美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし

埼玉県立近代美術館の「原田直次郎展-西洋画は益々奨励すべし」はいい展覧会だった。
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ほぼ歴史の彼方に埋没していた原田直次郎の作品をこれだけたくさん集め、ドイツ留学時の資料も映像にしたり、友人たちの証言を集めたりと、たいへんな労作だと思う。
わたしのような素人の観客はただ単に「ああ、原田の全貌を見せてくれて嬉しいな、いい作品が多かったな」という感想を挙げるばかりだが、ここまで拵えてくれた埼玉近美の皆さんのご苦労を思うと、本当にもうなんというか、お疲れ様でした、ありがとうございますとしか言いようがない。
それだけでは済まないように思うが、やっぱり辛苦をねぎらい感謝を口にし、愉しませてもらう、それがわれわれ観客の採るべき道である。
たまたまこうしてわたしなどはブログで感想を挙げるが、完全な個人の歓びの記録なので、それで集客の一助になるわけでもなし、心苦しくもあるが、それでもやはりこうして思ったことを書くしかない。
この企画展に関わった人々と、今は亡き原田直次郎本人に対し、深い感謝の念を込めて。

原田直次郎の作品と言えばまず思い浮かぶのは三点である。
「騎龍観音」「素戔嗚尊」「靴屋の親爺」
このうちの「騎龍観音」は現在東京国立近代美術館に寄託されて展示が続いているので、ある種の親しみを懐いている。
「素戔嗚尊」はこれは随分昔の兵庫近美(当時)で開催された「描かれた歴史」展で初めて見て衝撃を受けた。その絵葉書が手元にあり、わりとよく見返すので、これも近しいものである。
ただ「靴屋の親爺」は案外と見てはいない。

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1.誕生 1863-1883
父上の吾一(一道)は遣欧使節の一員として旧幕時代に洋行している。
その時の写真が出ていた。
ベアトが撮ったスフィンクス前での記念写真の中にいる。
こういう人の息子だからこそ、西洋画への道が開いたのだと思う。
久米桂一郎などでもそうだ。
兄・豊吉の写真もある。開かれた世界への意識が高い一家だったのだ。
内田九一による父母と直次郎の写真もある。

先駆者のひとり・高橋由一の「江の島図」が来ていた。
カマキンにあったあれ。描かれた人々はいまだ江戸の名残りを自然のまま身に着けた人々である。

安藤仲太郎 日本の寺の内部 こちらもそう。浅草寺でお宮参りをする一家を捉えている。喧騒の中での温かな祖母と母と孫。明るい色の着物を着ている。

五百城文哉 袋田の滝 未醒の最初の師匠。わたしはこの滝は名前しかしか知らないので、こんなのかと眺める。

長原孝太郎、松岡寿といった画家の絵もある。そう、原田直次郎は彼らと同時代に洋画の道を進んでいたのだ。

原田の肖像画がある。高橋由一を描いている。髯のお爺さんとして描かれた由一は、彼の実物を知らぬ人から「こんな風貌の人なのか」と納得がゆくような、そんな丁寧で写実的な描かれ方をしている。

由一の長男の柳源吉による由一の履歴書が紹介されている。
多くの人の名がずらり。

二十歳になった原田の写真がいくつかある。
五百城、長原、安藤らと一緒の写真でみんな若々しいというよりどこか幼い感じもする。
1884年2月、留学直前の写真。

2.留学 1884-1887
年譜を見て驚いたが、昔の人だからか、もう結婚している。
早いうちに長女を授かり、その小さいうちにドイツへ留学。

ドイツ留学が実り多いものだったのは習作を見てても納得する。
とはいえじいさんたちを描いた絵から「精神性が高い」かどうかまではわたしにはわからない。
これで思い出すのが志賀直哉の写真。
晩年の志賀直哉を撮った…林忠彦か土門拳かちょっと思い出せないが…一枚がある。
あの癇癪持ちも年を取ると静かになるのかという、そんな風貌のものだが、よく見ると虫が止まっている。
その写真を「志賀の高い精神性を」と解説しているのを読んで、わたしなどは「…単に虫が止まってるのを感じてへんだけでしょう」などと思うのだが、それに通じるものがあるような気がしてならない。

原田はドイツで友人も多く、ついた先生にも可愛がられたようである。
そのガブリエル・フォン・マックス先生はお猿さんをペットにしていて、自画像で猿を抱っこしているのを描いてもいる。
猿のマックスとでも呼ぶべきかもしれない、我が国の「猿の狙仙」同様に。
(・・・猿でマックスというと全然関係ないが大島渚「マックス・モナ・ムール」の映画を思い出す)

この先生は動物学・人類学にも造詣が深く、物凄い骸骨コレクションを展開していた。
その写真資料を見てびっくりした。

さて現地ではユリウス・エクステルという友人も出来て、彼に自分を描かれてもいる。
このユリウスは鷗外「うたかたの記」にも実名で出現する。
師匠からもドイツの友人たちからも原田は愛されていた。

ところで、鷗外と原田の友情などはたいへん興味深いものだが、文学と現実とをどこまで混同してよいかという問題がある。
原田にしろ彼の仲良しの鷗外にしろ、現地で彼女も出来て仲良くしているが、その国限りの関係でしかなく、原田は彼女のマリィが妊娠しているときに帰国する。
「舞姫」に現れる男たちは少なくなかったようだ。

3.奮闘1887-1899
帰国したが、洋画に冷淡な時代が待っていた。
原田はがんばった。最期までがんばった。

ミケランジェロの模写がある。山本芳翠の「西洋婦人像」の模写もある。
後者は出舌の伊藤快彦が所蔵していた。
原田は同時代人の西洋画家(この20年後に新聞では洋画家のことを「油絵師」と表記している)の仕事にも敏感だったのだ。

ところでミケランジェロの日本語表記が面白い。
弥開爾安日各。これでミケランジェロなのだった。
こういうのをみると能條純一「ずっこけ侍ミケランジロウ」の三毛蘭次郎を思い出す。

原田の筆致は大変丁寧なもので、その点ではやはりアカデミックな作風なのだが、それだけに肖像画が正当な出来具合でいい。
島津久光像 これは没後に依頼を受けたもので写真を見ながらの製作だという。

毛利敬親肖像 リアルな絵なので藩士たちが喜んだそうだ。…この紋、顔のようで可愛い。ぺたぺたと袴についているのが何やらコミカルに思える。

さて原田は塾を開き西洋画を描こうとする若者たちを懸命に支援した。
おカネも取らなかったというので、大変だったろう。
だから徳富蘇峰などが自分の新聞の挿絵などの依頼をしていたようだ。
それらの作品は総じて日本の風土を舞台にしたものだが、迫力のあるいい絵が多かった。

天岩戸が開くところ、大江山に山伏に身をやつした頼光一行が辿り着くところなどなど。
力強い作品だった。

4.継承 1888-1910
彼の弟子たちの作品が並ぶ。

京都でなら時折みかける伊藤快彦の作品が並ぶ。
新島襄の像もある。男山八幡宮など京都ゆかりの絵を見ると、やはり嬉しい。

原田の上野東照宮は自分たち一家をモデルに描いたお宮参り図だった。
イクメンの原田は次女をだっこしながら日傘の妻のあとをゆく。妻は長女と共に歩く。
鷗外も原田もドイツの恋を忘れて、いいお父さんぶりである。

水彩の大下藤次郎の作品もある。優しい筆致でのどかな風景を描いている。
かれは原田の葬儀の手配をしている。

和田英作の若い頃の作品と桜井忠剛の原田作品模写もある。
桜井は尼崎初代市長で十年ほど前に尼崎で回顧展があった。
勝海舟の縁戚で、その縁で川村清雄に絵を学んだ。
今でも尼崎の旧家では桜井の描いた欄間サイズの油絵を大事にしているところがある。

原田の素戔嗚尊がヤマタノオロチの首を掻っ切る絵が出てきた。突然画面の左に穴が開いて底から犬の顔が飛び出すあれ。
昔、誰が書いたか、この絵について原田のアタマがおかしくなったようなことを読んだ。
実際に原田が何を思ってこんなことをしたのかは知らないが、到底忘れることのできない一枚なのは確かだ。

短い晩年の原田を写した一枚がある。自在の蟹と一緒の写真。

そして有島生馬の絵がある。有島信子像  クォーターの美人である。
有島生馬の妻信子の母・照子は原田の兄の妻でハーフ。照子は長男熊雄と信子を生んだが、熊雄は原田がみていた。
原田兄弟が没したのち、祖父一道の跡を継ぎ男爵になる。
その原田熊雄と言えば、戦時中に生馬の弟・里見弴に「原田日記」の原稿整理を頼んだ人で、わたしは里見弴の随筆から原田熊雄を知ったのだった。

原田直次郎は人に愛され人を愛したひとだった。
彼が36歳で亡くなった時に友人代表として森鷗外が奔走し、たった一日ながらも回顧展を開いたのは本当にえらい。
鷗外が書いた一文を最後に挙げる。
『私の友人にも女房持のものは少なくないが、その家庭をうかがって見て、実に温かに感じたのは、原田の家庭である。鐘美舘がまだ学校であった時、原田はその奥の古家に住んでいた。(中略)。原田と細君と子供四人と、そこに睦まじく暮らしていて、私が往けば子供は左右から、おじさんと呼んで取り附いた。細君はいつも晴々した顔色で居られて、原田が病気になってからも、永の年月の間たゆみなく看護せられた。殊に感じたのは、原田が神奈川に移る前に、細君が末の子を負って、終日子安村附近の家を捜して歩かれたという一事である。思うに原田は必ずしも不幸な人ではなかった。』

展覧会は3/27まで。
中では特別付録「原田すごろく」ももらえる。

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