美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **自宅でログイン出来ないので、現在「遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う」で感想を挙げています。

奥村土牛 画業ひとすじ100年のあゆみ

山種美術館で奥村土牛展を見た。
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土牛は長命だった。
その名が示すように、しっかりした牛のあゆみを続け、多くの名画を残した。
本人の著作タイトルも「牛のあゆみ」。
そして牛を可愛く思い、描いた牛の絵もいいものが多い。
長い生涯の中で土牛は山種美術館創業者・山崎種二と深い心の交流を持ったという。
展示の中でしばしば山崎家との個人的なかかわりの作品もあり、それらがいずれも微笑ましい性質のものだというのもいい。

始めに名作・「醍醐」の桜が出迎えてくれた。
もう花の時期は終わっていたが、この絵の中では醍醐の桜は不滅である。
わたしの従妹は絵に関心はないが、この絵を使った切手を見て、それで醍醐に花見に行った。
あの小さな切手の絵、それにそそられたのだ。
そして醍醐に行き、描かれた桜はこれか、綺麗だなと思ったそうだ。

1.土牛芸術の礎 
戦前までの若い頃の作品を見る。

麻布南部坂 1925  電信柱が目に入る。二本ばかり高いのが立つ。黒田侯の邸宅から霊南坂教会方面を見る構図らしい。
ちらりと十字架らしきものが見える。
ところでこちらの南部坂は麻布だから忠臣蔵とは無縁。

雨趣 1928  ここにも電信柱がある。大正末期から昭和初期、電信柱は最先端技術の象徴でもあったのだ。民家の並びに出現する電信柱、そこへ雨。
宮沢賢治も「月夜のでんしんばしら」という童話を描いている。

1930年代半ば過ぎの「兎」絵が二点。
それぞれちんまりとして愛らしい。戦後の兎もいい。画稿を見ていてもよく伝わる。

2.描くこと 見つめること
戦後の作品。

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啄木鳥 1947  とてもシャープな筆致である。丸い目を大きく開けて鋭い嘴を木に向ける啄木鳥の良さがよく出ている。

祇園祭の頃の舞妓を描いた絵もいい。美人画ではなく、むしろ静物画に近い感じがするがモダンさが前面に出ている。1954年の舞妓。どこか中村七之助丈に似ている。

水蓮 1955  この絵は普段からとても好きな絵で、睡蓮の時期になるとこの絵葉書を取り出すくらい身近な愛情を覚えている。
数年前の「古径と土牛」展のブロガー内覧会の折に撮影させていただいたのも楽しい思い出。

城 1955  60年前の姫路城である。もし今土牛がお元気であったらば、現状を見て「描こう」とそそられるかどうか。

浄心 1957  何度も見ているのに今回初めてこの大日如来がパタリロに似ていることに気付いた。そしてその時に思ったことは、パタリロの中にある仏性についてだった。
マリネラ国王であるパタリロは韜晦して生きている。ハチャメチャではあるが鷹揚さと冷徹さをも併せ持ち、かれは大体がこの大日如来に似た顔つきで世を過ごす。
しかしふとしたはずみに何らかの優しさをのぞかせてしまう。それを知られるのを彼は好まない。
この絵を見ていてそんなことを思うのはわたしだけだろうが、しかしある種の納得が広々と自分の中に広がるのを感じた。
なお。この絵は古径の死に感じて描いたもの。

泰山木 1958  とても好きな絵の一つ。九谷焼の瓶に活けられて大きく咲き開いている。
花弁の肉の感触が伝わってくる。

茶室 1963  真珠庵を描いたもの。今みるとコンテンポラリーだと思う。

力強い「那智」の滝、線を排除し薄い色彩を塗り重ねて質感を表した「鳴門」などの名作が並ぶ中、初めて見たものがあった。

稽古 1966  立派なお相撲さんを中心に二人のまだ若手の取的が居並ぶ。堂々たる貫禄である。とても力強い絵。
わたしはこの時代の相撲さんは詳しくないので描かれた人々が誰かは特定できない。
解説を読むと栃錦だそうだ。「栃若時代」を築いた横綱・栃錦。
土牛はとてもお相撲好きだったそうだ。勇気をもらう・芸道を極める、といった思いを相撲に見出していたようだ。
納得の話である。
タイプは違うが明治大ラグビー部の名将・北島忠治を思い出させる雰囲気が土牛にはあった。北チュウさんは若い頃「(神楽)坂の忠治」と呼ばれるほどの男で、お相撲をしていたが、呼ばれてラグビーの試合に出て、それからラグビーに夢中になったという。
土牛にも元はお相撲をしていたような力強さ・粘り腰といったものを感じる。
外連味のない堂々たる態度・風貌からの感じでそんな風に思う。

鵜 1966  野良鵜。無職の鵜というかフリーの鵜が三羽いる。大人しくしているのではなく何やらダンスでもやっていそうである。
須田国太郎にも「鵜」という名品があるが、あれも野良鵜で、やはり妙に踊っていた。
三羽鵜は踊るものなのかもしれない。
仕事に従事する鵜は集団で描かれるが、野良鵜は三羽。

3.白寿を超えて
長い長い歳月を生きた土牛。
亡くなったのは1990年だが、その少し前に日曜美術館か何かで、生きている土牛の映像を見た。
お孫さんが通訳をし、画面には字幕スーパーが出ていた。
「百歳て凄いんやなあ」と思ったものだ。

輪島に行った時の印象を絵にしている。
「輪島の夕照」、「朝市の女」などである。能登に行った時のいいイメージが絵になったようだ。

猫の絵が二枚。
閑日 1974 狸顔の猫である。
シャム猫 1974 狐顔の猫である。
どちらも可愛いものですなあ。

ガーベラ 1975  カラフルなガーベラの入れられた花瓶が素晴らしい。古い時代のガラスが土中で変化したような、不思議な色合いを見せていた。

以前の内覧会で山崎館長から伺った土牛に関するお話を思い出しながら見て歩く。
そして去年弥生美術館で開催された小田富弥展でのエピソードをも併せて想う。
挿絵画家・小田富弥は戦時中に、息子の絵の先生でまだ無名だった土牛とその妹とを自邸に引き取り面倒を見た。
無名とはいえ土牛の様子をみた人気作家・小田富弥は自分の商売が嫌になったという。彼は彼でいい仕事をしているが、挿絵より本画の意識が強かったのだろう。また土牛の人間性の大きさに唸ったのかもしれない。戦後はそれでとうとう挿絵から離れてしまうという勿体ないことをした。

姪 1980  若くして亡くなった姪御さんを追想して描いた一枚。絵もいいが、土牛の人柄の立派さをも感じる。

最後の大作は1981年の「海」92歳の労作。海苔板か・・・

土牛の書も少し出ていた。
「心」と書いているがどう見ても「仏」に見えた。1983年、土牛94歳か。
もう心に仏が住まっていたのだろう。

昭和のある丑年、山崎種二にお持ちの礼状を送っている。伏見人形の俵牛を描いたのがとても可愛らしい。

与謝野晶子「新訳 源氏物語」は土牛が表紙を描き、挿絵は梶田半古だったそう。
挿絵の残るその本を読んでみたい…

5/22まで。
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