美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **なお現在コメント欄を閉鎖中です。

実相院門跡展

京都文化博物館での「実相院門跡」展は面白く、また有意義な展覧会だった。
「幽境の名刹」「秘められた門跡寺院の歴史に迫る」というキャッチコピーがあるが、実際に京都の岩倉に出かけるのもけっこう遠く、公共交通は京都バスで、かなりの時間乗った。
尤もわたしと友人は四条から乗ったので、地下鉄の国際会館前だったか、あそこから乗る人よりは確実に時間もかかってはいる。
叡電の岩倉からも歩けるらしいが、そちらは知らない。
イメージ (6)

実相院自体は門跡寺院とは言うものの気さくに門戸を開いて、秋の床もみじ、初夏の床みどりを楽しませてくれる。冬には雪化床もいい。
ここはHPも充実しているので、そちらもおススメ。
なにしろ写真撮影は禁止なので、このHPで様子を視るか実際に尋ねて眼球に映すしかないのである。

さて今回の展覧会は去年3月に京都市文化財に指定された「実相院文書」の公開も含むもので、杉戸絵などを賞翫するだけでなく、古文書から見る実相院の歴史、当時の様々な決まり事などの実効性についても知ることが出来る貴重な機会なのである。
わたしは不勉強だから


プロローグ 実相院門跡の草創
智証大師円珍座像 江戸時代 座禅をした袈裟掛けの可愛い姿。円珍は他でも見ているが、基本可愛いお坊さんという形にするように決められているのか、こちらもとても可愛い。

実相院門跡相承次第 江戸時代 円珍から義延までの系譜。足利氏の血筋も義尊と円満院の常尊ともに妻帯しなかったので、ここで絶えたそうだ。

大雲寺絵図 江戸時代 天台宗のお寺。絵図には山桜が描かれてもいる。石座の前の社など。
それでこのお寺と実相院との関係を調べると、歴史的にこんな事件があった。
「文明6年 1474 5/19
実相院が今出川小川から応仁の乱の戦火を避けて大雲寺(成金剛院跡地)へ一時避難し以後今日に至る。実相院による大雲寺統治が長く続く」
さらに続けると
「文亀2年 1502 8/6 
実相院門跡義忠(1479~1502)が将軍足利義澄の命によって殺害され(『後法興院記』文亀2年8月6日条)、実相院領は収公され、将軍夫人日野氏領となった(『後法興院記』文亀2年8月9日条)。これによって、大雲寺に対する実相院門跡の支配を強めようとする動きに陰りをみせ、大雲寺衆徒は一時的に大雲寺内の自治勢力回復に成功 」
「永承12年 1515
実相院門跡と大雲寺衆徒の対立 が激化 」
あとはお寺のHPに詳しい。

三井寺の絵図も二点。
中院絵図 大門など。金剛力士像は門番だわ。
南院絵図 18明神など。パネルであってもいい。

木造不動明王立像 鎌倉時代 炎をバックに、やや腰をひねり右足を前にした像。けっこう肉付きがいい。足は今時のブーツ風、ただし素足。

1中世文書にみる実相院門跡
これが非常に見応えのある展示だった。
現物に解説がついているので、書かれている内容もわかる。
そしてこれらの古文書がいわゆる「実相院文書」であり、京都市文化財に指定されたもの。

後光厳天皇綸旨(1353.2.10)、前大僧正増仁譲状(1368.5.6)、国々支證本紙一巻といった文書がずらりと並ぶ。
前期には寺領判物が出ていたそうだ。
内容がかなり興味深い物ばかり。
そしてそこからわかったことがグラフなどに出ていて、面白くて仕方ない。
ばらばらと挙げてゆくと、義延の頃(1687)、上皇から女院の葬儀で大雲寺「力者」リキシャが「御龕力者」として活動したとある。 
それでその「力者」とは何かを調べると
「平安末期以後、髪をそった姿をし、院・門跡・寺院・公家・武家などに仕えて力仕事に携わった従者。輿 (こし) を担ぎ、馬の口取りをし、長刀 (なぎなた) を持つなどして供をした。力者法師。青法師。」
という解説が出てくる。
更にここにある「御龕」とは何かというと「棺」という話で、一つの事を知ると二つ三つ四つと後から後から色んなことを知ることになる。
だから調べものはやめられない。

つまり御龕を担ぐ仕事をしていたわけである。
八瀬童子にしろこの大雲寺力者にしろ、わたしには本当のところはまだまだわからない。
たぶん調べても本当にはわからないだろう。
しかし、京都文化博物館はいい展覧会をしてくれると改めて思う。

前述のグラフだが、このグラフは力者の仕事の内訳についてのもので、勅使御用を勤める割合が2%で、葬送に関する色々な仕事が95%を占めているそうだった。
なおこの「力者」は大雲寺だけでなく三井寺、円満院、聖護院にもいたが、総元締めはこの大雲寺だったそうだ。
寺院間の力関係や政治的背景をちらちらと思いながらこれらの文書を読むのも面白い。

古文書ではほかに各地の寺領、門跡領の安堵状などもある。
中で「吉志郡」(=吹田)の領有権を細川政元が実相院に返させたという話が興味深かった。
これは吹田に通勤するわたしとしては「岸部」のあの辺りかと予測を立てやすい。
ちょっとネットで調べると「吉志氏 の本貫は摂津国鴨下郡吉志部村(吹田市岸部)で、そこに吉志部神社がある。」というような一文を見出しもする。
要するに吉志氏という氏族がその地にいたわけだ。
更に「本貫」は「律令制時代の戸籍制度上の本籍 (戸籍につけてある国) のこと」だとある。
岸部は実際に行ったことがないのであまり知らない土地だが、こうした歴史を知ると、とても気になって、いつか行こうと言う気持ちにもなる。

話がどんどん長くなり引用が増えるが、調べものをするのが楽しくてついついこんなことになってゆく。

話を戻し、解説を読むと「大雲寺の力者頭」は「竹王」「竹徳」の両役だということなどが書いてある。
図録の論文を読むと宇野日出生氏という方ので、とても興味深い。
(この方は八瀬童子の本も刊行されている)

大雲寺は後三条帝の三女の精神病を治したそうで、それを読んで現代の岩倉の精神病院や、その前身の江戸時代での話などを思い出す。
ここが精神病院発祥の地だというのも昔なにかで読んだし、上村松園さんも「花筐」を描くために岩倉へ出向いたという話もある。
また大雲寺のHPにも脳病平癒についての話がある。
そしてその営業活動?もあったそうな。
静かで空気のいい岩倉は心が鎮まる地なのだろう。

イメージ (7)

2.実相院門跡の文化
実相院日記がある。目録もあり検索しやすくなっているそうだ。
凶事も包み隠さず記しているようだ。
対処法も考えれるから、世間に公表する分でなければやはりあからさまに記した方がいい。

元禄年間の明正院葬送御用力者請状が紹介されている。
力者がどういう働きをしたか、何人出たかもグラフにある。たとえば東福門院の葬送には40人の力者が出たそうで、そのうちわけは岩倉が25人、三井寺が15人だと記されている。
大抵こういう仕事をするときは40人60人80人くらいでかかるみたい。

ところで面白い像を見た。
パッと見はブースカのような小さい何かがある。
椰子の実を使って開閉ドアをつけた空間にお釈迦様のフィギュアが入っている。痩せてるから苦行中のだと思うが、全体が岩山を表現しているらしいが、どうも怪獣ぽくて妙に可愛い。

後水尾天皇御宸翰「忍」 なんというか、この天皇さんのココロモチが伝わってきますなあ…

黄不動図 例の円珍さんが感得しはったあの。三井寺のが初で、天台宗では必ずこの図はあるようです。

馬郎婦観音画像 おや笏を持ってはる。

他に蹴鞠、藍染の天球図、アジア地図などがあった。タクラマカン砂漠、万里の長城や天山山脈などが目立ったな。

3.障壁画の美
前に訪ねたときも「わぁいいなあ」と思ったがこのようにずらりと一時に見れるのはありがたい。
チラシの虎ちゃんがやっぱり可愛い。
展示リストはモノクロの虎ちゃんなんだが、これがまた白虎みたいで可愛い。
イメージ (6) イメージ (8)

群鶴図、群仙図、花鳥図、帝鑑図など様々な絵を見た。大方は狩野派。
ところどころに愛らしい坊やもいる。

エピローグ 実相院門跡の黎明
まあ岩倉具視は欠かせないか。
その日記や一代記の図会などがある。
安政の大獄に絡んで目明し文吉が処刑されたことについての記述がある。
「公儀の手先をする者なれど悪事も多かるべし」悲田院検使という言葉もあった。

実相院の映像コーナーもあった。四季折々の美しい姿をきれいな映像で見せる。
実相院の建物はなんでも承徳門院の一部を移築したそうだ。
また行きたいと思う。
なお、こちらは2007年にわたしが秋に実相院を訪ねたときのこと。

4/17まで。

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