある京都考古資料館からも三条界隈から出土した桃山から江戸初期頃の皿小鉢を持ってきていた。
パネル写真もある。そう「三条せとものや町」の名残り。

他に「三条大路を歩く人々」の絵があった。佐々木和子・三橋節子の合作。
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わんこが可愛い。
和やかな気持ちで展示を見終えた。やっぱりこの京都文化博物館界隈はいいなあ。

映画コーナーでは先般なくなった原節子の特集があった。
わたしの行った日は「安城家の舞踏会」の上映日だった。
わたしはこの映画が好きで、昔熱心に観た。
斜陽の安城家の当主は滝沢修、彼はヴィスコンティの「山猫」の伯爵とは違う絶望感・屈辱感とを身にまといつかせている。
長男の森雅之の虚無感とどうとでもいいさといった態度、彼に弄ばれそうになる成り上がりの家の令嬢は久我美子だったかな、そして復員直後のまだ若い殿山泰司の執事。後年の膨れ瞼はどこへやら、丸い目をして演じていた。
原節子の美貌にもくらくらした。
新藤兼人の脚本、吉村公三郎の演出。好きな一本。
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