美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **自宅でログイン出来ないので、現在「遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う」で感想を挙げています。

北大路魯山人の美 和食の天才

三井記念美術館で開催中の「北大路魯山人の美 和食の天才」展を愉しんだ。
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魯山人の展覧会は毎年どこかで開催されているのでよく見るのだが、それでも作品の前に立つと「をを」とか「ああ」と感嘆の声を挙げてしまう。
今回は足立美術館のコレクションを中心にしたもので、そこに個人蔵のや近代美術館に収まるものが来る。
作品数が多いうえに、所蔵家が秘蔵せず見せてくれるおかげで、われわれは魯山人のやきものや他の作品を(見るだけとはいえ)楽しめるのだ。

使うためのものを拵えた以上、それにじかに触れる権利も持たず、食器として使うこともなく、単純に<観る>だけの観客に対し、あの世で魯山人はどう思っていることか。
純粋芸術として観るしか出来ない観客は、作った魯山人が目をつぶっているのをいいことに、彼の拵えたやきものなり漆器なりをみては、無限の妄想に耽り続けるのだった。

足立美術館の魯山人コレクションと言えば1994年2月の奈良そごう美術館と、1998年に足立に行ったのを始まりに、何度か見ている。
他のコレクションも少なからず見ている。
だが、場所が変わり設えが変わると新しい気持ちになる。
知識だけは持ったまま、魯山人のやきものの前に立ち、今回も感嘆の声を挙げよう。

前後期ともども観たので感想はまたがる。
青織部籠形花器  これなどは「昔々の新規な」織部かと思うくらいで、織部に対し魯山人がいかに打ち込んだかが伝わってくる気がする。緑色の筋の綺麗な。
やはりこの花器には和の花、それも桔梗か鉄線のようなものがいいのではないかと思いもする。

紅志野あやめ八寸  花を文様にしても磁器と陶器の違いは大きい。陶器には文様に対してある種のゆるさがあると思う。そして陶器の文様はそのゆるさが魅力なのだと思う。

志野若草文四方平向  ここにどのような料理を入れるか。妄想が広がり始める。
「吉兆」の湯木貞一さんが拵えたものを捉えた写真をパネルにして、湯木美術館はそれを壁面展示する。そのときに料理の載る器に目が行き、なるほどこれにはあれかと学ぶ。
実践することは出来ないものの、学ぶことは自由だ。
記憶に残る料理をここに載せてみようとわたしの眼と脳は動き、ヨダレを止めるのに苦労する。

織部俎板盤  外国の国旗のように左上に別なコマ枠がある。そこに葉っぱ柄。後は青緑。海の色のよう。揺らぐ水面の下。岸の草が見える。そんな盤。

銀三彩輪花透鉢  とても綺麗だと思った。砕いたドロップの欠片を銀色の陶肌のあちらこちらに埋め込んで焼いたのかと思った。透かし部分も可愛い。これ一つだけでお菓子の家のようだ。透かしだけを見ていると浜辺にいるような気にもなる。
だがその銀の肌。まるで錦のような手触りがあるのではないかと想うのだ。

織部蟹絵平鉢  黒いカニは生きている証拠。ざわざわと動き回りそうなカニの絵がそこにある。三枚の少しずつ違うカニたち。
赤く茹でた松葉ガニを置くか、いっそ大きなエビを置いてやろうか、いやいや昔話に合わせて柿をそこに・・・

わたしが妄想に灼かれている間、第一室を行く他の人もまた右往左往右顧左眄しつつ妄想に耽っていたに違いない、と確信している。

第二室には絵瀬戸草虫文壺がある。北村美術館ほまれの壺。秋草文と北村では呼ばれている。草の合間合間にバッタがいる。可愛い。いい音色が聴こえてきそうだ。
そういえば日本、中国、朝鮮では虫の声に静かな喜びを感じるが、西欧ではその楽しみがないという。脳の問題だと言うが、わたしは東洋の人に生まれてよかったと思うのだ。
バッタやキリギリスやコオロギやマツムシ、スズムシ・・・優しい気持ちになる。

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敦井美術館からも来ていた。
染付花鳥花瓶 叭叭鳥か、目つきの悪いカプがいる。瓶口は襟のカラーのよう。

南画風な牡丹文の鉢もある。ああこれは東近美のか。工芸館で見たのかもしれない。

色絵金彩龍田川向付 乾山のとよく似た感じなのでお手本にしたのかも。形は紅葉で下部に水の流れ。こういうのは季節限定だが、だからこそ魅力的。

武蔵野図屏風 紀尾井町福田家 金銀泥。虫もたくさんいる。露も葉に止まる。リーンリーンと虫の音が聴こえてきそうな屏風。夜に使いたい。

織部風誰ケ袖向付 これも秋の草と露をイメージしているのか。どこか辻が花を思い出させる。

世田谷美術館の塩田コレクションからも名品が来ている。
織部桶鉢 白砂青松、この桶鉢に豊かな自然がある。

織部長板鉢 いくつか並んでいる。それぞれ趣向を凝らした構図。中に抽象的なものもある。またはヒマラヤスギの林に集まりつつある鳥たちの様子を写したようにも見える。
ぞれぞれ好きな風に見ていると、様々な物語が勝手に生成されてくる。

蕪絵乗益椀 黒漆に赤の蕪絵。村上豊が描きそうなあえて線を崩したような蕪。
親しみやすい。尤もここに蕪を描いた以上は、何をここによそうか、それが問題だ。

チラシにあるのは一閑塗日月椀。可愛い。銀が綺麗な色で出ている。
そういえば千家十職の一閑張の飛来一閑さん、女性当主としてご夫婦でがんばってはるのを思い出した。ここのご先祖さんが日本にこの技術を伝えなければこれはなかったのだなあ。

妄想がムクムクと湧き出してくる。

糸目菊絵碗 黒地に茶色で大きく菊を描いたからかウナギのかば焼きを思い出させてくれるやないの。わたしはまむし(ウナギを中に入れてご飯でまぶすからマムシという)がいちばん好き。

長閑塗瓢文椀 これはもうカツ丼がいい。ヨダレが湧いてくるわ。わたしはオオバでカツをくるんだのがいいな。

銀地色ねじ文大平椀 ケチャップ色のねじ文が並ぶ。中は意外と茶葉色。ははぁ、そう来たか。

箸枕も色々。色違いのお魚のが可愛い。やっぱり箸枕は可愛いのがいいな。わたしも色々集めたけれど、箸枕って小さなやきものの中では最愛やな。

椿文鉢、雲錦文鉢がいくつか。これはもうサイズも色々作られているし、金彩のがあったり、雲錦だと割合が違うのもあったりと、無限にヴァリエーションは広がるなあと思ったものだ。
今回はそんなに巨大なのは出ていないが、あれはどこだったか、最大級の椿文大鉢を見たときはビックリした。チラシで見たときはどこかの庭園に置かれていて、それが可愛いなと思ったら、西大寺の茶事の回し飲みに使えそうな大鉢だったのでびっくりしたのだ。
それにしても雲錦文も椿文も何に使うのがベストなのだろう。

九谷焼風なやきものもいい。
再び三度のカニ絵もいい、銀彩にドロップの欠片が鏤められたような鉢もいい、好きなものがどんどん増えてゆく。

金網フェンス状の文様を見せる皿もあれば、鉄絵の土瓶もある。大きなアワビ型の鉢も伊賀とは思えないほど好みの釉薬のかかり方を見せているし、釦が膨らんだような織部土瓶も可愛い。

やきものたちを並べたのを描いた飾り棚図屏風、これが朝鮮の民画のような面白さがあるのもいい。

わたしが好きなのはつり燈籠と鉄製透置行灯。どちらもとても情緒あふれる透かしが入った照明器具。
菊花らしき透かしの入った釣行燈、武蔵野を思い出させる秋草と月の置行燈。
欲しいのは屏風とこれら。

楽しい展覧会は6/26まで。
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